泰阜物語

[音楽] 長野県下稲郡安岡 村飯だしの市街地から東南へ20kmほど 離れたこの村は天竜側が南に流れる強国に 沿った東側の男球の上にあり ますその昔国作りの神様がおをいっぱい 抱えて持ち込んで作り上げたような地形で 64機の広大な面積の中に20ほどの集落 が散らばり居住地だけの標高差は 450m集落の間にはまさに坂また坂の 道路が続き [音楽] ます中央部より北寄りの大地が今は公共 施設のセンターになっている平島 だ福のある給料地をうまく活用して総合 グランドや村役場診療所保育園などを配置 してい ます平島の東北部にある大きな集落は3 高地ここもうさはくとらずぬの落が合体し たもの でひちはほとんどありませ [音楽] ん村の北部の集落には家がより固まった もの散在するもの様々 です南部は天竜側に直接接する などの 川沿それから北には大田本などの大型の 男球地が続き ますその東は森林地帯でここにも梨久保 七平の土代などの古からの集落が残ってい ます [音楽] 交通の弁としては村の西側を天竜側に沿っ てJR飯田線が走り村内に駅は4つあり ますが走る便数が少ない上に3つの駅は 村内へのアクセスがほとんどなく村人の 鉄道利用はほとんどありませ んそれでも最近になって抜田駅が特急停車 駅になり駅前にタクシーも常駐しており かなり利用しやすくなったと言えます [音楽] 現代になって村から南に通じる街道が廃さ れて安岡村は下稲では行き止まりの村の形 になりました国道はなく中央の道路開発の 計画から外れ運輸道路生活道路の多くは 住民の負担や易で作りまし たこうしてルモの開発は随分遅れましたが 近年村を南北に縦走する剣道が整備され そんなの一期は見違えるほど便利になって います [音楽] 安岡村の人口は2000人書体数は 770他の産業がほとんどない農村ですが 今では書体数の半分が農家ということに なってい ます65歳以上の高齢者が閉める比率は 38でまずは齢者社会になってい ます安岡村ではこれら高齢者への配慮重視 した福祉政策を進めており福祉の村として 広くよに知られています [音楽] の村を訪ねてその素晴らしさをご紹介する 映像作品に取り組んできた私は今回安岡村 で5年間収録した映像をまとめてこの作品 を作りまし た安岡村で生まれ育った方たちが知人や次 の世代の人々にふさ安岡村を紹介する映像 として使っていただければ幸い [音楽] [音楽] です諏訪コ皆本に 太平洋の演習7まで213km全国で9番 目の大河天竜川は稲の随所に美しい警官を 見せながら常に流域の田端を潤す恵の川で ありハなる川とも呼ばれてきまし たすを発して神稲の中央を悠々と何かする 天竜側その佐には南アルプスの連邦がが つり駒洗場ヶの水計は身として高を経て いし春 で赤石だけの水計は星川となって大鹿村を 経て松川町で本流に合流します [音楽] イ市駒のあたりでは右眼に中央アルプスの 峰がそりたちりと呼ぶ竜を行本も注ぎ込み [音楽] [拍手] ます松川町からは下稲群でこの辺りから 地形も幅も広がりますがその流れは ぎとなって言い出の内を走り抜けます [音楽] 飯だしの南部に入ると天竜側は深い強国に 入り周囲には巨岩と岩壁がそりたつ警官が 現れますこれが天竜教で小で国の流を 抜ける天竜下りが観光客の人気を呼んでい ます [音楽] 本にあれはの [音楽] やの緑秋の また息をがあります え前方の松あの松はね土 松そしてねあの山の高いところに南アルフ 天方があります行3500mmいわゆる 富士山の月に高い南アルフ赤い客があり ます大体5月から8月頃 が のおがメを読んでおりますね目に [音楽] はいじゃあね [音楽] 船下りの終点は安岡村のから観光校1時間 の船下りを満喫した観光客はここで船を 降ります [音楽] からの長橋から先天竜側の流れは速度を 落とし水は淀み始め ます本流初めてのダム安岡ダム ですかつて太平洋の深海で生まれたウナは 天竜側を遡り諏訪湖で成長したもの です昭和11年安岡ダムが完成してから魚 たちのは終わりを告げ母なる川はその恵み の1つを失いまし た角島の安岡発電所から先天竜側の流れは 再び速度を増して南に向かいますが抜田の 南宮大橋に差し掛かると再び淀み始めます 狩の天竜村にある平岡ダムの影響による ものです [音楽] [音楽] 天竜村は長野県の災難の村ここを過ぎると 天竜川は静岡県と愛県の間を塗って南に 流れ ます天竜川の最大のダムはサダムその水を 称えるのは20km以上も北の天竜村から [音楽] ですかつてはや通船で賑わったと聞く 天竜川の狩 地域現代では全く様変わりして国内に電力 を供給するための巨大な貯水子になってい ます天竜側はまた暴れ天竜とも呼ばれてき まし た稲に豊かな恵を運ぶ墓なる川は特には 洪水や土砂災害などの自然の毛衣を運ぶカ ともなり住民に恐れられてきまし た昭和11年に安岡ダムが完成してから は川底土砂の体積と産地侵食の影響が増し 大雨ごとに以前よりも激しい暴れ天竜に 回れ続けたもの ですかつての大規模な桑畑の地川路地区は 昭和36年の36災害で壊滅的な被害を 受けまし た最近17年がかりで取り組んだ水工事が ようやく完了し鉄道の新しい駅も開業し ました [音楽] [音楽] [音楽] 古代の大和長が国を統一したのは4世紀の 中頃でその時期には江地今の東北地方への 軍隊の派遣が盛でし た下稲地方は大和と江地を結ぶ東山道の 中間にあって軍事平坦基地になっていたと 見られ ます中でも天竜川星眼今の飯だしの座光寺 松尾立岡の付近は新州で最も古墳が多い 土地でこれらは武器やバグなどの服装品が 多く武装古墳とも呼ばれてい ます当時の大和町は下に信頼できる族を 配置しの平坦地は彼らにより農地として 開拓され後に有力な少年に発展しまし たそれら豪族はただ勢力が強いだけでなく 持ち込んだ文化も極めて高かったようで飯 だし周辺は後までも文化の中心地として 大いに栄えました [音楽] 一方天竜川東岸の流と地方では今まで古墳 や遺跡の発掘が少なく文や権力の浸透が 低かったものと見られていましたが最近に なって遺跡の発掘や調査も進んでその見解 は改められてい ますそれでも奥の参幹部では川沿いの兵器 が稲作時代に入った後も濃厚地としては未 の状態が続き小園文化からは遠ざかった年 になっていたようです 中世に入って天竜川を鎌倉を防衛する最 前線と決めた幕府は流と地方を関東武団で 固めまし た川沿いの友商付近には小笠原市奥の野田 には豊島市を配置しまし た安岡村の万場桜本の塚は豊島市の集落あ と言われその西のからさも関東武団が開発 した年と伝えられてい [音楽] ます12世紀の初め上級の乱の音象で友翔 に入った地士は地区本合を拠点とし300 年あまりの間流との地で独自の文化を 気づきましたその勢力は流菜地方も含め 68か村を支配していたと言われ [音楽] ますこの頃地区南方の男球地帯は南山と 呼ばれていました南山では天竜川沿いの兵 田や 大島などには古から人の居住が見られまし たが山はほとんど未でし た鎌倉幕府の時代には辺ごとに没落する武 が多く彼らは土地を失い一等を抱えて開拓 民として未の地に入りまし た13世紀の法線に破れた三浦市の意が下 に守られてに ガジの開拓のになったという伝説も伝わり ます14世紀の半ば鎌倉に嵐が吹きやれ ました幕府の滅亡中仙台の乱観能の乱と わずか17年の間に乱が続く 多くの部が鎌倉を去りました縁を頼って 地士の合を受けた鎌倉部の一等は南山の 開拓民として送られましたそれから南北町 の戦乱が続き小松新井七平のなどにも開拓 民が入りまし た熊野から薬手如来を報じして逃れてきた 一段はイを開きました [音楽] 時は移って戦国のよに入ります西に下上し 南に関東山市の群雄を控えた地士は佐京 城山大峰山鳴神山などに城を構えてその 教員に備え麓の多元をとして固めるために 新しい武団を送り込んで配置し神峰の本条 からの道路とのし台を整備しまし た今安岡村にある20ほどの集落はすでに 戦国時代に出来上がっていたよう です16世紀の半ば武田信玄に責められた 地士は支配者の地位を追われ南山の武団は 南山州と呼ばれて武田の軍団に変されて戦 に加わり後武田の没落によって機能しまし た長野の戦いに破れた南山州の内武者の裸 が黒み石原にあり最近まで供養が続けられ てきたと聞きます 東山騒動は山向こうの出来事だけに村内に いくつかの自席が残り ます落ち武者の刀傷の後お中道を供用した 次席と同じく二子塚古墳 [音楽] この村の各所で伝えられてきまし た安岡村の地域は江戸時代には作川を境い に南北に分けられ南部は幕府良で大官の 支配北部は初めは山手5花村と川手11 花村に分けられて天領半量の間を生きし後 16か村が一本になり幕府良飯田半量欧州 白川伴侶と推移しまし た江戸末期の南山農民騒動は欧州白川半量 だった頃に起きた百勝一期です安静6年 白川半量の農民1400人は年の改善を 求めて白川班の原町神夜に向かいました 幸い飯田ハの中海で年は天領と同じ相場に 改められ騒動は1人の罪人も出さずに収集 されました世に南山騒動 ですなお天領復帰の丸は続けられ安西7年 金野の信は江戸に出し大眼をります りくその日に桜田門の変が起こっていい大 は倒され試みは未に終わりまし た南山農民一期と同じ年安西6年の6月幕 不良だった田村では奥の鳩から関外陽水を 引く水路トンネルが貫通しまし たに た様でこの改工事によって多給料は濃厚地 として一変しました [音楽] 現代の安岡村を語る時欠かせないのは今 から60数年前の昭和15年頃この村から 満州に移り住んだ安岡分村の人たちが たどった悲劇の現代史です 給料地で急激な山屋を切り開いた高知が ほとんどの安岡村は昭和の初期までは量産 が盛んでした量産は多くの労働力がかかる ので村民の数が次第に増し1874年の村 発足時には2500人ほどだった村の人口 が64年後の1938年には2倍以上の 5000人余りまで増加していまし たところが1930年キートが大暴落し眉 の価格は前年の半年以下に下落以後再び 戻ることはありませんでした当時量産の 収入は農家の収入の半分近くを占めてい ましたので農家は全て借金経営となり 食べ物にもこく急迫生活を強いられ まし1931年中国の東北部で日本の関島 軍が満州事変を起こして軍事面でこの地方 を 制圧翌年には満州国を発足させて本格的な 植民地建設に乗り出しましたが日本の政府 は農村から祭農家や次男三乱を送り込み 関東軍の食料生産と 軍事防波堤を目的とした開拓団を編成する 政策を進めまし た疲弊した安村は農業人口を減らすには 国策にって分村移民を送り出すことと決め ソ連国境に近いターバーランに安岡分村の 建設を始めて1100人あまりの開拓団員 を送り込みました [音楽] 昭和20年8月突然のソビエト軍の侵入に 根こそぎ動員された男子を奪われ老人と女 子供たちだけの村人は悲惨な逃避校を続け て多くの命を失い辛くもたどり着いたほま の日本人収容所では上と寒さに襲われ 600人あまりの村人が犠牲となりまし た中でも13歳以上25歳未満の腐女子の 多くは中国人の妻となって急whoseし た家族を救い当時日本に帰り着いたその 年代の女性はわずか4人に過ぎなかったと 聞き ます岡村の田に住まれる中島田さんはその 1人 です中島さんは15歳の時に家族7人と共 に満州に当たりハルピンで看護婦資格を 取られターパンに戻って医療の仕事に従事 され村人たちと逃避行を共にし苦難の末に 単身帰国をされました帰国後は村の保険婦 として医療の仕事に励ま特に残留夫人との 交流やお世話に大きな貢献をされてい [音楽] ます当時の参上を中島さんの講演会でのお 話から伺ってみ [音楽] ましょう子供を泣かせると敵に見つかる から子供を泣かしてはいけないという言葉 が皆さんによと痛く感じたんですそれで この川へ子供なさいてこういう風に言われ たですからま首を閉めて殺すよりは可いし てるのが一番いいことだと考えた人たちも いました子供が次々と1人捨てると次 捨てるまた捨てると次に捨てるもう捨てる というよりも突き落とすということでした その子供は兵隊が能を捨ててそしてその 子供をて万人ブラへ届けてくださったそれ はもうお母さんたちが逃げた後です からそれが残留個人になってる人が大部分 あります本さんに着いた時に倉沢さんが皆 さんこの国土へずっと並びなさいって言っ て元気なものはあの並んだんです倉沢団長 が皆さんここまでたどり着いたけれども 日本は戦争に負けました日本は無条件幸福 して戦争に負けたんですと言いましたその 時に皆さんはもう体がパタパタとなって しまってみんなで泣き崩れてしまいました 日本が戦争に負けるなんてそんな馬鹿な ことはないと言ってみんな大きな声で泣い たんですけれども少し寒くなりまして9月 10月もう下が降りまして11月雪が しまうようになりましたそれでその収容所 生活ができなかった人が本当に不幸だった んです万人のとこになんか行かないよ死ん でも行かないよって言っとった人でも死ぬ か生きるかになれば生きていればいつかは 日本に帰ることができるそうすればきっと 憎しにも会えるし死んでしまえば終りじゃ ないかって言った人は万人のうちに売られ ていきました万人たちは毎日のように 収容所の周りに馬車をつねて俺のうちに来 ないか我のうちに来ないかそうすれば生き ていけるよこんなとこにおれば死んで しまうじゃないか毎日のように物を売りに 来たりそしてそういう自分たちが日本人を 連れていくようにえ来たわけです布団まで 持って来た人もありますところが人たは 家族ぐるみ一緒に連れてってくれればまだ いいけれども1人こっち1人こっちともう ちりちりバラバラに連れて行かれた人が ほとんどですですから自分の子供はどこ 連れられてったかも多分何年も分から なかったという話です と思って役場に行きましたそしたら村長 さん が1人で帰ってきたのかなあの1000人 を超える人はどこへ行ったって声に聞かれ ましたそその時に私は子供を川に捨てた 兵隊に殺してもらったんです万人妻になっ ていったんですこのことだけは絶対に言う ことができなかったんです昭和47年日中 の国交が回復しました 27年の間日本人であることにおいを感じ て時には迫害も受けながら生きてきた中国 残留の人々の心に日がとりまし たこの国交回復を景気として中島さんの 残留夫人との深い接触が始まりました それからすでに34年の月が流れています 中島さんと残留夫人との交わりは耐える ことなく続き数多くの帰国希望者が日本に 戻りましたその間の思い出は今もまぶに 残っています 安岡村の人々のパーラ訪問も行われまし たれ 村の人々は思い出の残る彼を尋ね亡くなっ た人々の慰霊も行っています [音楽] 安岡村平島田のつ神社その経済に犠牲者の 慰霊費が立ち ます隣に立つ石板には600人を超える 犠牲者の指名が刻まれてい ます例年10月の18日村人や関係者が ここに集まって犠牲者慰霊の催しが行われ ます私もんのと思って2度とこんな戦争を 起こさないようなそんな社会を作って まいりたいというに思って次第でござい ますどうか安らかにおり [音楽] ください の ゆとは無し [音楽] の見 たを 帰れ ふさ の見 たを [音楽] 帰れ ふさの [音楽] OGK [音楽] [音楽] [音楽] 江戸時代までは村の街道は村内を南北に 銃弾した 中道秋道と途中から分岐した上道と下道が あり上道は山手筋を地を法然寺に 出下道は天竜川沿いに進んで 下城方面に出ました村の中のその他の道は 里道と呼ばれた生活道路でし [音楽] た安岡から稲山脈を超えた先の東山号は 稲作がほとんどなく食料としての米はから 送られていましたその輸送は従来はマゴ から野闘技を超えて人背で運ぶ炭層でした がその後天竜川通船が発達して明島港から 船積市三島で値上げする船便も加わりまし たがいずれも位相費の重みが大きな問題 でし た明治15年集落の有は東山地方の有と 連携して土代越のダバ輸送路企画互いに 寄付を募り明治18年に着HOUSEし ました村人延べ5000人が作業に加わり 皇帝10数km道幅2m弱の馬道の改作 工事を進めまし た農期冬の作業は大いに難しましたが3年 余り後に進行しまし たこの道は高町から3高地梨久保遺跡 [音楽] [音楽] 村内の天竜が東岸を経由する路線を決定 着港後3年あまりの後期で開通しました この道は流等線と呼ばれて人の移動や物資 の搬送のコースとなり対象時代に入ると 馬道としての本格回収も進められ後に飯田 三島線として剣道に編入されたこともあり ます 旧街道の上道は千代線と呼ばれて住民の 利用も多く三行地の人々は互いの共有残を 財源とする地元負担の道路解説を進めまし た千代線は明治の末年には馬車道となり 大正年間には剣道に入されましたが地区の 道路整備の意欲は極めて強く昭和11年に は自動車道として完成村に自動車が 乗り入れを始めまし [拍手] [音楽] た村内の里道では小学校への通学道路が 優先して不折されました佐京線柿野線内澤 線唐笠線鹿島線明島線桜本線はいずれも 安岡小学校への通学路として明治から大正 の時代に作られたもので里道は学校起点に 集落と結びまし たそれらの多くは現在も学道たちに利用さ れてい ますのは年間久保線は昭和に入ってから地 の児童たちの大の南山校への通学路として 作られたものですこれらの道もほとんどが 住民の資金と労役で改作されまし [音楽] た昭和7年三振鉄道の天竜教鹿島間さらに 10年には抜田駅まで開通しました村人の 利用駅は鹿島抜田の2駅と金野から田本の 3定所で多くは物資輸送のためとして尋常 の末設置されたもんです直に5つの停車 映えの道が必要となり険悪な地形でしたが 昭和12年までに改作されまし た鹿島から明島への道は八水力会社が発電 所建設の法照として解説した車道で村は この道を太鼓と名付けまし た昭和10年代には千代線と鹿島からの 宝照道路のみが車道であり他は自動車の 乗り入れが叶わず道路整備は遅れましたが 農業の機械化など道化推進への流れには 逆らい 村の策としてそんなドールのシャド家が 進められましたそれでも村のほとんどの道 は車道になったのが昭和30年代半ばでし [音楽] た天竜川は江戸時代には私で渡りました田 と大城の間は川田の私で明治30年にでき た有料橋は南宮橋と呼ばれその後釣り橋 永久橋と推移しまし た橋野周辺は南宮教と呼ばれる観光地と なり川遊びの人で賑いまし た角島の私に変わっては施設橋梁の 矢橋大年の境でし たからかさの私の後は 長橋昭和7年に釣り橋がかかり昭和48年 に現在のアーチ橋がかかりまし た立橋は対岸の川田集落の施設歩道の 釣り橋で明治42年の架橋でし た現在の釣り橋は4代目になります 安岡村が昔から南北地域に分れていた理由 は歴史的な背景もありますが1番の理由は 交通の不便さにありました平島田から作を 通る中央線は大正時代に剣道になりました が羽石坂という旧坂の難路があってこれが 人の往来を阻んでいまし たに学なった明島作が改されましたが島田 に向かう人は羽石坂を登りました身を運ぶ 馬の王城も多かったようでたくさんのバト 感音が祀られています 現在の剣道1号線の開通は村の南北の交通 に巧妙を萎えかけました [音楽] の始め鉄道が通じた時線路沿いの住民は 結集して産物の出路としての駅の設置を 信じしまし たその頃の村の産物はまゆこにゃ木炭など でし た当時は住民の町へ出るコースも変わって 駅から鉄道を利用するようになっていまし たその後時代は流れてすでに村の産物は 衰退し自動車の普及が住民の鉄道離れを 進めました鉄道の5つの駅のうち陸田駅を 除いては村民の利用者はほとんどなくまた 田と金野の駅には自動車も通じませ ん1つ抜田駅だけはこれまで近くの高校生 の通学駅として賑わっていましたが最近民 の団体が積極的に活動を進めてこの駅が 特急停車駅となり駅前にタクシーも待機し 観光や商用で村を訪ねる利用客の足場と なっています [音楽] 知開発の重要路線として昭和26年に改作 を始めた奥林道マゴ川線は着港以来10数 年を経過して土代までの車道を完成しまし たが財源として予定していた立売却処分が 計らず村財政は迫し39年に村は地方財政 再建促進特別法の適用申請を行い財政再建 重用団体に指定されまし た栃地区地元ではと呼ぶこの地域には現在 5件の住民が暮らしてい ます球道の峠を下ると代文庫の建物があり 20数年前の姿のままで残されてい ますこの文工は大正2年分室として解説さ れ昭和2年文行となり大い的には20名 近くの児童が通いました 昭和15年満州移民による児童減少を理由 に閉鎖児童たちは近隣の村の親戚に預け られ学校に通ったと聞き ます昭和22年児童救命により再び開校 昭和58年に最後の児童が卒業して文の幕 を閉じましたが今でも白身の人々の心の 故郷になっています [音楽] 1 飯田市の千代から最近言い出しになった南 品区に向けて改作中の広域林道地線峠越の 開通にはまだ数年はかかる見通ですが安岡 村内を通過する部分に土から登る村道が 整備舗装されて接続しました この道の長房は素晴らしく秋の紅葉も 訪ねる人を楽しませており安岡村の新名所 として期待されています [音楽] 安岡村の南部は江戸時代には幕府良 いわゆる天領とされ面具は米の代わりに クレと呼ぶ建築用の屋根板用木材を納めて いました毎年年の観能を祝って天領の6つ の村で踊られたのが当時のクレ踊りで七平 のの神社を皮切りにひりに踊りれ6日目の 梨の池野が踊り納めとなっていまし たその後ほどの地域で廃止され日時も乱れ ましたが最近まで抜田と梨久保遺跡 [音楽] [音楽] 書体数は120安岡村で最大の集落 です表通りには商店街もありJR飯田線の 抜田駅が最近特急停車駅となって村の 玄関口ともなってい [音楽] ます例年8月下旬の祭りの日の午後踊の宿 とされた 浴の村が集まり踊のが始まり ます霧子道路柳笛太子などの行列は途中で 踊りを能しながら町へ下り大橋の田の社に 向かい ます踊りのを担当するのは安岡中学の皆 さん上の根に合わせて柳が回り暮踊り歌が 歌われ ます町中での行事を終えた一向は坂を登っ て南宮神社に向かい ますまず鳥居の前で鳥居 [音楽] 踊り神社の前庭では柳を中心に太鼓を持つ 踊り手が周囲を踊り能します 夜の部は7時頃から周囲の鎮に火がとり能 の舞が続き ます最後は傘破りと言われ踊り手が傘を 脱ぎ神殿に上がって踊り納めとなり ます田の踊りの夜南宮大橋の辺りでは高の 花火大会が開かれ [音楽] [拍手] [音楽] [拍手] [音楽] です梨久保遺跡 [音楽] [音楽] 個数も半減し高齢化も 著しくついにレ踊りの継続を断念するに 至りました誠に残念なこと です梨久保遺跡 [音楽] 中学生などの支援を受けて進めていまし た祭りの前には全員が参加して伝統の柳や 飾り付けの制作を手掛けそれは見事な 出来栄えでした有し日の姿を思い出してみ たいと思います [音楽] [音楽] [拍手] [音楽] 乾杯乾杯 乾乾杯 [拍手] [音楽] [拍手] [音楽] 1番左の 方全に左 [音楽] 土集落にある代神社は山珍珠の山の神とし て周辺の地に多くの者を持つある神社です が はそれでも全員が参加して真を 進めも賑やかにやかに進めてい [音楽] ます乾杯 [音楽] 安岡村の二重余りの集落には全て村の社が あり神社の祭りは集落の定例行事とされて い ます一方祭りを通じての集団意識の用も然 期待されているように思え ます北部にある金野は書体数60の大型 集落でうめとされる金の諏訪神社は町時代 の建築とされ重要文化罪となってい ます祭りの真事は役員と住民のごく一部で 進められ ます村人が集まり始めるのはから国会や 県会議員の挨拶から始まりますそれが 終わって自賛の重箱を開いて男が中心の 賑やかなコミュニケーションが始まり ます参考地はうさはクラズぬの3集落が 合体してできた72書体の地区で祭りは 旧社単位で実施されていますが春には三行 地家族慰安会が開かれてい ます出席者のほとんどがスーツネクタイ姿 これには驚きまし [音楽] た大畑諏訪神社の権は古代と言われ ますこの優勝ある神社の祭り真二の 後芸大の集会所で賑やかな賞や芸能を 楽しむ 住民のいが行われ [音楽] [音楽] [拍手] [音楽] ます田本は112体の大型 集落田本神社の祭の日2年に1度の割りで 田本文化祭が開かれ朝桐間では住民の演芸 疲労がされ [音楽] ます るざ [音楽] [音楽] [音楽] 昭和の初め世界的な大教皇に始まり日本 国内は深刻な農村不況に襲われまし た安岡村も例外でなくその貧困の影響で 弁当も持てない血色児童が続出する状態 でした 同時に村の財政も急迫して学校教職員の 給与の一部を差し引いてこれを村財政に 投入するという要請を発しまし た時の安岡小学校長吉川総一先生 は給与の一部を寄付してもそれは保典のご 一部に過ぎず効果は極めて乏しい むしろ貧困にあえぐ児童生徒が貧しくとも 貪欲にならぬ教育に投入すればその効果は 大きいと美術鑑賞による上層教育を提案し 航空内の賛同と協力を得て美術館の建設に 着手しまし たこの基金は教職員の給与の10%と寄付 金507でした 美術品の多くは学校美術館の設立主旨に 賛同された美術家の偽造により集まり 日本画洋画諸彫刻など50点が収集され まし た裏に立つ宇の平等院を持した美術館は 昭和29年に立てられたもの です美術館はその後村全体のものとして 村営となりまし た建物はその後老朽家が進んだので安岡北 小学校の校舎新築時に展示室と修造区を 設けて美術品はそちらに移されました そして今では美術品の総数も480点に 足してい ます学校美術館は他に例を見ないもので川 校長の思いを受け継ぐ北小学校の在高児童 や卒業生はもちろん岡村民の誇りでもあり ます平島地区は安岡村の岩場センター地区 で村役場診療所農業体育館保育園総合 グランドなどが集まっています 平島の西川の丘に村おこし事業で整備され たのがアイパーク 安岡ボブスレーマレットゴルフパター ゴルフキャンプ場などのスポーツ施設が 整ってい ますカナダ公園は村が産んだ女流家人 カナダ地図に難で名付けられたでその長は 素晴らしく数多くの家が立ってい [音楽] ますカナダ地図は明治35年安岡村平島田 に生まれました 安岡小学校では当時教員をしていたクサ 校生の教え子でし た県立飯田高等女学校を卒業した後二十歳 で飯田の名大有次にぎましたが半年で成果 に戻り離婚しまし た翌年春況して帝国女子専門学校国入学 ここで修の死岡本と出会い ます大正12年関東大震災で 被災この時の振動も影響して翌年敗血格を 病この頃から歌として対当し間もなく荒派 の女優家人として目覚ましい活躍をしまし た 大阪府で2年の療養生活を終えた後安岡村 日教以後平島田で歌の生活を続け昭和9年 32歳の障害を終えまし た安岡村では文化進行事業の一環として金 てからカナダ地図フォーラムを催してい ましたが最近これを継承した稲単価祭りを 開いてい ますまた中学校で単価教室を開くなど金田 地図の文化の継承を図ってい [音楽] ます安岡村の健康作り活動の事業として合 のと高原ロードレース大会が開かれ ます例年8月の円転の元他の府県からも 集まった老若男女のランナーが坂の多い 村内のコースを走るレースでこの大会は すでに12回を数えまし [音楽] た8月下旬の朝島田の総合グランドに 1000人を超えるランナーが続々と 集まり [音楽] ます競技はまず小中学校男女一般女子の 3kmコースからスタート [音楽] ついで3kmを走るファミリーメンバー 43組がスタートし [音楽] ます一般コースは5kmと10kmの2つ のコースです 750人の一斉スタートは相 [音楽] です正体選手は近隣の高校の男女陸選手 28人でまずを切ってゴールし [音楽] ますグランドへの戻り道は延々と続く 坂道もう歩くランナーも目立ちます [音楽] あ [音楽] 健康作り活動の1つとして村民運動会が 開かれ ます10月中旬の開催で ラの岡学のグランドの2箇所で交互に開か れ運動を通じての村民交流の場となってい ます [音楽] 安岡村には2つの太鼓ラブがあり ます安岡大子と鳴上大子です [音楽] S [音楽] [音楽] [音楽] [笑い] [音楽] 大正時代の末年頃に生まれた方たちは今 80歳余り多くの方が今も元気に暮らして おられますがこの方たちが現代の安岡村に 貢献された役割を見過ごすことはできませ んかつての安岡村は2つの地域に分かれて いました安岡小学校の航空だった北地区と 南山小学校の航空だった南地区です ほとんどの若者は成人までをこの地区の中 で過ごし様々な活動をしていまし [音楽] た子供たちが小学生になる頃満州事変が 起こって満州国が発足後に村からの満州 移民が始まりますがこの時から中国を部隊 に15年戦争が始まり子供たちは急速に 進む軍国主義の環境の中で育ちまし た小学校高学年になった昭和12年日中 戦争が始まりました政府の不拡大の方針に も関わらず村の若者には招集令嬢が届け られ鉄道の駅からは次々と出世兵士が 出発村人たちは愛東で盛大に見送りました [音楽] 戦争は続き出世した兵は英霊となって村に 戻りました村では尊を行いその霊を称え 慰めまし た尋常小学校6年を卒業するとほとんどの 子供は同じ学校の高家に進みました後頭家 は2年生で昭和の職にはここまでが義務 教育でし た後頭家の卒業前の修学旅行は子供たちが 初めてよその地を見る行事でした安岡小 学校高等家4泊5日の東京旅行は今でも 語り草になってい ます昭和10年府の学校で小学校には青年 学校が設置され卒業生は青年学校に通う ことになりまし た修学機関は男子5年女子3年とされ午前 中に通学する形で男子には軍事連に時間が 咲かれ女子には家事裁縫農事などが指導さ れました 昭和16年12月太平洋戦争が始まりまし た世の中は千治一食に乗り換えられ婦女子 たちにも軍事訓練が行われるようになり まし [音楽] [拍手] た男子は20歳になると徴兵検査です 設柄ほとんどの男子が合格で近くの平に 配属され国土防衛のための人地構築に励み まし た昭和20年に 終戦成人になっていた若者たちは今まで 教育されてきた価値観の急な変化に大いに 戸惑いながらもそれぞれが軍隊や軍事工場 から村に まし た村に戻った若者たちによってその年の 10月青年会が翌月には婦人会が発足し共 に村の立て直しの推進や世代式の向上の 理想を掲げて積極的な活動に入りまし た初めのうちは年齢も30歳までとした ため会員数は非常に多くこのたちの古い 農村の敷を打ち破ろうとするパワーは巨大 だったと聞き ます村には昔からの階級意識や飲酒が満ち ていまし た戦後の民主主義思想や農地改革の影響も ありましたが全体主義の教育から脱皮し 個性村長の意識に目覚めた若者のパワーが 兵を打破していったことは ですしかし活躍の舞台は依然として小学 航空の単位でその書を破るのにはさらなる 月を用しまし [音楽] た昭は7年8年生まれ現在の安岡学校で たは同級会を開いて急行をあみ ます名付けて上山同級 [音楽] 会この方たちが南山人造高等小学校に入学 したのは昭和14年日中戦争が3年目に 入った年でしたが村では満州分移民が 始まっておりすでに先見隊40人は満州に 渡っており航空320個のうち約100個 が登していく計画で世上が落ち着かない 雰囲気にありまし [音楽] た翌年が昭和15年全国が紀元2600年 の祝賀で湧き行事が行われましたが村では この年185個の家から560人が満州に 移りまし た教育関係では今まで学校の建設や運営を 支えてきた南山学区が廃止されて公明は 存立南山尋常高等小学校となりさらに翌年 3月国民学校例により南国民学校に変わり ました 16年12月太平洋戦争が始まりました 戦争はそれから3年半続いて子供たちは 軍国の小国民とされて育ちましたやがて村 から男の姿が消え始め残された女でが農事 を守りまし た神条か6年を卒業したのは昭和20年の 3月織も東京名古屋大阪神戸の夜間大公州 が始まった月でしたほとんどの子供たちは そのまま高等家に進みまし た昭和22年の高等家卒業この年63星が 導入されて卒業生のうち希望者は新設され た南中学の3年生としてさらに1年をけ まし たこの方たちが成人したのは昭和27 年親や周囲の現代的な考え方の影響を受け ていたこの世代の人々の多くは村を出て 新しい土地での羽ばたきを歩み始めてい まし た初めて表立った同級会を開いたのは中学 卒業20年の昭和44年 恩師を迎え安岡村の抜田で模様しました 参加者は17人この時5年に1回の開催を 定め第2回は49年に抜田で同級生24人 が参加し会の相性を上山同級会と定めまし た小学校入学50周年は第7回で平成 年恩師3人を迎え安町南宮ホテルに25人 が 参加第8回の還暦記念は平成4年に天竜教 で第11回は多元の山人区間で用し過去 最大の2人が参加しまし [音楽] た平成19年には75歳を迎えて21人が 安岡村に集まりまし たまず初めての人も多い万場の学校美術館 を見学村の誇りの美術品に接しました有国 には作の宿に集い懐かしい一時を過ごし ました [音楽] 同級生の1人松下文男さんは小学校卒業後 旧制の農業学校に進みそのまま新世の農業 高校に 進学卒業後は村に戻って村の農業地産の 進行に務めています また安岡村湯市生産組合を起こして奥さん ともども湯氏やかきまきなど特産品の生産 加工に励んでい ます同級生の1人早野みさんは中学卒業後 農業高校に進学卒業後は村に戻って しばらく務めた後大で業の農の代に 復帰よさの顔を継いで今では村でただ1件 よさの仕事を続けてい ます中原夏江さんは小学校1年の時南山小 学校に学び翌年家族と一緒に満州に渡り その後苦難の道を歩んで残留夫人として 中国で暮らし10年ほど前にお姉さんと 一緒に 今は田に暮らしてい ます平成19年の時点で鳴神会のメンバー は45人男22人女23人です男性のうち 村に残るのは8人女性では7人計15人で 別に8人が下稲軍県内の住まいで半分が 地元に残ったとも言えます 母校の南中学は前村合道の安岡中学に 生まれ変わり同じ場所に残るのは南小学校 だけ です現在の児童数は50人余り1学年 あたり8人余りになり [音楽] ます 友になる ために度は 出だよ誰かを 見つけて も幸せ [音楽] 平島に暮らす林雪夫さんたちのクラスは 安岡北中学の13回卒業 生昭和19年20年の生まれで一昨年還暦 に到達村の年輪会で祝いを受けまし たちょうど戦後の60年を過ごした世代と 言えます 安岡北小学校への入学は昭和26年同級生 は50人あまりで東西の2つのクラスが 組まれまし たこの年は朝鮮戦争の佐中でしたが サンフランシスコで和条約が結ばれ日本が 国際社会に復帰した年でもありまし た中学の卒業年時は昭和34 年度もはや戦後ではないと言われ所得倍増 論が唱えられていました交代電化のご成婚 があり 試合での長嶋選手の活躍に世が湧いてい ましたが秋には伊勢台風が中部地方を襲い 死者5000人以上の大被害をもたらし まし たこの方たちが中学校の修学旅行で奈良 京都神戸を旅した懐かしい写真が今残って います [音楽] 49人の卒業生のうち12人が進学しまし た進学先は普通高校農業高校職業高校看護 学校など様々で多くの卒業生が村を出て 務めに入りまし た高校進学が定着するのはまだ先のこと でし た女性3人のうち大平智子さんは平島に 暮らし近隣の北保育所の厨房で働き29人 のエジたちの食事を担当されています [音楽] 今3高地に住まれる時いさ子さんは卒業し て安城の防石会社に就職しました当時女子 卒業生の就職先として防石会社は受け入れ 体制も整い極めて良い環境にありました 5年半の勤めの後村に戻られまし た49名中43人が生存村に残るのは男8 人女3人の11人で女性が少ないことが 目立ち ます女性の数は内をえても8人でこの世代 の女性は首都県愛知県に暮らす人が多い ようです [音楽] [音楽] 安岡村の老人介護は在宅福祉をその理念と して積極的に取り組まれてい ます朝1番平島田にある村の保険福祉 センターから今日の訪問介護の車が次々と 出発します [拍手] [音楽] 安岡村は農村ですが昭和の初めまでの村の 産業の中心は産でし たよさが落ち込みを始めてから主力は こんやに移り最盛紀には長野県1の生産高 をあげていまし た語り継がれる王国の時 ですその後地産もありましたが今では野菜 果物の生産が半ば以上を占めてい ます安岡村では65歳以上の老人が閉める 比率が38に達し ます45%以上と言われる奥の東山号に 比べると低いようです この村には60歳未満の成人も同数ほど おり村の外に通勤しているから ですかて土成長の時代昭和30年代から 40年代にかけてこの男球の産地は工業家 の波には勝てず若者たちは仕事を求めて 都会へ流れそのたちが村に残って生活を 守っていくという時代が続きまし た今から20年以上も前昭和の末期から 残された親たちが倒れる時代がやってきて いるの [音楽] ですその頃村の診療所に着任した青年医師 は治療に来るお年寄りの診察を進めておい は医療だけでは救えず誰もが死を迎える こと国民年金高齢者には生活支援が必要と いう2つの結論に到達しまし たその判断が景気となり村に残された年の 生活を採用という理念に燃え村独自の福祉 政策が始まりました [音楽] 村の高齢者書体は200個以上家族による 介護がなくても自分の家で暮らしたいと いう多くのお年よりの望みに答えて徹底し た在宅介護を進めてい [拍手] ます現実には多くのお年寄りが済まれる 住宅は現代の人から見れば全く快適なもの ではありません冬の間はせめて人までも 温かい部屋が欲しいという作りで設も 極めて劣悪 です食生活も男の1人暮らしの場合には 栄養面で問題三石 ですお年寄りが抱かれる感謝の気持ちが今 の介護を支えています 高齢者への福祉サービスや医療の無料化は 早くから実現しました介護保険の制度が 始まってからも個人負担を村が上乗せ負担 することを実行してい ます高齢者が多いということは当然老人病 も多いのですが国民年金のわずかな収入に 耐える年寄りは医療だけでは救えず福祉に は生活支援を含めるという観点に立って 制度を進めてい ます人の幸せは生きた時間ではなくその 内容であるという理念のもで多くの人がお 年寄りへの奉仕に従事してい ます高齢者支援ハウス安らぎの家ができ ました自宅の立地環境病気や不安などの 理由で自宅では住めない人が入居し12個 が埋まっており自宅同様に介護サービスを 受けることもでき ます朝桐館は地域デイサービス福祉 ボランティア活動の拠点として解説され 歩行浴などの保険事業も展開しています 安岡村では介護認定に当たらないお年寄り をお元気さんと呼んでいますお元気さんは 地域単位で朝桐間などに毎月集まって 楽しい時間を過ごしていますが年に1度は 村のお元気さん全員の集まりが開かれます 名付けてお元気さんみんなで集まろうか [音楽] いその朝ボランティアが運転するマイクロ バスが朝桐関屋の新入路に入ってきました [音楽] [拍手] 皆さん方はよしです ね右手右足が動かなくなってもそして喋れ なくなってもまたネたきになっても ま頭がボケちゃってよく分からなくなって も安岡村の社会福祉教からですねま最後 までお世話するということはですねここに 来てですねもう一度確認して安心して ください [音楽] [拍手] [音楽] 出れ がれた のの 山山 [音楽] 生え て 出に URNa [音楽] [拍手] [音楽] [拍手] [音楽] [拍手] [音楽] ののそのの 山脈緑の へを 行く ぬ るこの時に登場したのは飯しの夫人 グループとしの皆さんでした [音楽] [拍手] [音楽] [音楽] H [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 午後3時頃楽しかった1日を終えた皆さん をお送りする7台の車が朝桐間を後にし ます [拍手] [音楽] IK [音楽] [音楽] 夢1つ ひまわり夢の 花明日に向かって咲いている山取り 坊や見る夢は いつかの山超えたいなあこ が 故郷故郷 恋し ねねり の母の里 [音楽] 夢られ [音楽] た2つ2人 があった日 は雨も 愛し歌の 道薄村の 片 は恋の切なさ知っているあここ が 故郷故郷 恋し 幸せ 力愛の里 [音楽] 夢られ た3つみんな で歌おう よ桜吹の花のした触れ合い [音楽] を みし風 優しい夢明かりあこ が 故郷ふさ 恋し みんな 集まる歌の 里あこ が 古郷故郷 恋し 年々り の母の里 [音楽] 私が安岡村の収録活動に入ったのはは 2002年の8月でした中断の期間もあり ましたが5年になり ますその間村の立ちや皆さんのたられた 歩みを学び伝承や自席も尋ねましたその 活動を通じて多くの方とのお付き合いも できました人生のあり方について教えて いただいたことも多くありまし た岡村の多くの人々は日々の生活や仕事 から一歩踏み込んだことに取り組みそれに 時間と情熱を咲いていられるように思い ますそして皆さんで取り組まれるその 小さなことが集積して世間に胸を張って 誇れるものを作り上げた素晴らしい村に 育て上げたと思い ます安岡村で生まれ育った方たちは故郷で あることに誇りを持ち是非周囲の知人に 紹介し次の世代に語りのすことをお勧めし ます [音楽] [拍手] [音楽] [音楽]

「泰阜物語」
村内の方から提供いただきました。
県内外、各地の自治体を撮影されていた堀場和俊氏(兵庫県)という方が制作された映像作品で
す。
(制作2012年)
00:00:00  オープニング
00:01:18 第1話泰阜村のプロフィル
00:09:56  第2話天竜川の流れ
00:19:49  第3話泰阜村の生い立ち
00:42:50  第4話泰阜村の鉄道と道路整備の歩み
00:57:00  第5話伝統のまつり・集落のまつり
01:07:56  第6話情操と健康の増進を願って
01:13:40  第7話高原ロードレス
01:19:14  第8話時代を駆けたそれぞれの世代
01:37:52  第9話生活支援を含めた老人福祉を進める
01:48:50  第10話泰阜の心よ永遠に(エピローグ)
#泰阜村#南信州#長野県#歴史#地域の歴史#伝統行事
#nagano#LocalHistory#TraditionsOfJapan#JapaneseCulture

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5件のコメント

  1. 温田は随分前だけど、冬に愛車で行った事があります。当時は雪が1m近く積もっていた道をラッセル車の如くかき分けて走ってました。飯田線の温田駅より少し先に進んだ所で引き返したんだが、天竜川を挟んだ西側?の景色が凄く綺麗で感動したのを今でも覚えています。

  2. 「泰阜村:やすおかむら」とは読めませんでした。ある方のブログでこの村を知りました。
    この動画は表に良くできています。泰阜村に行かなくても泰阜の見所満載です。これだけの情報をきちんと集めて立派な動画に作り上げた作者に敬意を表します。有り難うございます。
    31:00 生糸の価格暴落はカロザースによるナイロンの発明によるものかな?私の両親も養蚕をしておりました。ナイロンの発明により繊維産業が大きく変化したと思われます。しかし、絹の繊維としての優秀さはナイロンには替えられないものがあります。いま日本では、養蚕をしている農家の方はごくわずかですが、このすぐれた繊維を後世にも残して欲しく思います。

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