これから詩と出会う人のために(あるいはすでに出会った人のために)

逆にこの質的情報を意識して読んだ時に 感じる分からなさっていうのは結構 ポジティブな感覚になってくるんじゃない かなという風に思います。 初めまして試作者の湯永と申します。力じ 第1回早速始めていこうと思います。え、 突然ですが、皆さん死というものにどんな イメージを持っているでしょうか?世間に はですね、ま、嫌いというわけではない けれど、ま、教科書に乗っていた死くらい しか読んだことがないなという人や小説や エッセとかは読むけれど、死は読まないん だよねという方がたくさんいると思います 。そこで死というものはですね、こう 分からないとか難しい読むハードルが高い というイメージを持たれているように思い ます。また、え、中身のない発言だったり 、あと心情が強く現れた言葉をやするため にですね、こうポエムという言葉が、ま、 一種の別のように使われている場面も 見かけたりします。え、ポエムという言葉 でですね、こう誰かを攻撃したりする人は ちょっとまた別なんですが、あの死に対し てですね、こう素朴に分からないなと思う 人の気持ちもですね、ま、個人的には 分からないでもないなという風に思います 。だからこそですね、あの、書き手であり つつ、ま、位置読者としてもですね、死を 楽しく読んでいる人間として、ま、知って 面白いよという風に声を大にして言いたい ですし、こう魅力をですね、カジュアルな 形で伝えたいなと思うわけです。なんなら ですね、こう友達と音楽とか映画、あと 漫画とかアニメの話をするみたいにですね 、好きな死の話をしたいななんていう風に 思っているわけです。え、この番組はです ね、僕や、え、時にゲストの方のですね、 死を読むことだったりとか、え、各々が 思うですね、死の面白さというものをこう 発信しながら、え、新しく死に興味を持っ てもらうきっかけになればいいなと思って おります。また普段から死を読む人はです ね、あの、この番組を通してより深く、 またいつもとは違った角度で死の魅力と 出会い直してもらいたいと考えています。 え、ここで自己紹介をしようと思います。 え、僕永はですね、ずっと試作者という形 で活動をしております。え、2020年に ですね、え、刺繍ある私たち、え、 2023年に刺繍壁、窓、鏡という刺繍を 鹿番という形で観光しました。え、鹿版と いうのはですね、あの出版社からこう観光 された本ではなくて、自分で編集などをし て印刷に依頼をして制作をした本のこと です。え、この壁窓鏡でですね、第57回 北海道新聞文学省の支部門の本省を受賞 することができました。え、2024年に はですね、市である現代指手長に作品が 掲載されたこともあるんですが、ま、今は ですね、主に市野同人士を中心に作品を 発表して、え、文学作品の展示職売会で ある文学フリーマなどのイベントで反布を したり、え、また僕はですね、北海道、 札幌市に住んでおりますので、え、北海道 を中心にですね、市の朗読のイベントを 行ったりしています。え、書き手としての 活動の他にもですね、え、ノートで、愚と いう企画をやっておりまして、え、色々な 死について書表だったり感想みたいなもの をですね、書いております。え、初回と なる今回はですね、え、死に対する僕の 個人的な考え方というものをですね、紹介 しようと思います。例えば、え、死とは どういうものとか、死を読むってどういう こととかですね、そういう問えについて 考えていきたいと思います。え、この問い はですね、多くの先人、え、先輩たちが 取り組んできた問いであります。え、正直 ですね、今の自分には手が余るなというの が、え、思うところではあるんですが、ま 、そもそもですね、人は何かという問自体 がちょっと広すぎるんじゃないかなという 風にも個人的には思います。特に、え、 それぞれの詩人たちが作り手として考えて いることというのはセンサだと思います。 え、むしろですね、その考え方の違いに よって多種多様なタイプの作品が生まれて いると言えるわけですね。なので今回は ですね、普段死に触れていない人が死を 味わうために死とは何かという問について 考えていこうかなという風に思います。 この番組はですね、自分の学びの場でも あると考えていますので、ま、初回でです ね、今の自分の考えというものをちょ できる限りきちんと言語化しておこうと 思います。 え、初めに結論を言うとですね、え、日常 生活で僕たちが使っている言葉と、え、死 の言葉というものは、ま、言葉という括り ではですね、同じものなんですけども、実 は根本でかなり異なるものなんじゃないか なという風に考えています。え、同じよう にですね、死と小説っていうのを比べた時 にも文学作品としてはこう同じくりなん ですが、やはりそこの言葉の性質という ものは異なるんじゃないかと、ま、そう 思っているわけですね。 そしてその性質の違いが死の分からなさに つがる部分でもありますし、その違いを 意識して読むことができれば死というもの が少しでも味わいやすくなるんじゃないか なという風に考えています。え、1つ1つ 考えていきましょう。え、まず文学作品と しての死を構成する、ま、言語言葉につい てですね、考えていきましょう。え、ま、 言語の定義というものをですね、ちょっと 調べてみると、え、言語は情報伝達に用い られる記号体系であると定義できるよう です。で、え、ここからはですね、僕の 個人的な考え方、分け方でこの区別がです ね、この回を通して結構重要になってくる んですが、言語から伝達される情報には、 え、意味的情報と質的情報という2種類が あるんじゃないかなという風に考えてい ます。え、意味的情報というのは、え、 その言葉とか文章が表している、ま、意味 のことそのままだと思ってくれたらいい です。え、り語という言葉を聞いた時に、 え、皆さんある果実をこう思い浮かべると 思いますけども、ま、これがですね、意味 的情報を受け取っているという風な状態 ですね。一方で質的情報というのは、え、 言語自体が持っている質感とかリズム、 あと、ま、地面とかですね、そういうもの から伝わってくるニュアンスのことを言い ます。例えば、え、りんごという果実を こう文字で書いて伝える時にひらがで書く かカタカナで書くか、漢字で書くかによっ て印象が変わってくると思います。伝え たい意味は同じだけれど、表記によって 伝わるニュアンスがこう変わりますよね。 ひらが柔らかい印象がありますし、え、 漢字で書くとですね、より硬い印象になり ます。人はですね、こう意識的、無意識的 に関わらずこの意味的情報と質的情報2つ の情報をコントロールしながら、え、言葉 を使っているわけです。ただし、え、日常 生活の中で、え、大体人はですね、意味的 情報の方に重きを置いて言葉を使っている ことがほとんどだと思います。例えば、え 、正確に分かりやすく伝達するということ を求められている時にやっぱり意識され てるのは意味的情報になってくるわけです ね。そしてその時、え、質的情報というの は、え、意味的情報を補助するもの、ま、 つまりこう意味をより分かりやすく伝達 するための、え、あくまでこう2次的な 意識のされ方にとまっているという風に 言えるんじゃないかなと思います。一方で 、え、死というものはですね、日常の言葉 よりも質的情報に重きを置いて作られて いると考えることができます。もちろん、 え、書き手1人1人あるいは作品一ぺ一辺 ごとにですね、質的情報と意味的情報の バランスにはこうグラデーションがあり ます。例えば書かれている意味が全く 読み取ることができない作品もありますし 、一方でですね、誰にでも伝わる表現を 用いて意味的情報を担保した上で質的情報 における表現を行っている書き手もいます 。仮にですね、校舎のような書き手や作品 だったとしても、え、日常的な言葉の使い 方よりはより質的情報を強く意識して書か れているっていうのはですね、間違いない んじゃないかなという風に思います。 そしてですね、本質的に質的情報という ものは言語化が難しいと言えると思います 。例えば、え、音楽の良さとか、え、絵画 を干渉した時の感動っていうのはこう言語 化が難しいと思うわけなんですが、え、死 の味わいもですね、そういうものに近いん じゃないかなと思います。え、もしかする と死は小説より、え、音楽とか絵画に近い と言えるかもしれません。つまりですね、 え、ミュージシャンが音を扱うように、 あるいは画家が絵の具を用いて表現を行う ようにですね、死の書き手は普段意味を 伝える手段として使われている言葉をこう それ自体を目的として、つまり素材として ですね、言葉にならない感覚まここでは 市場という風に表現できるかなと思うん ですが、そういうものを表現しようとして いるわけです。だから、え、死というもの もですね、質的情報というものが表現され た言語化できない味わいを持つた文芸作品 であるという風に言えるわけですね。 もちろんですね、あの、小説を読んでいる 時にもですね、質的情報による非言語的な 感動を抱くってことはあると思います。 むしろ、あの、非言語的な感覚というのは 、ま、あらゆる芸術を干渉する際にですね 、共通で感じるものだとは思います。 ただし、え、少なくとも文芸作品の中では 死というものが最も強く質的情報による 表現が全面に行われているっていうのは 間違いないんじゃないかなという風に思っ ています。 え、次にですね、そんな言葉にならない ものを言葉で表現するし、ま、そういう ものを読むってことはどういうことなの かっていうのを考えていこうと思います。 え、冒頭でも言ったように死を普段から 読んでいない人にはですね、死というもの はちょっと分からないなとか難しいんだよ ねという風に言われがちです。え、特に ですね、現代子と呼ばれるような、え、 括り方をされる作品はですね、それが顕著 だと思います。ただこの難しさ、分からな さというものもですね、かなり複雑な問題 でして、じゃここで言う、え、難しさって いうのは何なのとか、分からないという時 人は何が分かっていないのかとか、こう いう点ですね、こう深掘りしていくと かなりまた果てしない問題になってくるん ですが、様々な難しさあると思うんですが 、ま、それらの難回差の根本にはですね、 その意味的情報を受け取ることができない ということがあるんじゃないかなという風 に考えています。え、繰り返しになります が、え、日常生活においては言葉の意味的 情報を強く意識した言語使用というのが 一般的です。そして、え、質的情報に重き を置いて書かれている死を、え、意味的 情報を読み取る読み方、ま、つまり日常 生活の、え、言葉と同じ読み方でですね、 読んだ時にやっぱり意味が分からない、 難しいという感覚が、え、ネガティブな ものとして感じられてしまうわけですね。 そういう場合にはですね、質的情報が表現 されているんだということをですね、意識 することで味わいに気づけるようになるん じゃないかなという風に思っています。 例えば、え、この語とこの語をつげるんだ とか、このフレーズがかっこいいなとか、 この音が気持ちいいなとか、そういう言葉 そのものが持つ質感とか、リズムを楽しむ という意識ですね。もちろんあの メッセージやですね、ま、書き手の主張 だったり、ま、そういう意味的情報が 読み取れてそこにこう豊かな読みがあるの であれば全然大丈夫です。ただこう読んだ けど全然分からんぞと思った時にですね、 あの、無理に意味的を読み取ろうとする よりはですね、その言葉の質感という方に アンテナを向けるとですね、新たな気づき があるかもしれないというわけですね。え 、そしてですね、意味的情報を読み取ろう として感じた意味の分からなさっていう ものはネガティブなものなんですが、え、 逆にこの質的情報を意識して読んだ時に 感じる分からなさっていうのは結構 ポジティブな感覚になってくるんじゃない かなという風に思います。いわゆるこう 分からなさを面白がれるようになるわけ ですね。ま、そもそも質的情報というのは 言語化できない、非言語的なっていう意味 に言えばそもそもが分からないものなわけ ですね。で、よくあの死をですね、普段 から味わってる人だったりとか書き手の人 がですね、ま、死というものは分からなく ても大丈夫なんだよという風に言うんです けども、ま、その言葉の真意にはですね、 そういうところがあるんじゃないかなと いう風に思いまして、つまりですね、あの 、そういう方々はこう言葉を意味的では なく、すでにこう質的に読んでいるわけ です。ただこの前提がない人がそれを聞い てしまうと、ま、そう言われた後も やっぱりこう意味的に読むというのを続け てしまって、ま、その結果あの分からなく ても大丈夫って言われてもなという風に こう嫌になっちゃうわけです。ただ、え、 ま、注意しなくてはいけないのはさっきも 言ったんですが、ま、書き手1人1人 あるいは作品一ぺ一辺ごとにですね、意味 と質感ここにはですね、グラデーションが あるということです。え、全く意味の取れ ない作品もあれば、え、書かれていること の意味をしっかり伝わるように書いた上で 非現稿的な味わいのある表現をする作品も あるわけです。え、そこにですね、あの、 有劣とかはなくて、ただタイプの違いが あるだけだろうという風に考えています。 え、食べ物で例えるならですね、あの、お 吸い物みたいな、こう繊細な味わいの作品 もあれば逆にですね、こうビールみたいに 喉越しを味わうようにして読むと美味しさ を感じられる作品もある。そんな風に 言えるんじゃないかなと思います。大前提 としてですね、あの、死の味わい方って いうのは自由です。自分なりの読み方で 美味しさをですね、感じられているので あれば何の問題もないわけです。ただ、え 、ある作品を読んでちょピンとこないなと いう時にもしかしたら、え、お吸い物 みたいな作品をですね、ビールを飲む みたいに味わっていることが原因として あるかもしれない。ま、そういう可能性も あるわけですね。こういう事態はですね、 あの、意味をこう正確に伝えることが優先 されるような日常生活の言葉ではなかなか 起きにくいですし、え、だからこそですね 、そういう事態になった時に、いや、もう 死まなくてもいいかなみたいな風な反応に なってしまうわけですね。個人的な読み方 としてですね、あの、読む作品のタイプに こうチューニングしながら読んでいく そんな意識で、え、僕は読んでいるところ があります。えっと、あの、箱の中身は何 だろうなみたいなクイズあると思うんです けど、ああいう風にこう言葉の手触りを 確かめながら読むような感じです。ま、と はいえですね、読み慣れていない人にとっ てはですね、どうチューニングするのと 思われると思います。ただ具体的でこう 速行性のあるメソッドを教えるということ はやっぱりできないですね。ただ、えっと 、細かく見ていけばですね、一ぺ、1の 味わい方は異なるんですが、ま、大雑っ把 なタイプみたいなものはやっぱりある だろうと思いますし、また血を普段から 読んでいる人はですね、その人なりの 味わい方の癖みたいなものがあります。 例えばこういうところに注目するとか、 こういう要素に反応しちゃうんだよねと いうものがそれぞれにあるわけですね。 さらに言うと、え、仕めるようになると いうのは、え、自転車を乗れるようになる のと近いんじゃないかなという風に僕は 考えています。え、最初は補助林輪がない とこう倒れてしまうんだけど、え、練習を 重ねていくとあるタイミングで乗れるよう になる。1度乗れるようになると多少 バランスを崩しても転ばなくなるわけです ね。これがですね、死の読みにも言えるん じゃないかなというところなんですが、 ちょっと具体的な話をするとですね、 少なくとも僕はそうなんですが、え、どう にもうまく味わえないとか、ちょっとピン とこないんだよなという死がですね、 やっぱりあります。ま、こういう話をです ね、直接聞いたり尋ねたことはないんです が、え、みんな言わないだけでですね、 どんなすごい詩人だってそういう作品が あるんじゃないかなという風に思ってます 。ただ、え、読み慣れている人はですね、 そういうピンとこない作品に出会っても、 こうバランスを崩して倒れてしまうって ことがないんですよね。その分からなさを 受け流して味方を変えつつですね、こう 読み返してみたりとか、ま、一旦ちょっと 距離を置いてまた別の作品を読んでまた ちょっと時間を開けてから読み直して みようみたいな感じで、こう柔軟に対応 できるわけです。またですね、え、自転車 になぜ乗れたのか、乗れるようになったの か、これはすごく言語化が難しいと思うん ですが、塩を味わえるようになる感覚と いうのもすごく言語化が難しいんじゃない かなと思いまして、あの、どちらもですね 、非常に感覚的に習得をするわけですね。 そういうところも似ているんじゃないかな という風に思います。この番組ではですね 、僕やゲストがどういう風に死を味わって いるのかというサンプルをたくさん提示し ていきます。え、死に親しんでいる人が どういう風に死と付き合っているのかを 発信することでですね、読みの自転車に 乗れるようになる人を増やしたいなという 風に思っています。ま、とはいえですね、 それらをこう学ぶ、勉強するぞという意識 というよりはですね、ま、なんとなく頭の 片隅に置いてもらって、少しでも興味の 湧いた死があったらですね、実際に読んで みて欲しいなという風に思います。 えー、最後に僕の感じる死の面白さについ て話していこうかなと思います。まず言語 表現そのものの面白さとしてですね、 やはり日常生活の言葉からは感じることの できない感覚を抱くことができる表現と 出会えるという点があると思います。え、 それもですね、大きく分けるとこう2種類 あると思っていて、1つはですね、 シンプルに自分の外側からやってくる未知 の表現に対する、ま、驚き、ま、そういう ものに対する面白さですね。前提として、 あの、僕たちにはこう、これまでの人生で 培ってきた経験とか考え方からできた、 こう領域みたいなものがあるかなと思うん ですが、1つ目のパターンの道というのは この外側からやってくるものなわけですね 。え、さっきも言ったこの言葉とこの言葉 をつげるんだみたいな驚きのあるこう キラーフレーズみたいなものをですね、 こういう部分に当てはまってくると思い ますし、また刺繍全体からですね、味わっ たことのない質感を感じるみたいな体験も 結構あります。ま、そういう感覚はですね 、なんというか至った瞬間にもうこの表現 以外にはありえないなと確信してしまう ところがありますね。こう1回目にそう 思うこともあれば何度も繰り返し読んで 定まってくる時もあるんですが、ま、 とにかくこうピントが合うみたいな瞬間が あります。なんというかその瞬間に一瞬で こう自分の深いところまで届いてしまうと 言いますか、抵抗できない問答無用でこう やられてしまうみたいなところがあります 。え、2つ目のパターンとしてですね、ま 、自分にとって、ま、基地のもうすでに 知っている出来事とか感覚っていうものを こう改めて味わい尽くせないものにして しまうみたいな表現、そういうものに 対する面白さっていうのがあります。 例えばそうですね、りんごが床に落ちると いう現象を、ま、僕たちは知ってると思い ます。実際にですね、経験したことが なかったとしても、ま、その現象を自分 たちの経験とか常識みたいなものの延長線 上にですね、ま、落ち着けることができる んじゃないかなという風に思います。ま、 そういう風にして僕たちは様々なものを 理解しているわけですね。けれど、え、 あるタイプの死においてはですね、僕たち が、え、ま、1つの物事を理解する時に 削ぎ落としてしまった細部、ま、そこには こう美しさ、恐ろしさ、壮大さ、豊かさ みたいな、ま、そういう、ま、簡単に1つ の言葉にまとめることができない複雑性 みたいなものがある。ま、そういうものを ですね、死が表現する瞬間があるわけです 。すでに知っているはずのことなんだ けれども、そこにある味わいきれなさ みたいなものを改めてこう表現してくれて いるわけですね。こういう風に自分の領域 のこう外側から来る道そして内側から再 認識するように感じられる道ま、そういう ものとですね、出会える言語表現という ものにですね、とても僕は惹かれます。え 、またですね、死を読む行為そのものが 持つ面白さというものもあるんじゃないか なという風に思います。血の言葉の特徴と して、え、他の言葉に比べて飛躍とか余白 みたいなものが多くあるという点が上げ られると思います。意味的情報としての 言葉を突き詰めていくと、ま、その意味を ですね、正確に伝達するために言葉から どんどん余白みたいなものがなくなって いくと想像できると思うんですが、逆に質 的情報に重きを置いている死というものは 、ま、それ自体が、ま、死として成立する ために、ま、必然的にそれら、ま、余白、 飛躍、ま、そういうものをですね、自然と 内放しているという風に考えられます。と そうでない言葉の教会線を、ま、明確に どこかでこう線引きできるというわけでは ないんですけども、経験的にですね、ま、 死と言われる言葉にはそういう特徴がある んじゃないかなという風に思います。 そしてその隙間を埋めるために、え、読者 は一般的な言葉よりも能動的あるいは主体 的に読むことが求められるのではないかな という風に考えます。これはあのさっきも 言った質的情報を意識しながら読むという ことにも近いんじゃないかなと思います。 ま、こう今これを読んでいる自分という ものも、ま、1つの基準点にして死の言葉 に関わっていく。例えば飛躍した文脈を 自分の経験で埋めたり、意味を伝達して くれない言葉の質感っていうのを、ま、 自分なりに探っていく、ま、そういうもの が、え、ま、主体的に読むというところな んじゃないかなという風に思いますし、 そしてですね、そこでは、ま、読み間違い 、ま、愚というものがですね、問題になら ない。むしろ、ま、死における愚というの は、ま、とても豊かなものとして、あの、 意味付けられるんじゃないかなという風に 考えます。その結果ですね、死に食発さ れる形で自分なりの言葉が発生するという ことも、ま、よくあって、例えば、あの、 僕最近読んだ市でですね、あの、読んでい て、あの、地元の中学校の下行ルートを 思い出したことがあります。ま、そので ですね、実際にそういうシーンが描かれて いるわけでは全然なかったんですが、ま、 ある1にですね、自分の記憶が発されたと いう体験です。そうやって、ま、ただ情報 を受け取るだけじゃなくて、えっと、一種 の濃動性がこう働いてしまうと死を読んで いると、ま、読んだ言葉に思わず答えて しまう、反応してしまうみたいなところが あります。言うなれば死を読む時人は言葉 とコミュニケーションしている。そんな風 に言うこともできるかもしれません。ま、 死はですね、その余白がゆえに、ま、時に 分からないものとして受け止められて しまうんですけども、他の文学ジャンル よりもより主体性を働かせる余地があって 、ま、とてもポジティブな意味でですね、 誤可能性が高いという風に言えるんじゃ ないかなと僕は考えています。死を読む ことというのはですね、時に死を書くこと と同じくらいクリエイティブなものだと 言えるかもしれません。ま、そういう読み 方ができる点にですね、死の面白さがある と思います。 え、この辺りで初回は終わろうと思います 。1人で話しているとどうも理屈っぽく なってしまいますね。え、ただ、ま、ここ までの話はですね、僕の現時点で、ま、 ある程度は妥当だろうと思っている、考え ているところなんですが、ま、あくまでも 僕1人の経験的に考えてきたことですし、 ま、これで全ての考えをモーラできたとも やっぱり思ってはいません。なんならです ね、話していて、あの、まだまだまとまり きっていないなという風に、あの、思い 始めてもいます。もし、あの、僕の考えの 補足ができるよという人やですね、ま、 ちょ、全く別の考え、意見持ってますよと いう人がいたらですね、是非あの、 コメント欄に書いていただけたら嬉しい です。概要欄にはですね、お便りフォーム もありますので、どしどしお便りの方送っ て欲しいです。この番組ではですね、飯の 考え方、感想など、ま、たくさんの人の 考えが集まっている場所になったらいいな とも思っています。そして、え、僕自身も そんな環境で学びながら番組をやって いければなという風に思っています。え、 他にもですね、概要欄にはあの刺繍の感想 をですね、文章の形で書いております。僕 のノートだったり、あと自己紹介の時に 紹介した刺繍などの通販サイトへのリンク も載せております。え、興味を持って くださった方がいたらですね、是非 チェックしてみてください。では、最後に この番組良いと思ってくださった方はです ね、チャンネル登録やフォロー、高評価や コメントなど是非よろしくお願いします。 ありがとうございました。

詩の魅力を発信するラジオ。初回となる今回は、詩を読むこととより親しくなるために、「詩とは何か」「詩を読むとはどういうことか」という問いを考えます。故永が思う詩の面白さについても。

【今回の内容】
00:00 ハイライト
00:13 はじめに/自己紹介
03:42 詩と親しくなるための「詩とは何か」
04:54 言葉の〈意味的情報〉と〈質的情報〉
07:56 詩は〈質的情報〉に重きを置いた表現
10:19 〈質的情報〉を意識して読む
13:47 詩のさまざまなタイプを意識する
16:09 詩を読むことと自転車に乗ること
18:19 言語表現そのものの面白さ
21:10 詩を読むという行為の面白さ
24:19 最後に

【お便りフォーム】
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeFIDz9boseDPFW6FyGQcWBRqaevhBS7jK_w1x5kdDPvQDR9A/viewform?usp=dialog

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【故永しほるプロフィール】
詩作者。1998年生まれ。北海道在住。「北十」、「崩壊系列」、「三角球」所属。2023年に詩集『壁、窓、鏡』(私家)で第57回北海道新聞文学賞本賞受賞。ほかに、詩集『あるわたしたち』、おみくじ器に59人の詩を収録した合同詩集『占球儀』(ともに私家)。
X(Twitter):@OOE_Naka
note:https://note.com/shigo_to

チャンネルアート:町田すみ様
BGM:MusMus様
効果音:Notzan ACT様

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1件のコメント

  1. チャンネル開設、おめでとうございます。初回からとても聞きごたえがあり、詩の初学者のみならず読みなれている人にとっても考えさせられる内容だと思いました。一回聞いて感じたことを以下2点お伝えいたします。

    1. 意味と質感の両方を込められるのが詩のよさだと感じます。
    質感だけだったら絵画や音楽のほうがすぐれているのではないでしょうか。(質感の意味を取り違えていたらごめんなさい)
    意味とともに質感も持てる存在だからこそ、他の芸術と比べ詩のポテンシャルはより高いのではないかと思いました。

    2. 一度読んで意味的に難解と感じた詩を、質感の面から読み返すためには、再読の手間をかけてでも読み返したいとおもわせるだけの動機が必要と思います。おそらく故永さんにとって再読を繰り返して良さをみつける類の詩は、つかみや詩全体の空気感にどこか手放しがたい魅力を感じたものなのではないでしょうか。そういった、初見の難読性は高くてもどこか引き付けられるものがあるのは、意味的に心に訴えるなにかを潜ませているためだとも思えないでしょうか?
    感情の動かされるキラーフレーズが一か所でもあれば、それをフックとして読み続けられる、といった読み方もありうるかもしれず、書き手としてはそのようなフックをどこかに仕掛けることも必要なのかもしれない、と感じました。

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