兵庫県相生市ほんまち商店街2 創業から戦争を経て高度経済成長へ 【兵庫県相生市】
チャンネルよいです。 2022年10月8日土曜日 午後県よ石の本町商店街です。を撮影した 1967 年の写真。時本町焦店街では夏になると一店が開かれていました。 6月の末から8月の初めまで怒店が並び 大変な賑いでした。このお店は戦後楽しみ がなかった時代にお店でもして町の人々に 楽しんでもらってあいの雰囲気を明るく しようということで始まりました。前回の シャッター街の日曜日でもお話ししました が実はここが私が生まれて育った家です。 私の家は2件続きになっていて、この2階 が八条2をぶち抜きにした広い部屋になっ ていました。で、戦後読店でもして町を 活性化しよっかという介合は私の家の2階 で開かれましたと本町商店街60年始に 書いてあって、あ、そうだったんや。私が 勉強しよう部屋で読みは始まったんやと 思いました。前回は商店街の右側、西側の お店を紹介しましたので、今回は今自転車 が走っている方、商店街の東側のお店を 紹介していきたいと思います。1番手前が 私の家です。この商店街は北の胸、中の胸 、南の胸の3つの胸が向かい合う形で作ら れています。最正8年に鈴木商店が張尾 選手を拡張した時に張尾選手の従業員の ための社を作り、その社に日用品を供給 するための売店組合いとしてペナンタを 募集してこの本町商店街が始まりました。 ちなみに私の家ですが右側は大正時代に 鈴木商店が立てた建物を手直しして使って います。左側は1970年に父親が大正 時代の建物を潰して新築しました。大正7 年1918年に私の祖父がここでお店を 始めて52年目の1970年に左半分を 潰して進ま。それから52年目が2022 年。機も今年は商店街ができて104年。 こちらの建物は地区104年、こちらの 建物は地区52年。ちょうどこの商店街の 折り返しでこの建物が建てられました。 大正時代にたった家を全部壊して立て直し たというのは実は我が家が最初で伊田木光 店とか三浦ご腹点などはうと同様に鉄骨の 建物に立替わっています。私が今住んで いる家の方がそうであるように対象時代の 建物を回収しながら使っているお店もあり ます。こことかこことかがそうですね。南 の方の胸は一斉に立替えた6件が繋がった ビルになっています。最小時代にこの商店 街ができた時、土地も建物もこの道も含め て全て造船選手が所有していました。戦後 になって張蔵選手は商店街の建物を 払い下げてかてなんとが土地や建物を 買い取ることになりました。この土地や 建物を買い取るのは大変だったようで、 その負担に耐えられないお店は権利を売っ て出て行かれたそうです。 1960年に張選手が石川島重と合併して 石川島張工業現在のIHになり1961年 にこのアンケードが完成し、1962年 から3年間石川張い第一工場が世界最大の 建造量を記憶する造船所になります。 そして1970年代、私の父親が大正時代 の建物を潰して進のきっかけに次々に 立て直すお店が出てきました。その後 アーケードにシャンデリアがつき、カラー 舗が行われて商店街は進化していきますが 、1980年代がピークになり、1987 年石川張が相いの心造線部門を廃止した時 から急速にマジ全体の人口が減り始めて 2000年代に入ってシャッターを占める 店が増えてきて現在に至っています。大正 時代張選手は社を建設してその中心を通る 通りに売店組合いを作った頃の写真です。 ここが私の家です。祖父は増入る タを納めていましたので物干に木材を干し ています。真ん中が商店街。東西に伸びて いるのが公員山用の社宅です。ここには木 書があって社のメンテナンスを行ってい ました。それから40年余りが経った 1960年の本町商店街です。私の家の隣 から紹介していきます。桃太郎の看板が 上がっていますが、桃太郎やガング店です 。夜店の日は花火などがすごく売れて天井 から吊したざにお金を入れてざからお金を 取ってはお釣り合えて渡していました。 読引きが行われていました。福引きのくじ は各商店が割り当てた分を買ってで例えば 100円買ってくれたら1枚という風に 渡すんですね。ところが我が家の場合は 工事中心のお店でしたから読店をしたから と言って物が売れるわけではありません。 従って我が家の場合何十枚という福引き権 は全部残りますので読みが終わる頃に親父 がほらこれで福引きしてこいてですね県の 玉を渡してくれてで私はいはいと言って 郵便局の前になったくじ引きを何十本と 引いてたまにいいものが当たって大体は 当たりませんでした。ああじって当たらん もんやなと思いました。桃太郎やガングの 向こうは服水の醤油屋さんです。ここは タ野にある三雲醤油の脅しをされていまし た。ここで売るというよりは醤油を扱って いる小売店に醤油を脅すというそういうお 仕事をされていました。その向こうは伊田 木光書た店です。の公和は別のところに ありました。歯の向こうは中島屋の吐き物 屋さん靴や下駄や雑りを売っていました。 下駄や雑りを売るお店は商店街の中だけで も3元ありました。吐き物屋の息子さんが 電気工事の資格を持っていて模型も売って いました。ここで0とか戦艦大和のプラム を買って作りました。その向こうは中西の パン屋さんです。パン焼きを置いてパンを 焼いては通りに面したショーケースにパン を並べていました。これはアイスクリーム を売るための冷蔵庫かな。その向こうは 藤井の時計屋さんでした。そして三村の ご服店。その向こうに郵便局があって1番 が診療所でした。平田先生という繊維さん をされていたお医者さんがいて、ちょっと 調子悪いなって時は先生のとこに行くと、 じゃあ駐車1本当るわ。駐車1本で風が 治ったり元気が出たりしました。 待ち合いしずに人がいたことなどなくて、 先生はいつも暇そうにして真空間のアンプ をいじっていました。で、私もそれを見て 将来はああいう風に商売しながら真空間の アンプを作って音楽を聞くというああいう 人生を送りたいものだと思っていました。 日田先生当時として珍しいことに日の自動 車が生産していたルノでオタクから診療所 まで通っていました。1961年になって アーケードを作ることになりました。 マーケードを作るためにそれまであった スラン島を外しているところです。これ 多分私の父親とおじさんですね。当時うち は造船書にタを作って納めていたその技術 を応用してお風呂やお家やぼやお作って 販売していました。1961年はこういう 丸いお風呂から四角い箱ブに変わる途中 でした。燃料も1961年ですと、まだ ガスは普及していなくて、薪や石炭でく 風呂を使っていました。横が桃太郎や ガング店です。こういう商店街の写真って 通りを映した写真多いんですが、お店を直 に正面から映した写真って案外ないんです よね。母親の父親は写真大好きやったん ですが、自分のお店を撮った写真は1枚も ありません。京都とか神戸とか鳥取とか そういう写真いっぱいあるんですけど、 人間って日常生活の写真を映すことって あんまりないんですね。で、私のように 古い風景写真を集めて写真集を作って いこうと思う人たちにとってはちょっと 困った事態でどこかにこういうお店を正面 から映した写真あるいは我が家であればお 風呂を作っているところを映した写真とか そういうのがあったら貴重な仕様になるの になと思います。この写真はアーケードを 作るための工事を記録した写真ですが、 比較的店の中まで映るようなアングルで 撮影されているので、とっても貴重な写真 です。我が家は建物に手を加えていないの で、大正時代に張戦所が車を立てた時の 雰囲気がそのまま残っています。ここに あるのはテントです。屋根と屋根の間に ロープを貼ってこのテントを出して気差し を防ぐとそういうことが行われていました 。ここにテレビのアンテナが映っています 。あよいは大阪の放送が映らなくて岡山の 山陽放送や四国の西日本テレビを見てい ました。9チャンネルと11チャンネル。 NHKは岡山の5チャンネルでした。投稿 の時にUHFがついてようやく大阪の毎日 放送や朝日放送を見ることができるように なりました。この頃白くテレビを買う上が 増えてどんどんアンテナが立っていきまし たが今から思うと我が家は全然儲かってい なかったのかテレビを買ったのは1番遅く て1963年のことでした。で、テレビが 来たぞと言って、初めてテレビをつけると ケネディ殺のニュースが流れてきて、東京 オリンピックのための衛星中継の実験放送 の日だったんです。アメリカからの電波が 届きました。臨時ニュースです。ケネディ 大統領が暗殺されました。ええ、テレビっ てすごいて思いましたね。という風に いまい儲かってなかった我が家なんですが 、この頃から各家庭にお風呂をつけるよう になりました。この頃まで皆に行ってたん です。それが高度経済成長が始まって、 みんな経済的な余裕が出てきたので、自分 とこの家にお風呂をつけようということに なりました。で、うちの親父はその チャンスを捉えてお風呂を作ってガス工事 、水道工事もまとめてやりますという風に してで、多分そこそこ設けたんでしょうね 。1970年にはこの店を潰して立て直す ということを商店街で1番初めにやりまし たが、なんと親父は商売絶好の1964年 東京オリンピックの年に私に対してこの 商売は俺で終わりやと。お前は勉強して 大学にしたるからこの店を継がなくていい と言ったんです。というよりこの店をつい でも未来はないと言ったんです。では商店 街のお話に戻りますね。うちの向こうの家 。ここは日屋さんというまじ屋さんで おまじを作っていました。お正月にはここ でお持ちをついてもらいました。その 向こうはマ田のタンス屋さんです。その 向こうブリジストンの看板が上がっている ところは茂本の自転車屋さん。その向こう は高田洋服店です。こういう障害の特徴 って分かりますか?うちも含めて販売だけ じゃなくて加工するんですね。この頃の 商店街は桃太郎ガング店のようにおもちゃ を仕入れてきてそのまま売るというこう いう形の方が珍しいんでうちは風家の製造 お隣はおまじの製造マ田のかぐやさんも 小さな木を持っておられましたし自転車は 組み立てたり修理をしなければいけません し洋服点もオーダーメイドの非重が今より もずっと高くて進学したり就職したりした 時ににはお祝いにスーツを作ってもらっ たりしました。の縦具屋さんです。こう いう縦具も自分とこの交場で作ります。 藤時計店です。時計屋さんも1960年代 までは腕時計などは分解修理といって何 年間に1度時計をバラバラにして 組み立てるというそういう修理をしながら 使っていました。1970年代に交通時計 ができて時計というのは電池を入れ替える だけになってしまいましたが、それまでの 時計というのは歯車や添付を組み合わせた 精密な機会で何年間に1度分解修理をする ことによって性能を保ちながら長い間使う というそういう機会でした。値段も今と 比較すると随分高かったです。私の記憶で はこの頃腕時計は1万円、トランジスター ラジオも1万円でした。給料が3万円の 時代ですから、今給料を10倍して 30万円としますと、腕時計は10万円、 トランジスタラジオは10万円。そういう 感じでしたね。だからトランジスタラジオ も腕時計も大事に扱ったもんです。
相生市の中心的な商店街であったほんまち商店街。昭和の朝夕は造船所に通う自転車の列で通りを渡ることができないほどの賑わいでした。1960年代前半の商店街を見ていきます。
#兵庫県相生市 #ほんまち商店街 #昭和の商店街 #松本恵司
ほんまち商店街Ⅰ https://youtu.be/fsg3FRadsZ8
ほんまち商店街Ⅱ https://youtu.be/g4kiRxvK1rQ
ほんまち商店街Ⅲ https://youtu.be/2U_YN7pz8Gs
ほんまち商店街Ⅳ https://youtu.be/n8uQZpf9aTg
商店街の百年 https://youtu.be/URUb3QyF-F4
再生リスト 相生の近現代史
1件のコメント
懐かしいです。松本さんご実家の並びに私の同級生の実家がありました。昭和50年代でしたが、お好み焼き屋さんと布団屋さんでした。裏に印刷屋さんもいました。