Share Facebook Twitter LinkedIn Pinterest Bluesky Threads 上野のバイク街と傷痍軍人がいた階段は現在どうなっていますか? 上野駅周辺を巡ってきました 音源はこちらをお借りしました Emptiness by Heitaro Ashibe 様 https://dova-s.jp/bgm/play19553.html #100年前 #AIカラー #カラー化 #昔の写真 #白黒カラー ♯吉展ちゃん誘拐事件,♯上野バイク街,♯上野傷痍軍人,♯昔の上野, 昭和 東京都 自転車 江戸時代 白黒写真 関東地方 関東地方 サイクリング
@根岸明-v5v on 2025-01-13 11:34 AM 3:50 同じ人物かはわかりませんが、地面に手を付いているように見える傷痍軍人を、1960年代から1970年代に、横浜中部の商店街で見たことがあります。その方は両腕が無かった。金属棒で両腕の付け根を支えて、このような姿勢をとっていました。子供の私には衝撃的でした。
@Ta-maru-chi on 2025-01-13 12:02 PM わたくしが16歳くらいの頃は埼玉から上野バイク街まで2ストの50ccで白バイにビビりながら行ったものですね😊とても懐かしく思います( ^ᵕ^)今でも仕事柄よく通りますが街並みはガラリと変わりましたね。あの頃の景色を被せながら通過していますとてもあたたかい気持ちになりました😊ありがとうございます。
@nowhereman1008 on 2025-01-13 12:49 PM 上野の山への階段は付け替えや植栽で様子がかわってしまいましたが、聚楽の横を京成上野に降りてゆく階段の辺りはあまり変わっていません。動画のイーゼルだけが写っている場所は似顔絵書きさんのナワバリだったらしく、私が中学生ぐらいまでは暗いタッチの写実的な鉛筆画、その後は色鉛筆でカラーに、最後はデフォルメされたコメディータッチの絵に変わり、平成の初めぐらいまでは代々の絵描きさんが居ました。私の父親は傷痍軍人さんに対して何故か良くない印象を持っていたようですが、母親が「これを持っていって差し上げてきなさい」と小声で五十円玉を握らせてくれたのをよく覚えています。彰義隊の墓所の手前左側、今はレストラン?のようになっている建物には、彰義隊の遺族の方が小さな記念館を開設されていたように記憶しています。動画には映っていませんが現在の東京文化会館の向かい側には、科学博物館の裏手あたりまで続く得体の知れないバラック群の一帯が有り、暮らしている人々も居たはずです。地元の気の荒い人間でも「あそこはチョットなあ…」と後ずさりする感じの場所でしたが、やはり平成の前半頃にはいつの間にか跡形も無く消滅してしまい、思い切って一度だけでも行っておけば良かったと後悔しています。
@よしぞう-q7l on 2025-01-13 12:58 PM 東京の玄関は今でも上野と思っています。親の都合でS49年ころ東京に来ましたが、上野駅は横に多くのホームがズラッと並びあり、度肝を抜かれた記憶があります。
@中村たっちゃん on 2025-01-13 1:06 PM いつも有難うございます。1978〜1980年代、上野パーツ、東京パーツ、コーリン、東京単車部品(東単)行きました。店員とバイクの話をしているだけで楽しい時代でした。
@蒟蒻問答-q6j on 2025-01-13 1:38 PM 上野は昔家族と一緒によく行きました 昭和46年に和服姿の女性がいますが小さい頃動物園で撮ってもらった写真にも辛うじて和服の女性がいて懐かしかったです 傷痍軍人は近所の縁日で見かけました 大人は皆どこかに戦争の傷を持っている時代でした
@野良ネコパンチ-z7t on 2025-01-13 2:19 PM 20年以上前にオフ会の主催者と階段の所で傷痍軍人と似顔絵業で賑わっていた話と広小路にびっしり都電線路があった話を熱くしてしまいポカンとされたのを思い出しました…
@青田俊久 on 2025-01-13 2:26 PM 高校生のときに中型免許を取得して友達と上野のバイク街へ行き初めて買ったバイクは上野で買いました物心付くくらいによく母に連れられて上野公園の階段に白い服を着た義足や義手の方たちが演奏してた覚えがあり母に尋ねると戦争に行ってケガした兵隊さんなんだよって教えてくれました今でもたまに上野公園のこの階段を昇ると思い出します
@malik-bin-isa on 2025-01-13 3:05 PM (3:51)辺りに映っている二人の傷痍軍人姿の人たちは、恐らく同じ格好の人物を、郊外の駅前広場でも見たことがあります。昭和30年代半ばです。それから10年経過しても同じだったのかな?とも思います。ただ、別の方がコメントされているように、現在では本当のところは、どうなのかは疑問です。数年前に亡くなりましたが、南方で左腕を撃ち抜かれて麻痺が残る傷痍軍人が仰っていたのは「本当に傷痍軍人だったら、生活できるだけのまともな軍人恩給を、もらえたはず」と。
@宮脇祥治 on 2025-01-13 3:20 PM いつも楽しく視聴させてもらってます。ありがとうございます。調査のお願いです。1959年生まれの65歳ですが、学生時代19歳ころ目黒区に住んでいました。当時のことですが、近くに国立科学博物館附属 自然教育園「東京都庭園美術館」がありました。そこの目黒通り沿いにプールがありました。マーブルプールで白金プリンスホテルだったと記憶しております。このことを誰に話しても信じてもらえません。存在したことは間違いなく、こちらのアドレスにイラストがありました。オダキュウTIME様で調べていただけると嬉しいです。わがまま言います。https://argent-blanc.com/wp/wp-content/uploads/2011/10/teien2.jpg
@haduki818 on 2025-01-13 3:36 PM 階段の所にテレカ持った外国人いたの覚えてる〜1980年代後半くらいに軍服みたいなの着たおじさんが座ってて物乞いしてたけど、傷痍軍人の偽物っぽいなって思って見てた
@タマキチ-l1e on 2025-01-13 4:42 PM いつも貴重な映像ありがとうございます。寒い中探索お疲れさまでした。亡き叔父が上野で貴金属店を営んでおりました。傷痍軍人さんはその昔(1965~1970年頃)祖父宅があった大田区本門寺境内に続く階段でよく見掛け、手足がないお姿が怖く夢に出てきて夜中によく泣いていました。
@harrys8758 on 2025-01-13 6:14 PM 私が御幼少の砌、母とお出かけすると、駅前に白い服を着てアコーディオンを奏でるおじさんが、まだいました。昭和40年代の初頭です。私がその人に視線を向けると、母は「見るんじゃない!」と強く言いました、本質分かっていたようで。ちなみに母は、国民学校の時にグラマンに機銃掃射食らって、ギリ防空壕に飛び込んで命拾いした経験あり。
@akita1934 on 2025-01-13 8:45 PM 昭和47年大学進学で上野駅に降り立った時浅草口に傷夷軍人が立っていました。銀座線に通じる地下通路には戦後27年経っても消し去れぬ敗戦が漂っていました。私の記憶で傷夷軍人を見かけた最後は昭和50年渋谷駅です
@チャコミン on 2025-01-13 9:25 PM バブル時代にイラン人がテレホンカードあるよ!10枚1000円!と言って偽造テレホンカードを上野で売っていたのを覚えています。一時、上野の山への階段で似顔絵を描いていた人たちが階段を外国人に占拠され居なくなった。今は、似顔絵を描く方は、上野の階段に居るのでしょうか?誰か知っている人が居たら教えてください。
27件のコメント
3:50 同じ人物かはわかりませんが、地面に手を付いているように見える傷痍軍人を、1960年代から1970年代に、横浜中部の商店街で見たことがあります。その方は両腕が無かった。金属棒で両腕の付け根を支えて、このような姿勢をとっていました。子供の私には衝撃的でした。
傷痍軍人はほとんどインチキで腕は包帯で体に縛り付けその上から軍服を着ていました と 亡き父がよく言ってました
わたくしが16歳くらいの頃は
埼玉から上野バイク街まで2ストの50ccで白バイにビビりながら行ったものですね😊
とても懐かしく思います( ^ᵕ^)
今でも仕事柄よく通りますが街並みはガラリと変わりましたね。
あの頃の景色を被せながら通過しています
とてもあたたかい気持ちになりました😊
ありがとうございます。
光輪が潰れてから一気にバイク店がなくなった印象があります。
上野の山への階段は付け替えや植栽で様子がかわってしまいましたが、聚楽の横を京成上野に降りてゆく階段の辺りはあまり変わっていません。
動画のイーゼルだけが写っている場所は似顔絵書きさんのナワバリだったらしく、私が中学生ぐらいまでは暗いタッチの写実的な鉛筆画、その後は色鉛筆でカラーに、最後はデフォルメされたコメディータッチの絵に変わり、平成の初めぐらいまでは代々の絵描きさんが居ました。
私の父親は傷痍軍人さんに対して何故か良くない印象を持っていたようですが、母親が「これを持っていって差し上げてきなさい」と小声で五十円玉を握らせてくれたのをよく覚えています。
彰義隊の墓所の手前左側、今はレストラン?のようになっている建物には、彰義隊の遺族の方が小さな記念館を開設されていたように記憶しています。
動画には映っていませんが現在の東京文化会館の向かい側には、科学博物館の裏手あたりまで続く得体の知れないバラック群の一帯が有り、暮らしている人々も居たはずです。地元の気の荒い人間でも「あそこはチョットなあ…」と後ずさりする感じの場所でしたが、やはり平成の前半頃にはいつの間にか跡形も無く消滅してしまい、思い切って一度だけでも行っておけば良かったと後悔しています。
階段の似顔絵かきで書いてもらったことがあります。松坂屋のあたりにも傷痍軍人やひよこ売りがいました。
東京の玄関は今でも上野と思っています。
親の都合でS49年ころ東京に来ましたが、上野駅は横に多くのホームがズラッと並びあり、度肝を抜かれた記憶があります。
いつも有難うございます。1978〜1980年代、上野パーツ、東京パーツ、コーリン、東京単車部品(東単)行きました。
店員とバイクの話をしているだけで楽しい時代でした。
バイク街の先の石橋メモリアルホールに何回も行きました
ホールは譲渡され、立派なオルガンも取り壊されてしまったようで大変残念です
上野は昔家族と一緒によく行きました 昭和46年に和服姿の女性がいますが小さい頃動物園で撮ってもらった写真にも辛うじて和服の女性がいて懐かしかったです 傷痍軍人は近所の縁日で見かけました 大人は皆どこかに戦争の傷を持っている時代でした
似顔絵絵描きの友達ももういない古い街へ いまでもそこにあなたがいたら僕はなんて言うだろう
20年以上前にオフ会の主催者と階段の所で傷痍軍人と似顔絵業で賑わっていた話と広小路にびっしり都電線路があった話を熱くしてしまいポカンとされたのを思い出しました…
高校生のときに中型免許を取得して友達と上野のバイク街へ行き初めて買ったバイクは上野で買いました
物心付くくらいによく母に連れられて上野公園の階段に白い服を着た義足や義手の方たちが演奏してた覚えがあり母に尋ねると戦争に行ってケガした兵隊さんなんだよって教えてくれました
今でもたまに上野公園のこの階段を昇ると思い出します
傷痍軍人は階段周辺のほかにも、文化会館周辺にも居たのを覚えています。イラン人は階段周辺で煮炊きもしていたことを動画を見て思いました。
(3:51)辺りに映っている二人の傷痍軍人姿の人たちは、恐らく同じ格好の人物を、郊外の駅前広場でも見たことがあります。昭和30年代半ばです。それから10年経過しても同じだったのかな?とも思います。ただ、別の方がコメントされているように、現在では本当のところは、どうなのかは疑問です。数年前に亡くなりましたが、南方で左腕を撃ち抜かれて麻痺が残る傷痍軍人が仰っていたのは「本当に傷痍軍人だったら、生活できるだけのまともな軍人恩給を、もらえたはず」と。
いつも楽しく視聴させてもらってます。ありがとうございます。調査のお願いです。1959年生まれの65歳ですが、学生時代19歳ころ目黒区に住んでいました。当時のことですが、近くに国立科学博物館附属 自然教育園「東京都庭園美術館」がありました。そこの目黒通り沿いにプールがありました。マーブルプールで白金プリンスホテルだったと記憶しております。このことを誰に話しても信じてもらえません。存在したことは間違いなく、こちらのアドレスにイラストがありました。オダキュウTIME様で調べていただけると嬉しいです。わがまま言います。
https://argent-blanc.com/wp/wp-content/uploads/2011/10/teien2.jpg
傷痍軍人をニセモノと決めつける人は何なんだろう。アメリカにだってベトナム帰りの物乞い傷痍軍人はたくさん居た。そんなこと当たり前なのに。
階段の所にテレカ持った外国人いたの覚えてる〜
1980年代後半くらいに軍服みたいなの着たおじさんが座ってて物乞いしてたけど、傷痍軍人の偽物っぽいなって思って見てた
上野光輪街だ!
いつも貴重な映像ありがとうございます。寒い中探索お疲れさまでした。
亡き叔父が上野で貴金属店を営んでおりました。
傷痍軍人さんはその昔(1965~1970年頃)祖父宅があった大田区本門寺境内に続く階段でよく見掛け、手足がないお姿が怖く夢に出てきて夜中によく泣いていました。
1970年ごろまでは人の集まるような場所で傷痍軍人の姿を何人も見かけました。この動画を見て思い出しました。
懐かしい。。。感謝します🤗🤗
私が御幼少の砌、母とお出かけすると、駅前に白い服を着てアコーディオンを奏でるおじさんが、まだいました。昭和40年代の初頭です。私がその人に視線を向けると、母は「見るんじゃない!」と強く言いました、本質分かっていたようで。
ちなみに母は、国民学校の時にグラマンに機銃掃射食らって、ギリ防空壕に飛び込んで命拾いした経験あり。
昭和47年大学進学で上野駅に降り立った時浅草口に傷夷軍人が立っていました。銀座線に通じる地下通路には戦後27年経っても消し去れぬ敗戦が漂っていました。私の記憶で傷夷軍人を見かけた最後は昭和50年渋谷駅です
傷痍軍人の方たち。
昔は、渋谷のガード下に居たなぁ。
バブル時代にイラン人がテレホンカードあるよ!10枚1000円!と言って偽造テレホンカードを上野で売っていたのを覚えています。一時、上野の山への階段で似顔絵を描いていた人たちが階段を外国人に占拠され居なくなった。今は、似顔絵を描く方は、上野の階段に居るのでしょうか?誰か知っている人が居たら教えてください。
上野は郷愁を感じる街。
子供の頃、親と一緒に出掛けた場所で一番多かったのが池袋と上野でした。