ロマンを感じる人生ストーリー【気ままシニア・アメリカ日記】歴史上の人物ですが、ちょっと自分と接点があったことで深堀してしまいます 音吉つぁん!
こんにちはシアトル近郊在住のりえです 今日もこのチャンネルを見に来てくださっ てありがとうござい ますさて今日はですねいつもとちょっと 違ったビデオを撮ってみたいと思います 今日はね歴史の話をしたいと思うんですよ 実は私歴史全然ダメなんです けど自分がこう興味のあることに関して だけこう不返りしていきたくなるそういっ たあの歴史好きなんです ねで今日はねあのある江戸時代の日本のえ 男性のものすごい好気な人生なんですけど 私この人の人生ねすごく興味がああるん ですよていうのはえっとま信仰に関わる こともそうなんですけどもあのキリスト教 の信仰ですね私が進行してるんですけども それが私が住んでいた場所と夫が住んでい た場所ともういろんな点でねこう トントントンてこう点と点があの重なって ええすごいってことであのえとても興味が あってあの今までねまあのいつもいつも 研究してるとかじゃなくっておりおりに 触れてちょっと不返りしてええとかね思っ ている人がいるんです よそのことについて話してみたいと思い ます是非興味のある方はえ最後まで見て くださればと思います今回もすごく長く なる予定ですでえっと後でパソコンで写真 とかもね調べたりしてえ私の写真とかか それに関わる写真も入れていきたいなと 思いますのでもしかしたら今日話ても えっとアップできるのはもう時間が経って しまうかもしれませんがちょっとねえ 気合いを入れて撮ってみたいと思い ますえ主人公の名前はおきさんという人 ですこの人は愛知県の知多半島の今は 美浜町というところでえ生まれたようです ねこの人はね1800多分ね20数年 ぐらいに生まれてると思います江戸時代の 話ですでこのね音吉さんっていう少年はえ えっとえっとチタ半島ので生まれ育って それで兄弟がいるんですね兄弟の名前はね 何だったかな えっとひきかな ひきえっとちょっと待ってあ資料がどっか 行っ たひきだと思うんですよ ねでえっとともかくえ兄弟2人えっと お兄さんなんです久さんがお兄さんでこの お兄さん1つ上なんですよでこの兄弟2人 はねえっと船乗りとして船員としてま 見習いみたいだと思うんですけどもあの えっと戦国船に乗ってえっと江戸にねその あの知多半島名古屋の下の方ですよね知多 半島でえっと半えっとその海の反対側え えっとはえっと鳥羽鳥羽の港鳥羽の港から えっと戦国船に乗ってえっと江戸 にお米とかなんかそういうものを運ぶそう いう船に乗っていたんですよねでえっと その時はえっとこの話が始まるのは彼が 14歳の時なんですけどお兄さんが15歳 えそしてね えっと14人の乗り込みでえっと瀬戸物と かそれからねあの健常品だと思うんです けど瀬戸 物おじお米みたいなんですけどなんか先体 の長さが15mぐらいのそういう船に乗っ てそして江戸に向けて鳥から出行すする わけなんですよね伊の方ですねから出行 するんですがえっと出てすぐね嵐に 巻き込ま れるそしてえっと船がナパしてしまうん ですよっていう話 ですえこれですねあのこの話えっと実は 三浦彩子っていうね小説家が え話をちゃんとまとめて説にしてくれてる んですけども上下あってえっと大が海KO 海の峰って書くんですけれどももし興味の ある方はえ是非読んでみてくださいそして この小説を元にカレというあの映画もでき て 1980年ぐらいだったかな私がね大学生 ぐらいの時にあの映画化されてそしてね 主人公がねえっと誰だったかちょっとあの 名前覚えてないんですけどもえっと皆さん も顔見ればねあのあああの人だなって 分かる人ですそしてえっともう1人えっと 最後テる彦もあのま集約ではないんです けどあの集約にほぼ近い脇役ですねそして あの出ておられましたであのあま私は20 21ぐらいの時その映画を教会で見てあ すごいなとかただ思ってっただけなんです けどその話と私の人生がちょっとちょっと 交差してくるんです よそれですごく興味を持ってあのね時々ね あの新たにまた感動したりするんですけど も今日その話 ですえっと1900ちゃんとねアチ作り ましたから ね話がそれないようにと思っ たえっと 18302年この音吉君はたった14歳な んですけどもうちゃんと働いてたんですね 船として戦国部でえほ巡丸え宝のあの順番 の順の丸って書くんですけどほ純丸という え乗組員14人のあの船に乗って江戸を 目指すわけなんですが割とね地知多半島の 沖の方というので って書いてあったので割と出てすぐだと 思うんですけれども嵐に巻き込まれるん ですよねそれでえっと嵐が終わったらま どこかのえの日本のどこかのね島に たどり着くだろうという風に思ってた みたいなんですけどその嵐がとても ひどかったらしくてあのマストって言うん ですかあのえ補中っていうのかな頬の柱 補中をあのわざとと切ったりしてあの 切り倒したりしてその船があの横転したり しないようにっていう措置をすることも あるようなんですがとにかく補中が折れた か切ったかしてあのコントロールが効か ないままにそのずっとえなんて言うのかな えっと流されるんですよねまな戦して しまうん ですそれでえっとその船がそのうちどこか ににつくだろうと思っていたけれども なかなかつかず実は海流に乗せられてあの 太平洋を横断していってしまうんですよ それでえその間ですねまお米はたくさん あるそして水は海水をあの沸かしてあの 真水にして飲むっていうね方法ででまた魚 を釣ったりして食べるっていう方でみな 生き残ろうとするんですけどもでも類とか がないのであの栄養出張あのビタミン類が あの不足したりしてあのなんか映画の中で はねあのなんかこう気が狂ったようになっ たりねあのしたりした人もいましたけれど もまそれどこまで本当か分かりませんけど もリアリティがあると思いましたね映画で はでえっと11人ねえっと結局なくなって しまうんですよ全員あ14人中11人で3 人があの生き残るんですでえっとおき君と お兄さんの15歳のひきさんそれからもう 1人ねこの方は256歳の人でちょっと 年上の年長のこれが多分最後を照子さんが やってたあの役の人だと思うんですけど この人がね岩吉さんって言ったんです みんな基がつくんですけど音吉さんひき さん岩吉さんなんですねこの人があの 生き延びるんですよねそれでなんと ワシントン州とカナダのねあの近くえの えっとなんていうとこだったかなあそう アラバアラバベイていうねところにどう やら漂着するんですよでそこはえっとそれ ねヶ月漂流するんですよ1年と2ヶ月 すごいですよね14歳の少年がそういう 長い間過酷なあの漂流して生き残ってえ 西海岸のえちょうどねもうカナダに近い ぐらいの方なんですけれどもアラバベーっ て私行ったことないのでね今度ぜひ行って みたいなと思ってるんですけどもあのえ そこは あの目家族っていうねあマカ族かごめん なさいマカmakah 魔族っていうあのインディアの部族があの 住んでいたそういうま美しいところみたい なんですよ写真によるとねえそういう ところに漂着しましたそれで えっと3人はま1節には保護されたとも 書いてあるんですけども1節にはま捉え られてなんか奴隷みたいにしてねあのコキ 使われていたとま言葉も通じないし着て いるものも違うし あのすごくまそういう風に取り扱わられて まその真家族の中にいるところをあの えっとイギリスに発見されるんですねでイ イギリス人がそれを見てあのえ全然なんか 魔族らしくない人たち3人がこの中に 混じっているっていうんでえ彼らを保護し たん ですえっとねちょっとあの戻ってえなんで そこにイギリス人がいるのかってことを 話さないといけないと思うんですけども 当時のアメリカはまだアメリカと えっと そのアメリカとカナダの国境戦ができた ばかりだったんですけれどもその建国され た1700 年代の終わりの方っていうのはあの東海岸 の小さな地域だけのことだったわけなん ですよねそれでこの大西部そのそれより 西側のことていうのはあの全然分かってい なかったわけなんですねえそれでえっとま 1700年代の終わりからそのアメリカの 政府はあの西部の方に調査団ルイスア クラークってルイスとクラークっていう 大佐を送って地図を書いたりどういう土地 があるのかってことをま調査するために 派遣したりしてまですのでえっとアメリカ の西部を旅行するとルイスアンドクラー クっていう名前をあちこちで見かけるん ですねえそういうあの土地の名前になって いたり博物館があったり彼らがあの宿泊し た共栄地があったりとかねそういうことで ルイスアンドあクラックがすごくえよく出 てくる名前なんです えでえっとま彼らの調査によるとまこの アメリカ北西部ってまだ知られていない 未知のこの土地はとても秘であのえっと人 が住むのにふさわしいえ土地だという風に え分かって分かったっていうことなんです ねそういうこと ウプスメッセージが入りました え人が住むのにも適した土地のようだと いうことがアメリカでも分かってきたで 当時はですねえっとイギリスのま世界の中 でもイギリスの力がとても強かったので イギリスの中にある貿易会社ハドソン米 カンパニーっていう会社があるんですけど もそのハドソンベカンパニー今でもね ハドソン米カンパニーっていうねデパート があるらしいんですよ はよくわかんないんですけどえっとカナダ にも多分あると思いますが多分イギリスが 本社かなと思うんですけどま当時は イギリスが本社でハドソンベイカンパ ニーっていう会社があの東部の方にね カナダとアメリカのあのあのニューヨーク のあたりでしょうかああいう東の海岸の北 の方カナダ寄りの辺りに本あのアメあの こちらのあの死者があってそしてもう1つ ねアメリカの大きなね貿易会社と張り合っ ていたんですよそれでえっとこの西部の方 にあの そのたくさん小動物がいるらしいってあの アメリえっとイギリスの人たちの紳士の よそいでこうシルクハットってありますよ ねえっとフエルトハットっていうのかな そういうあのその帽子をつく紳士の帽子を 作るのにあのビーバーのね毛皮がとても あの あのふさわしいってことでそのまビーバー だけでなくても小動物ですよねビーバーと か革とか多分たぬきとかいろんな狐とか 分かりませんけどもあの小動物の毛皮を あの目当てにそのハドソンベーカンパニー がたくさんの えっとカリドって言うんでしょうかハン ターっていうのかなま罠にかけてね止め ないとまたかかってくるみたい罠にかけて こうあのえっとその捕獲するそういうね あの小小グループっていうのかななんか 多分数人とかね10人とか20人ぐらいの そういうあのグループであの船とかに乗っ てあの小さいあの川とかねあのまだ知られ てない誰もいったことのないようなそう いう奥地に入っていって小動物の川を捕獲 川のために捕獲するっていうそういう チームをハドソン兵カンパニーがたくさん 送っていたんですよ えーそのそのちょうどあのアメリカの政府 あのルイスアンドクラークが来たちょうど その辺りですよねその後ぐらいだと思うん ですけどもで えっとそうれにして彼らは えものすごままオレゴンは今ビーバー ステートっていうあのシのニックネームね ありますよね例えばニューヨークだた アップルステートとかあのワシントン市は エバーグリーンって言うんですけれども オレゴンはビーバーステートって言われる ぐらいにまビーバーがたくさんいる あるいはいたところなんですねでそあの そういうことであのハドソンベイ カンパニーがたくさんのハンター狩猟者 たちを送っていたので えっと大きなシエ地を作りましょうって ことになってあの 当時インディアンとの構想もあったので 自分たちが安全に生活できる場所え ハンターたちが生活できる場所を作り ましょうってことでハドソンベカンパ ニーっていうあの会社が大きな宿営値を あの作ったんですよそのそれがフォート バンクーバーバンクーバートリデって言う んですけどもこれがあのカナダのバンクバ とまあのよく間違えられるんですけど ワシントン州の1番南にあるんですね えっとオレゴン州との境ですで先日私が あの運転していた時にあの川が見えますよ コロンビア側ですよて言ってたのあの覚え ていてくださる方がいれば分かると思うん ですあのコロンビア側でオレゴン州とあの ワシントン州のあの境になっいるんです けどもあのその川の北側がワシントンで そこにフォートバンクーバーていうねあの 砦をハドソン兵カンパニーが作りましたで そこはあのただあのハンターたちがあの 出入りするって安全にあの宿営でき るっていうだけではなくてこれからのま 将来のなんて言うのかなあの移住っていう ものもこう頭に計算に入れて医者だとかね えっとそれからま商人だとかそれからね あの家族が住めるようなバラックがあっ たりそれか学校があったりそれから ちょっとしたまトレードセンターてま マーケットみたいなものですねがあったり あるいはあの鉄 あの馬の馬のあの馬庭を修理したりできる ようなそういうあのさんみたいな部分が あったりあとこう紳士たちが集まって食事 ができるようなレストランみたいなね施設 があったりとか今でもね歴史的な場所とし てそこは取られているんあのえっと守られ ているんですけどフォートバンクーバーっ ていう場所にそのおそらくねろ5600人 の人がデイリしていたんですよで インディアンの人たちはあの入れないよう に高い壁であの仕切られていて中はその 白人たちだけフォートバンクーバー関係の 人たちだけが進むことができるようになっ ていたんです ねえそれで当時のあのハドソンベ カンパニーのえ人たちはえその中で貿易を してたんですね貿易って言ってもま物物 交換みたいな感じで 例えば あのインディアンの人たちまアメリカンの 人たちがあのビーバーを あの取っ て3匹取ってきてくれたらこの毛布と交換 とかねあのあるいはえビーズあのビーズ クラフトねあのネイティブアメリカンの 有名な1つのものですけどもあのビーズ色 とりどりの綺麗なねビーズと交換しますよ とかねあるいは えっとビーバーの川何枚だとこういう ローソと交換しますよみたいなそういう 物物せ物物取引センターみたいなお店 みたいなのが建物があってであの日中の間 あの許可を得たネイティブアメリカの人 たちはそこに入ってそこに入ってくること ができるようになってあの取引をしていた んですねそういう風にしてあの土地の ネイティブアメリカンの人たちをもこう 巻き込んでっていうか利用する形でドソン ベイカンパニーは小動物の川をねたくさん 取ってそれをあの中国とかいろんなとこに あの持ってってそこであの商売をするて そういうねあのことをしていたみたい ですそういったあのイギリス人のハンター たちがあのこの3人のきさん久吉さんから えっとさんの3人が真家族の中に紛れて 生活してるっていうのを見つけてで彼らを あの保護してそしてこのフォート バンクーバーに連れていくわけなんですよ それがなのでえっと1年2ヶ月経ってます から 1834年のことと言われていますまこの 年に吉さんはま16歳になるわけですよね え3人はあのま英語も話せないし文化も 全く違うあのこの白人の中にフート バンクーバーの中にこう入ってきてそして そこでねえかなり優遇されてあの親切にさ れてあの映画の中ではねとても明るくその 部分が作られいたっていう風に記憶してる んですけれどもえそこでね彼らはあの英語 教育を受けるんですよでね今読んだ資料の 中にはどこにも出てこなかったんですけど ね彼らはねえっとそこから1時間ぐらい 離れたねセーレムっていう今オレゴン州の シュートがあるんですけどもそのあの セレムにね語学学校があるんですよ英語 学校がそこにね通っているんですよそのね シどこで読んだのかね今出てこないんです けどもえとそれはね昔から私ねあのました であのそこもね私の私はツアーのあのガド していた頃がことが昔ねあの日経の会社で やってたって前にも紹介してたんですけど もそういうことでよくねそこにも行ってた のであここで口さんたちが英語あの英語の 教育を受けたんだっていう場所がねあの今 でも残ってるんですよえそれでま大体の 生活はフォートバンクーバーの中で活して いたんですけど彼らはそこでねえっと キリスト教を信じるんですよ映画の中でも そこはねとてもあの興味深く表現されて ましたあの自分たちが信じてるものでは ない信仰がここにはあるようだっていうん であのすごくねあの3人の中でもねあの 行論したりあのあの日本人としてそういう 新しいものを信じるべきじゃないとかね いや自分はそうだと思うとかねなんか そんな で彼らはね結局3人ともねあのキリスト教 の神を信じ信じるんですよねそこでねえ それでえっとそのイギリスはま世界でも とても力の強い国だったわけですからその ハドソン米カンパニーの持って いる砦の中に日本人がいるってことでこの 日本人をえっとまえ利用してていうかな イギリスの国のために彼らを利用して日本 は鎖国中だったので日本との国交のために なんかできるんじゃないかってことで えっと彼らをえ船に乗せてねえっとカラは ねえっとそこでねだからフォートバンクバ には1年ぐらいいるんですねそれでえっと ふ あのハドソンベカンパニーの船に乗せて そしてねあじゃないイギリスの船ですねに 乗せてあのオレゴン州のそのコロンビアの フォートバンクーバーのところから えっとずっと出てまずハワイによって すごいですねハワイよってそれがずっと 何かしてそしてねえっと最初南米のあの 西川カリフォルニアすぐ下のメキシコの下 コロンビア辺りのところちょっと地図で はっきりわかんないんですけども コロンビアだと思うんですけどもそこの港 によってそれから南米を一番下あのケープ ホーンていうね本御崎っていうんですか ケプソ1番先災難端のところを通って そして北上してえイギリスに行ってるん ですよでイギリスにたのが1835年の6 月なのでえっとね34年の11月に出てる から7ヶ月かかってるんですね7ヶ月船の 旅をしてえこの時吉さんは17歳お兄さん の久さんは18歳ですねでイギリスについ てイギリスで10泊ぐらいしてるんですが なんか船から多分下ろしてもらえなかった のかなそれでね1日だけ許可が降りて ロンドン観光をしているっていう記録が あるそう ですえそれでね私がまえっとすごいと思っ てたのはそのカレも読んでたし映画も見て たので若い頃ねそれであのオレゴン州 ポートランド近郊に進むようになっていた わけなんですけどもそしてえっとえっと 観光ガイドとかねそういうことをあの フリーランスでやらせてもらっいた関係も あってあのそのフォートバンクーバーに 小中行くことになったんですよ私はそして ねそのフォートバンクーバーにはえっと後 になってその音吉さんひきさんえそれから 岩吉さんの記念費がね多分ねボーイ スカウトだったかなによって立てられて いるんですねそのフォートバンクーバーに でこのこの時のあのこの写真をね探してね えっと是非載せたいと思いますもうこう 話してる間もしビデオを載せてるかもしれ ませんけどもでこのフォートバンクー バーっていうのはねあの歴史的な場所とし て観光としてもいけるし私はあの再婚して からその今の夫と一緒にそのバンクーバー に住んでいたんですねなのであの近場だっ たんですなのでいつもサイクリングでこの フォトバンクーバーのあのきなあの敷地の 中をサイクリングしてあの遊んでたりねし ましたそれで あのこのフォートバンクーバーでは ものすごくあの大きな花火大会が独立 記念日7月4日にね必ずあのやるんです けどもこれはねミシシッピ側より西側では アメリカであの2番目に大きなあの アメリカで ミシシッピ側より西側で1番大きな花火 大会だと言われているんですねそれで私も この花火大会何度か行きました本当すごい 花火たこのコロンビア側のね上でね バンバンあげるわけなんですけどこれも すごい見物ですなのでもしできたらあの 行ける人がいたらあの行ってもらいたいな と思いますポートランド来る方はねフート バンクーバーに連れてってくださいって 30分もかからないでいけます 6ヶ月後1900あ1835年の12月に マカオに到着しますでえっとまマカオから あのイギリスの船に乗って日本にね あのこう行こうとしたわけなんですよねま 彼らを日本に帰らせてあげると共に何か そう商業的なビジネス貿易の目的であの それをししようとしたわけなんですで えっとマカオではえっと彼らはねギラファ んっていうねドイツ人の選挙師がその頃 マカオにいたらしいんですけどもえっと彼 はその日本に対して日本人のために聖書を 読んでもらいたいとなんとかしてあの聖書 を読んでもらいたい日本人の人にキリスト 教を知ってもらいたいっていう風に願って いたところにこの3人の日本人の世話を 頼まれるわけなんですよねそれでえっとね あの自分の選挙選挙団体にね手紙を書い てるのが残ってるらしいんですけどもま 日本に対して私がすごくね気持ちを持って いたこういう時にねこの3人の世話をする ことになったってことすごい導きだって すごい興奮してますみたいな手紙を書いて いるそうなんですけども彼はこのギラファ んはこの3人の日本人をえっと約ね1年か な1年ぐらいねあのお世話するんですよで その間になんと日本の日本え日本語で 初めての聖書をえこの3人が翻訳の手伝い をするんですよこれがギラギラ役聖書って 言われて1番最初に日本語になったが聖書 の役ですで えっとヨハネによる福音書っていうのと ヨハネによる手紙123っていうのがね 新薬聖書の中にあるんですけどもこれを この3人がギュラフさんを手伝って一緒に 翻訳したっていうんですねで えっと最初え初めにあそのヨネによる福音 書の衣装1節のところに初めに言葉があっ たっていうねあのいう風に始まるんですよ で言葉っていうのはねあのTheWord でえっと今となればあのま言葉って日本語 でなくthewordtheがつくので ただの言葉じゃなくてものすごいま特定の 言葉まこれはあのえっとイエスキリストの ことをまさしているわけなんですけれども えっとまそれは聖書を読んでいけばその その言葉っていうのはザWordがイエス キリストだってことが分かるわけなんです けどもまそこのところをね彼らの あの言葉ではあの初めに良きものござ るっていう風に訳してるんですね良きも っていう訳してますすごいですねでえっと あとそのヨハネによヨハネのによる手紙 所管123っていうのがあんですけど えっとねギラフ語はねあギラフ役はえっと その後シンガポールに送られてあそそれ から他のあの手紙もえっとシンガポールに 送られてで木 木版版であの印刷されてえ600冊ぐらい ねあのできたらしいんですけども今はね 世界に16冊しかそれが残ってないそう ですそれがねえっとま日本にも同志者大学 とかねそれから東京進学大学かなにも1冊 とかねそれからえっと大英博物館とかえ それからねどこだかなフランスのねえっと 公立図書館とかねそういう本部とかにあの 所蔵されてる展示されてるかどうか分かり ませんあの蔵入りされてるみたいですね すごいですねいつかみたいなと思うんです けもそんな風にして彼らはまクリスチャン にもなっていたし英語教育も受けていたの であの初めての日本語役にあの携わっ たってことなんですねでどこか誰かがその インターネットで読んだ時には言って書い てありましたけれどもま日本のえっと庶民 のこのあのま一般的な庶民ですよねこの 小さいとかせ専用しているような音吉とか 久吉とかのような人たちでもこういうこと ができるってことは彼らはそのテラコヤ システム日本のテラコヤシステムっていう のがあのいかにね日本にちゃんと普及して いてあの あの一般的な当時の日本人があの読み書き がねできるそういう教育を受けていたこと が分かるっていう風に書かれてましたけど もあなるほどねと思いまし たえそして ねイギリスの あの船に乗ってこれ貿易の貿易の船なん ですねあの軍艦ではないこの戦いのための 船ではない軍ではないんですけどもえそれ に乗ってあのねさ九州とか長崎のね人たち の中にもえっとなんて言うのかなあの戦し てあの船員で南泉してそして えっと上海とかにあのいた日本人があと 34人いたみたいなんですよその人たちも 合わせて7人かなうんお吉 さん久吉さんそれからあの岩吉さんその他 にあと4人ねあのそういう風にしてあの 乱戦して他の国についてたけれども日本に 帰ることができていない人たちを一緒にし てこのイギリスの船でえっと日本に帰ろう とするわけな返そうとするわけなんです けれども えっとその時のあの事件がモリソン号事件 って言ってね歴史でもちゃんと日本の歴史 にあ乗っているみたいなんですけど私全然 これ勉強した記憶はないんですですけど もえっと 1837年ですね えっと吉さんは19歳の時14歳の時に ナパしてますのでえっと5年経ってますえ えっと彼を乗せたいイギリスの船が えっと横須賀のあのすぐ近くのところに あるえっと裏がっていうところそこに えっと行こうとするんですけれどもその時 はあの日本は鎖国してましたので江戸時代 それで えっと軍艦と間違えられて大砲をあの バンバン打たれるんですねそれで結局は えっとウガには着工できないんですよねで その時ねえっとえっとおきさんが誰かがあ で文書に残してるのによればあの岩吉さん がね怪我をしたみたいですねえっと命は 取り止めたみたいなんですけども怪我をし たようなことが書いてありましたでえっと 彼らは結局裏にはつけなかったのでその まま下がっていって鹿児島の船が港に 入ろうとするんですけどここでも攻撃され てえっと入ることができなかったま当時 えっと日本の海国を求めてっていうかあの 外国の船がスペインとかいろんな国から いろんな港に入ろうとしていたので日本は すごい戦線興教としていてあのどんな学席 も入れちゃいけないみたいなあの厳しい あのそういう法律があの爆がれていた みたいなんですねそういう森孫合事件って いうのがあって結局はねなくなく彼らは えっとまたマカオに戻ってしまうことに なります でえっとね前にねどなたかかのね YouTubeだったか えっとブログだったか読んでた時だったか なあのマカオに日本人の観光客があの行か れた人が書いてたんですけどねマカオ私 行ったことないのでねえっとそれ読んだん ですけれどもあのマカオにあのえっと日本 人のねあのお墓があってそこにあのその 観光の1つのあのポイントとなってそこに 行ってきたっていうのがあったんですけど ねそのあの祀られてお墓っていうのがその えっと日本人で漂着してえっと結局マカオ にあのいまることになった人のお墓って いうの書いてましたねなのでやっぱり江戸 時代にそういうことがあったんじゃないか なと思いますもしかしたらこの7人のうち のえどなただかのお墓なのかなと私はね 強く感じてるんですけどもえそれで結局は えっとお吉さんねあの他のね人たちどう なったかちょっとわかんないんですよね すごく気になるんですけどもお兄さんが どうなったのかもよくわからないんです けどこのお吉さんのことだけは分かるん ですねでお吉さんは えっとその後ねあの25歳の時25歳まで はマカオにどうやらいたみたいなんです けども25歳の時1843年にはあの上海 に移ってますで上海でねイギリス兵になっ てそれであの亜戦争に出平したりしてるん ですよ25歳の時それで戦争が終わった後 はあの上海にある貿易会社デトっていうね 会社にえ勤めるようになってえっとかなり ねあのなんて言うのかな成功されてる みたいなんですよそれでねえっとその会社 が持っていた船の名前にね自分が乱戦した ほじ丸みたいなほ巡号みたいななんか ちょっと最後がのあのお尻が変わった名前 なんですけど法人っていう名前をねあの船 につけたりできるぐらいの立場だったので まかなりあのいい具合にねあの成功されて たま英語もできるしねにってことは中国語 もあの堪能だったのかもしれませんよね そんな風にして彼はあの え成功されていくみたいなんですでえっと その頃から彼はあのトソンという名前 イギリス名を使うようになりますえ ちゃんとしたね名前何だったかな えっと名前がね 彼の名前 はえっときあそうそうジョンマー トソンでねこれはおとソンていうのはお 音吉の音でおさんおさんってあのみんなに 呼ばれてたのがオトソンていう風に 聞こえるのでまそのまま英語にしてトソン にしたんじゃないかなっていう風にあの 言われてみたいなんですけどもまオトソ ンっていう名前であの通訳としてもすごい 活躍されてるみたいなんですねで えっと実は日本にもね3回ぐらいあの通訳 として来られてるんですけども1回はね あの中国人を名乗ってえっとリンリン アートていうねあの中国人としてあのあの イギリスの会社の通訳として一緒に中 おそらく自分がクリスチャンになってる こととかあるいはあの日本からこうなんて なんて言うかなえっと追撃されて結局帰国 させてもらえなか局帰国を拒否されたって いうね追い出されたっていうかあことで こう日本を 離れる決断っていうのかなもう日本を 捨てるんだって日本は自分たちを捨てたん だから自分も日本を捨てるみたいな感じで まそういった意味でこうを張って日本人だ と分からないようにして行ったのかもしれ ないって言われてますけども中国人として も来日したことがありますそれでね音吉 さんは31歳の時1849年にイギリス人 女性とあの結婚されてお嬢様も生まれるん ですけども残念ながらこの奥さんはとは 死別されてしまうんですねそれでもう1人 イギリス人のルイザっていう女性と婚され てでその再婚された相手と一緒に44歳の 時にえ1862年シンガポールに移住され ますそしてそこでもねあのあなんかすごく よく知られた勝日本人として成功された人 みたいなんですよ ねでこのまフトバンクーバーワシントン州 で私をこう繋がりがあったわけなんです けども実ははこのシンガポールでまたまた 繋がりができたんですよっていうのは私が 再婚してすぐにねあの今の夫が シンガポールにあのま転勤っていうのでは ないなちょっとヘッドハンティングみたい なのがあってシンガポールの会社にねこの うちの主人は元々あのえっと科学の専門で あのエンジニアなんですけどもあの の会社にちょっとヘッドハンティング みたいな感じになって行くことになりまし たそれであの私はえっと当時大学院にまだ 行っていたんですけれどもあの大学院辞め てあの一緒に行くって言ったんですねま 休学して行くって言ったんですよそんな チャプレンになれるかどうかもわかんない し勉強は大変だし結婚したばっかりなのに そんなれバになのやだて言ってね私も行 くって言って分かったつってあの主人がま シンガポールにあの最初引っ越す時に私も 一緒に行って手伝ってアパートとかね自分 が住めそうなところとか一緒に見て回って で彼が落ち着いてから私が行こうと思って たんですけどもま結局ねあの主人の行った 会社は主人が思ったようなま会社ではなく てこれはちょっと失敗したかなってことに なってであの私に来ないようにって言った んですよ来ない方がいいって自分はなんと か あの転職できるようにする からでえっとまえっと着にしたばかりだ からその仕事もすぐにやめるわけにはいか ないししばらくかかるけれどもあなたは その間アメリカでちゃんと大学院の勉強を してそしてジャブレのあの方向向かって 行きなさいねって言ってね私が来るの止め たので結局シンガポールには行けなかった んですねであの3年間別居したんですよで でもその3年間の間あの休み学生のあの 休みを利用して年に2回だから6回ですね 6回シンガポールに夫に会いに行きました え多分ねあと3週間とか1ヶ月とかねあの 1回行ったらそれぐらいいたと思います けれどもえっとそんな感じでで私はお吉 さんがシンガポールにいるって知てたの であの主人にねその話をしてでお吉さんの お墓がねあるらしいってインターネットで 調べてお墓を探して探してって言ってね ある時ね今日休みだからねあのお吉さんの お墓見に行けるかもしれないって言ってた ので電話でね私はインターネットでえそれ はねどこどこ駅が降りてえっとえっと タクシーに乗ってどこどこっていう墓地に 行ってそして墓地のね日本人墓地のここに いたらあるらしいからちょっとやってつっ てねそしたら主人はね私と電話をずっとし ながらシンガポールとアメリカで電話を つげてで私が言った通りに行動してくれて そしてちゃんとお吉さんのお墓に行ってね あの写真をね今じゃあ送ってあげるって 写真を何枚かねお吉さんあのあのお墓とね そあの大きなサインがあるんですけどもえ そこを撮ってくれましたそれであのそれで 別の時に今度は自分が行った時にま主人は 毎日仕事してますので土日近土日とか近 土日月とかねそういうあの私が来たって いうんで特別に時間を取ってあの一緒に 行動することはできたんですけど普段は あの朝から晩まで忙しくシンガポールの 会社であの勤務してたので私ねあの暇なん ですよなので自分で1人でシンガポール内 を観光して回ってたんですけどもその時に そのお吉さんのそのお墓にも行ってみまし たその時の写真ねえっと出したいと思い ますでシンガポールに行ってそれで彼はね えっとえっとその間にえ福沢福沢がね えっとイリスかなイギリスへの門団みたい な訪問団みたいな施設団かなこの中の一員 として入っててそれでイギリスに行く前に シンガポールに立ち寄ってるんですよその 団がでその時にねあの自分は実はこういう ものなんですってて名乗り出てあの面会に 行ってねそして今のねアジアとかイギリス の様子とかアメリカの様子とかねいろんな 話をこの福沢幸地にあのなんか教えてあげ たらしいんですねそんなこともあったそう ですそれで彼は えっとシンガポールに行ってすぐあの イギリス人に日本人として初めてあの帰化 してイギリス人国籍となったんだそうです それで彼は残念ながら49歳え 1867年に49歳たった49歳で漁師さ れてしまいましたえ本当にね あの美浜町で生まれ育った14歳の男吉君 がすごいあのことになって太平を渡って そして英語やキリスト教やそういうものを 身につけてそしてま聖書を翻訳したりそれ から政治的にこうちょっと利用されかけ たりしたりしながらももすごいたくましく たくましくたくましくあの彼は与えられた その場所で一生懸命頑張ってあのいろんな まあの成功を納めたみたいなんですよね それで若くして49歳にしてね送られてる んですけども今ね美浜町にあの美浜町の ウェブサイトあの見てみましたらあのこの お吉さんのあのとかひきさんとかそれから あの岩吉さんのあの資料感みたいなのが あるみたいですねなのでね私今度ね日本に 帰る機会があったらね名古屋親戚もあり ますし はい名古屋も行き名古屋行った時にですね この美浜町のそのとこにも行ってみたいな と思いますでえっとおきさんのね多分子孫 の方はねおきさんは帰れなかったんです けども日本にはねおきさんの子孫の方は その後日本にね帰ってきて日本に帰化し たりもされてるみたいで多分おさんの子孫 の方がねえっといらっしゃると思いますよ どうなってらっしゃるのかなと思います けどもであの その資料感に是非ね行ってみたいなと思い ますまそんなことで自分が日本人である ことそれからあのバンクーバーでそのあの 彼のストーリーを知りながらその バンクーバーのあの日ですね記念費をいつ もいつも見てたしそれからあのひょんな ことから夫がシンガポールに住むことに なってであのシンガポールでまたお吉さん の足後を訪ねてねあのお墓まで行くことが できてえすごいなと思ってこのねおきさん のことはね時々ねあの思い出してはね すごいなと思ってるんです けどえ今日はねそんな話でした え最後までね見てくださってありがとう ございましたえっと是非ねカレ読んでみて ください映画はもう見れないのかなよく わからないですけども あのやっぱりあの小説としての改 え三浦彩子さんまクリスチャンのあの作家 としてよく知られてるね点とかね書いた 有名な作家でえっとこのテト点をねどんな 風にしてね話にされるのかっていうのが やっぱすごいなと思いますよね私はカレの 方がどっかに行ってしまってもう持って ないのでまた機会があったらねえっと帰れ を見つけたいなと思うしそれからね他にも ねおきさんの本が出てるみたいですねなの であの機会があったらそれも買ってまた 読んでみたいなと思ってい ますさあ今日も本当ね何分になるでしょう か編集してみた後びっくりするかもしれ ません が長々と話してみましたえなるべく写真と かもね入れながらと思いますけれどもどう なるか分かりませ んそれでは今日も最後まで見てくださって ありがとうございましたではまたねバイ
#アメリカ・ワシントン州、バンクーバー砦、#シンガポール、#キリスト教、#歴史などな’ど
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Looking north at Cape Alava and Ozette Island, Olympic National Park.
By Ron Clausen – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=56388326
An illustration of European and Indigenous fur traders in North America, 1777
By William Faden – Library and Archives Canada – originally from: Cartouche from William Faden, “A map of the Inhabited Part of Canada from the French Surveys; with the Frontiers of New York and New England”, 1777, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1196945
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リアさんおはようございます。今朝もまたすっごく興味深い話題で思わずのめり込みました!
先日オレゴンからの帰り道、夫も何気にコロンビア川の話をしてくれてカナダとワシントンは何気に関係があるんだ〜と感心して帰路に着いたのがつい昨日の様に思えました。
歴史は趣き深いですね。まさにロマンですよね。私も深掘りさせていただきますね。オトキチさんの名前に惚れました。笑。我が家の近くにもハドソンベイデパートがありこちらの人は“Bay”と呼んでいるんですよ。1800年代にこの北米に日本人が海を渡り、相当な苦労をされて最後はシンガポールで天に召されたなんて何という国際的なオトキチさん一度お会いしたくなりました。地球はまだまだ小さく、幸運とタイミングさえ合えば乗り越えられていく事が沢山あるものなんですね。
私も夫と出会えたチャンスに感謝して残りの人生も穏やかにそしてパッションを爆発させて生きて行きたいと強く感じさせて頂きました。リアさんいつも興味深い動画の配信をありがとうございます。
追伸:いつかお茶をさせていただける時がありましたら、私のオトキチストリーをシェアさせて下さい。笑
Happy Friday リアさん!!!