岡山臨港鉄道の起点から終点を辿る!岡山市街と岡南を結んだ鉄路はなぜ生まれ、消えたのか?【岡山廃線跡紀行#2】

はいどうもモンゲーライダーです今回は ですね大本駅に来ておりますまこちら宇野 線と瀬戸橋線のねま駅なんですけれどもね でねなぜこの大本駅に来ているかというと ですねここにですねかつて江南地域と岡山 市街市を結ぶ岡山林光鉄道というね路線が 走っていたんですねその起点がこの大本駅 なんですねなんでね今回はですね岡山 ハイセアトシリーズ第2弾ということでね 岡山林行鉄道そちらのねえ配線を辿どって 歴史を掘り下げていきたいと思います [音楽] ということでねこちらが大駅ですけれども ねまこれ高架駅になってましてねまここに 電車が走っているということなんですけど もねただその岡山林行鉄道が走っていた 当時は大駅は高架ではありませんでした なんでね今ここに見えてるここですねここ にですねま宇野線そして岡山林行鉄道の 線路が走っていたなんで今見えてるこの 通路ねこの通路は線路跡ということになり ますま当時の資料を見る限りね岡山林行 鉄道のねホームというのはこの宇野線の ですね宇野方面行きのホームのま対面に あったということでまあね今もう大本駅に はねどこにこの岡山林行鉄道のホームが あったとかねまそんなものはもう一切残っ ておりませんのでねもうここら辺だという 推測でしかないんですけどもまこの辺り でしょうねホームがあったのはなんでここ からま列車が出発して江南の方に向かって いくということですねでねま大駅ですよね でこのままこうやってね歩いていくとね先 にですねリンコグリーンアベニューという 場所があるんですねまま唯一ねこの岡山 林光鉄道の林というねえ当時の名残りが 残る場所ですよでねこんな風にね当時の 岡山林行鉄道のね線路があった場所大本 からねU歩道になってるんですよねなんで ねこの辺りはねとても配線後が分かり やすいんですよねということでここからが このリンコグリーンアベニューという場所 みたいですねまこれは当時のね岡山林光 鉄道の配線跡を使ってねま整備したU歩道 という感じですねだから本当こう見ると 綺麗にここはもう線路の跡が分かりますよ ここにはちょっとした橋がありますけれど もまなんでここは鉄橋があったってこと でしょうねうんここを列車が渡っていたん ですよねでこの橋あたりで林光鉄道と宇野 線は分岐します宇野線はね西一とか瀬方面 に行きますし林光鉄道はここから新泉田 方面へ向かっていきますねということでね 大本駅の次の駅がねもうすぐ見えてきます んでねそちらに行きたいと思いますまあね でもこうリンコグリーンアベニューを歩い てみるとね本当いい散歩道って感じですよ あま今の時期ね歩くとちょっと熱中症の 危険があるんですけれどもまあね気候の いい時に歩くととても気持ちのいい散歩道 ですねでそのままね歩いていきますとね このリンコグリーンアベニューというのは ねまちょっとした歩道鏡が出てくるんです ねま当時林行鉄道がね走っていた頃はこの 歩道鏡なんてなかったはずなんでねまこの 地面を走っていたんですがどうやら昔の 地図を見る限りね今のこの道路はねないん ですよなんで当時はまここ電園だったって ことでねま電園の中をこの臨行鉄道は走っ ていっていたっていうことですよねまこの 歩道橋を渡りますとね岡山市南区という ところに入っていきますここに次の駅が あったんですねさあということで見えてき ましたよ次の駅ですねこちらの駅がね江南 進方駅ですね これね本当綺麗にこのプラットフォーム そして線路跡が残ってるんですよま岡山 林行鉄道の駅の中でね唯一綺麗に残って いるのがこの江南方駅ですねまこの駅名表 もね多分後からねえ取ってつけたものだと 思うんでね当時のものではないと思うん ですけれどもねなぜかねこの辛抱っていう ま致名なんですけどね駅の名前はね江南信 だったんですよなぜかねなんでそうなのか わかんないんですけどもねご覧のように この江南進方駅というのはねま一面一戦の 無人駅だったみたいでねま小さな駅だった ようなんですねま当時はここのホームにね 立って列車を待っていたっていうのがね こう思い浮かぶようなこうが思い浮かぶ ような場所ですよね もう当時はここまでこう緑なんてなかった と思うんですけれどもねうんまあね昔は この辛ボに駅があったっていうことですよ ねでね林行鉄道開業当時はこの信駅なかっ たみたいでねま大本から泉田まこの距離が ちょっと長すぎるっていうことでま新設さ れたのがこの江南新方駅ま今日ちょっと 暑いんですけどねここは涼しいです影も あってねなんか散歩道のいいお休みどって 感じですよねうん雰囲気もいいですね 江南進歩駅出るとすぐ踏切りがありますま この道路は当時からあった道路なん でしょうねなんでここに踏切りの跡がね しっかりとね残っているんですよこれは どう見ても当時使っていたものそのままの ものだと思うんですけどもね でその江南方駅を出ますとね次はね泉田の 方に向かっていきますでは次の駅に向かい たいと思います はいということでね続きましてはね江南泉 駅へ向かいますまこの右側にね江南 グリーンアベニューねま臨行鉄道の配線跡 がね走ってますからねまおそらく臨行鉄道 の車窓からはこのような景色が見えていた はずだと思いますで国道2号バイパスを 超えていくと次はね国道30号それのま 立体交差の部分に入っていくんですねま これは臨行鉄道が走っていた当時からね ここは交差になっていたみたいでねでこの 国道30号の交差の先に江南泉大駅があっ たっていうことですねこの辺りが江南泉 大樹があった場所ですではちょっと降りて 行ってみましょう はいということでね岡山市南区の泉田まで やってきましたねここにですねかつての 臨行鉄道江南泉田駅があったっていうこと でねまここにね鈴木の販売店があってえ その向こうに国道30号の効果ですねま 地図で見る辺りはこの辺りに駅があっ たっていうことでねまおそらくこの辺 でしょうかねなんかね昔の写真を見るとね これ昔のこのスズキの販売機てがなんか 映り込んでるんですよなんでこの辺りに駅 があったんじゃないかなと思うんですけど ねまこの辺りもやっぱり景色が変わってる んでしょうね昔の地図を見る限り泉田 あたりも結構電園が広がっておりました からねで今大本からねずっとね夕歩道が 整備されてましたこのリンコグリーン アベニューですかねこの泉田で終わりと なります でこのグリーンアベニューのま終点あたり ここにま江南泉大駅があったっていうこと ですよねおそらくこの高架の向こう側に ホームがあったんじゃないかなと思います まこれが国道30号の効果ですけれどもま ここら辺りにホームがあってまこの今のね 目の前のこの道路ねこれはかつての林行 鉄道の配線後ですからねなんでここを電車 が通っていたでこの辺りにおそらくホーム があったものと思われますねでどうやらね ネット情報によるとこの辺りのね民家の どこかにね江南泉田駅跡後っていうねなん かちっちゃなモニュメントがね残って るっていうのはねなんか情報であったん ですけどねさあどこにそれがあるのかが よくわかりませんねてな感じでね歩いてい たらねありましたねここに泉田駅アって 書いてますよこれめっちゃ新しいですね 結構最近けられたものなのかなということ はじゃあここに泉大駅があったっていう ことでしょうね まということはそのまモニュメントがある 民家のここのスペースねこれホームだった んですかねもしかするとまそのようにも なんか見えない気もしなくありませんね なんか不自然な段差とかもあってスペース もあるここが泉田駅のホームだったん でしょうかね はいということでね泉田からえ次の駅ね 江南福田駅へ向かいますね今私が走ってる この道路ねこれがまさに行鉄道のま配線後 ですよま配線になった後ねま道路として 活用しているっていうような感じですねで 今左手には方線航ねはいなんでこの方線 高校の横の歩道あたりがこれま線路だった んでしょうかねまこの辺りもね当時とは 景色はだいぶ変わっているんでしょう けれどもねま当時の臨行鉄道の車窓はま このような形だったんですよねま全く今 同じようなルートを走っていっております からね でそのまま鉄道は浦安に入っていきますね ま江南地域の中心部に入っていくっていう ような感じですよこれからねでそんな江南 地域の中心地区の最初に見えてくる駅が この江南駅ですねこの辺りが江南駅があっ た場所になりますでは降りてちょっと見て みましょう はいということでねこちらがね江南福田駅 があった場所ですねここにはねもう立派に 岡山林行とねま林鉄道を思わす言葉があり ますよここにま今たくさんの車両が往来し ておりますけれどもここにえかつては臨光 鉄道の列車が止まっていたんですねまここ はですね空港線とのクロスポイントになっ てましてねま交通量も結構多い場所そこに ね江南副駅があったんですけれどもねなん でねこの空港線はね路線バスが走っており ますからね末キにはねこの江南福田駅の 乗客はかなり激減したみたいですね全て 路線バスに乗客を取られていったみたい ですねまかつての後南副田駅があった場所 のすぐ後ろにあるバス停ねま浦安口って いうバス停ですよまなんでねこの江南副田 駅というのはね岡山市南区浦安その浦安町 の玄関口の役割を担っていた駅なんですね ま江南副にもねその当時のまここに駅が あったよと示すようなモニュメントは残っ ておりませんただこの建物が当時からある 建物なんでねまこれが目印となりますここ に江南副田駅があったということになり ますであそこにはね岡山CCレミコンと 書いてありますけどねま当時はねあそこ 小野田レミコンと言ってたみたいでねこの 江南福田駅から専用も伸びてたみたいです ねでこの倉庫にも速線があったっていう ことでねま要するにこの江南副駅というの は臨光鉄道における貨物のま中心駅みたい な感じだったんですかね はいということでね次は江南駅を出ますと ね南木町駅という駅に向かうことになり ますこれがねちょうど当時の線路の後です ねではねこの道路を走って南北基町駅へ 向かっていきます 今こうやってね住宅街になってますけれど もおそらくここが当時の臨行鉄道の配線後 だと思われますね はいということでね岡山林光鉄道のね 南基町駅があった辺りまで来ましたけれど もねま大体この辺りに駅があったっていう ことでねこの個別指導学院ねこの辺りにま 波基町駅があったとま地図上ではそうなっ ておりますねでまこの波基町駅もねその駅 があったことを示すモニュメントとかね私 ってのも一切残っておりませんただね多分 この個別指導学院のこの辺りの駐車 スペースねここにねおそらく線路とホーム があったんじゃないかなと思うんですけど もねでその駐車場にはね市内につき 通り抜き禁止って書いてあるんですけど 株式会社岡山林行学園の看板を立ててるん ですよなのでおそらくまここに波基町駅が あってでねこの右側のこの道路ねこれはね 当時からある道路みたいなんですよなんで この道路の左側ここにやっぱり線路と ホームそして駅があったと思われますね ただまあね全ては推測の上でねまここが駅 だろうと断定してるんですけどもま1つね ここが駅だったことを示すものとしてね この駅前にあるこの廃墟と貸している ショッピングタウンですよまこの廃墟 チックなねショッピングモールはね若ばさ ショッピングタウンというものらしくて ですねま要するに波吉町駅が現役だった時 に多分作られたショッピングモールなん ですよねでこの波吉町駅っていうのがです ね当時の臨行鉄道のね途中駅の中でね1番 利用客が多かった駅なんですねまつまり 江南地区のま中心市街地にある駅なんでね なんでこの駅前にはこういった風な ショッピングモール若ショッピングタウン ンっていうのがね作られてたんですよ まあなんでねこれはもう境ある駅前にあった商店街だってことですよ これね見てくださいちょっとしたアーケード商店街になってるんですよいすごいなもう駅はト区の前にねなくなってますけどまその当時のねま賑わっていた名残りをねこういうところで感じることができるんですよねまここもね行ってしまえば完全にシャッター街にはなってしまってるんですけれどもね まかつてはねああいった駅前商店街が作ら れるぐらいにねま南基町駅っていうのはね 結構栄えた駅だったんですけれどもね元々 はね南北町駅っていうのはね林光藤田駅と して開業してるんですよま要するにね現在 の岡山市南区藤田まその地名を駅名にして いたっていうことでねま本来の藤田って いうのはこの波基町よりもう少し西に行っ たところになるんですがねただ林行鉄道が 開通当時はねこの南基町っていう場所も 藤田とされてたんですねま要するに藤田組 が観拓したばかりの土地だったんでね波町 という致名はなかったんですけどもまその 後どんどん住宅地となっていって波基長と いう住所になりどんどんと住民が増えた ことによって昭和50年代に波長という 駅名に解明してるんですよね はいではね林光鉄道南北町駅を出ますとね 次は江南元町駅へ向かいますもうねほぼ 終点に近いような駅ですね多分この道もね 当時線路だったはずなんですけどもねこの 先に後南元町駅がありますということでね 次の駅に向かいましょう はいということでねこの辺りがね江南元町 駅があった辺りですね江南元町っていう もう駅名とか地名はね残ってないんです けどね一応バス停にここがち元町ってなっ てますねでそのち行元町えそのバスのすぐ 向い側ねここにね岡山林行倉庫の本社が あるんですよあそこに林鉄道本社倉庫って 書いてますねま昔はここが機関区だった そして林光鉄道の本社があった場所です そこに江南元町という駅があってですね まあね岡山林光鉄道の名前が残る場所って いうのは今ここぐらいじゃないですかで 一応ここにね当時の臨光鉄道のね車両が 展示されてるんですよまつまりねこの江南 元町駅っていうのはね旅客扱いの駅の終点 だったんですよねなんで乗客はここまで 来ることしかできなかったまなんでねこの 江南元町が終点でまその先は貨物専用と なりましてねこの先は南岡山駅そして岡山 港へと続いていくんですね [音楽] でこの江南元町駅というのはね昭和43年 に会場してましてねま臨行鉄道の中ではね 1番新しい駅なんですよねで元々ねこの駅 っていうのは南岡山駅が元になってまして ね南岡山駅と分離したことで生まれたのが この江南元町駅なんですね なんでね岡山林行本社のね倉庫の横のこの道路がね元々は江南元町から南岡山まで続く線路後なんですねま このホームセンターロイヤルからちょっとこちらに行ったとこにね岡山林行倉庫のまた敷地がありますからおそらくこの辺りが南岡山駅だったんじゃないかなと思いますね [音楽] というわけでね岡山港までやってまいり ましたねここがね岡山林行鉄道の終点の駅 だった岡山公があった場所ですねちょうど 地図場でね岡山公があった場所にはね今 岡山林行のね倉庫がありますよなので駅の 場所はおそらくこの辺りで間違いない でしょうねでね岡山公はねこの岩壁までね 線路が伸びていたようでね江南元町駅が できる前までは旅客もやってたんでね岡山 港湖までえ乗客を運びこの小島湾対岸に ある北浦地区まで私も出ていたそうですね 起点の大本から終点の岡山港まで林鉄道の 奇跡を辿どってきましたがこの岡山林行 鉄道の開通は昭和26年であり廃止になっ たのは昭和59年ということでたった33 年間だけ運行していた鉄道なんですね33 年間岡山市街地と江南地区を結んだこの 岡山林行鉄道はなぜ生まれなぜ消えたのか それは岡山林行鉄道が走っていた江南と いう地域この地域が大きく関わっているん ですねこの江南地域というのはですね 藤田組の観拓によって誕生した土地であり まして戦前は農村地域だったんですが岡山 県は当時工業を新しい機間産業にしようと 監拓だった江南に向場を誘致することにし たんですねその結果後南地域には4つの 企業の向上が進出した倉レの全身である 倉敷権職記者製造立川飛行機三井造船この 4社が進出したことで現在の後難は発展し ていくことになるんですねその名残りと いうのはですね現在の剣道40号岡山光線 に残っておりましてねこの道路はね別名 人権道路と呼ばれておりますこれはね人に キぬと書いて人権道路と読むんですがね なぜこのような相性がついているのかと いうと昭和9年にですねこの江南に倉敷 権職岡山工場がねえ進出したことでその 物資輸送の目的としてこの道は整備された んですねなので今でもですねこの人権道路 という相性がついているんですねそしてね 倉敷権職などのね大きな会社が後難に進出 したその数年後にね太平洋戦争が激化して いくことになりますこの4社は総力を上げ て軍事工場として創業していくことになる んですねしかし当時の岡山市街地と高南を 結ぶ交通は先ほど説明した剣道40号 ぐらいしかなくて物資や人員の輸送問題が ここで生まれることになるんですねそこで 岡山市街地と軍事工場を結ぶ鉄道が計画さ れることになる4つの軍事工場は協力して 宇野線の大本駅から岡山港まで線路を不折 することになるんですねしかし戦争のため にこの線路が使われることはありません でしたなぜなら線路の完成間近の頃に日本 は終戦を迎えてしまい軍事工場専用の線路 が必要となくなったそのために工事は中止 となったんですねそして終戦後完成間近の レールだけが後難に残ってしまうことに なった戦争が終わり配線と共に後難に誘致 していた軍事工場は相ついで閉鎖される ことになり江南という町は一時的に ゴーストタウンのような形になりますそこ で再び江南地域の復興発展に行政と企業が 力を入れていくことになる交通の便に恵ま れていなかった後難を発展させていくのに 必要不可欠なものそれが鉄道だったわけ ですそこで軍事用に敷かれたレールを活用 し岡山市街地と江南を結ぶ鉄道が計画さ れることになるそして昭和26年8月岡山 林鉄道が誕生することになるんですね つまり岡山林行鉄道というのは元々戦争の ための物資輸送目的で作られたレールに よって生まれたんですね この岡山林行鉄道というのはですね元々 軍事工場専用路の建設に携わった4社の うちの1つ記者製造株式会社が戦後になっ て線路を完成させるために資材と人員を 運搬する目的で後難鉄道という専用を運行 したことが始まりになりますこの後乱鉄道 というのはあくまで占量軍や記者製造会社 の資材と従業員輸送のためだけの鉄道だっ たんですが後難鉄道開通から4年後記者 製造会社の向場が閉鎖となってしまいます それに伴い後難鉄道も廃止となるんですね しかし岡山市の南タにあり交通の便に 恵まれない後南地域では後難鉄道を一般客 に解放して存続させて欲しいという要望が 高まります 岡山県としても高難を工業地域として発展 させたいという意図もあり岡山県と市関係 企業が後南地域発展への願いを込めて他額 の金を出資して鉄道を存続させることにし たそうして誕生したのが岡山林行鉄道なの です昭和26年田ぼが広がる後南で初めて 旅客用の鉄道が走ることになった江南は この岡山林鉄道とともに近代工業都市とし て発展を遂げていくことになります林行 鉄道が開通し容易に岡山市街地へアクセス できるようになった江南地域は県による 工場の誘致が活発となり岡山市で1番の 工業地帯へと変貌を遂げていくことになる んですね人口鉄道開通から4年後の昭和 30年には高難の人口は約4倍にまで増え それにより文場住宅の増成も活発に行わ れることになりました現在の江南地域の 中心地区である波浪基町ち行新町栄え町 緑町立川町明物町などはその時に作られた 町なんですね戦時中には軍事向場地帯と なり戦後一時期ゴーストタウン化した江南 はこの岡山林行鉄道開通によりどんどんと 発展を遂げていくことになるつまり岡山 林行鉄道というのは江南地区発展の象徴 だったわけです当時この岡山林行鉄道は県 としても重要な路線だと位置づけられて おりまして例えば岡山駅と宇子を結ぶ短落 線ルート林行鉄道で結ぶ計画があったん ですねこの短落線ルートというのが江南 副機から線路を延伸させて小島湾締め切り 堤防を通って氷から8浜へ至るという ルートでした岡山駅から大きく迂快して宇 を目指す宇野線の短落線として計画され まして小島湾締め切り堤防にはスペースが あるんですがこれは当時の臨行鉄道延伸に 作られたスペースなんですねそんな風に林 鉄道の登場は江南地域の住民にとって新 時代到来を予感させるものでした岡山林光 鉄道は昭和30年代半ばに最盛紀を迎え ますその頃には臨についていた駅名を江南 に改めています江南進江南泉だ江南複田 など鉄道の駅名には後難とつくんですが これはですねこの臨鉄道が後難に密着して 地域と共に発展していくと願いを込めて 高難と頭につけているんですね昭和30年 代に最強を迎えた岡山林行鉄道も昭和40 年代に入ると次第に利用客が減少していく ことになりますそれは言うまでもなく モータリゼーションの普及そして競合する バス路線に利用客を奪われていくことに なりますこの岡山林行鉄道というのは岡山 駅に出る場合必ず大元駅で乗り換えが必要 だったんですがそれに比べて路線バスと いうのは直接岡山駅まで乗り入れることが 可能となってましたなので利便製の点で 路線バスの方が勝さっていたんですね ちなみになぜこの岡山林行鉄道というのが 大駅が起点となっているのかというとです ねこれはですね岡山林鉄道の全進高鉄道の 建設を受け負った記者製造会社にあります 記者製造会社はですね元々大阪の会社だっ たんですがある使命を持って岡山に進出し たんですねそれが高速度列車いわゆる弾丸 列車構層を実現させるために岡山へ来たん ですねこれは新幹線の全進にあたるもので 戦の日本において軍事輸送のため東京から 下関まで高速で移動できる鉄道を建設する 構想があった昭和15年に帝国議会で正式 に着行が決定し岡山県では新岡山駅が設置 される予定になっていたんですねその新 岡山駅の建設予定地というのが現在の大本 駅付近だったんですねなので江南の軍事 工場と劣島を横断する弾丸列車を結ぶ計画 があってそのために岡山林行鉄道は新岡山 駅が建設予定の大本が起点となっていた わけですまその弾丸列車も選挙の悪化に 伴い昭和19年には中止となりまして幻の 計画となってしまっておりますがねまただ その時に大元駅を起点にしたことが後々 ネックとなってきましてバスや自価用者に 乗客を奪われた林鉄道の旅客輸送の現象は 深刻なものになってきますそんな中で林 鉄道を支えていたのが貨物輸送でした旅客 が減少していった昭和40年前後の林鉄道 の収益の80%以上は貨物輸送での売上 だったつまり岡山林行鉄道の実態は貨物 鉄道だったということになります好調な 貨物輸送に対して減少していく旅客輸送 そのためにですね南岡山駅の旅客扱いを 廃止して少しでも市街地に近い場所に旅客 専用の駅を設置したそうして新設されたの が江南元町駅なんですねしかしその後も 旅客減少に歯止めは効きません大盛紀には 15往復あった旅客列車は徐々に減少して いき昭和48年にはついに朝のみの4往復 となってしまうんですねですが昭和49年 に江南泉のそばに方線高校が開行したこと により列車は12往復まで増備して一時的 に旅客輸送は増加することになりますです がそれが今後の旅客の増加につがることは ありませんでしたむしろ増したことにより 一層赤字が膨らんでいくことになるんです ね昭和50年代になると旅客だけでなく 貨物輸送も減少していくことになったこれ は1つに昭和48年から始まったオイル ショックが貨物輸送部門に大きな打撃を 与えることになったそしてもう1つは江南 地域の工業地帯化が思うように進まなかっ たことに起因します同じく岡山県が工業 地域として発展に力を入れていた水島この 頃になるとですね江南と水島で大きく差が 開いていきまして岡山県の工業地帯 ナンバーワンの座島となっていましたその 影響は鉄道の貨物輸送に大きく影響して いくことになり鉄道事業の基盤だった貨物 輸送も衰退していくことになりますこの頃 になるとですね岡山林行鉄道の配線が 取りたされるようになりますから30年を 迎えた頃には経営機に陥っていくわけです その打開策として林行鉄道は大本駅から 岡山駅への乗り入れを国鉄に要望しますが 再散が合わないとされ却下されることに なります他にも打索として岡山電気機道と の接続当時完成したばかりの岡山中央 おろし売り市場への貨物乗り入れなどそう いった案をいくつか出したんですがいずれ も実現不可能と判断されつてなしの 発砲塞がりとなります予測も貨物も激減し 瀕死の状態となっていた1984年国鉄の ダイヤ改正で貨物ヤード方式が廃止となっ たことがとどめとなりましてこれ以上岡山 林行鉄道の存続は不可能という判断となり 1984年12月後難の発展と共に地域を 支えた岡山林行鉄道は33年の歴史に幕を 下ろすことになるのです

【岡山廃線跡紀行#2】
岡山臨港鉄道の始点から終点までを辿る!

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当チャンネルについて
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大都会のような街の華やかさはなく、かといって壮大な大自然が広がるわけでもないとてつもなく中途半端な県、岡山。

このいまいち存在感のない岡山の地で生まれ育ったもんげーライダー HIROYAが愛車のNC750Xに跨りモトブログ形式で主に岡山の定番ツーリングスポット、名所からディープスポットまで紹介するチャンネル。

もんげーとは、岡山の方言で「ものすごい」という意味。
このチャンネルを通じて岡山のことを少しでももんげーと思ってもらえれば幸いです。

その他、山陰、四国、関西によく走りにいきます。

2016年に50ccリトルカブで約1年間日本一周の旅をしていました。
日本一周の日々を記録したブログは下記リンクに貼っていますので宜しければご覧くださいませ。
http://blog.livedoor.jp/osakaokayama-osaka_okayama_kaeru/

【BIKE】 NC750X(HONDA)  KDX125SR(KAWASAKI)

【CAMERA】 HDR‐AS300(SONY) iPhone12pro max

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40件のコメント

  1. 子供の頃、旧岡山臨港鉄道岡南福田〜並木町間の廃線跡がきっかけで廃線跡を辿るのが趣味になり、それから縁あって旧岡山臨港鉄道キハ7001の運転席部分の修復作業に携わりました。

  2. 香川県内にある塩江温泉鉄道の廃線跡と同じですね。レトロの鉄道跡は歴史があっていいですね。

  3. 臨港鉄道の歴史、とても分かり易かったです。廃止当時中学生でした。
    芳泉高校の通学の足がなくなる、と山陽新聞で読んだ記憶があります。
    また、四国へ向かう際、快速から臨港鉄道の分岐があったのを記憶しております。

  4. 南区洲崎生まれの50代です。重藤組辺りに臨港線の遮断機があったのを記憶しています。少し離れた松浜町に建物が逆さまに作られた、喫茶店「パピン」がありました。

  5. もうかれこれ40年前になりますが,築港元町近くにバイト先があったので,臨港鉄道を利用し,運行最終日の最終便にも乗った記憶があります。今や遊歩道や市道になりましたが,線路があったことが解るようになっています。でも福田や並木町,岡南元町駅の跡地にモニュメントが欲しいですね。
    あと,某廃線youtuberひ〇〇〇さんも配信して欲しいですね。

  6. 今から45年前、南区若葉町の叔母の家から帰るときに並木町駅から乗りました。どこかの駅で乗り換えて岡山駅まで行った記憶があります。

  7. 私は沿線の高校出身です。
    大きな声では言えませんが、授業中に走る気動車を見るのが好きでした。
    もう廃止から40年かぁ。

  8. 今日はもんげードライバーですね、オールマイティ🎉 大元駅の遊歩道、仕事の休憩でたまに散歩してますが、こんな深い歴史を知れて、明日から、いつもとは違う景色に見えそうです。真面目な口調の解説、ギャップ萌ぇぇ🎉 とてもたくさん勉強されてて、すごいです。興味深くておもしろかったです😊!

  9. 今臨港鉄道を復活させることは難しいが岡山電気軌道が清輝橋からシネマタウンか労災病院まで延伸させたらバスよりは利便性はあると思う

  10. お疲れ様です
    いつもありがとうございます
    機会があれば1913年から1971年まで走っていた井笠鉄道を取材していただければ幸いです

  11. 臨港鉄道は、柵原の銅鉱山から岡南地区の同和鉱業に鉱石やらを運搬する為と聞いてたけでなぁ?因みに、小学生の頃まで臨港鉄道に乗ってました!

  12. もんげーライダーさん、本当にもんげーと思います!
    企画・編集・内容すべてにおいて心底尊敬します!!!

  13. 弾丸列車が実現して新岡山駅が出来ていたら、岡山の姿は全く別物になっていたでしょうね!人口ももっと増えて、岡山駅、表町、今の大元駅あたりが3大繁華街になって、市内は環状線の路面電車が走って大都会になってたかも…とか想像すると楽しい。

  14. 私も大元から廃線跡を散策した事があります。なかなか良い遊歩道でした、今回も楽しく拝見させて頂きありがとうございました😊

  15. 実にもったいない廃線です。タラレバです……大元駅から岡山駅まで、又は大供交差点経由岡山駅前まで延伸していれば……悔やまれます😢

  16. 懐かしい。高校の時に利用してました。関西高校でして大元駅で乗り換え岡山駅で吉備線に乗り換え三門駅まで行ってました。
    高校2年の時だったかな?廃線が決まりバス通学に乗り換えました。
    通学途中に一緒に乗っていた真備の女子高生に恋してました笑甘づっぱい思い出のある臨港鉄道でした🚃

  17. 岡山に来て10年 つい最近南区から大元近くに引っ越して来たばかり この土地のこと知りたくて拝見させていただきました。南区にいたときから電車があったのは人から聞いてたのですが、よくわかりました。特に新岡山駅構想は初耳だったので また岡山のこと教えてください。😊

  18. 岡山臨港鉄道の欠点をわかったうえで作られた水島臨海鉄道は、旅客は倉敷駅に直結、貨物はJR線に直通乗り入れと
    「岡山臨港鉄道がこうだったらなあ」をしっかりと実現してますね

  19. 父親が昔、国道30号が臨港線を跨ぐ跨線橋になったのはそんなに古くなく、国道30号に踏切があったと言っていたのですが、知っている方いますか?

  20. 並木町駅、岡南元町駅は言われるところにありました。若葉サンショッピングは小生が子供の頃新しい感じでしたね。😮当時を思い出す興味深いモンゲー動画でした😊

  21. 小学生だった頃、国道30号線には4車線ながらも岡山臨港鉄道との交点に踏切がありました。昭和55年頃になると橋部分がだいぶ完成してて、側道を通って行くものでした。高架橋が完成して数年後には、鉄道が廃止されたのは残念ですね。

  22. どっかで聞いたんだが締切堤防方面に分岐して締め切り堤防抜けて玉野方面に抜ける計画があったという
    ただ締切堤防の地盤や瀬戸大橋のルート選定などの影響で立ち消えになったとか

  23. 大昔に一度だけ乗ったことがあります。
    今年62歳になります。
    小さ過ぎて覚えてないです。
    母親と乗ったんですが、すでに他界してまして聞くこともママナリません!

  24. はじめまして。50代のおっさんです。
    よく調べてますね😊面白い企画です
    40年以上前、大元駅付近に住んでいました。
    大元駅から南側に今でも残る富士倉庫があります。
    そのそばに踏切があったのですが、私が小学生までは人力式遮断機があって、警手が小屋にあるハンドルを回して遮断機を降ろしていたのを覚えています。

  25. 岡山駅乗り入れできていたら、もしかしたら現役だったかもなあ~、なんて芳泉高校のそばを通る度に思います。くわしい解説ありがとうございます。

  26. 岡山の南区に1年くらい単身赴任してたが、明らかに鉄道を廃止にするべきではなかったよね。バス社会だが便数は少ないし不便すぎてハゲそうだった。自転車で動き回るにも広すぎるし本当にストレスだった。

  27. 岡南新保駅近くに実家があります。当時の駅ホームの土台はほぼそのまま現在に活用されており、煉瓦やタイルできれいに化粧されています。いまある立派な屋根なく、スレート造りのとっても小さな屋根がついているだけでした。
    ホーム側向かいの木は、いまでは模擬の線路を覆うほどかなり大きくなっていますが、当時から木が植えられていました。
    地平時代の大元駅、岡山駅から宇野線の下り各駅停車に使われていたゲタ電が到着すると、写真にあるとおり、すぐ向かい側に待っている臨港鉄道のディーゼル車に乗れました。上りのときは、宇野線大元駅は2面3線でしたので、ホーム中ほどに設けられた構内踏切を使って反対側のホームに移動していました。駅員さんがホーム途中の階段に乗客が踏み入れないよう、鉄板でフタをしていましたね。
    昭和40年代、基本的な旅客の終着駅は岡南元町でしたが、数本だけ岡山港へ足を延ばしており、それを使って町内の子供会で岡山港に行ったことがあります。

  28. 臨港鉄道末期に、野口五郎の私鉄沿線を歌っていたころ、芳泉高校生は、わが校も私鉄沿線と言っていました。

  29. 保存車のキハ7001は元夕張鉄道のキハ301ですね。トレードマークだったバス窓がすっかりサッシに改造されたのはちょっと残念ですが、これからも末永く保存されていてほしい…

  30. 昭和53年生まれの40代で、奥田の保育園に通ってたのですが、岡南飛行場に行く遠足の時に、臨港鉄道に乗ってる写真が今でもアルバムに残ってます👍✨
    廃線後も線路が残ってた場所があったので、スタンド・バイ・ミーごっこ遊びをした記憶があります🤣w

    懐かしい内容の動画有り難うございました😄
    次の動画も楽しみにしてます✨

  31. 割と大元駅付近も高架化したのは20年ぐらい前ですからね。昔は踏切で大変だったし。

    エディオンとかに行ける道も眼鏡市場よりすき家の辺ぐらいまでで行き止まりだった。

  32. 今度は玉野市電の跡地でお願いしたいですね。運が良ければ玉野出身の元アイドルの方がツーリングの最中に出会えるかも。

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