時代の終焉:新田義貞と足利尊氏が描いた鎌倉幕府の最後 #受験日本史

この動画では、日本史の大転換点である鎌倉幕府の滅亡に焦点を当てます。新田義貞と足利尊氏、二人の武将の活躍により幕府は討たれました。元弘の乱を通じて、彼らがどのように歴史の流れを変えたのか、その背景と結果を深掘りします。日本史におけるこの重要な事件は、後の南北朝時代へと繋がり、日本の政治構造に大きな影響を与えました。義貞と尊氏の選択がもたらした変革の瞬間を、詳細に解説していきます。

Share.

2件のコメント

  1. 足利高氏(尊氏)は、北条家に取り入り、北条方の赤橋守時の妹をもらったが、赤橋守時を裏切っている。

    鎌倉に人質として残された、妻登子と嫡子・千寿王(義詮)は高氏が天皇方に付くと鎌倉を脱出しているが、赤橋守時としては立場がない。
    守時も「裏切り者」として見られていたらしい。
    足利高氏は調べれば調べるほどお調子者である。

    そもそも、足利家は調子が良く、北条に取り入ることで地位を確立したが、家柄では新田義貞の新田一族のほうが源頼朝の系譜に次ぐ清和源氏の棟梁筋の家系である。

    新田家が没落したのは、頼朝の挙兵に際して、懇意にしていた平氏に忠義を立派に貫いたためだが、そのようなことがわからない人からは新田家は単なるアホ扱いされてしまっている。
    新田義貞の新田家は源氏の有力な血統にも関わらず、没落して無位無官の御家人扱いとなり、田舎の貧乏御家人となったが、気概をみせてわずか150騎で挙兵し、勢力を増しながら鎌倉に到達し、自然要塞の鉄壁の鎌倉を打ち破るにあたり、最後は刀を投げて龍神様に祈り、大引き潮を起こして海側から鎌倉幕府を陥落させるという偉業をわずか15日で行っている。太平記の誇張だと言う者もいるが、検証した天文学者もいて、稀に見る大引き潮だったことは確かなようだ。

    新田義貞は後醍醐天皇に振り回されるも忠義を貫いたわけだが、龍神の力を貸したのは清和天皇や源義家を祖とする武士の棟梁として忠義を大切にしていたからだと思われる。

    なお新田義貞は福井で亡くなったとされているが、新田塚の兜は時代考証が合わず、群馬の地で眠っているとの説がある。

Leave A Reply