山葉寅楠:自ら担いだ天秤棒が創り出した伝説 / 楽器と発動機の二つの部門も元は一つ!

ヤマハの創設者浜松から東京までの道のり
250kmをあなたは歩けますかそれも
天秤棒で60kmもあるオルガンを担いで
えっちらおっちら
まだ鉄道の繋がっていなかった時代自作
オルガンを見てもらうために天下の剣と
言われる箱根峠を超えた不屈の人それが
ヤマハトラクスでした現在のヤマハは2つ
の会社に分かれています楽器製造業の
ヤマハ株式会社と2輪をはめとする輸送
機業のヤマハ発動機の2つです初めて国産
のオルガンを作ったのはどんな人だったの
でしょうかヤマハトラクスは黒船来行の2
年前4月20日紀州犯ヤハ孝之介の産難と
して生まれました父が紀州犯で天文係りを
務めていたこともあり山博には天体観測や
土地測量に関する書籍や器具などが
たくさんありましたトラックスは幼い頃
から機械いじりが得意で手先が器用でした
また16歳頃には剣術修行に出て大和の
小葉一等流の市販沢田高本の元で腕を磨い
たと言いますまた二刀流にも造形があった
と言いますこの頃はまだ江戸時代ですから
武士にとって堅実はとても大事だったの
です17歳で鳥羽伏の戦いに出陣配送して
いますもう武士でいることはできなくなり
ますそして職人の道を歩むことになりまし
た明治維新1868年に新しい時代となり
後の1871年時計の国産化を目指し
トラクスは二十歳で単身長崎に出て英国人
の元で時計の修繕法や作り方を数年間学び
ますこの後医療機器にも興味を持ち大阪の
医療器具店に住み込みで務め医療器具の
修理校として働きました1884年33歳
の時から浜松支点に駐在していましたが
医療器具の修理だけではなく時計を始めと
した機械器具全般の修理なども受けおって
いました日本に足踏み式リードオルガンが
やってきたのは明治時代初期明治維新以降
外国人選教師がキリスト教の伝動のために
来日しその際日本へリードオルガンが
持ち込まれました1887年当時お米約
20kmが1円でしたこのオルガンは一体
いくらだったと思いますかオルガン1台
なんと45円もしたのですお米900km
分そんなアメリカ製オルガンが静岡県の
浜松神場小学校に1台ありましたしかし
そのオルガンが故障で音が出なくなって
しまったのです教室に鍵をかけ大切にして
保管していたオルガンです校長先生はなん
とかオルガンを修理して使えないかと考え
まし
た発砲手を尽くしてようやく浜松にヤマハ
トラクスという人浜松病院の妖精で勤務し
ていた医療機器の修理校がいることを
引き止めました校長はトラクスにオルガン
の修理を頼みました35歳のトラクスは
オルガンのネジを慎重に緩めながら故障の
原因を探りましたすぐに故障の原因を
突き止めましたマネが日本折れていたの
ですしかしトラックスはすぐに修了をし
ませんでした一体何を始めたと思いますか
トラックスはオルガンの構造を映し始めた
のですそれを見た音楽担当の先生は早く
直してくれと遅れ出したそうですその時
トラクスは言いましたこれくらいの
オルガンならば自分は3円で作る地震が
ある将来オルガンは全国の小学校に設置さ
れるそうなれば日本は常に高額な外国製品
を輸入しなくてはならないオルガンの国産
家は日本の攻撃につながるはずだと自らの
思いを語りましたそしてオルガン政策を
決意しますすぐさまトラクスは飾り職人
カザや金具などで金属加工をする川井キ郎
に協力をもめ施策を開始しましたオルガン
は2ヶ月余りでやっと完成しましたしかし
完成度が低く音楽の先生たちからはダメだ
し納得がいかなくて東京の音楽取り調べ所
現在の東京芸術大学音楽部で審査を受ける
ことにします東海道が全通していなかった
当時東京までの250kmの道のりを
トラクスと北郎が天秤棒でオルガンを担い
で箱根峠を超えて運ばなければならなかっ
たのです険しい岩場が続いておりその坂道
は旧坂も多く常に泥でぬかるんでいて生き
する人々にとって非常に体力を消耗する
難所でした苦労の末なんとか東京に
たどり着き音楽取調べ所での審査を受ける
と調律に不があることが判明しました
オルガンの形は良いが勝率が不正格で使え
ないここで音楽理論を勉強していくといい
トラクスは特別に許可をされて芸大初代
学長の伊沢修二の事業を長行約1ヶ月間
音楽理論を学びましたちなみにこの
レリーフはヤマハトラクスと川井郎の箱根
峠越ですが第2次世界大戦の時に教出され
今は残っていません調律とは調子や音調を
整えることチューニングのことです特に
楽器でピアノオルガン打がきなどの正しい
音の高さやネロを保つように一定の基準を
元に音律を整えることまた修理修正する
ことを言います気温20°の時に鍵盤中央
のラーの音が4440hzを基準とします
現額器の場合は長原と言います苦労を重ね
ながらトラクスは再び専門家伊沢修司の
審査を受けました持ち込まれたオルガンの
鍵盤に指を当てて修司は言いましたうん
前回の欠点はことごとく取り除かれた白雷
に変わり得るオルガンだと太鼓版を押し
ました1888年ついに日本最初の本格的
オルガン誕生の瞬間でしたトラクスとキ郎
は言葉もなく涙しましたこの2号期以降
オルガンがたくさん生産され
ますこのリードオルガンは主に教会や学校
に置かれ音楽教育の道具として使用される
ことになりますちなみにリードオルガンと
は空気を吸い込んでリードを鳴らす旧式の
オルガンです足元にあるダを踏むと中に
ある不語が広がって減圧しますそして鍵盤
を押すことによりバルブが開き空気が通り
リードという金属性の薄い板が振動して音
が出るという仕組みですリードオルガンは
一般の人々が西洋音楽に触れるきっかけと
なった楽器でもあるの
です会社設立1889年に子会社ハ風製造
書を設立小規模ながら工場でのオルガン
政策を始めました47名の従業員で250
代ものオルガンを短期間で生産できたのは
部品の企画化を進め組み立てを合理的に
行うための分業を取り入れていったから
です1890年明治23年トラクスは東京
で開かれた第3回内国官業博覧会に
オルガンを出品しますここでヤマハは
すでに南歩か先を行っていた西川楽器を
しいで賞を受けまし
た1891年川井北郎だと共同でヤマハ
楽記製造所を設立しまし
た1892年には東南アジアへオルガンを
輸出するまでに成長します78台輸出し
ましたそして日清戦争の興奮さめやらぬ
1897年資本金10万円で日本学期製造
株式会社日額を設立し初代社長に就任し
ます従業員には剣道も教えていたと言い
ますまた礼儀をじ上下の区別にも厳格で
あった人ですがこれは少年時代の厳しい
剣道の修行の賜物だったのでしょう
彼の言葉には男は男に惚れられなければ
事業に成功できないピアノを作るには人間
を作ってからなどが残されていますそして
公成な価格で品質に責任を持ち社会の信頼
を得ることを大切にするというこの考え方
はやがてヤマハの基本姿勢として定着して
いきますこうしてオルガン政策を進め
ながらもトラックスの頭を離れなかったの
はピアノの国産家でしたしかしピアノの
構造の複雑さはオルガンの日ではありませ
んそこで1899年単身アメリカに渡った
トラクスは勢力的にピアノ工場を回り製造
方法から工具や装置まで詳しく学び部品と
機械を調達して翌年から早速アップライト
ピアノの生産を開始しました1902年に
はグランドピアノを完成させ1904年に
は米国大博覧会セントルイス万国博覧会で
ピアノとオルガンを出品し海外で初めて
国産の楽器に名誉対象が送られるまでに
なりまし
たこの年車掌を佐商標を音を加えた法王図
と定めましたそして川楽器政策書総子者の
川小一や初代ピアノ部長となるヤハ直吉を
育てましたして浜松地方の楽器産業の基盤
が作られていきましたちなみにこの静岡に
は可いというせが多くトラックスと苦労を
共にしたキ郎と10歳でトラクスに出し
りし独立後の可い楽器を作った小一とは
別人
ですそして日本にはもう1人日本発の
オルガンを作ったと言われる人がいます
1847年7月に千葉県で伊藤徳松の次男
として生まれた西川虎吉ですシミ線作りの
職人だった西川トキは外国人のピアノ調律
師が開業した楽器紹介で楽器製造やピアノ
調律を学び明治13年に独立して西川風港
製造所を設立1844年明治17年には
初めての国産オルガンを制作西川風港は
丈夫で美しく供性格と言われるのです
ヤマハトラクスより5歳上で東京に近い
ところにいましたこの時代に2人の接点は
全くありませんただ西川虎吉に関しては
ほとんど資料が残っておらずまたトラキチ
の作品の主な部品が輸入品だったため
トラクスのヤマハピアノが国産第1号に
なったらしいのです西川はは1921年に
日本学期製造現ヤハに買収され工場は日本
学期横浜工場となりましたが1936年頃
閉鎖したということ
ですヤハは1902年火災に会い大半を
失いますがなんとか再起1903年から
目光技術を生かし家作りも始めます
トラクスは1916年5年8月8日死去し
ます去年66歳でした1916年の
トラクスの死去後は2代目社長に天野千代
まが就任しピアノ製造は一族のヤハ直木が
引き継ぎます1926年4月に大規模な
労働葬儀が発生しヤマハは苦境に陥ってい
ました翌年の1927年に住友財閥の
サラリーマンであった川上知氏がヤハの3
代目社長に就任労働葬儀の解決財務体質の
改善技術投資の率先によって倒産寸前から
ヤマハの経営再建に成功しましたここから
どんどん変わっていきます1945年7月
にイギリスの戦艦によって浜松の工場が
全開するなどの被害を受け終戦を迎えまし
たしかし戦後すぐにハーモニカや白本のを
始めどんどん高く経営していきますヤマハ
株式会社は1969年にピアノ生産台数で
世界一となり販売額ベースで現在でも世界
周囲ですこの他の学期でもハーモニカや
レコーダーピアニカといった学校教材から
エレクトリックギターやドラムバイオリン
チェロトランペットサスホーンなど100
種類以上もの楽器を生産する世界最大の
総合楽器音響メーカーです音響機器反動体
スポーツ用品自動車部品ネットワーク機器
の製造販売を手掛けリクリエーション事業
の楽器配信もしていますまたヤマハ発動機
は現在静岡県岩田市にありますがオートバ
や線外機産業用ロボットなどを製造する
ヤマハの二輪部門が独立したものです
あなたは音楽系かバイク系どちらのヤマハ
に縁が深いですかヤマハの歴史を説明する
文書の中でヤマハのコピペというのが
出回っていますが少し違うところもある
ようです正しくはヤハ輸入オルガンの修理
から楽器関係を作るで楽器をやっていた
流れで電子楽器も作るそしてLSI大規模
席も作るでNSIを作ったからパソコンも
作るその過程でDSPデジタルシグナル
プロセッサーを作りDSPを他に利用
しようとしてルーターも作りましたという
流れで楽器電子機器ネットワーク関係の
製品を作るようになりましたじゃあなぜ
発動機や家具とかも作ったのかというと
オルガンやピアノ作りで木のノウハウが
蓄積されるそして家具を作るで住宅設備も
作るという流れですまた戦時中に軍から
家具作ってるんだから木星のプロペラ
作れるだろうと言われて航空機のプロペラ
を作る終戦後にGHQから返してもらった
設備でバイクとエンジンを作るでヤマハ
発動機を
立ち上げる設立日後に初めて作ったバイク
でレースに優勝するこの辺りはとても
ドラマチックですもうこの動画には収まり
きれませんそして4代目川上原一社長が
9度をやっていたからFRP繊維強化
プラスチックでアーチェリーを作るで
FRPあるから船も作る社長が自分で使っ
ていたアメリカ製の船外機がよく故障する
ので線外機も作るFRを利用してプールを
作るついでにウォータースライダーも作る
またインドネシアの駐在員の家族から水道
水が汚いって相談が来たから浄水器も作る
バイクから出る2酸加炭素なんとかでき
ないかと思ってバイオ事業に
進むとこんな風な流れになって現在に至っ
ていますパソコン風力発電ガスヒート
ポンプやバイオ事業家具事業は撤退してい
ますでも元をたどればヤマハトラクスに
たどり着くのですヤマハ楽器の愛用者は
小室哲也さんとか坂本龍一さんはMIDI
ピアノの開発に協力しています中島美さん
や佐田正さん長渕強さんなどもヤマハの
楽器を愛用していますまた私の父はFRP
で釣り船を作り外機はヤハでした
私も自分の子供たちもヤマハの音楽教室に
通っていましたバイクこそ乗り回すなかっ
たけれど電動自転車はヤマハ製です
パソコン周りのスピーカーなどヤマハの
製品は今も私の周りに多いですよそして
ヤマハが開発した歌声合成技術
ボーカロイドを利用して初ミクが登場した
時にはとても驚きました技術を様々な会社
にライセンス提供していますので今は
いろんなボカロがありますね時代の変化を
見事に掴み事業の過程で掴んだ技術で
さらに次の事業を生み出していくという
世界にも類を見ない得意な企業にヤマハ
グループを導いた歴代社長もヤマハ
トラクスの初めてのオルガンがあったから
こそなの
ですこの動画が面白いなと思ったら高評価
とチャンネル登録お願いします次回をお
楽しみに

#ヤマハのコピペを検証 #初音ミク
オルガンやピアノ、バイク、ウオータースライダーなど次々に技術を新しいものに変えていく、そんなヤマハも元をたどればこの人!
#ヤマハ #ギター #バイク #音楽教室 #箱根峠  

参考文献
ハンナ:https://www.chopin.co.jp/media/Encyclopedia_The_PIANO/a3519
横浜手採食写真絵葉書図鑑:https://yokohamapostcardclub.blogspot.com/2012/12/blog-post_6.html
浜松大好きネット:https://yokohamapostcardclub.blogspot.com/2012/12/blog-post_6.html
ヤマハヒストリー:https://global.yamaha-motor.com/jp/stories/history/

字幕:Vrew

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1件のコメント

  1. ヤマハOBです❗️
    社史よりも詳しく創業から現在迄を判りやすく解説頂きありがとうございます。
    山葉寅楠の理念や精神は現社員やOBに継承されております。
    良い動画を制作頂き感謝致します🙏

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