【世界◯位】バイク事故での受傷後いかにしてパラアスリートになっていきパラリンピック入賞の結果を残すに至ったかや生き方・今後の目標など色々伺いました。/脊髄損傷•元パラアスリート花岡伸和さん前編

みんな仕事しながら競技してたんですよね 。なので集まって練習するのは6時ぐらい からやり出すっていう感じで最初はどうし たらいいかわかんないんでその夕方の時間 に合わせて長いに行ってレース用の車椅 借りて乗って一緒に走りに行くみたいな 感じだったんですけど、ま、全然うまく 焦げなくてってよしほらウォーミング アップ行こって言ったらもう置いて行か れるるっていう感じでしたからリハビリ中 にま、高校を卒業するっていう目標に 向かって1番最初に僕がやったのが自分で ご飯食べるっていう行為だったんですよ。 ネタ切りのままご飯を食べるその行動が 成功したことで何かをできるようになって いくサイクルがすごく楽しいっていう ところにも繋がってたんですけど、ま、 リハビリも楽しい、車スマンになっていく のが楽しいみたいなその延長線上に、ま、 パラリンピックみたいなものが見えてきた 感じだったので、ちっちゃいチャレンジ から始まったんですけど、その日の自分に できることを頑張れば明日は新しい自分に なれてるんだみたいなのが実感としてあっ たんだと思うんですよね。 さあ、というわけで本日も撮影をしていきたいと思うんですけど、引き続き元パラリンピアンで車椅マラソンで入勝経験のある花岡信むかさんです。よろしくお願いします。 はい、よろしくお願いします。いや、前半 ではね、バイクの事故でね、どんな感じで 障害を負ってしまったのかとか、その後の リハビリのこととか色々お伺いしたんです けど、なんか後半でも後半ではもう アスリートにどうやってなってくかみたい なことを聞きたいと思うんですけど、まず 簡単に自己紹介してもらってもいいですか ?はい。え、取をご覧の皆様、こんにちは 。花岡信と言います。え、大阪生まれの 49歳、え、元車マラソンの選手です。 2004年のアテネと2012 年のロンドン2大会に出させてもらって 6位と5 位っていうメダルには届かない中途半端な、え、順位で終わりましたけれども いやいや、 ま、なんとかね、世界で片手に入れるっていうまでは行けたので、え、満足して引退をして、ま、その後はコ知をしたり、え、テレビでマラソンの解説をしたりとか、あとは現在横浜国立大学で職員としてどっちかいうとね、もうスポーツよりも教育よりの仕事でご飯を食べてるという人 です。よろしくお願いします。 よろしくお願いします。いやいや、なんかね、本当にアスリート経験がもう 20年ぐらいあって、その中で 2 回の入勝ということで素晴らしい実績を残されているっていうところなんですけど、もう後半ではね、ちょっとなんでどんな感じでパラースリートになってったのかっていうと聞きたいと思うんです。最初どんなきっかけでなんかスポーツ始めたんですか?パラスポーツ。 はい。 あの、ま、病院でもね、そのリハビリ中に体を鍛えるっていうことは、あの、やらしてもらってたんですよ。で、僕子供の頃から休儀も泳ぎもできないっていうどっちか言うとスポーツ万能じゃない。あの、スポーツうん。 音痴のあの子供だったんですけど、ただ唯一あの足で走るっていうのは運動の中で好きだったし得意だったんですよね、割と。 うん。うん。うん。やっぱり車椅子になっ ても苦手なものは苦手なままだしでも得意 なものはやってみようっていうところも あったので、ま、入院中もそのね、病院の スロープ、避難用のスロープ5回まで登る のを、え、歴代記録にチャレンジする みたいなことをやってたので、ま、そう いう経験からも割とおそらく走って記録を 伸ばしていくみたいなことを好きではあっ たんだと思うんですよね。で、1 番、まあ、車S マラソンやろうって思った大きなきっかけが、え、病院で車 S マラソン大会のパンフレットだったと思うんですけど うん。 ま、資料が置いてあるんですよ。リハビリの近くに。で、それの中の車椅マラソンのパンフレットパッと見てみたら外国人選手だったと思うんですけどね。もう真っ黒に日焼けした丸田みたいな腕で車椅ぐわってこいる写真が載ってて、それ見てうわかって思ったんですよ。 うん。うん。 自分もそうなりたいていうところが、ま、アスリートへの入り口だったかなとは思いますね。 ええ、そうなんですね。え、そっからもうすぐ始め 始めるって言ってもどうやって始めたらいいのか。 ま、当時は本当インターネットもないし、あの、そういった紙媒体の情報とかあとはもう人に聞くしかなかったんですよ。 うん。 なので、あの、ケースワーカーの先生に車椅マラソンやりたいけど、どうしたらいいんですかって聞いたら、大阪の、え、長いの障害者スポーツセンターっていうのがあるんですけどね、そこでやっているらしいみたいならしいみたいなね、 ぼんやりした情報だけは得たんですよ。けど、まだあの、入院中だったので、そん時は始めなかったんですけどね。はい。 ただ、あの、後々お世話になる人なんですけれども、あの、スポーツやってる人たちも外来でね、病院に通ったりしてきて、当時大阪老裁病院だったんですけど、入院してたのは、 ま、その人たちがあの病棟の知り合いのところに挨拶来たりとかしてね、ま、遊びに来て、 あの、うろうろしてるのを見てたんですよね。 で、なんか車椅でも軽やかに動いてる人たちやなとかいうのも見てたんですよね。 で、ま、入院地はそんな感じだったんですけど、え、退員して友達についてきてもらって長いの、あの、大会をまず見に行ったんですよね。 はい。はい。はい。で、大会見てみたら なんかもうあの本当自分がこうやりたいっ て思ってたことをやってる人たちを見れた ので、あ、やっぱ自分もこれやりたいんだ と思って、で、その後、え、センターに 行ったら、え、ま、僕が病院でし、知ら ない間に出会ってきた方がやっぱいらして ですね。で、え、その方たちに、あの、僕 も車スマン始めたいんですけど言って 話しかけたら、お兄ちゃん若いな や、なんで怪我したんやみたいな質問されて、もうみんな豪快やなって思ったんですけどね。え、え、まだまだ 18歳ですとか言いながら車椅 S マラソン始めたいんですけど、どうしたらいたらいいですかって言ったらもうすぐにあの誰々がいらない車椅持ってると思うから借りれると思うでとかはい。 ウェアこれ使いってあのお風呂もらったりとかって パパってこうあのおじさんたちがこう おおじさんたちがサポートしてくれてそうな ええそっかなかなかねそのレース用の車椅子どうすんだろうみたいな思ってたんですけどそこはもう貸してくれるみたいな感じで そうですねその日のうちにあの乗ったことないやろ言って一ぺ乗ってみいって言われて とある方の冷の車椅にあの乗せてもらうてなったん ですけど、めちゃめちゃ乗るのが大変だったんですよ。 その動かない足を先に乗せて、で、乗せた足の上にお尻を持っていって星座するような感じで乗るんですけどね。 ま、今はもうパパッとこう秒でできますけれども、 その当時はね、もう生まれ立ての小みたいな状態でレース用の車椅子と自分の車椅子を支えたままもうプルプルプルプル。 いや、普通の車椅子乗るのだけでも大変なのに。 はい。 そんな感じからもう乗り込むのも大変ででもう走り出すって言ってもセンターの中のちょっとねあの通路を少し転がしたぐらいですけどあのまっすぐ進ななくって うん ああなんか表たんとは違うっていうのはあったんすけどねけどなんかあの表とは違うけどやっぱ自分はきっとこれあの楽しめるっていう感覚はあってまそこがやっぱりなんか乗り物好きのね本能という か、 きっとこれなら頑張れば早くなれるんじゃないかなみたいなのはあったので、ま、そこからのめり込んでいった感じですかね。 え、練習どれぐらいやってたんすか? そん時はみんな仕事しながら競技してたんですよね、当時って。 なので集まって練習するのは本当あの6時 ぐらいからやり出すっていう感じで本当 あの最初はどうしたらいいかわかんないん でま僕はあの昼間も時間ありましたけども あのその夕方の時間に合わせて長いに行っ てえ用の車ですか借りて乗って一緒に走り に行くみたいな感じだったんですけどまず その手袋も専用のもの作んなきゃいけない んですけどその時はあの売ってるものを 借り でやってたんですけどね。ま、全然うまく焦げなくってセンターから長いの公園の走路に行くまではみんな一緒に行けるんですけどよし、ほんなウォーミングアップ行こうかって言ったらもう置いて行かれるっていう感じでしたからもうあのはい。 公園のソ路まで一緒に行って、あの、ウォーミングアップで置いていかれるから 1 人でも本当歩く人の方が早いんちゃうかぐらいなスピードので 最初はそっからスタートって はい。 練習しててほんですぐ先輩方があの集回遅れにしてくれてみたいな感じで本当 12周するのも精一杯ぐらいの 1周あそこ確か3.2kmとかうん だったとその距離をあのなんかもう本当よいしょよいしょってはいこぎ始めるところから始まりましたね ええでそっからもう大会とか目指すんですか? そうですねその辺の情報も先輩方から聞いて うん。まあ、1年も乗れば、あの、 マラソンとかも走れるんちゃうかとか言わ れてて、でもあの急にそのマラソン走るん じゃなくって、え、トラックの競技から 出れるからって言われて、で、え、当時は 全国身体障害者スポーツ大会っていう名前 だったんですけどね、今は全国障害者 スポーツ大会っていう名称になってます けど、その大会に、ま、出ればいいよって 言って、で、確か初めてから1ヶ月後とか だったんですかね。1 ヶ月後ぐらいに大阪の予選があるからって言って うん。 で、ま、それ目指してまず頑張ってみいて言われて 1 ヶ月後その大会に出たんですよ。で、ま、 1 ヶ月ぐらい経ってまっすぐは走れるようになってたので、で、なんかもう全国大会は 1章に1 回しか出れないってルールが当時あったので、初心者の大会だったんですよね。 はい。 で、者しか出てこないんだったら若い自分は絶対優勝できるんじゃないかぐらい思ってたんですよね。うん。うん。 で、その大会に出てみたら全然ダメで ちょっと早かったって感じですか? そうですね。 ええ、 あの、世界は広いじゃなくて日本は広いだって思いますね。 え、そん時は何で出たんですか?何メート? そん時は5000mですかね。 で、言うても5000mか。 そうですね。ま、車椅子の場合は足で走る よりあの長距離を楽に走れるので、ま、 割と初心者でも早いうちから距離長いのを 走ったりするんですけどね。 今はそのコーチする中で短距離からやった方がいいっていうのが分かってきてますけれども、当時は最終的には大分の国際車椅 S マラソンに出るっていう風な崩れが出来上がってたので、ま、やっぱりそのマラソンに向けて距離を走るっていうのが割とセオリーだったので、もう初めての大会でも 5000mって感じでしたね。 それでなかなかいい結果出なくて挫折とかはしなかったんですか? いや、それがもうなんですかね。 競技を始めた頃から自分はパラリンピックに出るって周りにも言ってたんすよ。ま、なんならなんならその初めてレース用の車椅に乗る前から言ってまし はい。すごい。 ま、言うたら舐めてたんですよね。そのパラリンピックというものを。ま、言うたらその障害者のスポーツを舐めてて、ま、 障害者のやってることだからそんなにハードじゃないだろうとか うん。 その若くて体力があったらすぐに勝てるだろうとかっていうことを思ってたんですよね。 でもやり始めてみたら全然そんなんじゃ なくって、それこそ乗り移るところから 大変だったし、あのスピードも出ないし、 まっすぐ走るのも大変だしっていうところ から初めてっていう感じだったんですけど 、ま、ただなんでそれでもやり続け たかって言うと多分あのスタートが良かっ たんですよ。競技を始めるスタートじゃ なくってそのリハビリ中にま、高校を卒業 するっていう目標に向かって1番最初に僕 がやったのが自分でご飯食べるっていう 行為だったんですよ。で、ネタ切りのまま ご飯を食べるっていうその行動が成功した ことで、ま、さっきのその何かをできる ようになっていくサイクルがすごく楽し いっていうところにも繋がってたんです けど、そのままずっと来て、ま、リハビリ も楽しい、車椅スマラソンもできるように なっていくのが楽しいみたいなその延長線 上に、ま、パラリンピックみたいなものが 見えてきた感じだったので、すんごい ちっちゃいチャレンジから始まったんです けど、やっぱりその日の自分にできること を頑張れば明日は新 自分に慣れてるんだみたいなのが うん。 多分実感としてあったんだと思うんですよね。 そうなんですね。 これ負けても負けてもあんまり気にしなかったって感じですね。 まあまあまあ最初だからしょうがねえみたいな感じか。 そうですね。今に見とけよみたいな感じですね。今に見とけよ感じで。で、えっと 17歳、178 で始めてパラリンピック最初のが、 え、2004年のアテネで、え、 10年後ですかね。初めてからあ あ、10年やっぱでもそれぐらいは ありましたね。 代表になるまで。 そうですね。ま、それまでに、え、怪我してすぐにアトランタの大会があって、え、 96年アトランタがあって、そして、え、 2000 年のシドニーっていうのがあったんですけど、シドニーは頑張れば狙えたかもしれないみたいな感じだったんですよ。当時は割とその競技レベルも今ほどじゃなくって標準記録っていうのもめちゃめちゃ高いわけじゃなかったんですよね。 ま、頑張ればっていう感じだったんですけど、ただあの競技を始めてから仕事も始めてたので はい。 はい。1年ぐらい経ってから1 年間はみっちりできたんですけど うん。 その後はやっぱ仕事の片手間みたいな感じになってやっぱ競技力ってそんなに伸びてなかったんですよね。 結局白はあの先行にも残れずっていう感じ で終了してでじゃあその次どうやったら 2004年の当てに出れるんやろうところ は色々こう考えを巡らしたというかあの 仕事を転職したりとかしながら うんうんうんうんうんやっぱりフルタイム の仕事じゃ難しいっていうのも 分かったのでやっぱり新しい環境を求めてみたいな感じでパラリンピックを目指していった感じですか ね。 で、ま、仕事とパラリンピック競の両立の中で 244 年の方に入っていって選ばれるみたいな。 そうですね。ま、あの、正確には 2004 年に至るまでに仕事やめちゃったんですけどね。またね。 あ、そうなんですね。 2 つ目の職場で、あの、これ大分の本田太陽っていう、あの、実業団みたいな形でやらしてもらってた、すごくいい環境だったんですけど、ま、パラリンピック行くにはそれでも足りひんみたいな感じで。 ええ、そうなんだ。 はい。た、もうその自分のイメージ通りにやりきるにはもうあの、 1本に絞るしかないなと思う。 で、ま、フリーになって東京に移ってやっ て、その1年半後ぐらいですかねにあった んですけれども、ま、最初はね、環境変え たからうまくいかなかったんですけれども ね、ま、あの、これまではその練習時間が 1日の中で限られてたから良かったんです けど、全部使っていいよってなったら、あ 、逆にやりすぎて なるほどな。 自分であの時間管理しなきゃいけないってなったら逆にパフォーマンス落ちたって ああ。え、でも結果は入勝までなんですよ。ギリギリでしたけどね。ギリギリに本当あの標準記録突破して残れたみたいな感じだったのではい。なんとか間に合ったっていう感じでしたね。 もうそこは調整してなんとか そうですね。 合うように。 うん。 まあ、まあ、でもそこまでなんかうまくいったというよりはガムシャラにやってたらなんとか残れたみたいな感じですけど、 1 回目はそんな感じです。 そうですね。 ま、次は2008 年の北京っていうのがあったんですけど僕行けなかったんですよ。 はい。ああ、そうなんですね。 はい。それもなんかやっぱりこう一生懸命やってたけどうまくいかなかったっていう。 アテネ、あまでは曲がりなりにもなんかガムシラにやって通用したけど、やっぱ北京はちょっとこう国内のレベルも上がってきてたし、表準記録も上がってきてたしみたいな感じで、やっぱり今までのやり方が通用しなかったんだとは思うんですけどね。 そん時もやっぱりあの結婚したり子供が生まれたりとかっていう自分のその生活環境の変化っていうのも影響したんだとは思うんすけど、ま、北京はなんか一生懸命頑張ったけど届かなかったっていう感じですかね。 うん。うん。うん。 で、またその後の4年後を目指して ああ、北京の2008 年に行けなかったことでやめようかなって思ったんですけどね。 もうけど、あの、 2012 年のロンドンに向けて、ま、続けよって思ったのは、ま、息子の存在が大きかったですかね。 2008年には2歳だったので、 記憶に残んないじゃないですか。僕が競技やってたっていうのがね。から、息子の記憶に残るまでやるロンドンもう 1回目指してみようと思って。 いや、息子さんのおかげで続け出たと。 そうっすね。でもその本当なんか 2004年から2008 年までってどん底を見ましたけどそのままなんか続くのかなって思ったんですけどなんか不思議とその 2008 年直前ぐらいは調子が良かったんですよ。 ええ、そうなん。 はい。もうその先行期間は終わってたんで選ばれないんですけど、え、これって行けやんみたいな感じがちょっと うん。 あったので、でも、まあ代表にはなれなかったですけど、ま、そこでちょっと手応えを感じてたので、ま、続けられたのかもしれないですね。 なので2008年から2012 年までっていうのはもう純風満でやればやるほど力が上がって結果がついてくるっていうような状態になって。 へえ。そうなんすね。若い頃よりも、 あ、もう体力は確実に落ちてるんですけど、やっぱり経験とか踏み立て方みたいなものが分かってきてたんだと思う。 あ、ど、どれぐらい練習したらいいかとかも含め。 そうですね。で、やっぱり足りないところを補っていく力みたいなものがかなりついてたんだと思うんですけど。 ここがついててうん。 はい。ガムシラにやるんじゃなくってちゃんと狙った通りにやれるようになったっていうのがその頃やったかなと思いますね。 そっか。そっか。 で、結果もうでもメダル狙うぐらいすよね。それだったら そこがね、やっぱりもうあの長いことやってるし経験上自分の力だったら世界だったらこの辺かなみたいなのがやっぱはっきり見えるんですよね。 ああ、そうなんだ。やっぱメダルまで行くとかなり厳しいみたい。 あ、もう正直メダルは取れないなと。 ま、レースは水物なので何が起こるかわかんないですから狙いはしますよ。 うん。例えばあの有力選手全員が クラッシュしてリタイアしたら 取れる可能性が出てくるけど結局でもあの 狙ってない人間にはそのチャンス巡ってこ ないですからやっぱりそのチャンスを手に するためには絶対戦闘集団にいなきゃいけ ないっていうのはあったんですよね。ただ 目標としてはアテネの結果を上回れ ばオッケーかなぐらいの感じだったんです よね。で、アテネの結果が6位でトップと の差が3分以上開いてたんですよ ね、もう背中が見えない状態で僕はゴールしたので、もうそれはやだったんで、あの、先頭集団で、え、アテネよりも上の順位でゴールできればオッケーっていう風な目標を立ててロンドンには望みましたね。 じゃあ目標は見事に そうなんですよ。結果、え、店頭集団で 5 位っていう刻む感じですけど、ま、アテネの 6位より1 個順位を上げれたっていうのと、え、金メダルの選手から 5秒遅れぐらいですかね。 え、3、3分遅れから。 はい。3 分遅れからちゃんと背中が見える状態でゴールできたので。 お、その5秒がでかい。5秒がでかい。 そうですね。見た目にもね、車椅はあの 30km以上のスピード出てるので 5 秒開いたら結構開いてんですけど 50mぐらい行きますかね。あ、 そんな早いんだ。 そうか。そう、 そうですね。 42.195km 走ってきても最後のそのし、スプリントのね、最後のゴールのスパートの勝負で決まってしまうので、その、そこでやっぱり外どこまで残せるかみたいなこうある。 そうなんですよ。 いやあ、お疲れ様でした。 もうそれでその結果に対してどうどうだってやりきったか。 あのやっぱ負けるのは悔しいんですよね。 うん。 うん。当然前に4 人走ってるっていう状況は悔しいんですけど、ただ自分が設定してた目標はクリアできたっていうそれがあったので、もうあの負けた悔しさよりも自分のやりたいことをやり尽くしたっていうそっちが重くなったんですよね。 あ、時に。 はい。 なのですごいすっきりしたあのフィニッシュラインを迎えることができたと思ってます。 はい。なるほど。それでま、自分の目標とした結果は残して、その後どうするんですか?もう そうすね、 続けるっていう感じなのか、それとも もうあの実はアテネで燃えつき商軍を経験してるんですよ。バーンナウトしてしまって、 もう本当アテネの後の 1 年間ぐらいはやる気がないけどやってたみたいな感じだったんですよね。 で、やっぱりそれを経験してたので、ま、ロンドンの後も燃え尽きるだろうなとも思ってたんですよ。なので、もうやり尽くしたらやめるっていう 決めたんだ。 対するっていうことを決めてやってたんですよね。なのでもあのロンドンのマラソンのフィニッシュラインでああ、これで終われるっていう感覚でしたね。 なるほど。なるほど。それで競技人生には 1度 はい。 ロードを打ってま、次の解説者だったりとかの そうですね。 大げさに言うとロンドンのフィニッシュラインでアスリートの僕は死んだっていう考え方なんですよ。 うん。うん。うん。うん。 はい。 アスリートとしての僕はもうその段階でいなくなった。 ま、息子さんにも見せれたし。 そうですね。本当満足したのですっきりして次のキャリアに移れたかなとは思いますね。 なるほど。なるほど。 ま、そんな感じで競技の話面白かったんで、めっちゃ聞きすぎちゃったんですけど、あの、パラスポーツのやっててやりがい感じるのってどんな、ま、パラに限らずか、スポーツっていう目線で。 そうですね、やっぱりこう自分の世界が確実に広がりますよね。 ま、その、ま、僕はパラリンピックって いうその世界レベルでやったので、自分の 世界が地球上のいろんなところに緩がって いきましたけども、けど別に パラリンピック目指さなくても、例えば ずっと家にいるんじゃなくって、何か自分 の好きな競技をやるってなった段階で、ま 、家から出て、え、いろんな人と出会える るっていう、そういう世界の広がり方が スポーツにはあると思うんですよね。 ま、それが1 つのメリットだと思いますし、あとやっぱりパラスポーツのメリットっていうところでいいくと、やっぱりその体を動かして自分で行動する力っていうのは、あの、すごい大事だと思うんですよ。障害者にとって。うん。 健者だったら何の意識せずやってることを障害者はある程度その努力だったりとか自己実現やりたいっていうモチベーションがないとできなかったりすると思うんですけどね。その時に必要なのが多分体力だ。 だと思うので、体力ってみんなあの筋肉つけて力が強くなることだみたいに思ってると思うんですけどね。そうではなくってあの心理的なところも含めての体力であったりとかあと病気に対する免疫力であったりとか うん。 あ、それってやっぱりその筋肉だけの話じゃなくてメンタルもすごい大事になってくるんです。 そういうこう大きく見た複合的な体力 みたいなものを上げていくっていうのは 障害者にとってめちゃめちゃ大事だと思う んですよね。 の、ま、社会に出ていくための力をスポーツでつけられるっていうところはすごく大きいんじゃないかなとは思いますけど。 で、ちゃんと障害がある人にもそういう機会が提供されているっていう状況が多分パラスポーツのすごい価値なのかなと思うんですけど、 パラリンピックとかそういうパラスポーツでちゃんと競技会があることってどういう価値があると思いますか? か、僕が競技始めた頃のパラリンピックってオリンピックを追いかけてたんですよ。 オリンピックみたいになりたいみたいな 感じでけど、ま、途中からその方向性が 変わってきて、やっぱりその独自性だっ たりとかね、パパラリンピックは オリンピックと同じもの唯一無理だって いうお互いにそのリスペクトし合おうよ みたいなうん。まさにその並行していると いうパラレルっていう意味をね、実現 しようとしてるんだろうなとは思うんです けれども、ま、やっぱりこう最近多様性 だったりインクルーシブって言われてます けれども、やっぱり違いはあると、そして あの融合できないところは必ず出てくるっ ていうけどお互い認め合うことがあの 望ましいインクルーシブっていう状況じゃ ないのみたいなそういうのは パラリンピックだったりパラスポーツから 発信できることだと思うんですよね。 やっぱ社会を変える力ってちいうのはあると思ってるので。 あ、そうですよね。確かに。確かに。 そこはやっぱりパラリンピックっていうものは例えばそのオリンピックと一緒になって 1 つになっちゃうとなんか意義がなくなっちゃうのかなとは思ってるので僕はあのオリンピックとパラリンピックが別々にあった方がいいと考えてる人間なんですけどね。 まさにでも東京の時はね、ま、本当に設備弁で目に見えて変わる部分もそうですし、 心理的な部分も大きく変わってったかなっていう。うん。 感謝しましたもんね。 はい。ま、コロナがあったんで、その東京の町に障害者がいっぱいいるっていう状況ができなかったのがね、多分コロナなかったら当該のある観客も町に出ていってたので、それすごい 1 台ーブメント起こしたんじゃないかなと思ってるんで、これは惜しかったなっていう部分ですよね。 はね、惜しかった。 そう、そう、そう。なるほど。ま、そう、そういう見方もありますよね。確かに。確かにそうですね。 まあまあね、その開催するのが精一杯だったんで、もうやれたっていうのはすごいことだと思うんですけどね。 そんな感じでね、パラリンピックに価値があると思うので、これからも多分関わる活動をしてくと思うので ね、頑張ってほしいなと思うんですけど、あの、もうパラリンピックとか離れちゃってもいいんですけど、花岡さんがこう生きてく中で大事にしてる価値観とか考え方ってなんかありますか? そうすね。 ま、最終的な目標は僕はあの、笑って死ぬことが目標になってるので はいはいはい。 人生の最後でやっぱり自分のやりたいことをやり尽くすっていうのが 1つ かなとは思ってます。ま、なのでやっぱりこう自分の心が動いたことにはチャレンジまだまだしていきたいなとも思ってますし うん。 ま、ま、その気持ちがあったら世の中でできること全部やり尽くせるわけではないですけど うん。 なんか最後は自分自身が満足できて終了するっていうようなそのロンドンのパラリンピックのマラソンのゴールみたいな死を迎えるっていうのが僕の なるほどなるほど 理想なので うん。ま、そこに向かっていくにはやっぱりなんか新しいことにチャレンジし続けるっていうことが大事かなとは思ってます。 ま、それがスポーツの分野だったり教育の分野だったりわかんないけど 心がって感じなんですかね。 はい。 ま、コーチをやり出して気づいたんですけど、僕ってあの人を育てるもちょっと違うんですけど、なんかね、人が変化する瞬間に立ち合うのがすごく好きみたいなんですよ。 ああ、なるほどなるほど。分かるかもしれない。はい。 うん。はい。 やっぱり人間って成長する前に変化してるんですけど、やっぱりその気差しみたいなものを感じれる時間っていうのがすごく好きなので、 ま、それってやっぱりスポーツだったらコーチングだし、教育だったら、ま、あの、ティーチングだけどコーチングの技術を教育にも使えるなとも思ってるので、なんかそういうことをやっていきたいなと思ってますけどね。 なんか変化の瞬間に立ち合えると嬉しいですよね。 嬉しいんですよ。そっか。そっか。 そんな感じでね、色々と新しいことにチャレンジしていきたいという花岡さんなんですけど、ま、今後の夢とかやりたいこととかってなんか近味思ってるものとか、ま、近じゃなくてもいいんですけど うん。割と短い期間でやりたいなと思ってるのが僕はあの、今 3輪バイクに乗ってるんですよ。 ああ、トライクでして何でしょう? バイクにはい。で、バイクで事故したのにクレイジーやなっていろんな人に言われるんですけど。 怖くないのとか言われる。 怖いんじゃないかって思う。 うん。 でも、 あの、どうしてもそのマニュアルのトライクに乗りたくて、あの、車椅の人間ってオートマ免許しか取れないんですけどね。基本それを限定解除して うん。 マニュアルのトライクに今乗ってるんですよ。 え、そうなんすか。マニュアルそっか。そっか、そっか。 うん。 そうなんですよ。でも、ま、その限定解除してもそのトライクにしか乗れないんですけどね。 4 輪のマニュアル者に乗れるわけではなくっていう感じなんですけど。 けどなんかそういう免許制度へのチャレン ジっていうのもさっきのにちょっと含まれてて車椅子に乗ってても僕ぐらいの身体能力だったらそんなに困ることが実はないっていうのが多分あの前半の話にもあったと思うんですけど障害のある人が世の中にいて困り事が違うんだっていうことは忘れちゃいけないと思ってるんですよね。なんか自らその不便なところにちょっと飛び込んでみようかなっていうのがあって うん。 ま、その障害ってその制度的なところにもあるじゃないですか。法整備が必要な部分だったりとか、条例があったら大丈夫になるのにとかその免許度の障害のところにちょっと僕はチャレンジをしてみて。 そっか。まだここまでできるんだけど、ま、現状の制度だとも思うみんな一食にダメですみたいになっちゃってるからそこを変えたいみたいな。うん。世の中まだまだなんだっていうのをちょっと自分で感じてみるためにもちょっとやってみたんですけどね。 けど、ま、それをこう乗り越えてみて、 やっぱりその障害があってもいろんな人の 力を借りてクリアしていくっていうことが やっぱ大事だなとも思ったし、で、その先 にある自己実現で、え、トライクに乗って やっぱり楽しくて気持ちいい感覚が得 られるるっていうそこはやっぱりもう生き て良かったなみたいなところに大げさに 言うと繋がっていくと思うので なるほどなるほど はいま、トライク乗ってよかったなとも 思いますし、ま、それでちょっとあの、ま が片道100km ぐらいのところまでしか体力が持たないので はい。 なんとか九州まで行って九州 1周ぐらいしたいなっていうのがちょっと あ、いいですね。旅はいはいはい はい。 いいですね。いや、トライクめっちゃ乗ってみたいっすね。 ぜ非ぜひオートマでもいいのです。ぜひぜひ。 え、オートマの免許どんぐらいで取れるんですか?あれ トライクは4 輪のオートマ免許があれば乗れるんですよ。 はい。4輪のオートマって言うと 普通のあ、でもはい。普通普通のAT 免許ですね。 あ、車の免許持ってたらいけんのかな?じゃあ そうなんですよ。車の免許があれば 3 輪の、え、オートマは大丈夫か?スクータータイプの はい。 トライプだったらすぐに乗れるんですよ。 あ、乗ってもいいんだ。あ、 乗ってもいいんですよ。 免許一応あるんで最近乗ってないですけど。 大丈夫です。トライク。トライク。結構最近ね、なんか乗ってる人が増えてきて ちょっともっと乗らしてください。 いものだと思うんであれですけど、ちょっと乗らしてください。はい。めちゃくちゃ楽しい。いや、本当に選択肢が増えてくっていうのが何よりもいいことだと思うんで、それ頑張って活動して欲しいなと思うんですけど、ま、最後に視聴者さんへちょっとだきたいなと思うんですけど。 はい。そうですね。 ま、これをご覧になられてる方は多分障害 があったりなかったり色々だろうなとは 思うんですけれども、そういった違いに 限らず行きやすい世の中っていうのは みんなにとってあの良いものだと思うん ですよね。ま、行きやすさ、ま、自分自身 がどうなったら幸せかっていうのは多分人 それぞれなんですけど、逆にその生きづら さみたいなこれはやだっていうのは多分 みんな共通だと思うんですよね。だから やっぱり生きづらさみたいなものみんなが 嫌だって思うものをなくしていくっていう のがすごく大事なのかなと。ま、その結果 行きやすい世の中になっていくんじゃない かなと思うので、やっぱりなんかこうや だって思う瞬間とかやって思う出来事って いうのをなんか人にしてほっとかずに自分 ごとにしてみんなでなんかこう1つ1つ 潰していきたいなみたいなそういう風な ことを思ってるので是非なんか一緒にやれ たらいいなと思ってます。 本当そうです。さっきの免許のね、免許乗れないのやだ。オートマじゃあ、マニュアル乗れないってやだっていうとこからですもんね。 そうと1個1 個解決してくことが障害のある人の選択肢を広げてまた息きづらさがなくなっていくっていうのに繋がっていくと思うんでね、本当にこの発信が何かのきっかけになるといいなと思います。というわけで最後告知とか PRとかなんかありますか? ないですね。 SNSとかなんかやってます? はい。え、 Facebook、インスタ、一応アカウントはありますけれども、え、 はい。じゃあそれ載せとくんで、是非そっからチェック色々出演情報だったりとか チェックできると思うんでチェックしてみてください。というわけで、もう 1時間以上時間経っちゃって、もうなんか めちゃくちゃパラリンピックの話が面白かったんで、めっちゃ聞いちゃったんですけど はい。なんかね、本当に 1 回燃え尽きてまたや子供のために息子に見せたいっていうので競技人生をね、しっかり終わらっていうこと。いや、まさにアスリートだなと思って いやいや おりました。はい。なんかね、そういう燃える場面をね、ちょっと人生において僕も作れたらなんて思ってますんで、ま、これからもなんか機会があれば一緒に何か活動できればなと思います。 というわけで、本日のゲストは、えっと、元パラリンピアンで車椅マラソンで入勝経験のある花岡の信かさんでした。ありがとうございました。 どうもありがとうございました。 鳥ス 動画を最後までご覧いただきありがとうございました。この動画が良かったよ、参考になったよという方はチャンネル登録とグッドボタンをお願いします。

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元パラアスリートでパラリンピックで複数回の入賞経験のある花岡伸和さん。バイク事故での受傷後いかにしてパラアスリートになっていきパラリンピック入賞の結果を残すに至ったかや生き方・今後の目標など色々伺いました。ぜひご覧ください。

▼チャプター
00:00 後編ダイジェスト
01:03 後編スタート
01:35 自己紹介
02:40 パラスポーツを始めたきっかけ
07:55 どのぐらいの練習量?
16:16 北京で一度落選も次のロンドンへ挑戦
21:27 競技人生のその後
24:35 パラスポーツ競技会の価値について
26:49 生きていく中で大切にしている価値観や考え方
28:39 今後の夢、やりたいこと
32:03 視聴者へのメッセージ
33:26 告知・PR事項
34:21 ご視聴ありがとうございました!

▼関連リンク集
>Instagram 花岡伸和(@hanaoka_nobukazu)
https://www.instagram.com/hanaoka_nobukazu
>花岡伸和 (@nhanaoka1)
https://x.com/nhanaoka1

▼ゲストプロフィール
花岡伸和さん
1992年、高校3年の時にバイク事故で脊髄(せきずい)を損傷し、車椅子生活となる。1994年に車いすマラソンに出会い、競技生活を開始。2001年にはパラリンピックをめざすために、本格的に競技に集中し、2002年にはトラック1500mの日本記録を樹立。2004年、アテネパラリンピックの車いすマラソンで日本人最高位となる6位入賞。兵庫県丹波篠山市で行われる全国車いすマラソンでは3回優勝している。2005年からオーエックスエンジニアリングに所属。
※Wikipediaより引用

#パラリンピック
#パラマラソン
#脊髄損傷

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