養蚕と機織|渡来人の絹が日本の服とお金とくらしをどう変えたか|ざっくり解説
養蚕と機織 皆さん、こんにちは!ざっくり解説の時間です 仏教が伝わるよりずっと前、
海の向こうから「糸と布」の技術がやってきました 養蚕と機織は、日本の社会を
根底から変えるほどの力を持っていたのです 今回は、この技術がいつ伝わり、古代日本をどう変えたのか、
その歴史を紐解いていきましょう 第1章:仏教伝来より前に来たもの – 渡来人がもたらした技術革新 6世紀半ばのことです 百済の聖明王が、欽明天皇へ仏像と経典を献上しました これが、いわゆる「仏教公伝」とされています 国家間で公式に仏教が伝えられた出来事として、
歴史の教科書でも扱われています しかし、仏教が伝わる前から、日本には朝鮮半島や
中国大陸から多くの人々が渡ってきていました 彼らは「渡来人」と呼ばれ、
さまざまな先進技術を日本にもたらします 彼らがもたらした技術は、実に幅広いものでした 武器や土器の製作から、
農業や土木のノウハウまで多岐にわたります その中でも、とりわけ重要だったのが養蚕と機織の技術でした 渡来人の波は、いつごろから日本に押し寄せたのでしょうか 研究者の整理によれば、おおよそ4つの時期に分けられます 最初の大きな波は、紀元前2世紀から3世紀ごろのことでした この頃、弥生時代の日本に稲作や土器づくりの技術が伝わります そして第二の波が訪れるのは、
4世紀末から5世紀初頭、応神天皇の時代 秦氏や漢氏といった大きな集団が、日本へ渡来してきました 第三の波は、5世紀後半から6世紀にかけて訪れました 雄略天皇から継体天皇、
そして欽明天皇へと時代が移り変わる頃です 日本では古代国家の形成が進み、
国を治めるための最新の知識が求められていました 「今来の才伎」と呼ばれる技術者たちが、
綾や綿などの高度な技術をもたらしたのもこの時期です ここで言う綿とは、今の木綿ではなく、
絹などの繊維状の「わた」を指します 第四の波は、7世紀も後半に入った頃でした 朝鮮半島の情勢が激しく変化し、
その混乱を避けるようにして多くの人々が日本へ渡ってきます ここで押さえておきたいのが、
養蚕と機織の技術がいつ伝わったのかという点です 実はこれらの技術は、仏教よりもはるかに早く、
弥生時代の段階で日本に存在していた可能性が高いのです では、その根拠を見ていきましょう 第2章:弥生時代の絹 – 日本最古の養蚕技術の痕跡 福岡県の有田遺跡で、驚くべき発見がありました 紀元前200年ごろ、
今から2200年以上も前の平絹が見つかったのです 日本で確認されているなかでも、
最も古い時期の絹織物の一つと言えます 北部九州の弥生時代の遺跡からは、同時期の絹が出土しています このころ、日本列島でも蚕を育て、
絹を織る暮らしが広がり始めていたようです 平絹とは、最もシンプルな織り方で作られた絹織物のことです つまりこの時代の日本列島には、すでに蚕から糸を取り、
布に織り上げる技術があったことになります 興味深いことに、有田遺跡から出土した絹織物は、
当時の中国製とは織り方が異なっていました これは何を意味するのでしょうか 単に中国から完成品を輸入したのではなく、
日本列島で独自に作られていた証拠と見られています 養蚕の技術は、もともと中国で発展しました およそ5000年前、紀元前3000年ごろの黄河や長江の流域で、
野生のクワコが家畜化されたのが始まりとされています そこから数千年を経て、
技術は東アジア全体へと広がっていきました 日本への伝来ルートについては、いくつかの説が知られています 朝鮮半島を経由したという説と、
中国の江南地方から北部九州へ直接伝わったという説です どちらが正しいかは分かっていませんが、
秦が中国を統一した紀元前221年より前に、
蚕種が船で運ばれてきた可能性は高いと考えられています 蚕が育つには、桑の葉が欠かせません 日本は、その桑がよく育つ土地でした 気候にも恵まれていたため、
技術が伝わると養蚕はすぐに広まっていったようです ただ、弥生時代の養蚕は、まだ小規模なものでした 一部の集落で行われていた程度で、
社会全体を動かすほどではありません 養蚕と機織が日本社会を大きく変える転機 それは、応神天皇の時代における大規模な渡来人の流入でした 第3章:秦氏の登場 – 大規模な技術導入と養蚕の本格化 『日本書紀』には、応神天皇が即位して
14年目の出来事が記されています 弓月君という人物が、120もの小さな地域に暮らす人々を率いて、
百済から日本へ渡ろうとしました しかし、新羅人の妨害に遭い、
一行は加羅に留まっていたと伝わります これを聞いた応神天皇は、葛城襲津彦を新羅へ派遣しました しかし、3年経っても戻らなかったため、
即位16年目に精鋭の兵を送り、新羅王に謝罪させます そのうえで、弓月君の一行と襲津彦を迎え入れ、
この一行がのちに秦氏の祖先となったと伝えられています ただし、この話には疑問も残ります 「120の地域に暮らす人々」といえば、
おそらく1万人を超える大集団です 一度にこれほどの規模で渡来したというのは、
やや誇張かもしれません また、『日本書紀』の記述と実際の年代にはズレがあり、
5世紀以降の渡来だったとする説が有力です 秦氏のルーツについても諸説あります 『新撰姓氏録』では秦の始皇帝の末裔としていますが、
これは平安時代に書かれたもので、
実際は新羅系の渡来人だったと考えられています 「ハタ」という名前自体、朝鮮語で海を意味する
「パダ」に由来するという説もあるほどです 秦氏が拠点とした山城国、今の京都は、
当時まだ開発が進まず、水の扱いにも苦労する土地でした 原野が多く、人が暮らすには手を加える必要があったといわれます しかし秦氏は高い土木技術を持ち、
桂川から水路を引いて灌漑を整え、
この地を豊かな農地へと変えていきます そして、秦氏が広めた最も重要な技術の一つが、養蚕と機織でした 『日本書紀』の雄略天皇が即位して16年目の記述には、
興味深い一文があります 諸国に桑を植えさせ、
秦氏の人々には養蚕や機織に関わる「調庸」、
つまり税を担わせたというものです 雄略天皇の時代、秦氏の族長だった秦酒公は、
各地の同族をまとめ、大量の絹織物を朝廷に献上しました その絹があまりに多く、うず高く積まれたことから、
天皇は秦酒公に「ウズマサ」という姓を授けたといいます 現在の「太秦」という地名の由来になったという伝承です 太秦の地は、古くから養蚕と機織への信仰が厚い場所でした ここに鎮座する木嶋坐天照御魂神社には、
蚕の神を祀る「蚕養神社」が設けられています 秦氏は養蚕と機織だけでなく、
朝廷の財務も任されるようになりました 大蔵や内蔵といった倉庫を管理し、
大和政権の財政の一翼を担う
重要な氏族へと成長していきます 彼らの活動範囲は山城国だけにとどまりません 近江、摂津、河内、大和、そして遠く九州や東国まで、
一族は広がっていきました 各地で水利を整え、養蚕や機織の技術を広めることで、
日本のものづくりを大きく前へ進めたのです 第4章:絹が変えた古代日本 – 税制と社会への影響 養蚕と機織の技術が広まり、
日本の社会はどう変わったのでしょうか まず大きく変わったのは、衣服です それまでは麻や植物性の繊維で作った布が主流でした そこへ絹という新しい素材が加わり、
より高品質で美しい衣服が作れるようになったのです もちろん、絹は高級品です 庶民が簡単に手に入れられるものではありません 天皇や貴族、豪族たちが身につける特別な素材でした そして、絹は税制にも組み込まれていきます 646年、「大化の改新」で新しい税制の方針が打ち出されました のちに『大宝律令』で形が整えられ、
「租庸調」と呼ばれる制度になります このうち「調」という税で、
繊維製品を納めることが定められました 納められた織物には、絹や「絁」が含まれていました 絁とは、太い糸で平織りにした絹織物のことです これらは主に、役人の制服や礼服、
そして給与である季禄として使われました 8世紀に入り、奈良に都が移ります 租庸調の制度により、全国から絹や麻布が税として集められました こうして各地で養蚕と機織の生産基盤が固まっていったのです 『万葉集』には、蚕にまつわる歌が多く残されています 養蚕が上流階級だけでなく、
人々の暮らしに浸透していたことがうかがえます しかし、当時の養蚕や機織は、主に女性の仕事でした 農作業の合間に、女性たちが桑を育て、
蚕を飼い、繭から糸を取り、布を織ります これは家族総出の作業であり、
特に女性たちの労働に支えられていました 税としての絹を作るため、人々は懸命に働きます 春から夏にかけて蚕を育て、
秋に繭から糸を取り、冬の間に布を織り上げる この一年のサイクルが、農村の暮らしのリズムを作っていきました また、絹は交易品としても重要でした 中国や朝鮮半島とのやり取りでは、
日本から絹織物が輸出されることもあったのです 絹は単なる衣服の材料ではなく、
富や権力の象徴であり、外交の道具でもありました 興味深いことに、古墳時代中期には、
渡来系の人々によって機織りの道具も進化しました これにより、より幅が広く、長い布が織れるようになります さらに、布を決まった大きさに切って
仕立てる方法も伝わります 長い布をまっすぐ裁って縫い合わせる この発想は、のちの和服の基本となりました 着物も、反物をまっすぐ切って
仕立てるという点は変わりません 古墳時代に伝わったその技術は、
形が変わっても確かに残り続けたのです 養蚕と機織は、単に物を作る技術ではありません 社会システム、経済、文化のすべてに深く関わる、
国の基盤だったと言えます 第5章:技術が紡いだ文化 – 現代へと続く織物の伝統 奈良時代には、大和政権の影響下にあった地域では、
北海道などを除き、ほぼ全国で養蚕が行われるようになりました この時代の絹製品は、貴族の衣装や装飾品として広く使われます 正倉院には、当時のさまざまな絹織物が保管されています シルクロードを経て伝わった意匠や文様が、
日本の技術と融合した見事な作品ばかりです 平安時代に入ると、律令制がゆらぎ、
税として絹を集める仕組みはしだいに弱まりました しかし生糸の需要が減ったわけではなく、
国内生産に加え、中国からの輸入も重要視されていきます 平清盛や足利義満、豊臣秀吉といった時の権力者たちは、
中国との交易によって富を築きました その主な輸入品の一つが、生糸や絹織物だったのです 江戸時代の元禄期になると、養蚕が再び活気づきます 経済成長により生糸の需要が高まり、幕府も養蚕を奨励しました 各藩も財政の立て直しや、
下級武士の救済策として養蚕業に力を入れ始めます 1803年、上垣守国は『養蚕秘録』をまとめ上げました その内容は国内外で評価され、
シーボルトの手でヨーロッパへ渡り、
フランス語などにも翻訳されていきます 明治時代に至り、養蚕は日本の主要産業として黄金期を迎えます 1872年、官営の富岡製糸場が発足し、
フランスの近代的な技術が導入されました 良質の生糸を大量に輸出し、
日本の近代化、富国強兵の礎を築いたのです 日露戦争のころ、日本が最新の軍艦や
兵器をそろえられた背景には、
生糸輸出で得た外貨の力がありました 養蚕は農家にとって貴重な現金収入であり、
農家はカイコを「お蚕様」と呼んで大切にしていたのです 1900年ごろ、日本は中国を追い抜き、
世界一の生糸輸出国となりました しかし昭和に入ると、養蚕を取り巻く状況は大きく変わります 世界恐慌や戦争、さらに化学繊維の登場によって、
生糸の需要が急速に落ち込んでいきました 戦後の復興期には一時的な回復もありましたが、
農業人口の減少と都市化、化学繊維の普及が進み、
養蚕業は次第に衰退していきます そして1987年、富岡製糸場はその長い歴史に幕を下ろしました では、養蚕と機織の技術は、
日本から消えてしまったのでしょうか いいえ、そうではありません 日本各地には、今も伝統的な織物の産地が残っています 京都の西陣織、新潟の十日町紬、石川の加賀友禅 これらはすべて、古代から続く技術が時代とともに進化し、
地域の特色と結びついて生まれた文化です 室町時代の応仁の乱ののち、京都の西陣で発展した西陣織は、
550年以上もの間、技術を受け継いできました 一本の帯を織り上げるのに、数週間から1か月もかかる緻密な作業 職人の呼吸一つで、布の表情が変わるといいます 現代では、農研機構を中心に「蚕業革命」として、
養蚕業の復興を目指す研究も進められています 蚕は単に絹を作るだけでなく、
有用なタンパク質の生産にも役立つ可能性があるからです また、伝統的な手織りの技術は、高い価値を持つ工芸品として、
あるいは手芸の一つとして、今も愛されています 仏教が伝わるよりも前から、
渡来人は日本に多くの技術をもたらしてきました なかでも養蚕と機織は、社会を動かし、
経済を支える大きな力となります 古代の人々が紡いだ糸と、
その技を受け継いだ営みは、形を変えながら、
今の私たちの暮らしにも確かに息づいているのです もしこの動画が面白かったら、
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北部九州の弥生遺跡から見つかった絹織物を手がかりに、渡来人による技術革新の歴史をたどります。秦氏の登場や租庸調制度での絹の役割、そして現代の織物文化まで、日本の基盤を変えた「糸と布」の物語です。
この動画でわかること
・弥生時代には既に日本で絹織物が作られていた証拠
・秦氏が5世紀ごろに大規模な養蚕と機織技術を導入した経緯
・租庸調制度で絹が重要な税となり全国に生産が広がった過程
・養蚕業が明治時代に日本の近代化を支えた歴史
・古代から続く織物技術が現代の伝統工芸につながる様子
00:00 オープニング
00:26 第1章:仏教伝来より前に来たもの – 渡来人がもたらした技術革新
02:33 第2章:弥生時代の絹 – 日本最古の養蚕技術の痕跡
04:37 第3章:秦氏の登場 – 大規模な技術導入と養蚕の本格化
07:40 第4章:絹が変えた古代日本 – 税制と社会への影響
10:33 第5章:技術が紡いだ文化 – 現代へと続く織物の伝統
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#養蚕 #機織 #渡来人 #秦氏 #古代日本
参考サイト
渡来人の定義と4〜7世紀の渡来系技術・秦氏などの基礎情報
https://kotobank.jp/word/渡来人-585287
秦氏の概要・弓月君を祖とする渡来系氏族/養蚕・機織・財政との関わり
https://kotobank.jp/word/秦氏-114605
弓月君と百済からの120県の民の渡来伝承
https://kotobank.jp/word/弓月君-145197
秦酒公と庸・調の絹献上/禹豆麻佐(うずまさ)の由来
https://kotobank.jp/word/秦酒公-1101334
今来才伎と百済系渡来人による高度な織物技術の導入
https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2023041300098/
弥生〜古代の日本の染織技術・高機の導入・反物と着物構造の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の染織工芸
有田遺跡群第246次調査報告(甕棺から日本最古の絹が付着した銅戈の出土)
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/ExcavationNewsBlocks/e48c07d4-7d8e-41b0-96de-f07871bd1d88/value01/ExcavationNewsParagraph24fileja.pdf
日本における養蚕の歴史:弥生期の絹・奈良時代の全国的普及・江戸〜明治の発展・世界一の生糸輸出国化
https://ja.wikipedia.org/wiki/養蚕業
絹が5000年以上前の中国で生産され世界に広まったこと/群馬と養蚕・女性労働の役割
https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-00044.html
租・調・庸の仕組みと調として納められた織物(絹・布)の解説
絁(あしぎぬ):粗い絹糸で平織りにした絹織物の定義
https://kotobank.jp/word/絁-424467
正倉院宝物に残る奈良時代の染織品とシルクロード由来の文様
https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/treasure/
富岡製糸場と絹産業遺産群:1872年創業・1909年世界一の生糸輸出国・1987年操業停止など絹産業の年表
https://worldheritage.pref.gunma.jp/whc/wp-content/downloads/3eedf3aea192a58c72c1ae27ce4fedb5.pdf
西陣織の歴史(応仁の乱後の発展と現代まで続く高級絹織物産地)
https://ja.wikipedia.org/wiki/西陣織
加賀友禅の歴史と石川県における友禅染の伝統工芸
https://ja.wikipedia.org/wiki/加賀友禅
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00:26 第1章:仏教伝来より前に来たもの – 渡来人がもたらした技術革新
02:33 第2章:弥生時代の絹 – 日本最古の養蚕技術の痕跡
04:37 第3章:秦氏の登場 – 大規模な技術導入と養蚕の本格化
07:40 第4章:絹が変えた古代日本 – 税制と社会への影響
10:33 第5章:技術が紡いだ文化 – 現代へと続く織物の伝統