【ゆっくり解説】毛利輝元編その16ー関ケ原の合戦3~通説とは大違いの毛利軍不戦の謎

今回は南宮山に布陣した毛利軍が関ケ原の合戦に参戦しなかった理由について、吉川広家の動きや輝元の思惑などにおいて、近年通説とは大きく異なった説が出ている現況を踏まえて解説していきます。

前回の動画
【ゆっくり解説】毛利輝元編その15ー関ケ原の合戦2~関ケ原の裏で進んだ毛利軍の四国・九州出兵

前々回の動画
【ゆっくり解説】毛利輝元編その14ー関ケ原の合戦1~用意周到に計画された輝元の西軍参加

【ゆっくり解説】毛利輝元編再生リスト

Share.

31件のコメント

  1. 数十年後の吉川家「実は広家に防長が与えられる予定だったけど輝元が可哀想だから譲ってやったんやで(大嘘)」

  2. 解説ありがとうございます。
    戦国武将って言うと英雄的な人が思い浮かびますが、現代人と同じく(ある意味現代人より低俗な)普通の人なんですね。
    ホッとする感覚もあるお話ですね。

  3. まあ大大名ならどっちが勝ってもいいように両方にベットするのが普通だよね。家康だって跡取りの秀忠は関ヶ原に連れて来てないし。

  4. 関ヶ原の布陣図を毎回見ても、家康が背中に敵方の毛利がいる桃配山に居るのが引っ掛かるんだよね。
    毛利と話しができてなきゃ、ここに布陣するかな?と。

  5. 輝元にとって一番不運だと思うのが、若い頃は意思決定権を叔父たちに奪われていながら
    人生で一番の決断が要求される場面では、誰も助言できる人が居なかったという事でしょうね。
    関ケ原も隆景がいれば、現場責任者として一任すると言う手が取れたはずですし。
    二代目リーダーという立場は傍から見れば、恵まれまくった人生のように見えますが、
    当の本人には重すぎるプレッシャーと面倒くさすぎる周囲の軋轢に悩まされる人生を送る人も多いのだと思います。

  6. 動画お疲れ様です。毛利軍って所詮一万五千しか居ないから単独で家康軍と当たるの無理で目の前を家康軍が通っていっても赤坂に残された部隊との挟み撃ちを警戒すれば動くに動けず関ヶ原で戦いが起こってる? あ、もう大勢は付いてて撤退するしかないわ。ってのがしょーもない真実に思えます。通信手段のない時代で大垣城と連携するのは非常に難しい、という当たり前のことを今までの歴史家が無視しすぎじゃないかなあ。

  7. 16:54
    司令官の参謀「高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処せよ」
    命令を受けた前線指揮官「それは要するに行き当たりばったりということではないのかな」

  8. 三成・輝元にとってのワンチャンス要素は2つあって、これらがおそらく西軍派の口説き文句にもなっていたと思われる
    ①尾河方面の福島正則らが調略に応じる事(書状あり
    ②上杉家が日ごろ謙信の威光でイキってる通りのパワーを発揮して、東北を心服ないしは蹴散らし、宇都宮あたりで結城と長陣して関東勢を引き付けてくれること

    このどちらも散々な結果に終わった、そして岐阜は落ちた(ゲームセット 
    勝負がついた後の西軍の抵抗戦が関ヶ原。

    ①に関しては福島は創作では反三成急先鋒だが、小西・三成と不倶戴天で家康にすら心服しない加藤清正と異なる。
    もう少しゆるい立場にいた史実を知るとそこまで非現実的ではなく、誤算だったと思う。
    ②は最上が抵抗の柱として根強かったせいで、伊達や相馬が乱を楽しむのではなく体裁は徳川寄りで動くのを決心させてしまった事が痛かった。
    これは東北の仕置きの杜撰さから、上杉蒲生を優遇して日ごろ彼らに鬱憤ためさせてた五奉行の身から出た錆。社内政治は大事。

  9. 南宮山の毛利勢は日和見で元から戦意がない、三成の指揮に従う必要があるなんて思ってなかったろうし、戦場に決断出来る総大将がいないという環境で、主軍があっという間に撃破されたのであれば、にらみ合いだけで、戦いに参加しなかったのは当然だったのかもしれないですね。
    徳川家康を総大将と認識して総大将が前線にも出てきている東軍に対して、西軍に勝ち目なんか最初からなかったのかも。
    ところで南宮山の部隊って他の西軍勢のように敗戦後に追撃に合わなかったのかしらん。

  10. 大阪に輝元が居たのは戦略的にただしい、という考えは賛成でまともな戦略と考えはするのですが、、、これ、非常識レベルの有能な人なら、こうしなかったですよね?とも思ってしまいます。例えば織田信長とかなら、大阪にも居ることもあるが、伏見で暴れて大垣にも出張りとか、めちゃくちゃ動きそうで。輝元の無能と言われるのは、こういう戦術、現場とかでの才能を見せなくて失敗したからなのかなーと。(やれる人が何人いるやらの世界の話ですが)

  11. 家康がまず輝元にすら初見は舐められる不思議 手を出したら信玄も秀吉も大やけどするんだが… 目先の策略で手を周りをこねくり回すのが「謀略」とはき違えちゃった感凄い→輝元
    そう考えると輝元は祖父・元就の「頭脳」は受け継いでも父・隆元の「全ベットする果断さ(元就を制して陶と絶交する!と決断した)と人望」は受け継がれなかった…と思う
    どんだけ三本の矢が強かろうと各々家族や経営する家(会社)持ってそれらが全員宗家を敬うかと言われると別の話だもんなぁ

  12. 広家の役目は時間稼ぎと外交窓口で、輝元の統制はある程度効いていて、生贄に恵瓊と三成は用意されていた、というのが毛利の基本戦略で徳川はそれに乗ってる様にも。武闘派の三成襲撃が実際の関ヶ原で、徳川と毛利の対峙がメインで(対峙主戦)毛利の不戦ってかなり危うくて、池田輝政と山内一豊の大加増って薄氷の賭けの成果なんだろうなと。家康の向きって本当に三成側だったのかも実は微妙で?南宮山を数日抑え込めば秀忠の後詰という戦略で毛利を封じつつ、あっという間の松尾山合戦(小早川と福島黒田の挟み撃ち)と南宮山合戦(未戦)があり結果を知った毛利が動揺して恵瓊を差出して、和睦開城だから島津も南に向って逃げのは当初味方を目場したた(見た目突破)辺りが加増と軍の動きには一致します。
    通じていた、というよりは通じていた事にして従わされた(落とされた)、のが吉川家の実際で関ヶ原後その道で生き延びた面もある、なんて邪推しています。

  13. こんな感じで関ヶ原が終わると安国寺恵瓊は後に自分が処刑になるとか考えたりしなかったんですかね⁉️

  14. 南宮山の毛利軍の位置って中山道と大垣城(西軍)を監視できる位置で
    所属が鮮明でないなら東軍は必ず先に攻めて確保する必要があるほどの要地
    味方でないなら戦国の名将が中山道通って関ヶ原に入るはずがないよねえ

  15. 最近YouTubeで戦国時代の話を漁ってたり主に、こちらの動画を楽しみに見てるのですが、
    僕は皆さん程、詳しくないので単なる感想なんですが、

    今まで通説とかで関ヶ原の戦いは家康率いる東軍vs石田三成などが主力主導となって率いる西軍という構造で考えてましたが、

    こうして毛利側の動きを見てると
    石田三成や安国寺恵瓊とかは毛利達にハメられて関ヶ原の責任を全て押し付けられちゃった感じにも思えたり、

    関ヶ原って物凄く複雑な人間模様が絡み合っていて、
    単に家康と三成の政治的権力争いという僕が今まで思ってた通説的な事とは全く違うのだなぁと思いました。

    本当動画を見れば見る程とても面白く興味深いな〜と思いました。
    島津の話から、ゆっくり真実戦国史さんの動画が楽しみで何回も見ちゃってます。次の動画も楽しみにしてます😊

  16. いよいよ関ヶ原か!吉川広家って評価が難しいですよね、毛利本家のために動いてたのは間違いないけど、彼の行動を見るにギリギリまで悩んでたのが伺えますねw

    個人的には、大津城を攻めてた毛利元康や小早川秀包が関ケ原に到着してた場合の布陣や動向も気になります、立花宗茂はやる気満々でしたけど、元康や秀包はどうだったんでしょうね?

  17. 輝元としてはもし東軍が勝ったら恵瓊に責任おっ被せ、逆に西軍が勝ったら広家は冷や飯食う格好になるけど毛利としては万々歳なので好きにやらせといて問題なしくらいに考えてたように見えますね。結果的には家康が一枚上手で失敗したけど、どういう展開でも毛利本体は痛手を負わないような立ち回りを心掛けてたのかなと

  18. 広家も色々と問題児だったんだとよくわかる解説でした。
    ただ、輝元や広家がどうあがいてもこの時期の家康には裏をかかれていいようにされそうですね
    祖父の元就でも苦戦しそう

  19. いつも勉強になる動画をありがとうございます。
    さて、今回の吉川広家と輝元の動向から考察するに、安国寺恵瓊は毛利家を守るためにスケープゴートにされたのかな?という疑問が湧いています。
    輝元が家康ともコンタクトを取っていたなら、通説で関ケ原戦後に広家の言う、
    「輝元様は恵瓊に唆された。」という発言が嘘なのは家康も察していたと思います。
    あるいは家康も輝元に詰め腹切らすより、適当な落とし処(恵瓊にとってはとんでもない災難だが)を見つけて毛利家を従属させた方が、今後徳川が覇権を握るには丁度良かったのでは、なんて考えています。

  20. いや、毛利の失敗ですね。
    輝元が大阪城に籠城して吉川と小早川が後詰をすれば負けることはなかった。
    まあ、家康を甘く見たのが間違い。

  21. ここで吉川と小早川が逆に裏切って家康を攻撃していたら西軍の勝利で終わっていた。わずかとはいえその可能性のある完全な死地に突っ込んでいった家康の決断力と度胸。勝てんわな。

  22. 合戦図があやしいと言う話は去年辺りから目にするようになりました。
    小早川を掌握できてない時点で毛利に天下はないんだろうなと素人目には思います。
    戦略眼的には小早川の存在が極めて大きいのだけど、徳川方に彼を論功するメリットはない。
    家康の人生からくる鑑定眼から見れば、経緯はあれどあの立場で怒りに任せて靡いてくる小早川は先読みも覚悟もない、愚かで危険なだけ、ここが独眼竜との違い。
    素人目にわかりにくいので合戦図と問鉄砲で裏切りにまで堕ちるような具象化をして貶めていく方向に向かう一次資料が作られた…

  23. 吉川広家の行動見てたら完全に輝元の統制下で和睦してたのがバレバレなんだよね
    あと和睦の交渉も領土据え置きは表向きの発表で実際は領土半減あたりで密約してたと近衛前久の裏情報があるから毛利の大幅減封もこのときから決まっててあとは細部を擦り合わせするだけだったみたい

  24. 後の大坂の陣でも大坂方に保険をかけて部下を捨て駒にしたような男ですし、関ヶ原でも輝元主導で両方に保険をかけた可能性は高いと思います

    僕は毛利が団結すれば関ヶ原時点なら家康の畿内進出を食い止められたんじゃないかと思ってます。家康を滅ぼすとかは無理ですが

  25. てことは通説で言う「領土をそのままにする約束を反故された」っていうのは、「毛利軍全体がどっちつかずの日和見行為が家康にバレて罰を受けた」が真相と仮定しているのか

  26. 合理的とか建前とかそんなぬるい考え方の時点で自分から突っ込んできた家康相手に勝てなかったのは当然といえる
    ゲンスルーの「如何にイカれた奴かを理解させるのがコツだ」に近い

Leave A Reply