東北戊辰戦争はここから始まる 白河口の戦い ゆかりの地をめぐる! 第2回 稲荷山と脇本陣柳屋

慶応三年(1867年)10月徳川慶喜が大政奉還し、同年12月には王政復古の大号令が発せられます。
ですがとことん幕府を討伐しようとする薩摩の挑発等により、ついに慶喜は軍事対決を表明し、鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争が勃発しました。
しかし、新政府軍の新式の軍備と詔勅の力の前に旧幕府軍は敗戦を重ね、慶喜は江戸城を無血開城して降伏します。
さらに新政府軍は朝敵とされた会津藩を攻撃するよう奥州諸藩に対し命令します。
これに対し会津藩主松平容保は徳川本家に倣い新政府軍に降伏を願い出ますが却下されてしまいます。
この事態に怒りを感じた奥州の藩主たちは協力して、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟を結成したのです。
奥羽越列藩同盟はもっとも有力な仙台藩が盟主となり、東北の25藩が参加する奥羽列藩同盟として始まり、のちに長岡藩など越後の6藩が加わって奥羽越列藩同盟に発展しました。
前置きが長くなりましたがこうした背景の中で、慶応四年閏4月20日から7月14日(1868年6月10日から8月31日)にかけて、南東北の要地白河小峰城を巡る奥羽越列藩同盟側と新政府軍との戦いが行われ、戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えました。
戊辰戦争と言うと新政府軍の圧倒的兵力と言うイメージがありますが、この白河口の戦いにおいては新政府軍700に対し会津藩・仙台藩・二本松藩の同盟軍は2500まで兵力を増やしていました。
そこで新政府軍の薩摩藩士伊地知正治は策を講じ、南の稲荷山、東の雷神山、西の立石山の3方向から陽動作戦に出ます。
この策略にはめられてしまった同盟軍は東西からの挟み撃ちで惨敗、逆転した新政府軍が白河小峰城を手に入れます。
東北の戊辰戦争の勝敗は、多くの兵力を失ったこの初戦ですでに決していたといわれます。
戊辰白河口の戦いが終焉した8月31日を前に、小峰城址を中心に白河市内に残る数々の慰霊碑等を巡ってみました。

出典:城びと(https://shirobito.jp/article/338)、四季彩/白川界隈(http://satetugawa.g2.xrea.com/sirakawa.html)、ニッポン城めぐり(https://cmeg.jp/w/castles/1080/pins/33048)

チャンネル登録はコチラ↓↓↓ ※ 毎週水曜日に投稿できるよう頑張ります😅
https://youtube.com/@hukushima_tokotokorider?sub_confirmastion=1

#福島 #戊辰戦争 #白河口の戦い #奥羽越列藩同盟 #稲荷山 #脇本陣柳屋 #白河市 #SL230 #バイク #ツーリング

バイク:HONDA SL230 (1998年型)
四輪:MAZDA CX-5 (2012年型上期)
撮影機材:SONY DSC-HX90V、Nikon COOLPIX S6400、SJCAM M20、Insta360 one x2
ジンバル:Hohem iSteady Multi
編集ソフト:NCH VideoPad
ナレーション:AHS VOICEPEAK
BGM・ジングル:DOVA-SYNDROME

Share.

2件のコメント

  1. 稲荷山ですね。小峰城攻防で戦死した兵士を含めてでしょうが、1040名の名が刻まれた慰霊碑の前では
    立ちすくみます。後世、名前を確認しただけでも大変な作業だったでしょう。自分の先達の名を目にする方
    もいるのですからこの碑は重いですね。そして目の前の一面青々とした水田が戦場跡とは思えません。
    初めて陸奥の地に入った西軍の兵士たちにも思いは飛びます。配信有難うございました。

  2. 第二回期待していました。一度訪れたことがありますが戦死者名碑ができる前だったような気がします。それにしても詳細な調査です。越後高田藩の氏名があったのは白河周辺に飛び地があったことからです。三春藩の氏名がなかったのは戦争の流れから言って頷けます。西郷頼母の歌が気になったので調べてみました。「うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 心のままに 身をかくしつつ」武人の歌ではないですね。

Leave A Reply