ここが古代関東の最大都市!古来藤原氏が厚く崇敬し楠木正成の義兄が再興した氏神・多武峰神社〜埼玉県ときがわ町〜

埼玉県ときがわ町にも多武峰という地名があり、なぜ奈良の地名がこんなところに?と不思議に思い惹かれて行ってみたところ、けもの道のような細く険しい林道を奥に分け入った所に多武峰神社というお宮が。
御祭神は天智天皇と共に乙巳の変(大化の改新)を成し遂げた藤原鎌足。
その遺髪をこの地に埋葬し墓所として、武蔵国の藤原氏の氏神とし、慶雲3(706)年、多武峰神社が創建されました。
多武峰神社の社殿裏の鎌足墓の周囲からは埼玉県内で奈良時代の瓦が最多出土した多武峯瓦塔遺跡で知られます。
ときがわ町の地名の由来はこの地を流れる川が「斎(と)き川」、つまり多武峰神社に参拝する際にお浄めをする川であった事から多武峰神社の神宮寺だった慈光寺の山号として「都幾山(ときがわ)」に充てられ、現在のときがわ町の町名が付けられました。
多武峰神社参道入り口駐車スペースから高台に見えるのが観音堂(現・多武峯神社)を管理していた武藤家の屋敷で、武藤家のあるこの地域を多武峯といいます。
多武峰とは本来、中大兄皇子(後に即位して天智天皇)と中臣鎌足(後に藤原鎌足)とが初めて出会い、皇室をおびやかしていた蘇我入鹿の暗殺計画を日夜企てた奈良県桜井市の談山神社の神体山・談山(かたらい山)のある多武峰を指しますが、なぜ奈良から遠く離れたこの地に多武峰と名付けられた神社があるかというと、慶雲3年(706)に大和国磯城郡多武峯(奈良県桜井談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現があったから。
その後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。
また、観音堂領として慶安2年(1649)徳川家光より5石の朱印状が下されています。
この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場となりました。
慈眼坊は、京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達であった入間郡越生郷の山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。
更に元禄6年(1693)には、聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の内50箇村の年行事職を認められました。
 現存する武藤家の母屋は17世紀に建設されたもので、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存しています。
 明治2年(1869)の布告により修験は廃止されます。
神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼坊は姓を武藤に改め神職となりました。
 このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ修験道に関係する数多くの貴重な文化財を所蔵しています。
また、多武峯には天狗や竜宮の穴などの伝説も伝わっています。
往古からこの地を武州多武峯と称されてきました。
多武峯神社の御祭神は藤原鎌足公で、今から1200年以上前、即ち慶雲三丙午年(706)の3月、大和の国多武峯談山から公の慰霊を当山に還し武藤家の守護神として祀られたのが創祀。
以来文人武人の信仰殊に篤く、南北朝に降って神社山麓に火災起りその類焼を蒙り全山灰塵に帰してしまったが、当山第三十八世一峯法印別当の世、時の中納言だった藤原藤房卿が大願主となって当地竜ケ谷の工匠・森川金八に命じ、三間四面朱塗りの殿堂を再建させました。
時正に正慶2(1333)年8月15日の事です。
 明治維新に至るまで行基菩薩の作である聖観音と相殿で、徳川三代将軍家光公以来代々五石余の朱印状を賜わり当地は観音堂領となっていました。
世の人当山を「観音山」と言い鬱蒼とした原生林に覆われた神域は「天狗の山」とも言われてきました。
 明治40年1月19日の夜、再び火災に見舞われ社殿は焼失し山容は見る影もない形相となってしまいましたが、大正15年2月、当山第六十四世が現在の神社を再建しました。
 神秘の山・多武峯は断崖の絶壁、龍宮の穴等人跡未路の聖地もあり独特の風光に参詣の人々の心を強く打つものがあります。
尚、当山山頂に閼を廻らし文亀2年建立(463年前)の五輪搭があるがこれは祭神鎌足公の墓でありこの塚から奈良朝末期作の瓦塔の破片古壺等の出土品多数あり昭和34年3月、多武峯瓦塔遺跡として埼玉県指定史蹟に指定されました。
奇しくも、来年は中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿が誅伐された乙巳の変(大化の改新)があった年と同じ歳周りの乙巳。
「乙」は十干の2番目で、植物の生長サイクルに例えると、草木の幼芽が屈曲して伸び始める状態を指します。
「巳」は十二支の6番目で草木の成長が最盛期を迎えた状態を表しており、動物は蛇(ヘビ)を当てます。
古来、蛇は「神の使い」として信仰の対象とされ、脱皮を繰り返し成長するさまは「生命力」「復活・再生」の象徴とされます。
総じて「乙巳」は、紆余曲折を経た努力が実を結び、将来にわたる成果となって現れる年と位置付けられます。
また「巳」は蛇のイメージから「再生と変化」を意味します。
脱皮し強く成長する蛇は、その生命力から「不老長寿」を象徴する動物、または神の使いとして信仰されてきました。
この2つの組み合わせである乙巳には、「努力を重ね、物事を安定させていく」といった縁起の良さを表しています。
そんな年を迎えるにあたり、多武峰神社に導かれた事はなんと有難き引き寄せのご縁かと、心より感謝するものです。
多武峯御詠歌
 はるばると 登りて聞けば 百鳥の
      声もみのりも かたらびの峯

#神社 #楠木正成 #歴史

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40件のコメント

  1. 初めて拝見させていただきました。近くにこんな立派な神社あるの知りませんでした。先祖代々神道で菊水紋の者としては参拝しに行かせて貰いますありがとうございました。

  2. 先生お疲れ様です、動画有難う御座います。
    新しい御由緒書に万里小路藤原殿の御名前が無いのは、残念で仕方ありません。
    歴史は歴史として真実を伝えて頂きたいです。
    教育の都合で変えられるのは許せませんね。

  3. 良い動画を、有難うございます。
    こんなに素晴らしい場所は、できることなら一度は訪れたいものです。

  4. 埼玉県県民ですけど、全然知らなかったです。
    都幾川の近くの嵐山渓谷に良く行ってましたけど。

  5. 地元民ですけど、全く知りませんでした。
    近々、参拝したいと思います。
    ありがとうございました。

  6. 都幾川に藤原鎌足ゆかりの場所があるとは知りませんでした。今と違い交通の便の悪い平安時代に、今でも不便なときがわ町と中央との間で行き来が有ったことにとても驚きました。
    高速を使えば1時間使用少々で行けそうなので、天気の良い日にでも行ってみたいと思います。

  7. ときがわ町が埼玉の藤原氏の本拠地ならば、隣の小川町の佐藤さんは末裔だったのかも。

  8. 新柵山にハイキングで登ったことはありますがすぐ近くにこんな史跡があったのですね藤原鎌足の遺髪ですか
    公共交通がないので車がないと行き難くはありますが機会があればまた訪れてみたいです。

  9. よく調べてもらってますが、「ときがわまち」です。ちょうではないです。ここは銀杏の話とかまだまだ奥深い場所です。

  10. 私の先祖は多武峰(都幾川)出身です。10代の頃(約50年前)、父に教えられました。当時から歴史に興味が有り、藤原朝の隆盛から没落した後、全国へ散り々に移り住んだのかな?昔は関西人だったのか。などと思っていました

  11. 日本神話の話も明治期に書き換えられたそうですね。大和朝廷創設時は徳島(四国・古代は伊予二之島)が発祥でしたが明治政府は何か都合の悪い経緯を消し去るために由来の入善寺神社を軍で破壊したそうです。

  12. となりの越生に、藤原氏にゆかりの神社があります、何故なんだろうとおもっていました、そういうことだったのですね、ありがとうございます

  13. ここは、それなりのすごい術で割り出した場所ですね、、、
    こういう人が数代でることで武家が源、徳川と分離独立していったといえるのかも、、、

  14. 興味深く拝見いたしました。参道から鳥居をくぐってから6:40(13:50も)の尾根上の参道は鳥居付近の尾根道とは違う雰囲気がしています。
    恐らくは参道を確保するため人口的に土橋を築造しているように思えます。

    また本殿裏の土盛りは(12:00)中世山城に付随するような土塁ではないでしょうか。

    大織冠鎌足公の墓地(12:40)は円墳のように思えるのですが・・・・・
    長文失礼いたしました。拝

  15. なんで歴史に疎い私のオススメに出てきたんだろう。地元という事なのでしょうね。大宮からでも車で2時間ぐらいかかります。とても興味深く視聴させていただきましたわ。

  16. 今日のニュースで都幾川で天然のスケートリンクを報じていましたが。。。
    埼玉県人で、都幾川はむかしチビとキャンプ・釣り・川遊びした思い出の地ですが、
    びっくりですね。。。。その氷川で川遊びしていたら、洗濯水を流したのか??
    川面がシャボンだらけになってきたので、慌ててチビと上がった記憶があります。
    教育委員会の悪意?で鎌足さんを削った。多くの人は来て怪我をする人が
    いてはいけないという親切??道を整えるには予算をつけないといけない
    ので、あまり公にしない。。。。いろいろ勉強になる動画アップありがとうございます。
     感謝の思いはいっぱいなのですが、来月兵庫に帰省しながら神社巡りをするのですが、
    縄文神社巡りなので、廣田神社は参拝しますが、湊川・・は。。。という
    無礼なおっさんですがご容赦下さい。
    しかし、おとうさま・おかあさまよく登られましたね。。。お疲れ様でした。
    今後ともよろしくお願いします。楽しみにしています。

  17. 確かに家康が江戸に入る以前は、入り江も今よりも内陸ですし、湿地ばかりだったはず。埼玉北部が発展していた事も納得です。

  18. 「戦後に塗り替えられた本当の歴史を掘り起こす」素晴らしい着眼点の動画だと思います。拝聴させて頂き、ありがとう御座いました。

  19. 全く知りませんでしたが12月29日、本日参拝して参りました。帰りに「ほ」という蕎麦屋さんで茶そばセットを食し豆腐専門店で豆乳アイス食べ買い物をしてきました。
    良い一日をありがとうございました。

  20. トキヒキカズ、鎌倉、頼朝の御家人です。いざ鎌倉のときは、兵を派遣した、有力御家人です、鎌倉幕府、滅亡により足利家が有力になり、衰退していきます!

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