横浜市史資料室展示会 関連講座「ハマのモダンガール」後半(令和5年11月23日開催)

えまこれからお話をするのがま今日のお話 のメインといえばメインになるんです けれどもえ震災復興からできてきたモダン 都市横浜の中で活躍するモダンボイモダン ガードの人たちを紹介をしたいと思って おりますでえそのえとなるのがえレジメの 方にもあげました北林馬牧野尾それから 篠原彩という3人になります えたまたまあのこの3人になったのはえ 牧野尾さんとそれから篠原彩さんがえ資料 を残してくれたかそういうことでこの3人 が今回のメインになるということになり ますえもちろん うそのそれ以外にも多くの方々がこの時期 えモダンガールモダンボーイという形で え華やかにえ登場していたかもしれないん ですけれどもえ記録が残っているという ことでえ紹介をいたしますえ北橋東馬さで 横浜出身ああの元々成川は馬車道の清水 平安道薬局さんで え市水金策というのが本名でしたででまえ 詩人作家を死亡して平安道を出ましてえ ペンネム清水孝介ということでえ売り出し ていた方なんですけれどもまあ1930年 に中央高論社の軍団アンデパンダンていう えコンクールでえ入選をいたしまして 一躍流行作家になったという方になります でその後もずっと一貫して横浜で活動され ていた方になります でこの北林とまモダンボーイという形で 取り上げられることがの始まりとなったの がこの先ほど紹介した2イルさんなんです ねえ同じモダン日本の特集で推奨すべき モダンボイ推奨すべきモダがあるという 特集があってその中で23は清水孝介氏 すなわち北林磨さんをあげたわけですで その 表現どんな人だていうことを現している 文章は非常に あのしれているのでえちょっと読んでみ たいと思いますえシャボン玉のように軽く て容気で改革で常にえ微笑んでいて おしゃれだがちっとも嫌味がない勉強しろ といえば本など読むと感覚が鈍るからと いうであるがゆえにモダボとまあの何を 言ってんのちょっとよくわからないような 文章ではありますけれどもま あのとにかく兄さんがが北橋トを推奨す べきモダンボイの第一としてあげたという ことで横浜を代表するモダンボイという風 に え世間で言われるようになったということ になるわけですで一方の牧野尾さんという 方はですね え新聞記者の方でしてえ横浜の横浜前尾 新法とかえその後まあのご親族の中の金三 さんというおじさんががハワイに移って そこでハワイ放置という新聞を発行して これ今現在も残っているハワイで唯一の 日韓新聞なんですけども日本日本語日韓 新聞なんですけどそれの記者をやったり それからあと戦時中には満州に渡りまして え法典毎日などの記者をされていた方です でこの 記者になる前かそれとほぼ前後してですね え先ほど紹介したダンスホール メトロポリタンのサブマネージャーをして いたというような経験のある方でえダンス ホール業界ですとかあと映画に携わってい たこともありまして映画業界にも非常に 詳しいということでまモダン文化の先端を 行くような映画ダンスホールに関わってい たということでえモダンボーイの代表って いう風にも言われたことのある方になり ますでこの2人が中心になりましてえ文学 の会という文学の会を結成いたしますで これはあの第1次の会はすぐにえ活動が 停滞してしまうんですけども1940年に 再結成をいたしましてえ一直横浜貿易新法 の閣芸団をみんなで担当したりしてそれ なりにえ盛に活動していたグループになり ますでこの2人などが中心になりまして 戦後ま開口文学の会自体の復活ということ ではないんですけれどもえ横浜ペンクラブ という会をこの2人が中心になって戦後 作ることになりますでまたさらにその他 様々な文化 あ行事をたくさんあの仕掛けましてえ 例えばその今も続く開口記念日の えパレードですね横浜パレード今は横浜 パレードと国際仮想行列ですねまそれを あの飯田ぺとしてえ提唱したという風にも 言われている2人になり ますであのこの人このお2人が えモダンボーイモダンガールとあモダン ボーイと言われている姿をですね当時の 新聞記事からちょっと見てみますけれども まず北林さんの方ですですけれどもえこう いう記事がございますえっとレジメの方の 資料の1番裏の方にありますねちょっと スライドでは読めないと思うんですけれど もえそちらにレジメの方にえございますで まあのこの見出しそのものがもうモボの 先端を行く鳥男江川清水中村って書いて ありますけどえこの江川っていうのは江川 うおさんっていう俳優さんですねまあの ある一定の年配の方はご存知だと思います けどもま私どものような世代にはウルトラ QというSFのドラマがありましたけど それの一谷博士の役をやった方として有名 な方ですこの写真の上の写真が江川さん 当時の江川さんらしいんですけどもそれ から あ清水っていうのは当時流行作家として出 始めていた作家ですねあごめんなさいこれ がその北林とです中村が中村慎次郎が当時 え流行作家として出始めていたあ人でで 清水は清水孝介内北林まででこの見出しの このここに注目していただきたいんです けど校門赤ネタの位相っていう風に書いて ありますけどもさっき伊村のところで牧野 さんの文章を紹介しましたけれどもま当時 のそのモダンボイの方はですね非常にあの 髪の毛を染めたり服装も非常にあの突起な 服装をしてえ銀座イ町をカポしていると いうことがえこの表現の中にあるわけです ねでえレジメのプリントなら少し読めるか と思うんですけどここの2段目の大正 134年頃のところですねえ清水中村江川 のトオが沖シフルで発を染め真っ赤な肉体 を胸いっぱいに結んでザをのり浜野モボの 先端を切ったという風に紹介をされてい ますえちょうど大正134年っていうと 震災復興なりつつあるえ時期ですねその 辺りにモボの先端としてえこの北林トマを 初めとした人たちが石崎長をカットしてい たという風に書かれていますまそう いう北林であったということですねでもう 1つえ新聞記事ええっとレジメの方の右側 の資料5ですねイブラという大きな タイトルで書かれておりますけれどもえ ここにも実は北林ストーマーのことが書か れておりまし てえちょうどこの2段目のところですね ええ往復回数の多いことでえ然伊村島の トップを切っていたえ浜の埋める詩人清水 孝介君という風に書かれていますまだから それぐらい当時北橋東っていうのはそのえ モダンボイ伊村島の代表格として取り上げ られていたということになるかと思います で牧の伊もその北林富 と一緒にこの頃から活動を始めるような 人物であったということなんですけども彼 自身もですねあの新聞記事でこんな風に 大きく取り上げられていますえ元々新聞 記者だったんですけどもこれはそのフリー になって あの社員としての記者を辞めてフリーに なった時の紹介記事で え横浜のモダンボイとして知られている 牧野伊君というような表現がされています でここではえこの後映画映画業界に非常に 詳しいっていうようなことで紹介をされて いますま あのま当時のモダンボイってのはこの写真 でえイメージできるかどうかってちょっと 疑問なんですけれども北橋トマにしても 外見上ではそれほどはっきり分からないん ですけどまとにかくその文章に書かれてい たような非常に派手なえ風景と振る舞いで あったということが分かるかと思い ますでこの北 さんを中心にして当時え流行作家でえ若い 女性が読むような雑誌にもたくさん小説や 記事を書いていたようでそういう読者の中 から え北橋馬の周りに集まってくる当時の文学 少女たちがいらっしゃいましたでその1人 が原彩と いう詩人戦後詩人として活躍される になりますえ北橋も牧野尾も原もま ちょっと今横浜では忘れられつつある存在 かもしれませんけれども後戦後まで非常に 活躍された方々ですでこの原さんが非常に 貴重な当時のアルバムを残してくれてい ましてえ今日紹介するえこれらの写真は その原さんのアルバムに貼られていた真に なります で 北橋さんがえ霊女会という雑誌にも書いて おりましてこの令女会の読書グループがえ 当時 えあのできるんですねでそのグループレジ 順序連盟rjrという風に言いますけれど もまそれの横浜市部を作ったのがこの原 さんになりますでさん当時女学校出た ばっかりのえまだ10代末の年代のような 頃でしたえ当時の女学校での若い女性たち がえ社会進出でえ職業に着くのかあるいは 花嫁を修行をして結婚するのかというよう なちょうどそういう時期に当たっている わけですねでその時期に篠原さんはえ北林 とまに出会ってまその周辺にえこの冷所会 のグループと一緒に取り巻きになっていく ということになるわけですねで横浜支部は 1936年昭和11年にえ結成をされてい ますですぐにえ北林東馬を訪れまして ちょうど今写っていた先ほどの写真がその まさに北林東馬邸を訪れた時のこの第1回 のえ昭和30は昭和11年の2月の時のお 写真になります えちょっとま人物分かりづらこれが北林 東馬さんですねここに北林東馬さんがいて っていうことでえこんな風な人たちがえ 北林トマの周りにま当時モダンボイとして 有名だったトマさんの周りに集まってえ 霊場会の活動を盛にしていったということ になるわけです でその冷所会の横浜市部でえ開かれた クリスマスパーティーの模様がこれになり ます えこれ篠原さんなんですけどなぜか和服に しかも日本神でま桂だと思いますけど わざわざ桂までかぶってえ肝の姿で来て いるとで中には何人か想の女性も いらっしゃいますけれどもま和服の人の方 が数的には多いとまこれも先ほど申し上げ ましたけど当時の女性の集合写真撮ると 大体こんな感じかなというえちなみに こちらが北林トマさんですねその当時 モダンボイの代表と言われた人物です けれど もまこれもその霊女会の例会の模様でして やはりこれでも要素と和服がこういうま この場合だとちょうど半々ぐらいの数には なりますねでこんな風にやっぱり着物と 要素混じりの写真がたくさん残されてい ますこれはあの横浜ではなくてこれ当時の 日劇です ねまおそらく感激に行ったのかなと思い ますけれどもまそういう意味もあってこれ 原さんなんですけど着の姿ですねやはり原 さんは姿の方が多いです ねでこれ北林トマを囲む令女会のメンバー です ねでこれその1人の方なんですなぜこれを あげたかと言うとこの同じ方必ず洋服なん ですねこの方なんです けどでまあなぜかという言えばそもそも この方あの看護婦さんで当時やはりその 看護婦として日頃からその想に慣れていた ということもあって日常的に洋服を身に つけていたんではないかなとまいうことが 推測されますえこれはあの北林を訪れた レジ会のメンバーで北林東馬でこれ奥さん の北林義子さんこの方も劇作家として有名 なんですけどもでこれが篠原さんという ことになります ねでこれも同じ北林とを囲む原さんたち ですねでこれはえっと確かモ園だったと 思うんですけど木草園にえピクニックに 行った時でこれ北林トさんでこれ珍しく 篠原さん洋服着てます ねまこんな風なことを当時の北林東馬と その周辺の女性たちは楽しんでいたという ことになるわけですでこのこれはあの実は 霊女会の活動の最後になるんですけども 三池にピクニックに行った時の写真です この時もやはりえ珍しくこの左端これが 篠原さんなんですけどやっぱり洋服ですね ピクニックですからまあ洋服の方が良かっ たということもあんのかもしれませんが えというような姿をえアルバムとして新原 さん残してくれていますまこのことからえ 非常に当時の様子がイメージしやすいん ですけれどもえ原さん文章も残してくれて いましてえ資料のえ2番にその頃のことを 後に改装した文章を残されています え資料2番え私の周辺っていうのはこれ 横浜市人会通信という自分が所属されてい た会の開放にえこのような形で連載をされ ていましてまこれも実にあの貴重な記録と いえば記録なんですけれどもえ rjrレジ順序連盟を作った時の話が出て おりましてえそれができた最初の集まりが え森永政官の工場見学に行ったことだった という風なことが書いてあってで横浜支部 を作ったとでその時にはその松屋デパート で集合してえみんなで集まったんだとで 北林指定を初めてえ訪れたんだよっていう なことが書かれていますまここにもですね あのすでに前半でお話をしました森長成果 ですとか松屋デパートといったようなその モダン都市横浜を象徴するようなああこ 舞台がやはりここでも登場してくるわけ ですねまさにその中でえ彼ら彼女らが活動 していたということがよく分かる文章かと 思い ますで1番下の段の方にもですねあのその 頃の北林してを最初に訪れた時の様子も 書かれていますえ牛田の中腹にあった家を 訪れて石垣にはバラの花が溢れ2階建ての 勝者なお手お屋敷えモダボイのトマ義子 夫人の美しさとまそこで開かれた式 おりおりのパーティーは今も温かな思い出 として私の心をするで秋の拝見後春の ピクニック冬のパーテえ銀座安missの はしご全国的組織なので地方から来賓する 友人を連れては東を吸収したり女学校出た ばかりの世間知らず の私たちをよく面倒見てくれたとで当時 男性との交際は全く理解されていない中で ただ1つ親が黙認していたのは北林党まで あった とで最後にえ今この映っている三池の ピクニックのことが書いてあって先生が 書いていらっしゃるから鶴の三行き ましょうとハイキングしたのはいいが あまりの通作えとつまらなさにみんなに 文句を言われたということが書いてあって でトマさんは僕は書いたけども実際に行っ た行って書いたわけじゃないっていうこと を言い訳してましてみんな然としたって いうようなことが書かれていますまこう いうやり取りの中にも当時のえ発達とした 雰囲気がよく伝わってくるんではないかな という風に思います えただこの三池のピクニックがレジ会レジ 順序連盟の最後の活動になったということ にちょっとえ着目をしていただきたいん ですけども えそれがですね1940年昭和15年の6 月になりますえその翌年昭和16年12月 というのは太平洋戦争開戦でえもうこのえ 順連盟が活動してたえ1930年代後半 から40年の頃っていうのはですね日中 戦争がもうすでに始まっている時期に あたるわけですねまその前に順序連盟は できるんですけどちょうど日中戦争は 始まった時期を挟んでこの人たちの活動が あったということに注目をしていただき たいということなんですねえ こういう雰囲気のま日中戦争が盛に行わ れようとしている時期にこういう雰囲気の 中で え若い女性たちが え活動していたとまたこういう服装で みんな日々暮らしていたんだということを ちょっとえ注意していただければなという ことでえ申し上げますえというのはですね 結局その日中戦争期にあのま教科書的に 言うと え創造院体制が整えられてえ徐々に人々の 暮らしが不自になっていくというような ことが言われるんですけども実際のところ 1940年昭和15年頃までというのは 比較的その統制がまだ緩やかでえこのよう なモダンガールモダンボイと言われるよう な人たちの暮らしというのもそれほど 変わりなく続けられていたということが ここから読み取れるんですねでえ次のえ 戦争の影というところでえにお話を進めて いきたいと思うんですけれど もあの戦争の時期当然確かに統制は進んで いきますただあの普通の暮らしをしている 人々にとってはまだまだそれ戦争の影って いうのは遠い部分だったですねえそこを ちょっと見ていきたいなというのが次の ところになりますえ1940年までって いうのはですねまだまだえそういう点で 日常の暮らしが維持されていた部分であっ たとただしこの1940年を境いに ぱったりとその記録が耐えていくという 部分も現実としてあるわけでえ例えば開口 文学の会は1940年昭和15年7月以降 の活動の記録はありませんそれから牧野尾 さん新聞記者でハワイ放置の記者だったと いうことも紹介しましたけどもえハワイ すなわちアメリカですよねアメリカの新聞 の記者なんかやってたらあの日本では 暮らしていけないいっていうことであの ハワイ放置おじさんのあの新聞なんです けどもそこをあえてやめまして満州に渡り ますえそれから北林党はま翌年のことに なりますけど年の11月代表戦争回線直 直前には徴用されてビルマへえ派遣されて そこで回線を迎えることになります えそれからさっきも申し上げましたように えレジ順序連盟の横浜市部も三池の ハイキングが最後の活動だったとでえ篠原 彩さん自身もですねこの翌年41年の11 月にえ唐突に結婚をしていますでえま結婚 すると同時にえあのその文学活動の中で ある雑誌に関わっていたということでえ 最悪活動してるんじゃないかという風に 疑われてえ特攻警察に謙虚されるという 一幕もありましたでこのことについても 島原さん文章を残しておりますけれどもま 1ヶ月ほど公金された後なんとか釈放さ れるんですけどもま結局え昭和16年に 結婚されてま令嬢順序連盟のような活動 っていうのはもうその後記録されていない ということになるわけですでこの間のそう いうその戦争へと進んでいくえ時期のこと をですね書かれた体験機が残っております のでそれを次に紹介をしたいと思います これはええ今日の配布した資料の資料3番 のえ石愛子さんという方の体験機になり ますえタイトル自体がもうまさに塚野の 青春というタイトルをつけているんです けどもちょうどこの時期のことをこの方 書いていますでこの方も篠原さんと同じ ように女学校をえちょうど出た頃の方でし たで え長々の私はえ花に茶にお茶にことえ日本 州料理の稽古にと好きなだけ稽古をさせて もらいえただももも当時は職業夫人を一般 に嫌ったので明治生まれの母はやはり 女の子は女学校を終えると花嫁修行に専念 することが女の喜びでもあるという風に 言われて自分もそれでいいものという風に 思ってま稽古ごとに励んでいたとで一方 お兄さんがいらしたようですけどもその お兄さんが音楽好きでえ土曜日ごとに兄の 友人たちが家を訪れてえギターマンドリン レコードと持ち込みレコードコンサートを する合をするとえ世のふけるまで私も時に は自分の友人と兄たちと共に楽器に合わせ て歌ったりして楽しい青春時代を送ったと でまたドライブにも連れて行ってもらっ たりえ写真を撮ったり えして え楽しんでいたということがえ書かれてい ますでところがそのうちに親しかった兄の 友人たちも1人また2人とえ次々軍隊に 取られてしまって寂しくなったとで一方 自分たちも今までの長袖の着物から母の 地味なセルやかりでえ筒袖の上着とモンペ の上下を作ってもらったとまこの長袖の気 はおそらくその多元のあるような袖のこと を言ってるんだと思いますけどもまそれが 筒袖の上着になっていったというような ことでえ一般の女の人が長袖で流し姿は 禁止されもっぱら専門あ門分を書き袋を 送ることが日常の仕事のようになりその合 には仙人張を次々人にお願いして歩きえ 作っては袋にまた出世の時に持って行って いただいたりがせめて女にとってできるお 国への奉仕であると思っていたということ が書かれていますえですからま冗談の方で 書かれていたようなその兄たちと楽しん ような日々からするともうすっかり時代が 変わってしまったという風に書かれてい ますえ思えば誠に塚野の政春時代であった とでそれはえ昭和14年バンチもデバの頃 から16年ぐらいまでであったともまさに その1940年昭和15年ぐらいがその 境い目であったことがここからもえ分かっ てくることになりますえレジ順序連盟 rjrの活動っていうのはまさにこの ちょうど昭和年昭和12年から昭和15年 の日中戦争の初期の頃にまアバのように こう先誇った活動であったということが 伺えるのかなという風に思い ますでえそういうその戦争やの党をさらに そのモダン都市横浜がどのように迎えたの かっていうことをえ次にお話をしたいと 思いますけれどもその中でも紹介した ダンスホールえどうなっていったのかって いうことをちょっと新聞記事からたどって みたいという風に思います えこれはちょっとえ資料の方にはあまり 載せていないので えスライドでご覧いただきますけれどもえ えちょうどモダンガールモダンボイって いうのがこう世間の注目を浴びていた頃の 記事になりますこれまだあ1927年昭和 2年なのでまだまだまだ早い段階戦争の 足音っていうよりはまだそれ以前なんです ねえ満州次編が昭和6年1931年です から満州事変よりも前の段階でもうすでに その風俗的な意味合いでそのモダがあ るっていうのがあ批判の矢に出されてい たていうことがこの記事からも伺える ところですえモダンガール罰というような かなりえ過激な見出しになっています けれどもえタイピスト女帝員女事務員の 不良なのは過しなく謙虚するっていう表現 がされていますけどもまあの女性の社会 進出と共にやっぱりそういう摩擦が一方に あると共にえまそういうなんて言うんです かねねこう風俗を乱すような存在としてえ モダンガールをの女性たちが捉えられてい たということがよく分かる記事かなという 風に思いますもちろん当時のこの働いてい た方々がそんな不真面目な人ばっかりでは なかったとは思うんですけども世間の目は そういう目でまだまだあったんだという ことは分かる記事かと思いますまだこれ 昭和2年の段階ですね でこれは昭和4年1929年の記事です けれどもこの頃にはダンスホールがあ最期 を迎えている頃でえ女性ダンサーが非常に 景気がいいということでえ大学での人底 のけで200円の高級取りということで 紹介されている記事になりますまあ批判の 表に立たされるその一方ではま千望の的に もなってたというまちょっとそういう直接 したところがあるかと思いますでこの記事 も同じく昭和5年1930年の記事です けれどもやはり月給200円というような ことが書かれていますただしえから10円 内外と書かれているところが味そでしてま 売れっ子のダンサーとか女給さん以外には ま苦労している人もいたんだということが 分かりますそれからあともつ注目すべきは 最後の好きでなったは約1割ということで 当時の女性の社会進出っていうものの意味 合いっっていうのもこの記事の中に現れ てるように思いますえ女性女性の社会進出 と言ってもさっきの石愛子さんにあった ようにえ家族はみんな喜んでえ送り出して いたわけではないしえそれこそ家で同然で 家を出て自立するためにこういうところで 働いているっていう女性もまだまだ多かっ たんだろうということを伺わせる記事に なり ますでえこれがです ねえもう少し時代が進んで昭和8年の記事 になりますえ満州事変がもう起きた後に なりますので世間は非常時っていう言葉が 流行って満州事変の中で え少しえみんな普段の暮らしを湧きまえ ましょうねっていうような雰囲気のできて いたできてきた時期ですねまその中でもえ 有人のステップ乱れてということで浜野 ダンスホールに取り締まりの嵐ということ でえ取り締まりが進んでいたということが この頃に出てきますこれはま非常時満州 事変の影響が少し出てきた頃ということに なり ますでこれはそのさらに翌年の1934年 でこれはあのダンスホールでではなくて カフェの除さのことですねでカフェ 取り締まり規則ということが書かれてい ますけれどもえレジメの方にもその 取り締まり規則のことはあ紹介を書いて おきましたえ男男子ホールに関しても 1930年にすでに県令武闘場及び武闘主 取り締まり規則というえ取り決めが出て おりましたまそれに基づいて警察が 取り締まりをしたわけですけども除さに 関してはカフェの女給さに対してはそれ まで普通の飲食店の営業規則しかなかった んでえ特殊飲食店営業取締り規則という ものがえ1935年昭和10年に改めて 作られますでこれはその34年から35年 にその取締り規則が作られていく過程を 紹介している記事になるわけです ねでえこちらの記はやはり非常時という 言葉がに現れておりますようにえダンス ホールで踊ってる場合ではないんじゃない ですかということでえ昭和10年ですね これはもう えだんだんダンスホールの取り締まりも 厳しくなってえダンサーが以前ほど経が 良くなくなってきていてダンサー自体が数 を減らしているというような内容のがえ ここには書かれてい ます ちょうどそのダンサーが衰退している原因 にまちょっと読みづらいんですけどここに えこの大きな原因は最大の え原因は え非常時であるということが書いてあるん ですねここにここに非常時の大きな波が 最大の原因であるという風に書かれており ますですからまだんだんその南州事変以降 こういうそのまちょっと風俗に関わるよう な栄養に関してはどんどん取り締まりが 厳しくなってきているというのがこの時期 ということが言え ますで面白いのがですねこれでしてこれも 同じく昭和10年の記事なんですけれども えダンサー群とチド屋に服装を制限って いうことでこれあのこの後え 1930この記事は35年え昭和10年な んですけどその3年後にえダンサーの 取り締まり規則が改定されまして服装が 制限されますまこれはそのそこに向けての 動きを示している新聞記事なんですけども まここに書いてあるのがあ上半身を露出し たようなイブニングドレスで踊っていると かですね えここには露骨なデザインによるえ舞踏服 が流行っているとでそれはいかがなものか とこの非常時にというようなスタンスなん ですねえまそれと並んでなぜかチド屋の 服装が問題にされているってところが 面白いなと思うんですけどもえま服装すら あの取り締まりの対象にされてあのダンス ホールはどんどん厳しい状況に追い込まれ ていくということになりますまそういう その風俗営業を風俗の取り締まりを象徴 するようなものとしてこれあのフィルム ファンというヨーロッパの欧米の映画雑誌 なんですけどもそれを輸入禁止するって いう記事なんですそれはなんでかていうと まこの表紙なんですけど表紙がこの女性の 水着姿のが表紙に描かれているとでその この中の中身にもえそれにするような写真 が載っているということことでえこんな あの雑誌は輸入まかりならんというような これは記事になりますえこれは昭和11年 まだ日中戦争始まる前ですけどもえ満州 地変から日中戦争の間っていうのはこう いう風俗の取り締まりがどんどん厳しく なっている時期ですただあの思い出して いただきたいのは先ほどご紹介した篠原 さんたちのレジ尋常連盟の活動はまさに この時期からあのさらに日中戦争始まる 時期まで並行して続いているんですねだ から彼女らが動いている時代っていうのは 一方ではこういう非常にあの一方的な一面 的なその風俗取り締まりのえ視点があった ということをあのが同時平行的に進んで いるんだということはあの注意しておく 必要があると思い ますで えこれは昭和11年1936年の記事なん ですけどもこの時期にはクリスマスの頃に はこういうダンスパーティーが各所で開か れるっていうことが書かれていますで ちょっと読みづらいんですけどもここに ホテルニューグランドでランスパーティー が開かれているっていう記述があります ですのでさっきのそのrjrレジ順道連盟 の人たちの活動とそのダンスホールだとか カフェの取り締まりのこう中間地点でえ ホテルニューグランドだとかえそれなりの 格式のあるところでは同じようにダンス パーティーが楽しまれていたというま そんなような思想であったということなん ですねまだまだだから戦争一色に染まる ようなことではなくま当時のの感覚で言う といわゆる健全であれば良しとするという ようなところがあるのかもしれませんま その健全であるかどうかっていうのを誰が 判断するかっていうのはあの大事なところ なんですけれども当時は警察をはめとして かなり厳しい目で見ていたということに なるわけですでこれはもう日中戦争が 始まった直後の記事え1937年9月の 記事になりますけども昭和12年の9月 ですので7月に日中戦争始まってますので その直後の記事ですえこれあのダンス ホールフロリダのえダンサーたちがえ国防 婦人会に入って防火演習を行った時の写真 だというですねえ後ろには誰か出生した人 がいたんでしょうかね宿出世の垂れ目が あってでみんなあのカポ技を切ってますで こう助けもかけてますねまこんなような ことでえダンサーたちもえ国ご国のために 奉仕しているんだっていうような姿を 見せることでえダンスホールが生き残りを 図っていくというまそんなような時代に この昭和12年以降には入ってきますま ただし何度も繰り返しますけどもレジ尋常 連盟のような篠原さんたちの活動はまさに この傍でえ先ほどご紹したスライドのよう なえ活動が行われていたということになる わけ ですでえこんな風にえダンスホールがです ねえだんだん取り締まりの対象になってえ 38年にえ元々あった権令の規則が生され てさらに取り締まりが厳しくなってダス ホールへの女性の入場事態が禁止されたり え先ほどら問題になっていた衣装の規則も 規制もはっきりしてきたりとかですねそう いう動きがありましたでさらにこの翌年 1939年昭和14年になりますとえ ダンスホールとかカフェとかえ様々な風俗 に関わるような営業規則が全て改正され ましてえ営業間を短くしろと制限される さらにはその休みの日を設けなさいという ことでさらに営業制限されていくとまこう いう動きはですねあのカフェダンスホール を初めとしてその後え映画館ですとか百貨 店とかそういうところにもどんどん どんどん広がっていくとまそういうような 時代になってまいりますでまこの風俗 取り締まり規則改正えがま最後のダメージ になったのかえ190040年に横浜に あったダンスホールはえ全て廃業すること になりましたえカフェはまだあったと思う んですけどもダンスホールは結局もうこの 戦事家の中で立中戦争の戦事体制の中では 生き残ることはできなかったということに なるわけ ですでこの頃から具体的にえ一般の市民の 生活にも様々が影響は出てきましたまその 制限を及ぼした様々な状況が書かれあのあ レジメに書いておきましたま映画法が改正 されてえヨガの輸入が制限されたりえ映画 の脚本内容にえ検閲が入るようになったり とかですねえあるいは国民徴用例という ことでえ商店経営者なんかが軍事工場に 徴用されるというようなことがこの頃から 始まりますそれから市民生活にとって1番 大きかったのは1940年のえこの配給 制度の え整備とそれから町内会隣組制度の整備え これがやはり市民生活にとっては私は決定 的な影響をもたらしたなという風に思って います えまこれも先ほどのレジ順序連盟の活動が 終わったちょうど1940年昭和15年と 一致しているのはま私は偶然ではないと いう風に思っているんですけどもまこう いう取り締まりがや規制統制がどんどん 進んでいった時期にあたりますでただし 人々の暮らしはこの中でもギリギリ今まで と同じ生活を送ろうとしていたのがえこの 時期でしてえそれがさっきの篠原さんたち の写真の中に現れていた姿なんじゃないか なという風に思います ただし40年に昭和15年になるともう それが限界に達してえ自由な活動生活は なかなかできなくなっていったということ が現れているという風に思い ますでえま戦事家の女性たちがその後どう いう立場や暮らしににえなっていったかと いうことは今日はあまりそこまでご紹介 する余裕はないんですけれどもえ例えば ですね今日ちょっともう1人紹介したえ田 さんていう方がいらっしゃいますえこの方 あの赤十字の従軍看護婦として戸海軍病院 に後に勤務することになる方なんですけど もえ元々はえ森永成果相模原出身で森永 成華にどうやら工場に務めてていたようで えこの写真はその頃にえ相原にあるえ陸軍 病院第3陸軍病院っていうところを問した 時の写真のようなんですねでこの問活動が どうやらきっかけになったようでえその後 看護婦あこれは看護婦になる前のお手伝い をやっていた時期なんですけどもえその 相模原の大3病院で え醤油軍人商病兵を看護するようになった とでこれはそのまだ森永時代に友達と一緒 に疑問した時の姿ですね でこれも同じく森永のお友達と撮った写真 でまあの篠原さんたちのアルバムの写真と 同じようにかなり派手な医療合いの着物と まこの方お1人洋服ですよねまあ何だった んだろうなという風に思います えそれがやがてですねえその第3病院をし ていく中でえ商業兵たちの世話をすること にま目覚めたというかということでこれ この写真がちょうど昭和15年1940年 のこれ写真なんですねでこの方まさにまた またこの方もちょうどこの時期を境いにし てえ暮らしを変えることになりましてこれ をこの頃に第3病院のお手伝いをするよう になったんですこれはまだ森永成果時代で これがそのお手伝いをするようになった頃 のお写真でしてで森永成果を辞めてお 手伝いをするようになってでやそのお 手伝いをするうちに完全に従軍看護婦を 目指してえこれ昭和16年に赤十字のえ 病院に護看護婦の見習いとして入って訓練 を受けていた時期の写真になりますねで この時期になるとそれまで和服だったのが え洋服の赤十字のこれ制服ですねに変わっ ていくわけです ねでこれがもう赤十字病院に務めてた頃の やはり制服姿ということになりますまこの 方の場合はそのまさに戦事家の女性として え従軍間護婦になることで国に使えよとし と考えて後にえさらに え陸海軍の病院に務めていくことになる わけ です切れまし たちょっと最後マイク切れてしまいました けれどもすませ んえということでえ千治科の女性も様々な クラッシりをしていくことになるんです けどもやはり戦事家という暮らしからは 逃れられなかったとで最後に紹介したこの 横田さんなんですけどもじめの方の最後に えパーマーのことをちょっと紹介してるん ですけどこの横田さんずっとあの日記を つけていてそれが残されていますその日記 の中にですね1945年ですから昭和20 年の7月7付けの日記にですねパーマを かけにた行ってかけたという記述があるん ですねだからあの実はあの戦時でパーマっ ていうのはあの実は禁止されたことが なかったっていうのをえあの非国民な女 たっていう本が出てましてその中で紹介さ れていて私もちょっと あの驚いたんですけどもま確かにそうなん ですね え金力使用の制限とか電力の使用制限とか そういう意味で電発電気を使ってのパーマ はできなくなるんですけども最後は木端 パーマということでえ木端であめたあコテ でそのカールをかけるっていうようなこと をおそらくこの昭和20年に横田さんが 言ったのはそういうやり方でやったん だろうと思うんですけどもやってたという ことになりますそれから国民服と同じよう に女性も標準服これはあの展示の方でも 紹介されてますけれどもえ作業技として 門平が推奨されてあのつつける人が増えた んですけども必ずしも標準服自体は普及し たわけではなくかったということでまあの 篠原さん初めこの横田さんもえまさに戦事 科のの前の状況の中で過労して維持してい たこういうその服装を千治中も実はまあ 割と比較的その人目に触れない範囲であの やっていたという部分はあの否定できない なということはあると思いますまですので あのモダがあるというのはまさにその震災 復興と戦事体制の狭の中でこうあだ花の ように花開いたものではありますけれども 1920年代に進んだ都市の近代化生活の 近代化という大きな流れの中で社会進出を 始めていった女性たちの1つの暮らしぶり を象徴しているものであってあの突出した 部分はま別として のこういう方々の間でもあ非常にあの定着 していった部分があるんではないかなと いう風に思いますでまたそれは戦後に 繋がっていくんですねあの今日はもう紹介 しませんでしたけれどもえ先日中にモンペ 姿で上学校の卒業写真を撮った方が戦後 すぐにえ華やかな要素姿でえ映っている 写真とかそんなような写真があの人々との アルバムを見ていくとよくわかりますです から女性たちていうのはその戦治架の中で え追い込まれた状況の中でえまたその国人 のため戦争に奉仕する兵隊さんを助けた いっていう意識は嘘ではなかったと思い ますけれどもそういう状況の中でも ギリギリ自分たちの生き方っていうのを こう模索していたんではないかなという風 に思いますえモダがあるっていうのはそう いう意味でそれを象徴するような存在で やってしかもそれがこう戦争という中でえ 大きく制約を受けながらもまなんとか こう維持されていた部分もあったという 部分はやっぱり見逃したくないなとやぱ この横田さんの昭和20年の7月の わざわざ鎌倉までえパマかけに行ったと いう話はちょっとショックで戦後も もちろんあの言ってるんですね苦労して たくさんやっぱりお客さんが殺して1回 行ったけど結局もう満員で断られてえもう 1回行ってかけたとかっていうな記事が あってやっぱりそこまで女性がその ファーマーとかに執着するっていうのもま 女性のましさを表している部分があるのか なという風に思いましたということでま あの震災復興からあモダン都市が成立して その中で花開いたモダンガールモダン ボーイということでお話をさせていただき ましたありがとうございましたJA

横浜市史資料室では、所蔵資料をより多くの市民に知っていただくため、年に数回、展示会や講演会・講座を開催しています。

今回の動画は、令和5年11月から令和6年1月まで開催したシリーズ展示「横浜の女性と洋装」に関連して、令和5年11月23日に実施した講座の模様をお伝えします。

横浜市史資料室トップページのリンク先
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/

横浜市 総務局 横浜市史資料室

Share.
Leave A Reply