HTDE SAGA -日高へ-

[音楽] 今で はい。はい。 [音楽] 僕が日高に、え、運営として携わるように なったのは2004年の大会からなんです けども、ま、そこから競技監督っていう形 で携わっています。うん。自分自身が 初めて日高に、え、来たのは1987 年あの選手として参加したのが、え、 きっかけでした。ま、それからずっとあの 毎年日高に通うようになるんですが、え、 2004年までは、え、ま、ジャーナルの 立場としてあるいは選手の立場として、え 、来るということが続いてました。で、 1999年を最後に、え、それまでのあの 日のエンディロ実行委員会が解散したん ですね。それまであの日高役場の中に、え 、運営母体があって、え、ま、それが 1999年の大会を最後に、え、解散して 一旦休止するんですよ。 え、23年、え、2000年、2001年 、2002年と休止が続いて、え、ま、 このままじゃあちょっとあの 行けないというか、もう1度日高でね、 エンディール、エンディュールやって みんなで集まりたいという思いを持った 勇志が、え、2003年に、え、現在の 日高モーターサイクリストクラブを、え、 か和や、現在の代表ですね、か和やを代表 として、え、改めて発足しまし 改めて再出発しようという流れになって、それが今の MC はまだ認めてないわけ。で、まず我々過去の経を置いて少なくとも日本代表をずれ国際大会に出したいというのは思い出してあった。 で、その土上がまだ日本にはないとであれ ばその 大会っていうかね、そういう競技 大会をまず我々中心になって地元でやろう とと同時に MSJに マトグルストライアルラリー等々を含めて 是非位置付けをしてほしいというやり取り をこの感想とやったけれども、ま、過去の 経緯も含めて色々あった。なかなか話は 進まないとあったけれども、あのMさんも 分かったと。じゃあその方向で取り組むと いう少なくの一事はしてくれた。で、あれ ば我々もその方向で行くと 過去の果の話ぞと初めて握手したよね、 そん時に。で、それが今日に繋がってると いう経緯がある。新抱也や代表はですね、 え、この日高でエンディオロが、え、最初 に始まったのが、え、1986年なんです ね。で、1984年、85年と戸小牧で、 え、2日間協議会が行われてたんですけど も、え、そこが、え、初犯の事情で Äマコ前で開催できなくなって、え、当時 のですね、え、トマコ前の、え、有力な、 ま、政治家だったんですけど、浦辺さんと いう方が、え、ま、茂さんと交流も茂さん たちこ日高町のね、青年たちと交流があっ え、こういう大会がある。え、日城で開催 しないかという風に持ちかけたのが、え、 1984年ごめんなさい。1986年に 初めて日高でエンディオロを開催した きっかけなんですね。ま、それがあの今に 受け継がれてるんですけど、1986年に 、え、初めて日高で、え、エンディオルを 開催した中心メンバーの1人がやだった わけです。 その後、ええ、しばらく和やが、え、大会を中心になって引っ張ってきました。 まあ、あれだね。その頃まだ我々自身も そうだし 地域の受け皿含めて バイクがそもそも山に入るってのは何の話 だというこういう時代だったんでなかなか 理解得られないという中での作業ましては う の関係警察含めてはいどうぞとは言うわけ がないでまそこはだいぶ時間かかったけど ね。でも話戻るけれども90実は2年うん 、91年の年の大会2年3年そうだな。 その時に このグレンドの途中含めてあるいはルート 設定した場所をほぼ走行不能状態 というまあまあ 雨の影響。 それで繰り返すけれども、果たしてこれが 行けないところへ行くってのは我々の 目指す興味かという我々の捉え方もあった し、そういう中で どうしてもタイムトライル形式これは限度 あるとであれば オンタイムに変更しようとは言えども我々 自身も含めてばオンタイムって何なのかと 果たして興味に関わる うちの含めてそこのところを理解でき るっていうま、そっからでましてや エントリーいただく選手の皆さん ほぼありえない状態そういう中で93年 それでももう限度ということもあって 切り替えをした その時あ雨はね91 92年続いたと思うつって そこで大混乱 我々自身もお決して理屈は難しくない けれどもどういう巨をやることがという そこ度は分からないわけだ。わ恥さけ ました選手のそうで当然運営場混乱来たす で うん。 記録を出すにしてもすぐに出さない。ま、 ルール上は欲長のスタートに出さいいて いうのはな知ってるけれども、そうもいか ないで、そういう我々の運営能力の問題、 それと選手の皆さんからの反発は当然だと 思うけど、そこで混乱で93年の 初日 で私は当時虚議院庁ちょっとだ。うん。え 、責任を取って 会員 でそれから2000年までか多分78年 今の地元の大会からは引くべきだという 当然だし、一旦離れた。離れたというか 引いた。で、その間色々今までやってきた うん。 大会を伝えてくるだと。大体大会が終わる と、ま、今年の大会終わると、ま、9月に 終わりますよね。で、10月に片付けが 大体10月1杯続いて、え、11月ぐらい には翌年の、え、ルート計画っていうのを 大雑把に、あの、みんなで相談して、 え、決め方は色々あるんですけど、今年 うまくいったから、え、来年投で行こうと か、え、ここちょっと物足りなかったから 、え、ここ変えようとかっていうような やり方で大まかなプランを作るんですね。 で、え、 2月ぐらいには、え、関係、あの、 たくさんの知見者がいますよね。 エンデオのコースには、え、国道から、え、剣道、指導、私指導で、多くは国有林道、国有地、え、あとはあの本当民地といろんなところがあるんですけど、そういったところと、え、接触を開始して、え、 で、それの許可が出たところで、え、ルートプランが決定します。 これが、え、あの、ま、行政関係が多い もんですから、え、 4月を目にね、え、決めるわけです。4月 になる前に大まかな、え、申請をして、え 、年度代わりの4月、え、1日、4月初旬 には、え、回答が来るっていうような感じ になりますね。それでルートプランが大体 できて、そっから、え、作業が始まります 。最初の頃ってのは残念ながらご理解 いただけなくて両等変更させざされない。 それもたくさんあった。 ま、それも別な意味で地域の皆さんとの 関わりという意味では何もおかしいことだ と思わないし、 そういうことが経緯としてあったっていう のは間違いない事実。ま、今でこそおい、 またやるのかっていう、そういう声をかけ ていただいたりという、まあね、あの時代 の流れもあるけれども、やっぱり当時は そうだった。で、特に我々 例えばあの畑田んぼのを使わしてもらう、 あるいは濃動を使わしてもらう。 3台4台走るのは構わんけど、そこを天気 の悪い時に100台、200台走らどう なる?これも大変なんです。それを考えれ ば、っていうか、それだけに後の修復作業 を決して 競議終了後に100%できたということで はないけれども、その収作業に我々 春まで半年かかるとざ そういう時代だった。ただ、ま、そういう ことの多分積み重めが、あの、そういう皆 さんとのやり取りができるあの100% 理解得たとは思わないけれども、まあまあ お前たち仕方ねえなというやり取りを してもらえるまでに、ま、そういう意味で はすってのは大事なこと大 よし。大丈夫。えらい。 [音楽] 足上げ。 はい。こ まで行ったらやってい。 よいしょ。 よいしょ。行くよ。もう結構あの長いことうん。経ってる感じで、ま、 2000 年まではあの役場のお十字職員としてこう誘導員みたいな 最初はじゃあ役場の仕事できたっていう。 はい。最初は仕事できて、 で、ま、誘導員の、ま、棒振りをやってて、で、ま、その時に、ま、昔から小さい頃からバイクは乗ってたので、 [音楽] あの、マーシャルの人たち見て、あ、どうせ手伝うんだったらもうその麻雀とかそっちの方が、ま、いいなっていうところではい。 [音楽] や、思って、ま、バイクも買って、バイクも買ってっていうとこで、じゃあいざついの年から回しるかなっていうところで 2000 年にあの実行委員会解散しちゃってうん。 で、なくなっちゃって、ま、そっからまた あの、は木さんとかがあの、ま、長田君と か勇志が集まって このHTDなくすのはちょっともったいな いっていうことでやり始めたところにまた 参加してっていうのがうん。こうっぷり中 に入ってやるきっかけにはなりました。 はい。 この続けられてる要因っていうかなぜこんな長く続けられてんですか?ああ、やっぱりその、ま、仲間とのそういった [音楽] 1 つのものを作り上げるっていうところと、ま、 それのなんですかね、そこに携わるう 人たちの、ま、気持ち、心きっていうのを、ま、強く感じたんで、 で、ま、あの、今 は役場の観光として、あの、この街起こしの 1 つのアイテムとして、あの、そういった部分をこう繋げて、うん、いってる感じなので、ま、それらがこうまいことこの日高の地域の、ま、歴史とか文化的なうん、位置付けになっていってるっていうのもあるんで、ま、続いてるのかなっていうはい。気がします。 毎年毎年正直かなりしんどいですね。 [笑い] ま、しんどさと、あの、楽しさが、ま、常に隣り合わせなんで、やっぱりこう、 あの、簡単に終わって簡単に過ぎ去っちゃったらなんかこう、思い出にもこう軽くしか刻まれないと思うんではい。そ、そこはこう深くっぷりこう体に刻まれるっていうのはこうハードなことをやってこそっていうところはあると思うんではい。さん はい。 日何年目ですか?このスタッ もう数えきれないすれ。 [笑い] 2014年ぐらいからですかね。ちょうど 10年ぐらいかな。 ああ、そうですね。 はい。 始めたきっかけんですか? 始めたきっかけはバイクが好きで日高に 1回出たくて日高に出ました。 あ、出たんですね。 はい。出てうん。シーアスでね、一応あの、お、 ええ、 優勝、 全国優勝して、お、 そっか。 で、それ以来、え、もう今度はサポートに回ろうと思いまして、 え、ここに来ました。 早10年。 10 年。 ちょうど20年の年になります。 きっかけは何ですか? きっかけは友達に誘われて来たんだけど ずっぽりはまってしまって レースは はい。出てました。レース高は出たことがないですけど。はい。 レースは出てました。 はい。なんではまってしまったんですか? やっぱり仲間と何かをやるっていうのが 楽しくて はございます。 あっ20年ですね。あっていでしょ。 あの、こんだけ続理由っていうのはなんかありますか? 自分の中で。 自分の中で。 自分の中では何でしょうね?なん? はい。 やっぱり終わった後の感動かもしれませんね。それはあります。 はい。 やっぱり 達成感終わった後 すごいですか? そうですね。 でも毎年しんどいですよね。 うん。しんどいです。 ま、家族の理解もないとできないですよ。 はい。 結局コース作りっていうのはなんていうか、ま、ほんの年間で 1 ヶ月ぐらい休みあるかないかぐらいでず、 基本的にはずっと動いてます。 はい。 あとだから、ま、自分の中で はい。 いつまで続けられるかっていうだとして。 あ、今何歳になられましたか? 今50歳になりました。さ、 はい。 何歳ぐらいまでまあ自爆した? ま、まあ、60 まではできるとは思うんですけど、 あと10年。 あと10 年。ま、できるんじゃないでしょうかね。 そしたら30年。 はい。そうなります。先 はい。 いや、あの、何もしてないんでサボりを取られて あれり。 あ、池中さんと平さんって何年ぐらいこれやってんすか?日。 いや、僕なんかまだまだ浅い方すよ。 朝でも出てるの入れたらもう、ま、出てるの入れたらだって [音楽] 98年からだからってな んだ。98年 うん。 1998だから。 1998から ええ、出て 平さんは これはですよね。ま、関係者としてはもう相当長いですよね。 9035 年ぐらいあのここが90何年 これ98年に再開したんすよね。 それ以前は普通のオンタイムじゃなくて だよね。だから再開の辺たりくらいから 98ですよね。やっぱね。 その前とかって2 人はどうだったんですか?北海道系は いや、やっぱね、北海道は遠いとかあの レベルが高いっていうイメージは 日高は出れなくて抽選が厳しくて ああ、そうでこないとかそういうの出てますね。 そう。木こ内はみんな出てるから。 そう。木内は函館からすぐなんで。 え、抽選に入れなくて開か。 そう、大抵当たんないね。 ああ。そんな うん。 人数 そう。 それ98年以前 以前ですね。 ハード系みたいな感じだった。 僕がね91年に1回当たったんすよ。 おお。 当たった年に手首骨折したなっちゃって。 池血さんなし。 そうすね。で、そっから 何年か越しで98年。 98年開から。そう。 うちの頃は国ら八地獄っていう。 そうだね。もう半端じゃない。厳しい時代だったんで。ハードっすよ。本当に。うん。 大体シートまで埋まる そうだね。っていうパターンで2 ぐらいしか感想できない。 できんのは、あ井さんのXR という感じす。 えっと2012 年の大会からフルであのシーズンを通して はい。 コース作りやってました。はい。 それだけ長く続けられてきた秘訣っていうのは何ですか? そうですね。 やっぱり、あの、ま、はきさんに最初声かけられて来てみないかっていう感じで 声はかけられたんですけどはい。 ま、あの、実際来てみるとやっぱりあの仲間がやっぱりあのメンバー正とかあと長田国彦あと名 長田さんは去年亡くなられた。 そうです。 そうです。僕らの大事なコアメンバーの 1人で うん。 はい。あの、HTD の創世機からあの、活躍してたメンバーなんですよね。 うん。 ま、彼らとの交流も含めて、ま、コース作りだけじゃなくて、ま、 その前後のあの、ま、土曜日来て作業して はい。 で、土曜日の夜みんなとあの夜語いながら うん。 あの楽しく過ごしなおかつ大会も作るっていうみんなで何かをするっていうのがやっぱり僕にとってはやっぱりでかかったんですよね。で、やっぱりあのライダーを育ててくれるっていう環境でもあるし はい。この自然と あとやっぱり仲間がやっぱり1番僕にとっ てはあの 毎年参加し続けてこてる理由かなっていう 風に思いますね。はい。 サニーはあのご自身も アライダーですよね。あ、はい。はい。 ヒか走りたくてしょうがないじゃないですか。 はい。 本当は いえでもまあ僕 N ナショナルクラスっていうクラスで出たのが はい。 ま、最後なんですけど、 それ何年前ですか? え、2017年の大会の時に はい。 出たのが僕自身ここでの選手での最後かなっていう。 うん。そっからもうスタッフで はい。もうでもここに来ると、ま、 大会には出なくてもいいかなっていう感じ なんですよ。もうあの大会を作るみんな と 道を作る道を直す だけで十分にとっては来る意義が あるかな 十分楽しいです。 Aっていう立場で はい。 ま、そこまで上がってきたってことは、ま、いろんなコースで走られると思うんですけど はい。はい。 やっぱりこのちょっと高かなコースっていうのは、 まあ、日本各地もしかしたら 世界は 各地の中でも本当に 稀れなコースなのかなっていう気はするんですけど。 そうですね。あの、街との関係も含めて こんなコースはおそらく、ま、僕もないは そんなに数行ってるわけじゃないんです けど、ま、行った中ではやっぱりナンバー ワンだと思います。環境も含めて。はい。 日のエンディロのね、コースの1番楽しい ところは、え、ありとああゆる状況がね、 あの、この1周125kmぐらいのコース に詰まってるということだと思うんですよ 。 え、ま、あの、例えば北米とか、え、 大陸的なね、あの、ところで行われてる 競技でも、え、1周の距離長いってのは1 周が100kmぐらいてそんなに、あの、 珍しくはないと思うんですけど、え、ま、 砂漠ならずっと砂漠、森なら森、広大な森 ならもうずっと森の中のシングルトラック がずっと続くっていうようなことが多いん ですけど、え、日高の場合はもう、え、街 を挟んでね、街を挟んで両側の山を走る。 畑も走る。え、民家の近くも走る。ま、 こういったところもゲレネとこも走 るってことで、え、いろんなもう オートバイが走ることができるあらゆる、 え、シチュエーションが、え、ほぼ全部 あると思うんですよ。それが目ま苦しく こう走ってるとね、目しくそれが現れて くる。それに、え、瞬間的に瞬時にこう 対応していく、対応して乗りこなしていか なきゃいけないっていうのがこれはあの エンデュールバイクとかね、オフロード バイクの1番の楽しみだと思うんですよね 。それができるのが日のコースの自慢です 。 ThereasonIliketo cometoJapanin generalandHaka, there’smany differentreasonsbut themainonesisfirst ofallHakisagreat placetoride.Imean whenyoudrivefromto hereyouseethe mountainsstart gettingbiggerand sceneryinthe landscapeso beautifulandthenthe typeofeventthatitis isoneofmyfavorite event. It’scalledspecial testerEuropeanstyle endural.Soreallya genuineend 世界に誇れるコースかと言うと、え、僕はそう思いますね。 あの、ま、世界レベルの競技に比べると もう、あの、 難易度的には決して高くはないんですけど も、え、難易度が高い、低いということを 別にすると、え、全く引けを取らないです し、え、どんな世界中のどんな人に来て もらっても、え、絶対楽しいって、それは 遠慮だって言ってもらえるものになってる と思います。 えっとですね、あのエンデーロとはって いうのは本当にあの明題に近いことなんで あの人それぞれがね持ってればいいと思う んですけど 僕とかえ代表えそれからえのメンバーが 考えてるエ路っていうのはまずあの人との 競争ではないんですよね。それよりもあの は今はやってて順位がつきます。 でも、え、それよりも、え、自分自身が、え、 2 日間っていう競技時間の間ずっと、え、自分自身に向き合うことができる時間 だっていうことですね。 自分と 自分の信頼してるバイクと. それから取れると. 58.9。それに十分向き合う時間がある 。 そのために用意されるのがエンデュロだと 思います。他の競技にはない特徴でも その部分だと思います。 あ、すいません。すまか んけどこたさんですよね。 [拍手] 本当に個人的なことになるんですけど、え 、なぜあの自分自が日高の遠路に携わって いるかということになるんですけど、え、 まずあの僕もですね、あのずっと エンディューロが大好きで、え、いろんな 形でエンデューロの魅力を伝えようと いろんな仕事をしてきました。で、え、 やっぱりエンデュロなんですよね。 あの、ま、モータースポーツもあるんですけど、やっぱりエンデューロが良くて、で、エンデューロを、え、 のよ、こう、魅力を、え、伝えてくにはもう自分にとってはもう自分で直接それを作るのが 1 番こうフィットしてるって思うようになったんですよね。てください。 あの、文章とか、え、映像での表現とかっていうのも、あの、ずっと興味を持って、それがいい手段だと思ってやってきたんですけど、え、今は、え、直接作ってそれを、 え、表現とする方が自分に合ってると思うようになって、え、今は運営の方をメインにやって、え、それに喜びを感じてますね。 それと、え、仲間のことなんですけど、で 、あの、 こういった協議会、日高の教育会をやって 、え、何に喜びを感じるか ふと考えた時になんでだろうな、もしか すると、え、 仲間たちとのこ 連帯を確認すること確認できるからなのかもしれないなと思うようになりましたね。 なかなかね、大人になるとこう本当にこう着心のな、気の置けない仲間ってはそうできないものだと思ってたんですけど、え、 1 つの、ま、結構大変なんですよ、この大会やるのも。え、毎年だしね。 なんだけど、え、 この仲間と 同じ苦労をして、 同じうまい飯食って 酒飲んで最後に大会が終わるっていうその 大会が終わるってのは本当にあの究極のご 褒美で何とも言えないんですよね。ま、 それを仲間と一緒にやれる。仲間と一緒俺 たちは一緒にやったんだって思える。 ま、そのああ、仲間とこの連帯をね、あの 、確認できるっていうことなのかもしれ ないなと思います。え、僕たちが考えて いるその 後継者作り、 その鍵になるのは、え、まず我々が、え、 みんなに自信を持って、あの、紹介できる 競議会を、え、開催し続けることだと思う んですね。 今、あの、運営に携わってるメンバーは全て、え、そこに埃りを持って、え、 はい。 やっています。 もしその誇りがなければ、え、本当にね、あの 7月8 月の過酷な作業なんか耐えられるもんではないですし、でもこうやってね、あの大会の日を迎えてうん。 全国から 世界から たくさんの人が来てくれるっていうのはめちゃ そして喜んで帰ってもらえる笑顔で帰ってもらえるっていうそれを 経験してもらうことが後継者作りになると思ってます。もしこれ中途半ま 完全な競技じゃないんですね。すいません。 ちょっと、え、名前を言いましたけど、え 、ま、この競技は全然完全なものではない んですけど、ま、少なくとも、え、 僕たちがあの、これがエンデロだって 思えるものを作って いるんですね。 それをしっかりと、え、見てもらって、一緒に作ってもらって、え、その喜びを知ってもらうことが光継者育てることになると思ってます。 あの時こうすれば良かったな、あるいはこの時判断違ったなっていうことはたくさんある。 そこは自分の人生の中で今度生まれ変わったらこうだなっていうのはある。ある。でもそれも含めて高田が 70年80 年の人生だっていいじゃない。え、もう [音楽] 1 回これ生まれ変わってもキラがやりたいですか? どうなんだろう。 大変です。 そうですか。でもね、ま、自分たちっての はたまたま日高に生まれ育ったというその 経緯もあるし、それが自然の流れであれば 人生2回3回繰り返しちゃってねえだろう 。え、 初めて 初めてエンディユ郎という名のつくものに 出場したのは、あのさっきも話したあの 東屋村の2日間エンデューロというやつ だったんですね。 で、え、当時ね、あの、北海道の、え、 有力な新聞に結構大きな広告が出てたん ですよ。バイクブームの頃ですよね。え、 参加者募集って書いてあって、え、現金 書き止めで、え、何日までに申し込んで くださいみたいなのがあって、で、それ僕 、あの、その頃、え、 元クロスをかじって、でも、え、ちょっと あの、早い時期に大きな怪我をして、え、 元はここちょっとできないなってなってた んですね。 んだけど、え、あ、これはなんか林動でレースをやるのかなと思って、 元ロスコースじゃないんならレースもできるかもしれないと思って、それにエントリーしたんですよね。それがきっかけなんですけど、え、ま、大変でしたよね。あの、ハードエンドユロみたいな競技だったんで。 で、古テパになって、え、 ま、若いから、あの、ま、それでもへこた れないんですけど。で、次に、え、日高に エントリーしましたね。日高にもっと すごいのがあるんだぞって言われて、これ よりすごいのって何だろうと思って、日に 出なきゃ本物じゃないってこうみんなに 言われて、え、日高に出たんですね。で、 あの、もうその時すでに代表に会ってるん ですよ。で、え、 うん。 まあ、カレンの影響が大きいですよね。 大将、ジボさんの人柄にこう触れて あ、 なんて言えばいいのかな。その エンディューロっていうのは、え、ただ 面白おかしく 走れ終わりりっていう競技じゃないはずだ と 。 うん。ヨーロッパではこれがスポーツとして確立してる。それはどうしてだっていう議論を吹っかけてくるわけですよ。 ま、その頃からです。それからですよね。 あの、エンデューロって何なのかなって こう考えながら、え、例えばその雑誌の 仕事に携わるようになったり、え、ていう 風になって 行ったんで、まあ今話て気がつきました けど、ま、ジボさんの影響でしょうね。 もうまた是非あ、そうです。はい、 よろしくお願いします。 ありがとうございます。またありがござました。ありがとうございます。 [音楽] ありがとうございます。 [音楽] はい、ありがとうございます。 あ、ありがとうございました。 ありがとうございます。 ありがとうござい、 ありがとうございます。 ありがとうございます。 ありがとうございます。 ありがとうございます。 どうもありがとうございます。 楽しかったです。たまたまあの場所で あの時代に好きなやつがいたからこうだっ たなというそういうことで終わってしまう 可能性の決して否定できない。ま、そう いう意味では我々感動な限りこの地域で 日高でなんとか例え 細とでも 1215になっていいじゃないですか。 うん。そういう気持ちはあります。 こんなことに繰り返しだ。え、これで何十年すね。そんなおはようございます。ございます。 おはようございます。入う。 あっという間ですか? あっというもちろんあの例えドれ最初の日に迎えるやっぱりこれはあるんだよ。で、今日なるとえなみになくなる。仕方ない。あのあれだよ。来年は俺最後だ。 [音楽] [音楽] [音楽] [拍手] [音楽] 変 [音楽] 赤まさんね。サンサやろ。そ、赤さん。 [音楽] [音楽] おいしなかった 太陽 [音楽]

日高2DAYSエンデューロをつくり守る人達のそれぞれ

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