【子安観世音】天下の秀吉を屈服させた「太閤地蔵」(2025年5月11日)#志賀越道 #子安観世音

【北白川の石仏】  
北白川の石仏は今出川通を挟んで北側に1体「子安観世音」、南側に2体あり、いずれも鎌倉時代の作とされます。なかでも「子安観世音」は、江戸時代後期(1780年)に刊行された京都に関する地誌の『都名所図会』に記されており『安土桃山時代、天下を統一した豊臣秀吉がこの石仏を気に入り、聚楽第に持ち帰った。ところが秀吉の寝床を夜ごと地鳴りが襲うようになり、耳をすますと「白川に帰りたい」と石仏がうめいている。さすがの秀吉も困り果て、白川に戻したという伝説があり、天下の秀吉を屈服させたとして「太閤地蔵」』と言われていたようです。鎌倉時代から現在まで多くの人々に愛されている白川の石仏「子安観世音」。南側2体は、北白川弥陀石仏と呼ばれる阿弥陀如来です。 石仏の前は旧山中越の「志賀越道」が通り、京都と大津を結ぶ近道として平安時代から利用されてきました。「志賀の山越え」と呼ばれ、京都の荒神口から山中町を経て、志賀峠を越えて滋賀里(崇福寺)へぬけることができ、京都から崇福寺に参拝する道として開けたとみられます。 山中越の道中には同じような石仏があり、山中町には西教寺門脇、大津側の入口には「志賀の大仏」があります。いずれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したといわれます。

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