「上北鉱山での暮らし」蝦名和子
すごい略図なんですけど、分かりやすかっ たのでこれを切り取って あの地図っていうか上が多分北になると 思うんです けどこういう風に繋がっています。青市が 上ですけど、白田温泉の前を通ってそれで くねくねちょっとすごいあのした道を通っ てこの奥の沢っていうところに たどり着ついてずっと難化して今度はあの 道の区有料は道の有料道路の方に繋がって います 。こういう位置関係にあります。それで左 の上、夏って書いたんですけど、春、夏、 秋じゃああとどうやってア森りとかあの 言ってたかて言えばシエバスが私が生まれ た後通り通ってまして1日3往復で壺川 から青森駅まで片道2時間ぐらいでした。 で、これは本当に夏だけなので、例えば森 に行った友達、高校生などが冬青森に帰る 時は、あの、ぐるっと右下に描いてるん ですけど、 切場きまで行って、あの、こっから乗って 書いてきた 。 で、その地図の略図の中を見る、見ていただくと、奥の、神のうん。 私はあ、最初上の住んでました。で、そこの下にえっと、うん。 左は小学校で、その下が事務所とか、あと は郵便局、病院縦石で縦石の下りに焼き場 もちゃんとありました。あとはツ皮とか 変電で右に行くと中学であの大ツ台には中 学校の頃にえっと住んでいました。で、紙 の沢にいた時は、あの、あ、後で喋っ たで右下にあるのはあの 、私が生まれる前友からガソリンカーて いう起動車っていうのがあったそうです。 うん。で、当期間は切場 者から出ていました。 にある。あの皆さん見たことあるか?8 人乗りで向かって座るんですけどすごいこう寄ってしまいそうな でなんか南極の で使ってたやつとかっていう人思いだったんだけど うん。さ、あの車これにも乗ってたんですけども うん。で、あとは馬車ですね。馬車もあっ たそうで、で、天マダム沿いにこうずっと こう道なき道を切場で帰りました。 逆に私はあの野路高校行ったもんで冬は良かったんですけど夏は青森駅まであの JR国鉄か昔で 青森駅まで行ってそっからバスで帰るっていうぐルートマで帰ってました。はい。 じゃ、これはこれで終わりまして、また こっちに戻っていただい てで2番目の子供時代の暮らしなんです けど7は旧上北町出身神殿の海老名だらけ なんですね。あの上北町の人本当 にで母は東北町の清水詰いところでした。 で、父は農家の4 なんでさっきあの話題になってたんですけど 4難んで白っていう名前で 分かりやすい。はい。 で、やっぱり昔ってや長男はあのノーカードが積むんだろうけどね。それ以外の人達じって、ま、あれだったと思うんですけど、終戦を上田に移り住んだと聞いてます。 私は1953年、昭和28 年生まれで中学校3 年生まで山で暮らしました。北海道からや外から来た人も多くて学校では皆に標準を話していました。 なるほど。うん。うん。 で、中学校卒業後は高校へ入学し、卒業後は青森へ。 で、両親は平山前の昭和45 年頃に、あ、会社を辞めて青森氏に挙して、今霧の沢っていうところにいるんですけど、当時で仲間があの 10件くらい 移り住んでいましたんで、やっぱりあの良かったを全然知らない人ばっかじゃなくて買ったと思います。 [拍手] で、姉夫婦は岡山県平山を倉敷市の日本工業株式会社の水島コンビナートに転勤しました。 [拍手] その他の人は北海道の豊葉、 秋田竹の車内などに転勤したデッキでます。で、幼稚園小学校はあの単独です。 ずっと卒業するまで中学校、単独、時代ま 、ほとんど車もなかったんで会社でジープ 持ってるとかあのま、夏も冬も徒歩で通学 、あの坂道を通学しました。冬は上級生が 戦闘に立ってその後に着いて歩いて、ま、 吹雪で行ができない時もあったっていう。 ま、青森の皆さんもね、冬は昔は多かった んで一緒かなと思うんですけど。で、家は 写面に家が立ち、平らなとこは狭いあの 道路と学校の皇帝のみだったんで自転車を 持っている子も数人程度だったんですよね 。 皆さんは自転車っては小さい頃ありましたでしょ?ハりはね。うちらだからみんなの大人になってからとか高校生になってから自転車 子供自転車でいいのに うん。大人のさ、いきなりすごいね。 すごいね。 うん。ていうでした。 で、ま、山ってね、指面がもう山に囲まれているのでうん。 こうなんちゅうんだろう。こう、こういう感じ。極端に言えばだから虎がこれしかなかったんですよ。 あ、 で、青森のチに時際は感じ感じなかったんだけど、青森に来てこう約180°に広がる星空を見上げた時、え、空ってこんなに広がったんだ。 感したっていうのを是非、 これはやっぱり 自分ればわからないと思うけどうん。違うとから来た時にあ、すごいって感動しました。 で、ま、私の汚い説明もなんですけど、実 はうんとね、上北座 のいい資料がありまして、あ、これも多分 あの安売さんが編集した同期会、 ちょうどうち私の5歳兄が安倍さんと同級 生んですけど、これで作ったのでいろんな 気候を 、あの、いろんな人からこう話を書いて もらった解録なんですけど、私の担当して た先生のちょっと2つ参考にしてしたいと 思います。で、今2枚目に閲覧させて いただきます 。で、この我が故郷上北鉱山平成7年同期 会、これの特集で多分昭和64年頃発行な のかなと思うんですけど掲載された気候 からバ水します。これはもう私というより も先生の目から客観的に見た上北鉱山と いうことになります。とまず田中新吉先生 です。小は30年代北鉱山小学校の思い出 で小学校の省は26年度から60あ、40 年までの間で最大学級数は14クラス、 自動数は1番多いは34年度で653人だ ということで、それで先生あの きちんとさすが先生ななのでちょっとこれ 後で一部コピーを見しますけどでも ちょっと古くて数字見えないんですけど 先生ちゃんと記録あのありますの で次の丸夫から上北鉱山のこれ日の木タ まで当時トロッコで向かった3階建ての アパートが3とあり当時はト出しで も珍しかったので驚いたっていうこと書いております。 で、長屋はあの2件から11 件長屋っていう種類があったんですけど軍が経営車地にあり通学はほとんど坂道で子供たちの峠校は大変だったって書いてあります。 で、この長屋ハーモニカ長屋って言われる てでて、あの2件、2件長屋はあの それぞれ台所もトイレもあったんですけど 11件くらいなるとも共同トイレに共同 洗場ていう感じでした。 あの、つい昨日と姉からちょっと電話あって、ちょっと色々聞いたら朝鮮の方もあの長屋別な長屋に住んでて、それでの母が挑戦漬けの あの気だって本場の作り うん。言ってました。いや、上手に私も食べましたけど。 当時はみんなも農家出身が多いんで畑作ったり全部漬け物とかもあのドブロクもちゃんと作って なんか 時々警察来てみんななんか警察来たってこう長屋だからみんなにこう喋ってぐしたって いう話は聞いてました。 で、遠速はうんと春の高学年の遠速はまで歩くのが普通。標差 300m 以上もある。奥の沢を約11km、往復 20km 歩いたっていう。ま、冬は冬であの煙足ぐなんですよ。で、 62の滑れない。 あの、下手な私はちょっと嫌だったんですけど、 登ってこう降りてくるっていう感じので、スキー大会はあの子供たちはみんな上手で一派の方の技術も素晴らしくまるで国体を見ている感じだったと。ま、これは他の先生もね、こういう風な感じで言ってました。 で、先生型の公研修は上北内より青森市の 研修が多かったっていう こと言ってました。で、次のあ、そこで この先生が言って た 。 校長先生がすごくあの一生懸命な人で佐藤先生って言うんですけど上北のペスタロッチって言われたって言うんですけどあご存じですか?私ペストロッちてない。 [音楽] あ、で、あとこの先生はこの他に学校へついて職員室へ履いたらドラム感どまある大きなストーブがあって鉱山特有の超大型ストーブにでちょっとびっくりしたっていう。あと学校の休日が日曜日でなく水曜日休日って言ったあの電気の休むの日だったんだ。 で、これはま、会社の都合で、その日が休日 で、学校も休みでちょっと慣れるのに時間がかかったっていうことでしたね。で、鉱山では夜 10 時になると電圧が100Vから50V に下げられ、薄暗くなる。 明日の仕事の安全のために給容するようにその配慮と接電のためでもあったようです。 飲んでいても十字10 時には解散なる比率だけは守っていたように思いますということです。ま、うちの父親父地の楽しみやそのどっかに集まって飲んだりあとはトランプですね。 トランプが盛でしたね。当時 トランプイやつとかはぐらい5年間5 人間だって5人間私も習った。5人間 習ったせい。 次の次は農場正少司先生です。 昭和それでちょっと余談なんですけど、あのテレビ体操 6時25分入るじゃないですかね。 あそこであの農場ピアノの人が3人いて1 人男の人が農場なんとかさんて人でみんなクラスの中のクラスメイトの中で [音楽] きっとあの人農城先生の息子さんでべかっていう噂が なかなか悩みを ま確かみようなんですけど顔も似てるんですよね。そう で珍しいお名前の先生です。うん。 で、農場先生は昭和30年代後半の今度は 中学校の思い出として借いくれてたました 。1つ目が高かった学力。上北地方では軍 を抜いていて全国的にも高い方であった。 っていうのもあの先生もしっかりうん 。 ちゃんと裏付けもありますので後であの見てください。で、テレビの普及率もあの中学校で実施したところ [拍手] [音楽] 全国平均が 33.2% に対して山の中学生のあの過程ですね 93.7% だったっていうことです。 うん。で、進学 率は昭和40年度卒業生で男子 83.3女子52で計69%。全国比率 からも決して低くはない数字だった。 新学は、ま、自由学区だったので、青森 広崎、あ、青森市崎市八戸へ市、戸田市、 七戸へ町、野町が多かった。当然自宅から の通学は無理なため、みんな親を離れ、 親戚やからの通学だったっていうことです 。で、ま、私が昭子5年生から2クラス あったのが1クラスなったので、すごい みんなのまとまっていてずっとうちクラス 会もううん、間をいたりもあったけどやっ ていまして、あのグループLINEで色々 情報交換したり、えっと、今年9月2年、 2年ぶりに朝 で、クラス会やることにしています。3 人ぐらいある?20人くらい。それでも うん。アーモリと県外からあとは農城先生。 [拍手] あ、やっぱり隙がね、 あの先生たちも最初雪は嫌だったようだ けど、あのもう雪はたくさんだと思ってい たのに関わらず雪が降り始めるとワクワク してあの隙きの手入れを始め るっていうことも書いてました。 なんて体育館が潰れたことも湯であった そう でうんと昭和39年の2月 に あのなんか子供先生体育館にこんなものが 落ちてきましたと思ってきたのがなんと 体育館の針を閉めていたナトである。 慌て体育てみるとミ西という音がしてえっと連絡をけた会社もあであの気になくあの潰れたんみたいです。西という音がして [拍手] うん。大教と共に屋根が一挙に潰れたって いうことがあって、もうあのその押し出さ れ通路を橋抜けあ、声読みますね 。ま、すぐ音がしたから会社にも連絡をし たんですけど、10時頃大教と共に屋根が 一挙に潰れ体育館に入っていた空気が 押し出され、通路を走り抜けその不圧で 図書室の戸が外れそうになったんだって。 すごいね。もし生徒が入っていたらと思う と背筋が寒くなるでしたっていうことも 書かれてました。 [音楽] ま、そんなところで、あ、もう時間過ぎちゃいましたね。はい。 ま、先生方にとってもすごく特ね、特別なあれはあったのかなと思います。 あと芸能発表会は会社の映画館で周り劇場 でもある神会館で客席も椅子が固定されて いるので体育館でやるのとは違って演ずる 側も見る側も気分が違う。子供たちは延の のみ飲み込みも早いし表現の選手のある子 も多かっ たっていうことであのやっぱりみんなの 子供たちだけじゃなくて運動会もそうです よね。昔ね家族ぐるみでやってたけどこう いう芸能発表会なんかも親たちも一緒に なって楽しんだっていう記憶ですね。 [拍手] あとは先週 じゃとりあえずはこんな感じ でああの、 鼻肌 でくりのお話ですが、これで終わらせて いただきます。どうも今日はありがとう ございました。
収録日:2025年6月7日
収録場所:奏海2階会議室(青森市本町二丁目)
この動画「『上北鉱山での暮らし』蝦名和子」は、蝦名さんが上北鉱山地域で過ごした子供時代から大人までの生活体験を語ったものです。内容を簡潔にまとめます。
– 上北鉱山の地理や移動手段について、略地図を使って紹介。バスや馬車、歩きが主な交通手段だったことや、冬と夏で通学ルートが異なるなど当時の生活の工夫を語ります。
– 蝦名さん自身は1953年生まれで、山で中学3年まで暮らし、高校卒業後は青森市へ。両親や親戚の転居、周囲の人々の人間関係も紹介。
– 子供時代は徒歩通学が主で、自転車を持つ子も少なく、山に囲まれた閉ざされた空間だったことから、青森市に出た時の星空の広がりに感動したことが印象的だったと語ります。
– 上北鉱山小学校・中学校の当時の規模や、先生のエピソード、共同住宅「長屋」や生活様式について詳しく説明。農業、漬物づくり、ドブロク密造、警察の見回りなど地域の暮らしぶりが紹介されます。
– 校舎や体育館のエピソード、スキー大会・芸能発表会・運動会など、鉱山ならではの行事や家族ぐるみの楽しみが思い出として語られます。
– 最後は、学力や進学率の高さ、テレビ普及率など昭和40年代の地域の特徴と、卒業生や先生方との交流など、人のつながりや成長を大切にする地域社会の様子が述べられています。
1件のコメント
非常に興味深く拝聴させていただきました。
話中に出てきた朝鮮人と普通に共存していたのは驚きです。