沖縄で本土復帰前の映画ロケ地調査をしてきた【網走番外地】

今回は「網走番外地 南国の対決」という映画のロケ地巡りをしてきました。
沖縄県那覇市、沖縄市、嘉手納町などを巡っています

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#映画ロケ地 #高倉健 #網走番外地

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36件のコメント

  1. パークアベニューから徒歩200歩(笑)の場所からコメントしてます。
    とても興味深く拝見させていただきました。
    去年最寄りのTSUTAYAがなくなってしまいレンタルできませんが、いつか映画も観たいと思います。

  2. 南国の対決のロケ地気になっていました。
    コザと嘉手納ロータリーはわかっていましたが、細かいところがわからなかったので
    楽しめました。
    次回期待してます。

  3. かつてのBC通りとアオハルwしていたバブルの頃の中央パークアベニューを闊歩していた沖縄県民です。コリンザが建つ前はアメリカ人が7割くらいのディスコ街でした。朝まで飲んで踊って、こうk…(ゲホゲホ)へ行ったのはいい思い出。中央パークアベニューはバブル期だった頃はもっと活気があってお店もぎっしり営業していてとても賑やかでした。その頃を見ていると今の同所は大分廃れたなぁと物悲しくなります。BC通りの頃は、ザ・アメリカンな街並みでした。私はBC通りの猥雑とした街並みが好きでした。チャーリー多幸寿は復帰前から営業している本島中部では指折りの老舗です。タコスの生地がパリパリでおいしいです。肉の種類も選べます。あとはアメリカ軍関係者から依頼を受けて部隊のワッペンの製作やジャケット等へ刺繍したり、ワッペン等を販売している刺繍店もあります。歩道の話をされていましたが、そんなに狭く感じませんでしたよ。普通にすれ違えるくらいでしたし。もし昔の街並みの名残をご覧になりたければ、近くのゲート通りを回られるとよかったのではと思いました。今でもペイデイ(アメリカ軍関係者の給料日)には米兵の皆さんで賑わいます。(撮影地巡礼の趣旨から外れてしまいますけど…)。嘉手納ロータリーが改修された頃は運転して通るときは違和感しかありませんでした(笑)。長文すみませんでした。楽しい動画をありがとうございました。

  4. 松方弘樹と千葉真一が共演した沖縄やくざ戦争(1976)は沖縄ではなく京都で撮っているから
    古の沖縄ファンは要注意な

  5. 現在59歳嘉手納出身の自分は、親の給料日にコザのステーキ屋さんに家族で行くのが楽しみで(両親、自分、妹)、BC通りの華やかなネオンを観るのが子供心に楽しみでした。記憶が蘇ってきました、ありがとう。

  6. 昔は、大山電波堂がかなり遠くから見えていたんだよなあ。
    親父の車で遠出するたびに未来っぽい形が好きで見ていた。
    上之屋あたりからほんと高い建物なかった

  7. 沖縄が日本固有の領土でないことは歴史が証明している。
    その証拠に沖縄はかつて琉球王国という独立国で、琉球王国には日本の主権も領有権も及んでいなかった。
    歴史的事実として琉球王国は1854年7月11日にアメリカ合衆国と琉米修好条約を締結し、翌年の1855年11月24日にはフランスと琉仏修好条約を締結している。
    また、1859年7月6日にはオランダとも琉蘭修好条約を締結しているし、1854年7月11日に締結した琉米修好条約は翌年の1855年3月9日にアメリカ議会で批准されていて、同日、第14代大統領のフランクリン・ピアースによって公布されている。
    このような歴史的事実からも明らかなように琉球王国は諸外国から国際法の主体として外交権を持つ主権国家(独立国)であると承認されていた。
    前近代の近世において琉球王国のように欧米諸国と国際条約を締結したことがあるのは沖縄の前身である琉球王国だけで、琉球以外で欧米諸国と国際条約を締結したことがある地域(藩)はない。
    そもそも琉球王国が日本の領土だったなら、その琉球王国に日本政府が軍隊を派遣して武力的威嚇のもとに併合するわけがないし併合する必要もなかったはずである。
    沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに日本政府が沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで自ら証明してしまったと言える。

    @沖縄県那覇市首里 琉球史研究家

  8. パークアベニューは全盛期に比べると人も店も激減してますよ、私が若い頃はアーケード街含めてほんと人と店が賑やかでしたよ

  9. 沖縄県民ですGメン75で夏木陽介が犯人を追って基地内に入って銃で撃たれたのが衝撃でした。今では米君もフレンドリーでしたが、子供のころ車でピースをしたら笑ってくれて鼻に拳をくっつけるしぐさ(鼻が高いということ?)をすると殺されるという都市伝説もありましたよ

  10. 当時、歩道の整備がされていないのではなく、1号線は特に緊急時の滑走路として利用を想定されていたので、(当時のアメリカのクルマ文化もあって)駐車帯として使われていました。だからお店の前に車を横付けする光景は、アメリカそのものでした。

  11. 中央パークアベニューになった後も数件のストリップバーがありましたよ。
    バナナをあそこに入れて切るパフォーマンス等もしてたそうです。
    パークアベニューに変わった当初は舗装がレンガを敷いてましたがどんどんボコボコになってアスファルトに変えていました。
    さびれている感じがしないとおっしゃっていますが、昔は人がすれ違うのも大変なぐらい混雑していましたよ。土日

  12. BCコザ(前コリンザ)昔はペプシの絵があるバーがあったはずです。
    80年代まではそのバー・クラブありましたね。

    20年前くらいはアイリッシュバーもあり、ストリップバー(デジャヴは最近まで)ありましたね。

    嘉手納ロータリーは青い歩道橋がありました。
    草地の広場辺りは建物が建っていたはずです。
    オブリガードというタコスやメキシコ料理のお店もありました。

  13. 1961年から1963年の3年間、返還前の沖縄に住んでおりました。
    父の転勤で東京から突然引越し、3年後突然東京に戻った経験があります。
    泊小学校に通ってました。

    この動画の冒頭、泊港から始まってましたが、当時この沖は全てゴミ捨て場で異臭が思いっきり漂っていたのを思い出します。

    うろ覚えですが、通常のタクシーが15セント、アメ車ハイヤーが25セントだったと思います。
    (360円/ドル)

    コザの説明がありましたが、当時のコザビーチは鉄条網で囲われ完全に隔離されたビーチでしたね。
    当然、環境は違っていたと思います。

    いずれにしても懐かしい光景にドキドキして拝見しました。
    また、動画アップそして丁寧な説明ありがとうございました。

  14. 喜納昌吉が言ってたけど、返還前のコザはカオスでなんでもありだったそうだ
    米兵経由で薬物も蔓延しており「なんでもやり放題」だったとか(昌吉も逮捕歴あり)

  15. 楽しく見ています

    ちょっと勘違いしている方が多いですが、元々沖縄県の家屋は木造でしてお家を台風から護るために石垣や防風林で囲うようにしていました
    一般庶民は茅葺の簡素な小屋みたいな家に住んでました
    戦後沖縄にコンクリート製の建物が激増したのは、台風のせいではなくて深刻な木材不足という理由からです

    空襲や沖縄戦で建材になり得る木がほとんど消失しました
    輸入木材はめちゃくちゃ高価でした
    当時は木造住宅を建てたくても建てられなかったんです

    代わりに米軍が持ってきたコンクリート資材であれば、木材より安く簡単に大量に手に入りました

    沖縄の戦後すぐ建てられた建物で特徴的なコンクリート瓦も資材不足から生まれてこの頃盛んに作られ、たくさんの建物の屋根材として使われました

    コンクリート製の建物は暴風に対して頑丈で防風林や石垣を不要にできる利点があったので、家屋を護る囲いがない真四角の家屋が増えていきました

    そういう時代背景があって戦後の沖縄ではコンクリート製の建物が多いのです

    台風に強いからというのは後付けです
    建材がコンクリートしかないので建ててみたら暴風に強くてメリットがあったということですね

    暴風に吹き飛ばされやすいかはやはり家屋を守る囲いがあるかや家の作り、屋根の材質や形に依存します

    ただ沖縄で困るのは暴風だけではなく、豪雨にも湿気にも耐えなければなりません
    コンクリートは風には頑丈ですが、意外と水が染み込みやすく湿気こもりやすいし、ヒビが入ったら修繕は完全に難しいことも多いし、意外とシロアリにも食われますので万能な訳ではありません

    戦後の沖縄ではコンクリート信仰が強いのですが、 きちんと手入れをして伝統工法で建てた木造であれば百年以上もつことが判明していますので
    昔ながらの木造住宅の良さが見直され、最近では結構木造住宅が増えてきています

  16. ウルトラセブンの第9話「アンドロイド0指令」も少し後の1967年夏から秋頃に沖縄ロケをしています。那覇や嘉手納基地周辺の当時の映像が出てきます。アメリカ色が強いですね。再放送を子供の時に見ていたのですが、英語の看板が多く車が右側通行なのは何故なんだろうと思ってました。沖縄が日本返還されたのは1972年5月15日ですが、日本本土と同じ左側通行になったのは1978年7月30日。この事を"ななさんまる交通変更方法"というらしいです。

  17. 当時戦争でなにもかも破壊された街を復興中だったんじゃないでしょうか
    「発展途上」とは表現が違うような気がします。

  18. とても興味深い動画でした!
    沖縄は何度も訪れてますが、58号線の景色とかチャーリータコスとか、何気ない景色の中に沖縄の歴史が感じられ面白かったです。

  19. BC通りは、黒人街
    ゲート通りは、白人街だったそうですよ。
    高校生の頃沖縄市良く行きましたが、BC通りは、昼間でも
    怖い感じがしました。

    沖縄帰りたいゎ

  20. そもそも、個人的に琉球、沖縄の呼称が間違い、正しくは「うるま」琉球は中国がつけたな名、沖縄は薩摩がつけた名、現地の人は「うるま」と呼ぶ。

  21. 唐の世(ゆ~)からヤマトの世、ヤマトの世からアメリカ世……そうです、沖縄は日本ではなく、文化も伝統も言語も違う琉球王国であるべきです。

  22. 私の記憶
    1。当時毒ガス輸送で学校は休校、輸送ルートの傍で無邪気に遊ぶ当時の自分姿が滑稽です、
    琉球政府関係者避難、地元住民には毒ガスも配布されておりません、by安倍のマスク。

  23. 私の記憶
    2。コザ暴動を目の当たりにしました、幼少ながらに、え、戦争が始まった思いました。

  24. 私の記憶
    3家の前に旭琉會会長の豪邸が建ちました、周辺アパートヤ⚪︎ザ構成員だらけ、ペギラ山を返せ。

  25. 私はコザ生まれのコザ育ちで、80年代後半から90年代前半まで専門学校に通いながらパークアベニューのギフトショップでアルバイトをしていました。バブル時代は凄く栄えていましたよ~!今はレジェンドになっている"ライブハウス キャノン"(昔はオキナワンロックで米兵達を熱狂させていました!)は、私の叔母が経営者だったので、高校生の頃から出入りさせてもらっていました。ちなみにうちの主人(アメリカ人)と出会ったのは、あのミッキー食堂の前にある電話ボックスでした~!もう35年も前の話しです😁 (ディーン フジオカさんが "I am ICHIHASHI"の映画ロケをしていた電話ボックスです)

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