【大変化】変わり続ける「線路」のいま 2.3kmの新施設と浮上する懸念 黒歴史が残る理由とは|名鉄三河線海線(碧南~吉良吉田)【小春六花】

ご視聴ありがとうございます。 今回は、廃線から20年以上が経つ大手私鉄の線路跡に迫ります。 路線が歩んだ歴史と、ガラリと変わった場所、ほとんど手つかずの場所に注目です。 見た目以上に複雑な闇、行政の誤算とはいったい何なのでしょうか。 ここは、愛知県碧南市にある、名鉄三河線の終点 碧南駅です。 三河線は、路線図で右上にある猿投駅から碧南駅までを結ぶ路線。 途中の知立駅で運行系統が分断されており、猿投寄りが山線、碧南寄りが海線と呼ばれています。 海線と山線は基本的に乗り換えが必須で、ラインカラーや駅ナンバリングのアルファベットも分けられています。 ワンマン運転が行われており、2両か4両で運行されています。 のどかな空気漂う碧南駅はかつて中間駅で、三河線は吉良吉田駅まで伸びていました。 今回ご紹介するのが、碧南~吉良吉田間の廃線区間、16.4kmです。 三河線は、名鉄の前身の1つである三河鉄道が開業させた路線。 この会社は海線の刈谷に本社を置き、周辺一帯に路線を広げることをもくろんでいました。 三河線のほか、蒲郡線などもこの会社が関わっています。 今回ご紹介する海線の廃線区間がこちら。 最初に開業したのは、いまの碧南駅である大浜港駅から大浜口駅までの間。 1915(大正4)年のことで、この区間は大浜口支線と呼ばれています。 大浜口駅は川に面しており、舟運と連携した貨物の積み下ろしが行われていました。 1926年には、大浜港駅から当時の神谷駅まで路線が伸びました。 神谷駅は、いまの吉良吉田駅の1駅隣です。 開通当時はほぼ三河湾に沿って走っていた中、碧南駅から三河旭駅までの間は市街地を3分の2周する大きなΩカーブで、内陸寄りに入っています。 これは、海水浴場の最寄り駅として玉津浦駅の設置を決めたあと、玉津浦駅の北東にある棚尾町などの誘致運動に対応したためといわれています。 初期は貨物輸送も盛んで、各駅では農作物が積み込まれたそうです。 1928(昭和3)年には、当時の三河吉田、いまの吉良吉田駅まで延伸されました。 1935年には、玉津浦駅の構外側線として大浜臨港線運送専用線が開通。 文字通り大浜臨港線運送という会社が所有する専用線で、大浜口支線と同じく、舟運と鉄道を中継するために建設された路線です。 この線路には正式名称がなく、大浜口支線の別称である大浜臨港線が会社名と被っていたこともあり、両者は混同されがちです。 戦後、1946年には大浜口支線が一足早く廃止されました。 大浜臨港線運送専用線はその後も存続し、玉津浦駅の近くの海水浴場がにぎわうと、臨時列車として乗客を乗せた列車が走る盛況ぶりに時代が感じられます。 ところが1959年の伊勢湾台風で被災したことを機に、同年12月に廃止されています。 廃止後、本線との分岐点から玉津浦駅の裏手までの0.1kmが、近隣の企業の専用線として1968年まで使用されています。 全盛期には西中金から吉良吉田まで64.8kmあった三河線ですが、末端部の需要の減少が激しく、徐々に合理化が進みます。 1985(昭和60)年3月には、先に山線の猿投~西中金間でレールバスの運行が始まります。 レールバスとは、構造を簡素にすることで価格を下げたディーゼルカーのこと。 電車の運転をやめ、電化設備も無くして運行コストの削減を目指したのです。 あわせてワンマン運転も始まり、人的コストの削減も進みます。 1990(平成2)年7月には、碧南~吉良吉田間でもレールバスでのワンマン運転が始まっています。 三河線は山線よりも海線のほうが需要が比較的大きく、合理化策は山線が先行した歴史があります。 これらの区間はほかとは直通せず、末期には60分間隔の運行になっています。 車庫が山線の猿投にあったため、知立方面に向かう列車もありました。 ところが利用者数の減少が続き、名鉄は1998年に赤字6線区を廃止する方針を決めました。 いずれも輸送密度が1日あたり2,000人未満の閑散線区です。 輸送密度とは1日1kmあたりの平均輸送人員のことで、過去には国鉄が4,000人未満の路線のバス転換を推進しています。 沿線自治体によって赤字が補てんされたものの、近い将来に矢作川橋梁の架け替えに150から160億円の費用がかかる懸念があり、西尾市が存続断念を表明。 碧南~吉良吉田間の廃止とバス転換が決まったのです。 2003年3月には所管官庁に廃止届が出され、2004年4月1日に山線の猿投~西中金間とあわせて廃止されています。 名鉄が1998年に廃止を打ち出した区間では最後まで残ったものの、それでも5年あまりでの廃止です。 最終年度となった2003年度の乗車人員がこちら。 本数が減るなどして利便性が下がったのもありそうですが、廃線区間はほかより圧倒的に乗車人員が少ないです。 順位で並べ直すと、そのことがよりはっきりわかります。 三河線で運用されていたレールバスは、廃線とともに名鉄から姿を消しています。 簡素な構造のせいで車両が長持ちせずにコストがかかり、電化設備の廃止メリットが見合わなかったのが要因です。 尚、廃線区間と交差する位置に、1960年まで平坂支線という路線がありました。 これはいまの西尾線の支線で、三河線との交差地点に駅はなく、三河平坂駅と平坂口駅の間で徒歩連絡でした。 この路線の詳細は、三河平坂駅のところで詳しく解説します。 廃線から21年あまりが経つ三河線の海線区間、その今に迫ります。 1954年、大浜港駅は碧南駅に改称され、今に至ります。 2024年度の1日平均の乗降客数は、3,761人。 碧南市役所は隣の碧南中央駅のほうが近く、乗降客数も4,357人と、碧南駅より多いです。 2番線の線路はホームの先に続いており、引き上げ線として活用されています。 碧南駅のホームと駅舎は、隣の1番線をまたぐ構内踏切でつながっていました。 海線末端区間の廃線後、1番線は行き止まりになり、上をまたぐように通路が整備されています。 段差もなく、スムーズに行き来できます。 改札機は2台、券売機は1台と、こぢんまりした設備です。 平日の日中は人も少なく、券売機は省電力モードのことが多いです。 海線末端区間の廃線時には、1947年に完成した2代目駅舎が現役でしたが、2019年に3代目に建て替えられています。 いまどき珍しい瓦葺きで、これは三州瓦という三河地方で生産される瓦。 島根の石州瓦、兵庫の淡路瓦と並ぶ、日本三大瓦の1つです。 駅舎は超横長なわけではなく、右側は待合室。 駅周辺整備事業の一環として碧南市が建設したもので、2020年に供用されています。 駅舎と統一感を持たせるため、黒を基調とした外観で、三州瓦の屋根も同じです。 待合室の完成後には駅前広場が改良され、2024年に供用されています。 広場の中央には一般車乗降場が新設されたほか、ゆとりあるスペースです。 あのお店は立ち退かなかったのか、1軒だけポツンと建っています。 碧南駅の前後は単線です。 碧南駅から南に伸びる敷地の幅が、駅から離れるにつれて狭くなっているのがわかります。 ここから先が、2004年に廃線になった区間。 跡地は遊歩道になっています。 これはただの遊歩道ではありません。 ここが、廃線跡に整備された、その名も碧南レールパーク。 長さおよそ2.3kmで、廃線時にあった玉津浦と棚尾、三河旭の3駅のほか、 先に廃止されていた大浜口の4つを広場にし、その間を散歩やサイクリングができる道として整備したものです。 面積はおよそ2.6ヘクタール、東京ドームの半分強の広さです。 ヘビみたいな形なのでピンときませんが、長さ2.3kmと駅部分のふくらみがあるので、結構な広さです。 市街地を迂回する線形がシンボルになっているほか、4つの広場の頭文字を取った4つの文字は、 レールパークが一般道路と交差する場所のポールにデザインとして取り入れられています。 ポールといえば普通は円形ですが、このポールは十字型で、細かなこだわりが感じられます。 廃線からおよそ4年後の2008年に基本構想がまとめられ、2012年から2013年に設計、 2015年から2017年度にかけて整備工事が行われ、2018年3月に公園が利用できるようになりました。 設計に先立つ2012年度には、碧南市が名鉄から土地を購入しています。 当初は碧南駅とは少し離れていたものの、2021年3月に碧南駅の南側が追加で整備されたことで、駅とレールパークがつながりました。 端っこには線路が残され、行き止まりの設備もあります。 全体には線路を模した2本の白線が引かれ、間隔は当時のレールの間隔とほぼ同じです。 入口にあたる場所にある大浜口広場には、大浜口支線を模した分岐があります。 手前にはポイントの設備の一部が移設されており、その奥には線路があります。 端っこにある車輪や先ほどのポイントの設備の左右にはスポットライトがあり、夜間には左右から照らされるようです。 近くには、廃線区間の歴史や歴代の車両が載ったボードもあり、気合を入れて整備したのがわかります。 尚、大浜口支線は吉良吉田駅に向かって右側にありましたが、大浜口広場の分岐線は左側にあります。 川や土地の形が変わり、まったく同じ場所には整備できなかったようです。 大浜口広場を出てすぐの場所にあるこの橋は、2016年に架け直されたものです。 もとの橋は古すぎるので、さすがにそのまま使うことはできなかったようです。 次の玉津浦広場がこちら。 廃線前にはなくなっていた大浜臨港線運送専用線の分岐箇所も再現され、少し先まで白線があります。 突き当たりにある石碑は、臨港線の建設に尽力した人が亡くなった際に、その功績をたたえるために大浜臨港線運送の社長が建てたものです。 全長およそ2kmの線路のうち、右カーブの奥までの500mほどは道路に転用されています。 そこから先は区画整理され、痕跡は残っていないようです。 土地は碧南市の所有になったものの、まわりには名鉄時代の敷地境界を示す標があります。 一目でわかるMのマーク、まさか見れるとは思ってなかったのでテンションが上がります。 近くには別の境界標もあり、歴史が垣間見えます。 ホームを模したモニュメントもあり、スロープと階段で上に上がれます。 玉津浦広場のホームは側壁の仕上げもキレイで、廃線時にあったものを流用したわけではないようです。 一方、隣の棚尾広場のホームは廃線時にあったものを流用したらしく、端の仕上げに痕跡が見えます。 遊歩道はかさ上げされ、ホームとの段差はかなり小さくなっています。 尚、玉津浦と棚尾の両駅は、廃止区間の乗車人員で最下位の常連でした。 碧南駅が近いのに加え、廃止区間は日中60分間隔だったのに対し碧南駅より北は15分間隔だったため、碧南駅まで直接行ったほうが便利だったからです。 パークというだけあって公園として利用できるよう遊具もあるほか、ほとんどの広場に公衆トイレもあります。 奥に見える赤いやつは車両を模したモニュメントらしく、遊び心が満載です。 尚、廃線時の棚尾駅はホームと線路が1つずつで、これらの分岐も廃線時のものではないです。 災害時には緊急車両の通路や給水場所としての機能もあり、普段の憩いの場だけでなく、災害時の安全性向上も図っています。 次の三河旭広場の手前でも白線が分岐しています。 三河旭駅も廃線時はホームと線路が1つずつでしたが、1966年より前はホームの両側に線路があり、列車の行き違いができました。 この分岐は、それをイメージしたもののようです。 左側の遊歩道はホームにあわせて盛り上がっており、子供が喜びそうです。 こちらの遊歩道はそれほどかさ上げされていないため、ホームの側面がよく見えます。 高さ910mm、一昔前のローカル線区らしい規格です。 碧南レールパークは三河旭広場のすぐ先でおしまいです。 終端部も線路がポコッと盛り上がっており、入口と対になる意匠です。 レール自体はこちらのほうがたくさん残っています。 三河線ができたころは市街地の端でしたが、90年代あたりから市街地が広がり、まわりは住宅に囲まれています。 市民の憩いの場の創出と災害対策という2つの目的が、うまくマッチした格好です。 そしてこれには、碧南市の財政事情も関係しています。 碧南市は愛知県内では比較的財政に余裕があり、財政力指数は直近で1.16です。 財政力指数は、標準的な収入額を需要額で割ったもの。 数字が大きいほうが財政に余裕があることを示しています。 碧南レールパークの整備には国の補助金も出ていますが、碧南市自体に余裕がなければ手の打ちようがないです。 ところが碧南市では、今年9月、財政非常事態宣言を発表しています。 物価や人件費の上昇、老朽化した公共施設の修繕費の増加、市民病院の経営悪化などが重荷になり、財政調整基金(市の貯金)が激減しつつあるからです。 お金のかかる廃線跡の整備は、今後自治体にとって厳しくなっていきそうです。 碧南レールパークのすぐ先で小川を渡っていた橋梁は、すでに解体されています。 橋梁は撤去費用がかさむため、治水対策でそこまで障害にならない場合、残されることがあります。 先ほどの廃線候補にもあった揖斐線の黒野駅の近くの鉄橋は廃線から20年あまり経っても残っており、廃線後に塗装も施されています。 それに対し、今回の廃線区間の橋梁は基本的にすべて解体ずみ。 碧南レールパークから300mほど先、矢作川に架かっていた矢作川橋梁も同じです。 橋梁本体はすでに解体され、川の手前の築堤も切り崩されています。 堤防の上で道路と交差していたところもアスファルトで埋められ、ここに線路があったとはわからないです。 古い時期につくられた矢作川橋梁は橋脚の間隔が狭く、20本ほどの橋脚がありました。 そのぶん川幅が狭くなるのと同じで、洪水のリスクが高まります。 治水対策上の懸念が大きいため、橋脚も含めて解体されています。 橋脚の土台がチラ見できるレベルで残っていないかと思ったのですが、キレイに撤去されているようです。 橋梁があった場所には河川敷の植栽がなく、橋梁の場所の当たりはつきますが、言われなければ気づかないレベルです。 矢作川で、路線は碧南市から西尾市に入ります。 尚、廃止当時はここから先で西尾市と一色町、吉良町を通っていました。 このうち一色町と吉良町は、廃線後の2011年に西尾市に編入されています。 矢作川を越えると、切り崩された築堤にソーラーパネルが広がっています。 線路自体が東西に伸びているうえ、南北にも広く、まわりに高い建物もないので、ソーラーパネルを置くにはうってつけです。 中畑駅の跡地は、沿線の企業の駐車場に取り込まれています。 廃止当時はホームと線路が1つずつでしたが、昔はホームの両側に線路があり、さらに北側にもホームがあったそうです。 真ん中がふくらんだ形状は、いまでも面影があります。 隣の三河平坂駅は、廃線区間では数少ない行き違いができた駅です。 行き違いをするのは朝ラッシュだけで、名鉄社員が始発から朝9時半まで出張し、タブレット交換を行っていました。 それ以外は、常に駅の北側の線路が使われていたそうです。 また、朝の1本だけ碧南駅から車両が回送され、三河平坂駅始発の碧南行きとして運行されていたといいます。 同じ名鉄の平坂支線とは、徒歩連絡が行われていました。 平坂支線の開業は、1914(大正3)年。 当時の西尾鉄道が開業させた路線で、当時は平坂線という名称でした。 その後、会社合併などによって路線名は数回変わり、周辺の駅名も変わっています。 三河鉄道はもともと平坂支線の終点である港前駅経由のルートを予定していたものの、漁民の反対でとん挫し、北側を迂回するルートになっています。 一説には、漁民の反対の背後には西尾鉄道がいたとされます。 平坂支線が三河線より先に開業していたため、交差地点では平坂支線が下、三河線が上でした。 三河鉄道と西尾鉄道が競合していた関係上、交差地点に駅は設置されず、合併後も同じでした。 平坂支線は第二次世界大戦中、沿線の軍需工場への輸送で運行休止を免れています。 ところが戦後は古い設備の更新が進まず、西尾駅で接続するいまの西尾線の架線電圧が1500Vに昇圧されるのを機に、1960年に廃止されています。 駅が統合されなかったのは、平坂支線の需要の少なさに加え、行き違いができる三河平坂駅を築堤の上に移設するのが大変だったからでしょうか。 三河平坂駅の跡地は、住宅に転用されています。 碧南寄りから進んできて、駅跡が住宅になっているのはここが最初です。 まわりが住宅になっているだけあって、法的にも新たに住宅を建てやすいらしいです。 住宅と住宅の間に残った微妙な空き地が、線路跡を物語っています。 平坂支線の線路跡は道路に転用され、三河線のこ線橋は道路の拡幅に伴って架け替えられました。 三河線の廃止後もコンクリ製の橋は残っていたものの、すでに解体されています。 築堤もあった幅の広い土地は住宅などに転用され、面影はほぼありません。 隣の三河楠駅の跡地も、住宅に転用されています。 まわりに田んぼも多かった中畑駅のまわりなどとは違い、このあたりは住宅地に飲み込まれるのが早いです。 三河楠駅の南では、築堤がまさに切り崩され、土地の造成が進んでいます。 廃線から20年あまり、廃線跡の変化は現在進行形です。 一方、時が止まったような場所もあります。 この築堤は、さらに南で高架橋につながっています。 廃線区間の高架橋は数少なく、そしてこの高架橋はそのまま残っています。 高架橋の入口はフェンスでガードされ、「立入禁止 ゴミ捨て禁止 名古屋鉄道」の掲示が。 いまでも名鉄が所有管理しているようです。 この施設が、廃線跡有数の見どころポイントです。 ここが、寺津高架橋。 三河楠駅と隣の寺津駅の間に作られた、全長500mあまりの高架橋です。 2005年の中部国際空港の開港に先立ち、三河地域南部からのアクセス道路となる県道に踏切を設置しないために建設されたものです。 県道の整備に係る名鉄と自治体の協議が始まったのは、1983年のことです。 1990年には電車からレールバスになり、廃線の兆候が出ていただけに、 愛知県からは交差個所を踏切にするよう申し入れがあったものの、名鉄は安全性などを理由にこれを拒否。 協議の末、三河線を高架にすることで合意しています。 周辺の区画整理も行われ、道路整備と三河線の高架化、区画整理をあわせた総事業費はおよそ31億円でした。 三河線の高架化にはおよそ20億円がかけられ、国が11億円、愛知県が9億円、名鉄が3000万円を負担しています。 高架橋は完成後に名鉄の財産となりました。 1998年4月に高架橋が完成し、同年11月20日に道路が開通。 ところが、道路開通直後の同月24日、名鉄は三河線の碧南~吉良吉田間などの廃止を表明しました。 高架橋を含む区間は2004年4月1日付で廃止され、高架橋はわずか6年で役目を終えました。 名鉄は1993年ごろから碧南~吉良吉田間を廃止対象として県に伝えていたと主張しているものの、 巨額の税金をかけた高架橋が完成後6年で廃止されたことに、事業主体の県からは反発の声が上がっています。 完成から27年、廃線から21年が経っても、高架橋は残っています。 鉄筋コンクリートの高架橋の法定耐用年数は、おおむね50年。 1998年竣工の寺津高架橋は、帳簿上は2048年ごろまで償却期間があると推定されます。 償却途中で高架橋を解体すると特別損失を計上しなければならず、名鉄としては避けたい会計処理です。 橋梁と違って治水対策の懸念もないため、当面はこのままになりそうです。 ただし完成から時間が経っていることから、下面には漏水箇所の補修のマーキングでしょうか、白い文字が書かれています。 廃線によって日々の赤字はなくなりましたが、残された設備の維持や、名鉄所有のままの土地にかかる固定資産税などの負担は残ります。 また、定期的な除草も必要です。 高架橋の近くのフェンスの張り紙から、夏場に除草剤がまかれたことがわかります。 ちなみに高架橋の柱には、三河知立駅からの距離が記された銘板があります。 海線の起点は知立駅ですが、開業当時の三河線は三河知立駅が知立駅でした。 三河線と名古屋本線が別会社だったからで、のちにいまの知立駅が開業したことで三河線のルートが変わり、海線と山線に分割されました。 名古屋本線の東知立駅はその後廃止され、三河知立駅は知立駅周辺の高架化工事に伴って移転しています。 この銘板の距離は、移転前の三河知立駅からの距離でしょうか。 吉良吉田寄りで高架橋が地上に降りていくところもそのままです。 高架橋の出っぱりは左右にあり、電化設備を戻すことを見込んだのもありそうです。 まったく活用されなかったわけではなく、線路に沿って電線を張る必要があることから、吉良吉田駅に向かって右側の土台には電柱があり、電線も張られていました。 高架橋はフェンスでガードされて入れないですが、取り付け部分には横断できる道があるため、入ることができます。 跡地が他の用途に転用された場所もあるなか、ここは線路の下にあった砂利もそのままで、時が止まったような感じです。 ただし、反対側には線路跡をふさぐように住宅があり、確実に変化しています。 跡地の状況は主に3つ。 ソーラーパネル置き場、住宅、そして未活用です。 ただし寺津駅と次の西一色駅の間には、ちょっと変わった活用法の場所があります。 たん水防除事業とは聞きなれない言葉ですが、これは農作物などが水に浸かることによる被害を防止するため、排水路や排水機場の整備を行う事業のことです。 排水機能が低下した地域の排水路を改修したり、排水能力を強化するために排水機場を新設・改良したりします。 ここで行われているのは後者で、流域開発で水の流出量が増え、足りなくなった排水能力を補う対策がなされています。 西一色駅と吉良吉田駅の1つ手前の松木島駅も、跡地は住宅に転用されています。 ここでは道路が付け替えられ、迂回しないと向こうに行けないです。 廃線跡めぐりも終盤、ここで矢作古川を渡ります。 その名称からもわかるとおり、矢作川の古い流路がここです。 流路が蛇行していて治水対策上の懸念があったことから、流路はたびたび変えられています。 さらに、江戸時代初期には徳川家康の命で矢作川との分岐箇所から先が掘られたことで、こちらはいまはサブの位置づけです。 橋梁の長さは150mほど。 矢作川の3分の1ほどですが、廃線区間では2番目の長大橋梁です。 ここは河口から1kmほどの場所で、川の流れも緩く、中洲には鳥もいます。 橋梁は廃線後に撤去され、両岸の堤防に挟まれた場所には痕跡はありません。 古くから治水対策で苦労した川ということもあり、廃線後の施設の撤去は爆速で進み、廃線後に追加の堤防工事も行われたようです。 吉良吉田駅に到着です。 いまでは西尾線と蒲郡線の結節点です。 左が西尾線のホーム、右が蒲郡線のホームで、三河線は右のホームを使っていました。 三河線の廃線後、2008年には合理化のために西尾線と蒲郡線の直通運転がなくなり、蒲郡線のホームの手前にのりかえ改札が設置されています。 三河線はかつて1番線と2番線を両方使っており、いまは1番線は使用停止、2番線から蒲郡線が発着します。 蒲郡線が使う2番線の反対側には、かつての1番線が残っています。 いまはあそこからの乗り降りはできないものの、信号は電源が点いており、線路はいまでも使用されているようです。 また、三河線の線路は碧南寄りに続いています。 奥は引き上げ線として残っているようで、架線もあります。 2両と4両の停止位置目印があり、レールの表面も光っているので、たまに車両が入るようです。 蒲郡線の列車が到着するときには踏切が鳴ります。 三河線の廃線から20年あまり、吉良吉田駅で接続する蒲郡線でも存廃協議が本格化しています。 その現状を取り上げた動画は、概要欄から見てくださいね。 ご視聴ありがとうございました。

●蒲郡線の動画はこちら

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このチャンネルでは、鉄道の路線や駅、車両などを丁寧に解説しています。
首都圏を中心にしつつ、日本全国出張します。

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23件のコメント

  1. 24:23
    これは15-17と記号があるものが剥落箇所?
    13-14、11-12とあるものがひび割れのマーキングとなります

    15-17のほうは 「ウデ 130×60」とあり、これは範囲を示したもの
    11-12、13-14のWはヒビの幅(どれくらい開いているか)、Lは長さです

  2. 沿線に通勤していたことあるが、、、、、一度も海線使わなかった。。。。。。高架橋は確かに勿体なかったが、爆速で撤去された古い2つの超大橋梁の架け替えまでしなくてよかった。やはり、不要なローカル線は悪あがきせずにさっさと廃線にすべきという教訓を残したな。

  3. 碧南⇔棚尾間(1.6km)だけでも、
    廃線せずに残し知立⇔棚尾の15分毎のフリークエント運転やっていたら
    もう少し結果が変わっていたろうな?

  4. 廃線跡地の活用は残った土地の形からサイクリングロードや遊歩道、道路拡張用地ぐらいしかないですね。

    22:30 90年には廃止に向かって検討をし始めているので、踏切を勧めた県に対し名鉄は高架化を主張。20億円かかった高架橋に国が11億円、県が9億円、名鉄が3000万円を負担。そして高架化直後に廃止を表明。国や県は忸怩たる思いでしょうね。

  5. 廃線区間に住む親族の廃線への恨み言を聞くのが好きだったが、
    祖母の「でも、あんた車ばっかりで乗らんかったじゃん」で言わなくなった。
    ちょっと残念。毎回同じこと話すから眠くなって丁度良かったのに。

  6. 三河山線ではキハ10、キハ20が枝下〜三河広瀬(力石トンネル)の空転が酷く日車へ電車版LEcarを作ってくれないかと車両担当が茶話会程度で望んだそうな

  7. 廃線ニュースが出た後、今のうちに乗りつぶしておこうと、三河線海線や竹鼻線大須駅までなど乗りに行ったことがあります。立派な高架橋ありましたねえ。三河線山線側は梅坪から先は乗る機会無く一部廃止になってしまい、後に猿投までは乗りつぶすもちょっと後悔、名鉄は残り富貴-河和が未乗区間。

  8. 廃線跡の土地を名鉄不動産が坪単価約1-2万(本来坪35-45万)の価格で建売住宅を分譲して
    周辺の地価が落ちた事を不動産屋経由で知りました
    それを知っている周辺地区を購入する人は提示価格を大幅に値切る事を言い
    地主を結構困らせています※経験者談

  9. 元カノの家がこの廃線跡のすぐ近くでいつも家に行くたびにもったいないなと思いながら眺めてました。
    まだあのままなんだなぁ…

  10. 津波とか水害とか浸水に対しての避難場所ってことにして上がれるように整備して県に引き取ってもらえば?

  11. 1:59 27:10神谷駅(松木島駅)は三河鉄道3代目社長の神谷傳兵衛の生誕地に因んで開業
    駅舎は貴賓室付きの迎賓館駅舎が作られました(昭和3年-53年)
    ※東京浅草1-1-1「神谷バー」は神谷傳兵衛が創業しました

    12:34 最初三河鉄道?と思いましたが名鉄社章ですね

    15:16 南側に石炭火力発電、日本コンスターチ、トヨタ系列等約100社を超える碧南市臨海工業地帯が有り市民税も安いです
    一戸建てを建てる時三州瓦を使用すると助成金が出ました

    15:38 他、上モノ等を色々やっていたらトランプ等の情勢、人件費高騰等でインフラ整備が間に合わなく成った訳です

    15:56 碧南市民病院も西尾市市民病院へと合併案も出ていました
    ※経営統合に関する協議の一時中断(令和元年度

    16:59 橋梁は規格が悪く、風が吹いたらすぐ運休が起こるのも廃線を加速したのでしょう
    各無人駅にも運休連絡がなく公衆電話等確認しないと分からない状況でした

    28:52 1番線、2番線、2番線奥は夜間停泊用の西尾、蒲郡線の留置線に成ります

  12. 知多半島民です。半田市の衣浦から海底トンネルを抜けて、碧南から西尾に行くときの寺津の跨線橋を見るたび、無駄だったなと感じています。
    碧南駅から遊歩道ができているので時間があるときに訪れたいです。

  13. 愛知県民です。地元ではありませんが、もったいないです。でも、維持する名鉄にしたら、廃線にしますよね。

  14. 時々海線沿いをサイクリングしてるけど、線路跡は結構残ってるよね。
    碧南市内の区間は公園化されてるし、西尾市内の区間は一部宅地化されてるけど、ほとんどはソーラーパネルが置かれただけ。
    駅の遺構はほぼ残ってないけど、踏切付近は黄色い柵が残ってたりするね。

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