2025.5.21 日置市伊集院町光林寺 親鸞聖人降誕会講演 日置市伊集院町向江町BBS活動 講師 濱田 幸二氏
皆様ご存ありがとうございます どうも皆さんおはようございます おはようございます ですまずは住職あの会禁100 年流90 年ということでおめでございますりました 私はあの人前で話すのが本当に苦手なんです ほんであの共通が話せませんのであの鹿児島弁ですけど悠調に話しますので いいですよ面白いから続きますからいいですよ で私はこの近所で生まれまして移住用治案そ移住中学校人高校出ましたそして大学は鹿児島にある経済大学に行きましてあの結婚するまで 30年間迎え巻きで生活しました え 30年間 のことを回して今日はお話させていただき たいと思いますえ小さな時は楽の子供会が 非常に活発で迎え町というところは非常に 活発でですねいろんな行事に参加させて いただきましたえ いつもお寺の本道でここでですね集まりが ありましてまずはBBSの迎え町BBSの 歌を歌って始まりましたあの確か朝日 輝く迎えの空 にいうような歌いだったと思います BBVS というのはあのぜ青年が先動するあのボランティア活動だそうです え私たちの子供の頃のリーダーはあの1 番上親山口徳士さんとか 資料親のですね ああたちだったと思います そしてまたBBS はその頃流行っていた張舞うの味方であるとかもしていました え私は戦号生まれながらいい時代に行きたと思っております 物が豊富な時代ではなくむしろまだ足り ない食料の時代で我慢の時代 先輩たちと一緒になって遊び自然と上下関係を学んで迷の人を敬年知らの人には優しく うん 負けるな嘘つくな弱いものをいじめるなという時代はかれ あの里の50 教育の継続であったと思っております 振り返ってみますと子供がたくさんいた 時代だったからですねあの 特に親から言われていない限り学校から 帰ったら自然とお寺の庭に集まってできる 人数での遊びをやっていました飯玉遊びと かあの長沼遊びカルタ鳥野球などがあって 鳥明け1番の遊びが野球だったと思います 竹島でですねここもお寺の近本当の屋根を 超えたらホームなん です え経済には他に鉄望とかブランコ真層等が ありました あまだこの脳骨とは小さい頃はありません でしたのででまたお寺のこあ雨の日は本道 の ここ片過ぎであの花をしたりトランプをし て遊んでいました これでこの動画使えない時はこれは高い式だんですから廊下の下の方ですねご座敷いて ああ遊んでました うん え 病院に参りの時 は夜集まって庭の庭で歌の練習が始まって 最初は2週間ぐらい前から移住小学校の 工程に集まってやってこうと1週間ぐらい 前になりますとこのお寺に集まって今度は 練習してましたえ 近藤では鎧いを着用する人の参拝手順の 練習があったり大人の人たちは鎧いの番を して止まり泊まり込むのがでした うんまたお釈迦様の日は湯元から来たおと か太鼓写線を持った踊りも来て出点もあり 賑やかな風でしたえ こないだ湯元でお踊りがありましたよね あれがこっちまで向いてきておりました昔 は えそしてまた15 の時はあのお寺の庭であのそこ炭に黒ガ持ちがあるんですけど あの黒ガ持ちの木を利用して大人の人たちがつわあの縄を寝てですねこて昼間子供たちが 10倍に飾る花さぐりとかす とかですねあんなのが今の情勢高校のあの辺りにいっぱいありました そしてそれを笑できびってですねあの各家庭に配布していました砂引きは本通りや動こちで行われて最後は白く前の前で相撲大会が行われる 子供同士そして子供対大人の対戦があって あの特止金物のみっちゃんがあの人は昔 柔道やってですね学生の時に白屋のおじ さんを投げたことがそれも覚えていますえ また 肝試しの時は本道 が暗くなるのを待って小学生は2人一組で 中学生から1人で超人の明りをたにお寺の 裏山の墓まで行って自分の名前を書いて そしてまたその後移住院幼稚園のあっち まで行ってですねまた墓で名前を書くと いったようなことをやってましたまあの 怖がる人は名前の字が震えてですねあの 大変だった としてますこ年ごに交数を変えて行われ 高校生たちが隠れていて子供たちを落とす んですねがとても考えられないような 用事ですけどそれが夜中まで行われておりました え今では懐かしい思い出ですけどえ昔はこの寺で 6月道もありました 不人会のボリもあってあのね電気芋でこう ライトとたくさん飛ばしてですね あの華やかでありましたえ ブラックの行事で海水海水力も毎年行われ て南線で吉の海まで行ってました 休み冬休みは早ですね朝6日に使用して えっと わしょわしょ声をかけながらかけながら 特人車まで走って行きました も自宅の庭を持ってるですね これで特死人社の経をずっと掃除を済ましてますとあそこは上の段下の段とかありますからあそこをずっと掃除して それから同じようにご国人者まで行って その後中学校の工程あの今の小学校の工程ですけどあそこに集まってみんなでソフトバーボールをしてあの 上の人たちともあ一緒になって運んでまし たえ鬼びたきも また 各家庭に入り口に飾った正月飾りを集め たりして向い踏切りの上の三サロで実施し ていました最後に立てた妄想だけを各家庭 にお守りとして配っておりまして また火で持ちを焼いた焼いて食べたのを 覚えております でま行事はそんなのがありましたけど 昔の我が家の界隈の状況ですねこれを 申し上げますと我が家の横には大川が流れ ておりました 夜右の上にあの夜石の上にあのロソで引と申しますと魚が予です時には裏切とかおりました うん で今では蓋が被ぶさって道路の一部となっております えまた線路沿いの踏切り付近は水量が豊富 で夜はポタルも乱しておりましたけどえ水 が高めおばさんたちの 洗濯場かついこいであった三尾さんのあの 他とか でみんなあ あのあそこでやっておりました言って屋敷の奥にはうちの屋敷の奥にはもう 1つ移って 久田手まで うん小川の中をあパイプで繋いで あの運ばれて焼酎の米の花があの製造されておりました て計り売りの時代少獣塩ア そうですけどあの墓り売りでした 親から言われて山口出山でタバコ屋タ屋も金って言ったですけどあの買いに行ってました うん ほでうちか金なんかこの田舎で育てないもんだから 親父から君ちゃんの国血せて言われたら母さんに木あまあアマンちなんですかいこともありました であの鳥の資料は山口資料線ですね こて向山寺の本ドルにはし た3元の魚屋があったと思う あの現在の市の橋さんとこいつ金太郎のあのところと金太郎が前はぐ蔵さんですか?さん こてあの吉さん 夫婦がなんでおりましたこて味噌がありますよね 桜金醤油が あそこの犬がですね海岸株を加えてきて あの魚山で あのその中にあの使いのほらあれが書いてあるんですよでそれを頂いたらあのまた加えて変えていったり便利ないのが思っておりました ま他に東腐屋さんとか末沼さん書さんでしたかね こうやって馬のを作るところとか 竹猿を作るところか炭子や うん笛子とか棺桶 今の田中葬儀者ですけどね 場所は変わってますけど 米屋とかお菓屋もざ屋もありましたで現在 のスナッ元村のところはあの移住院を作っ て感とか片の模しを作って模してご存知 ですか 作りました他にもあの福本畳宮があったり あの東タスがあったり 松坂建とメカ物とか同車商店とか あったりと振動の方には2つの着場 ün長着場 宮茶とか 日商店長商店森田麻とか種のあ あのお店がありました病院もありいいんですか 山下所もありましたね そして道路は見が多く 自転車は頻繁にパンクを繰り返していました 伏の上に伏正をしたい私なんかの小学時代のズボを伏正の上に不正をしてあの学校に行ってました です で あの アサルト舗装になった頃は裸で学校に出 ましたので帰りはよく足の裏についており ました もうそんな頃ですそして子供の頃の日常 生活はどうかというとえ親の手親は農業は 農業でしたから一生懸命でした 農業で辛いもの草悟りえチッキで測って 40人ですねアンピラに入れて それを2 体で片げて挟めてあの道路で小田取りに出して大変なことをやってましたまた古もっておりました あの戦後の参考国の設ですねそれがあり ましての夕方クアの歯をつまったりで あの開にやって前になったら家村 政の家村ですけどあそこまで運んでいき ました で茶は1番茶あの屋の緩類で あのおばさんがこう手もみでですね作っておりました そて2番茶3 番茶社交場に書いてあのそのお金が私のあの先行花火を買うお金になったりしてました 田の時は子供は砂を引っ張ったり内を配ったり近所のお子さんおばさんもあの手伝に来ておりましたで米の収穫時期はで買ってほんまに干して乾燥するといえま運んで脱してました うん一般最初の頃は足踏みだきですと後 から私が機械を入れてあの町内の他の人 たちのあの脱告もしておりました え夜は子供の頃はえ天窓を開けたまま火山 の中で寝ておりました は外にあってえ懐中伝統を持ってきてましたうん [音楽] もう子供の頃ですから恐ろしいものだったですよ番に外 蛇顔が先輩とか うんうん こうて今のような柔らかいなってあの新聞士や雑誌を丸目で 使っましたから仕が痛かったですねう ん て親世代はあの月1 回の割合で一緒に近所ない であのご飯を作れるというなところでやっ てました萌えていうか生えてですね で鳥を潰してあの一場にあの木にあの鳥を潰してんですよ 鳥を潰してこちでパッチ首をして ね で首を切られたあの宮は首がないま走ってこと うんまた葬式があると近隣集まって うん あの昔はあの手作りの飾りも作ったりしてましたから来て墓の うん これがまたあの壮大ねあのずっと2 列ぐらいに並んで 墓で飲んできたそう市民が出ると観光屋に走ったりあの墓の人を頼んだりですね 色々でしたよまた今中国映画のキを見ると あのキシでいうの見たことありますがある はえ彼時代を放彿させる あのことがあります え界隈のお手ばあさんたちは1週間の予定 で温泉のよく言ってましたうちのおばあ さんもそうでした あの 布団を持ってたんですよこれで昔はあそこた小中や前であそこから新の方に曲がってバスが行ってほでを運んでいったことがあります で子供の時の思い出としては小学校1 年の時は休休み時間に飛行機がましたから うん私は になって一切ろちったらですね事業が始まっちゃって先生から生かれてたつけられたこともあります うん で4年の時は厳しい先生がいてあの宿題を 忘れた人とかといったのはここにマリック で印をするんですね今では大変なことです けど虐でで黒板小さな黒板を前と後ろに抱 で私代を忘れでそれを1組から6組目まで 廊下を行きたいですね え修学1 年の時は先知に赴いた経験のある先生で試験の先生が悪いと言っては連帯責任でですねこう一律に並ばしてんとがそまこう現骨ですね ほで打たれたらなんだこぼせながらまた前の映と手加減をすればやり直しなんです そういったこともありました その先生はあの技術家庭の先生でしたけどえ工皇帝でスクーターのスクーターを持っていらっしゃってスクーターもトングはこんぐらいは乗らないかんたつって あの載せていただいたことがあります ここで都につ方ともおりました また中学校では豚も買っていて うんあの今の偉人中学校のところが [音楽] あの腸の運動場 うん があってこいて畑もその上にあってあそこでグライダー大会とかもありましたけど あのそこに舞台の信尿を薄に うん 行くのもさせられました声でそれですね ここ であのあのあ中学の新築校舎がその頃で その校舎の屋上に行って は全進をさしたりで壁に向かって 突進2で止まらないかわけですね3まで 行ったらやり直しんですよ繁せですねそう いったのをやってました で小学校の時はよく休み時間はス撲を取っ たり中学校の時はもうソフトボールで遊ぶ ことが多かったです ま異常なこと異常のようなことを言いまし たけどまだ他にもあるんですけど時間が ございませんのであの持ち時間が20分な んではい ここで終わりたいと思います ま皆さん年配の方が多いですけどくれも病院とにならないように来てください気をつけてくださいね ご成長ありがとうございました [拍手]
伊集院町向江町BBS活動 講師 濱田 幸二氏
2025.5.21 日置市伊集院町光林寺での宗祖降誕会の行事として濱田 幸二氏の講演があった。昭和30年代の光林寺所在の伊集院町向江町界隈の生活、文化、風俗の講演です。往時を聞いてみると、今の時代とは隔世の感がある貴重な話です。
なお、BBS活動(Big Brothers and Sisters Movement)は、子ども・若者が非行に陥っても立ち直ることができ、生きづらさを抱えながらも安心して生きていける社会を築こうとする、青年が先導する全国的な運動です。昔の薩摩の郷中教育にも相通ずるのではないでしょうか。昭和30年-40年頃にはそのような名残があったのでしょう。
講演内容の抜粋
往時の我が家界隈の状況
①我が家の横には小川が流れていて,夜、石の上にローソクを立てると魚が集まっていた。時にはウナギを見つけることもあった。今では蓋が被さられて道路の一部と化している。初夏にはホタルが飛び交い、乱舞していた。線路沿いの踏切付近には水が堰き止められることで水量が豊富になり、おばさんたちの洗濯場かつ憩いの場であった。
②屋敷内の奥には、自家用の他にもう一つの井戸があった。少々離れた窪田酒造屋まで、小川の中をパイプで繋いで水が運ばれ、焼酎「米の花」が製造されていた。
③本道から今の向江町公民館へ向かう入口付近の地下(酒匂さん宅の下)には,防火水槽があったと記憶しているが,今はどうなっているのか?
④量り売りの時代。塩、アマン(酢)は量り売りであった。親から言われて,山口酒店(現在の〇〇酒店)迄買いに何っていた。 ここはタバコ屋も兼務していた。鶏の飼料は山口飼料店で販売していた。
⑤向江町本通りに3軒の魚屋があった橋口魚屋(現在の寿司屋と飲食店の金太郎)と,並松鮮魚店であった。他に,豆腐屋、馬の鞍を作る店、竹ザルなどを作る店(ショケ屋)=杉馬場=、タンコ屋(肥えタンゴ・棺桶) 場所はしている,今の田中葬葬儀社の場所=があった。
⑥米屋やお菓子屋もあったこのお菓子屋は本村菓子店で現在のスナックモトムラで,伊集院饅頭や〇〇〇(型菓子等)を製造していた。他にも,畳屋(永平橋の袂),建具屋(牧迫)、金物屋(現在、清藤にあるにある徳留),茶工場(宮下,福永2件),昔は、本通りだけでもかなりたくさん,かっ多種のお店があった
⑦正月の準備のシラス取りも行っていた。中山墓地付近のシラスが崩壊し,生き埋めになった人がいた。道路は未舗装が多かった。そのせいか,自転車が頻繁にパンクした。アスファルト皺になった頃、路上を歩くと足にくっ付くことがあった。その当時,裸足で登校することもあった。
⑧本通りは出店で賑わうこともあり,提灯を飾ってあって、華やかで賑わっていた。昔は、光林寺の六月灯もあり,婦人会の盆踊りを観ることであった。春の時の法要だったのか,湯之元からシャンシャン馬がやってきたり,太鼓や三味線を用いた踊り連が来たりしていた。
⑨犬による買し→吉村醸造で飼われている犬が,メモ用紙の入った買いかごをくわえて,橋ロ鮮魚店にやってきて商品を載せたそのかごを再度くわえて帰っていった様子を目にしたことがあった。
昭和30年頃 地域の中心としてのお寺(文責柿内孝夫・濱田幸二)
当時は,車どころかバイクに乗る人もほとんど見かけなかった時代。住職が自転車に小さなエンジンを付けて乗っていた。そのことが非常に珍しく,今でも鮮明に思い出される。
「妙円寺詣り」の際、一週間位前から毎夜歌の練習があり、前夜は準備のため本堂に泊まり込むのが常だった。本堂では,鎧を着用する人の参拝手順の練習も行われ、鎧兜はお寺の本堂に,刀はお寺門前の柿内邸宅で預かっていた。当日は武者行列で,お寺から出発して徳重神社まで赴いた。その当時今の納の所に鐘が置かれていて,大晦日の夜は, 2-3段上って打っていた。向江町の公民館は境内にはなかったが,昭和40年には、畑の跡地に公民館が建てられていた。その公民館その後お寺の研修室として使用されていた。研修館(公民館)がいつ姿を消したのかは定かでない。現在の向江町の公民館は、本通りと鉄道線路との中間地点に建っている。
お釈迦様の日は,東市来の湯之元辺りから来た馬踊りを観ることができた。境内には多くの出店が並び,大勢でごった返して楽しんでいた。他にも,向江町婦人会の会合や子ども会の集いなど,何事もお寺が中心となっての活動であった。
次は,境内(お寺)を活用した、具体的な活動について触れてみる。門の北側に立っていたクロガネモチの樹皮を利用して,十五夜の綱練りが哘われていた。向江町の本通りや今の田中葬儀社の前付近で綱引きが行われ、最後に白熊屋の前の三差路で相撲大会が行われていた。相撲は子ども同士又は大人の対戦であった。光林寺の境内で相撲を取っていた記憶もある。
十五夜のは、日中,向江町子ども会が中心となって,十五夜に飾る花(笹栗・ススキ・萩など)を近くの山から採ってきて,お寺の階段の所で藁を結んで各家庭に配布していた。肝試しが行われ、小学校は二人組で中学生からは一人で,提灯の灯りだけを頼りに,お寺の裏の墓の一番奥に自分の名前を書いた。その後伊集院幼稚園の裏の墓まで行って名前を書くというものであった。この他にも多種のコースがあり,高校生たちが隠れていて子供たちを驚かしていた。今ではとても考えられない行事だが,午後11時から1時頃まで行われていた。しかし,それはそれ今となっては懐かしい思い出になっている。
境内での遊びについては,当時はバットがないので,手でゴム毯を打ったり,後々は使用済みの庭掃除用の竹バットで野球をしていた。鉄棒遊びに缶蹴り,鬼ごっこなど境内をまるで公園のようにして,異年齢の友と遊んでいた。
最後に,まるで公園のように遊ばせてくれた光林寺様に感謝する次第である。
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