京都ポタリング 通りの端から端まで走る! #94河原図子通 日本最大の禅寺妙心寺から西本願寺角坊 かつての菖蒲小路をポタリング
京都の南北の通りである河原図子通を北の端(妙心寺通)から南の端(御池通)まで自転車で走った車載動画です。
途中、地元目線での京都の町案内などをしておりますので是非ご覧ください。
#京都 #ポタリング #自転車
今回のコース https://maps.app.goo.gl/cCvkGXF3SBoXkAo76
※日本語の字幕を付けています 多言語への翻訳はyoutubeの日本語から多言語への自動翻訳をご利用ください 翻訳文を付けられずすみません
※Japanese subtitles are included. For translations into other languages, please use YouTube’s automatic translation service from Japanese to other languages. Sorry for not being able to provide translations.
0:00 intro
0:18 ご挨拶と説明
0:28 河原図子通の地図
1:11 河原図子通の北の端の様子
2:03 妙心寺へ寄り道
7:25 やっとスタート
8:12 丸太町通
9:51 花園という地名
11:20 旧二条通
11:43 太子道
12:54 天神川(紙屋川)
16:08 ゴールと河原図子通の南の端の様子
16:57 本願寺角坊へ
21:31 動画の終わりのご挨拶
△ 動画内に出てきた場所など
妙心寺
https://www.myoshinji.or.jp
花園中学高等学校
https://www.kyoto-hanazono-h.ed.jp
水戸田橋(天神川・紙屋川)
https://maps.app.goo.gl/kZUY21dYQfnZeRqH7
本願寺角坊
https://www.hongwanji.kyoto/see/tobichi.html#b_04_03
西本願寺
https://www.hongwanji.kyoto
中央仏教学院
https://www.chubutsu.jp
河原図子通(かわらのずしどおり)
河原図子通は京都市の右京区を南北に走る通り。
平安京の菖蒲小路(あやめのこうじ)にあたる通りとなる。
前回の東御前通に続き、今回も地域の生活道路となる河原図子通。
「菖蒲(あやめ)」や「河原」という名前の由来は
かつての右京区エリアが湿地帯であり、
川が流れ、道のほとりにあやめが咲いていたところからなのか。
現在このエリアは宅地化が進み静かな住宅地となっている。
Hello everyone
Thank you for watching Panda Cycle ch.
In this video, we will take you through the streets of Kyoto,
which are said to be shaped like a checkerboard.
I ride my bike (and walk where I can’t) at a leisurely pace.
I hope to be able to show you around the city along the way.
Please take your time to take a look.
Kawara-no-Zushi-dori Street
Kawara-no-Zushi-dori Street is a street running north-south through Ukyo Ward in Kyoto City.
It corresponds to Ayame-no-Koji Street in Heian-kyo.
Following Higashi-Onmae Street from the previous article, this time we’re focusing on Kawara-no-Zushi Street, another local thoroughfare.
The origin of the names “Ayame” (iris) and “Kawara” (riverbank) may stem from the fact that the former Ukyo Ward area was a wetland, with a river flowing through it and irises blooming along the roadside.
Currently, this area has been developed into a quiet residential area.
Thank you for watching.
With this,Kawara-no-Zushi-dori, Street Pottering will end.
Thank you for watching this video,
I would be happy if you could learn about a side of Kyoto that you don’t know about.
We look forward to seeing you again in the next video.
6件のコメント
パンダさん新作UPありがとうございます😊
動画タイトル見て「西本願寺まで⁉️そんな長いの?」と勘違いした私😅えええーそんな場所に角坊とやらがあるなんて、知りませんでした!
今回の通りはまた住宅街でしたね。私、通りを渡るときの映像を見るの好きなんです(笑)お店とか個人医院とか、あーこんなところにあるんだーって興味深く見てます(ヘンですよね😅)
紙屋川もたびたび登場しますね。水量たいしたことなさそうですが、川のきわきわに家が建ってて、増水したら怖いなぁと思いました。
今日も動画ありがとうございました!楽しく拝見しました🥰
体調第一にして撮影なさってくださいね🚲️
こんばんは♪
今日は京都の常宿にて拝見しました♪
妙心寺の塔頭の退蔵院が好きで何度も訪れています😊
この動画はいつの撮影か?一昨日この付近を歩いていましたよ!
今回も普段歩かない自分が1日平均2万歩近くブラブラ旅してました😃
しかしながらパンダさんは面白い路地を紹介してますね♪
明日帰りますが、次いつ京都に訪れるか考えてますよ😅
これからも宜しくお願いします🙇
大きなお寺さんは多かれ少なかれ感じる事ですが、特に妙心寺は外界と遮断される様な不思議な気になりますね。
路地?を奥深くまで進むと殆ど人の気配を感じない所も少なくありません。
自転車でよく通り抜けついでにウロチョロさせていただいてます。
八角輪蔵てのがあるんですね〜。
チベット仏教のマニ車と同じ効能がある様でとりあえず回しておくとゆうのが正しい扱い方なのでしょう(爆)
この通り名は勿論存じ上げておりませんし、車や自転車、徒歩、全く通行した記憶もございません。
旧二条?辺りは東西に通行する為景色は認識出来ますが。
珍しい道のご案内ありがとうございました〜。
丁寧にまわって下さり有難うございます。
この道の細さ、いかにも古き良き京都らしくて貴重ですね。
主様は地元の方ですから、くまなくご存じですごいなと思います。他府県から来た私とすれば、まだまだ知らない道がたくさん…で本当途方もない気分になります。
親鸞聖人ですね…入滅地多いですよねw
複数の場所で亡くなることができる器用な人なんていないでしょうから、たしかに不思議に思いますよね。
松原西洞院に「光圓寺」という小さなお寺があります。
御存知かと思いますが、こちらの前に「親鸞聖人御入滅地」の石碑があります。寺伝によると、関東から京へ戻ってきた親鸞は、この場所(五条西洞院=今の松原西洞院)を自宅として過ごしていた。そして、そのままここで亡くなったというのです。
亡くなられた後、遺体はすぐに搬出され、善法院に移された、と伝わっているそうです。
根拠は、「御伝鈔」=本願寺聖人伝絵 ここに住む親鸞の自宅へ、関東から信者が訪問した、との記述があり裏付けが取れています。
結局は…東と西とに分かれて江戸時代から争っている本願寺勢力ですので、「どっちが正当か。教祖に近い存在か」というので、入滅地もそれぞれが主張する感じなんでしょうね。現在の権力を守るためだけが目的なので、「真実」はどうでもいいわけです。
中世で大寺院だったお寺が廃絶した、なんて話はほとんどがそうですし、光圓寺が当時どの程度の規模の寺だったか、今は小さいお寺としても、今になってはわからないですよね。おそらく、寺になる前は普通の家みたいな感じで、当時は彼も貧しかったので、真宗の記録によると、「貧しく、定住する寺もなく、いろんな寄宿先を転々としていた」とあります。
また、この場所は、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて親鸞が「北陸流罪になる前に」住んでいた場所とも伝わります。(大谷遺跡録)
親鸞・法然が流罪になった原因は、もともと、「カルトみたいな邪道の新興宗教でありながら」「後鳥羽上皇の女官らを、上皇の目を盗んで宮中から抜け出させて勝手に出家させた 天皇を侮辱した」罪であり、親鸞らは流罪、彼女らの出家担当の僧=住蓮・安楽ほか4人は斬られました。
(カルト=巨額の寄付もいらない、厳しい修業もいらない、念仏だけ唱えれば誰でも極楽行けるよ!なんてインスタントラーメンみたいな即物的教えは、まるで仏教の深さや伝統を侮辱しておると、比叡山などのエリート学僧の激怒を買ったのです。)
その後、都に戻ったはいいものの、教義の考え方の違いから、長男である僧とも絶縁しており、80を過ぎた親鸞の生活はかなり苦しかったようです。つまり、この場所は元・九条兼実の別邸だったそうですが、少なくとも寺ですらありませんでした。しかも、都では比叡山延暦寺の圧力が強烈で、ろくに布教もできません。
またその頃、律宗の「忍性上人」もどんどん信者を増やしており、彼はライ病人や貧者の救済に熱心で、その福祉精神から、広く民衆から支持を集めました。相当不遇な環境のまま、90才で親鸞は亡くなりました。
でも、現代になってから、それじゃあ両本願寺的には格好がつかない(うちの派閥の寺境内で亡くなってよ、そのほうが都合良いから)ってことだと推測します。(=善法院へ搬出)
明治天皇や昔の貴人の逝去日の発表を遅らせたりしたのと一緒で、つまり、「大人の都合」ってやつだと思います。
しかし、彼が北陸で流罪時代に築いた信者の層はのちの「一向一揆」として内乱を起こし国を揺るがす勢力になります、でもそれはもっと後の世の話です。あくまで親鸞自身の晩年は、宿り木生活でかなり貧しいまま没した、のが現実だそうです。
なお、ともに(別々の場所へ 親鸞は越後=新潟、法然は讃岐=香川)流罪になった、師の法然は、先だって罪を許され、入洛し、建暦2年(1212年)1月25日、都で79才で病没します。流罪以来、師弟が再会することは生涯ありませんでした。
御存知の通り、「複数」伝わる場所というのはほんといろいろありますね。。
若宮八幡宮も、秀吉が遷した現在地より、小規模な若宮通の神社のほうが、源頼義の邸宅跡であり本物(旧社地)ですし、ほかにも、
牛若丸が都を発つ前にお詣りしたとかいう首途の地も、二つありますが、この花園の地にある井戸やお地蔵さんのほうが、個人的には信憑性高いように感じています。
なんていうか、、お寺の話もそうですが、お商売にしておられないほうが、純粋に都の人の記憶保存力のすばらしさによるだけの場所のほうが、信憑性高いかな?と思うのです。(いずれにせよ、彼を奥州に導いた、金売り吉次という商売人の、京の屋敷があった場所だそうです。)
なお、吉次は、その後も奥州産出の金を商いながら、奥州(藤原秀衡の勢力地)と京をうろうろしていましたが、弟とともに、白河の関(東北)で盗賊に襲われ、現地で命を落としました。白河関所近くに兄弟のお墓が今も残ります。(1/2)
~図子・~辻子はほとんど名前のない通りとして認識されてる気がします。
上京区だけでもかなりの数があるようです。
お世話になっています。京都での旅に行けるタイミングが秋か来年の春になるそうと思います。