【1984年】ぺちゃんこに潰れた車内の中には…「恐怖の列車」と呼ばれた鉄道で起きた最悪すぎる事故「ホーエントゥルム列車衝突事故」【ゆっくり解説】

1984年2月29日は決していい天気と は言えない日だったというのもドイツの 作戦アンハルト州にある小さな町公園 プルムはひどく恋切りに飲み込まれており 必要がなければ家からは出たくないそう 思うような日だったんだそこまで思うって ことはかなり視界が悪そうだねそのため この日に法演プルムで外にいたのは早く 帰って温かいものでも飲みたいと思い ながら列車に乗り込もうとする仕事帰りの 労働らいだっただがこの時彼らのうち誰 しもが数100m先から時速100kmを 超える速度で走ってくる別の列車の存在に 気づいていなかったんだもう危険な匂い しかしない駅員たちもまさかそんな巨大な ミサイルのようなものが恋切りの中から 飛び出してくるとは想像しておらず ただただ突然鳴り響いた衝撃音を耳にした だけだっ た乗客の1人だった職業学校教師のAは この時の衝撃について 飛行機が墜落したか爆弾が爆発したと思う ほど凄まじかったと後に語っている何が 起きたの映画ホームに降りたのは音が鳴る 直前だったのだが彼がその衝撃音に驚いて 振り向くとそこにはつい先ほどまで乗って いた列車の車両の下に押し込まれた機関車 の姿があったんだ一体どういう状況この 突然起きた恐ろしい光景にAはただただ 大きなショックを受けたというなお霧の中 から突然現れた巨大なミサイルのような 存在の正体は西ベルリンから西ドイツの ザールブリュッケンへ向かうD354と いう急行列車だったじゃあこの列車がA さんが乗っていた列車の後ろから全速力で 衝突してきて破壊されたってことか急行 列車なら駅を通過することがあるとしても 普通こんなこと起きないよね普通ならな しかしD354は特殊な列車だったという のもこの列車は途中の敵を停車せずに とにかく走り続けることを義務付けられて たんだどういうことこの事故の経緯を 詳しく解説するために1度40年前まで 時間を戻すと しよう事故当日から約40年前第2次世界 対戦は終盤に向かっておりドイツの東部を ソ連の軍隊がそして西武をアメリカ イギリスフランスが掌握これによって ドイツ国内は占領地帯に沿って分割される ことになり東部は共産主義のドイツ民主 共和国西武は民主主義の原則に基づいた ドイツ連邦共和国になったさらに首都で あるベルリンも同じ原則で分断されたんだ 確か東は規制が厳しい上に経済が衰退して 西は比較的自由で豊かに発展していったん だよねああ当時のヨーロッパはソ連を含む 東側の社会主義諸国と西側の資本主義諸国 が対立した状態でもあったこの時の状況を イギリスのウィンストンチャーチルも匠は ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが 下ろされたと表現しドイツはそんな鉄の カーテンの影響を強く受け東西に別れた 分断国家になってしまったんだドイツの人 からしたらまさか自分たちの住んでいた国 が2つに別れるなんて思ってもいなかった だろうねベルリンに至っては1つの年が 別れちゃったわけだしちなみに分断された とは言ってもしばらくはベルリン内で東西 官の移動は許されていたところが1961 年になると突如として東ドイツ側が国境を 閉鎖し西ベルリンを取り囲むように3Mも の高さの壁を作って東西の雪気を禁止した んだ有名なベルリンの壁のことだよねでも どうして急にそんなことになったんだろう 色々と説はあるのかもしれないが分断後に 西ドイツは発展していき東ドイツの格差は 広がる一方だったそのため東ドイツの人々 はなんとか西ドイツにしたいと考え当時は まだ往来が許されていた西ベルリンを逃亡 の出口として利用していたんだそこで東 ドイの国境警備隊はベルリンの壁を 張り巡らせて東ドイツにいた国民を 閉じ込めようと考えたわけだなせっかく なら未来がある方に行きたいのが人の差 がってもんだよねしかしベルリンの壁が できたことで東ドイツから西ドイツに脱走 することはほぼ不可能になり西ベルリンは 共産主義国家に囲まれまるで孤立した島の ようになってしまったんだそれじゃあ西 ベルリンの人たちが西ドイツに行きたい時 はどうすればいいの東ドイツを通らないと 無理だと思うんだけど確かにベルリンは東 ドイツの中央付近にポツンと置かれるよう に存在していたからなだからこそ警備員に 銃で打たれたくないのであれば西ベルリン から西ドイツに出入りする方法は飛行機と 列車を使用する2つしかなかった飛行機は 飛んでいくから大丈夫だろうけど電車の場 は途中こっそり忍び込みたりできそうだよ ねまさにそれは国民の逃亡を許すことに なる点で共産主義当局の悩みの種だったん だそのため西ベルリンから西ドイツへ行く 列車は高速で移動して者してはならないと いうルールが設けられておりこれら2つは どんな犠牲を払ってでも巡視しなければ ならない規則とされていただがこのルール が最終的に第3次を招くことになって しまう背景はなんと理解できたよそれでは 改めて事故当日の朝の話に移ると1984 年2月29日D354はザールブリュッ拳 を目指してベルリンのフリード通り駅を 出発なおこの駅は東ベルリンに存在してい たものの西側諸国からの長期列車など含め 西ベルリンの市民専用として使用された 国境的存在として知られていた駅だった そして東側のいくつかの駅を除いてこの からのほとんどの路線は西ドイツへ繋がっ ていたぞそう考えるとますます東ベルリン から逃げたいと思っている人たちには都合 が良さそうだな特に当時東ドイツは秘密 警察機関である国家保安省通称スタージの 厳しい監視化に置かれていたため特殊な 位置に存在したこの駅は東ベルリンから 脱出を望む人にとって希望が持てる数 少ない場所だったなおこの日かなり恋切り が立ち込めていたため同じ方向へ向かう他 の列車のほとんどは運行がキャンセルされ ていたんだしかしD354の運転手Bには 予定通り列車を運行するようにという司令 が下されていたぞなんでこの列車だけ しかもこの時の視界の状況は約5m先が 見渡せないほどだったというもしこの動画 を見てくださっている方の中で同じように 視界の悪い状況化で車やバイクを運転した ことがある人がいらっしゃったら是非その 時のことを思い出しながらこの先の話を 聞いてみて欲しいぜ了解さてそんなD 354には乗客108人が乗り込み 西ドイツのザールブリュッケンへ向けて 出発なお最初の停車駅は西ドイツの フランクフル都市となっておりこれはD 354が東ドイツ内で停車しないという ことを意味しているさらにBは上司から4 時間以内に東ドイツを抜けるように釘を 刺されていたんだえかなりきつくない そう普通に走っていたら当然間に合わない だからこそこれを実現する唯一の方法は 東ドイツに入ってから出るまでの間列車の スピードを最高速度まで上げてとにかく 突っ切るしかなかった危険すぎるだがそれ でも上司は何も問題はないと運転手に 言い聞かせさらに出発前にはいかなる理由 であっても停車は許されない何があっても 止まるなときつく命令していたんだ 圧力すごそもそも物理的にその時間で 行けるのこの列車を牽引していた東ドイツ 国鉄2050型機関車は900KWの電気 モーターを6つ搭載しており7200馬力 以上を誇るため最高時速は約120km まで出すことができたということは4時間 以内に到着するのは可能だったということ そうだしかしこの道のりにはある懸念点が 存在した ぞ何それは当時のドイツの線路は老朽化が ひどくかなり状態が良くなかったため線路 が時速100kmものスピードで走る高速 列車に耐えられるのかが怪しかった点だ しかし時間に間に合わせるためにはもう スピードで走らざるを得ないそのため運転 手たちはこの列車に乗ることを恐れいつ しかD354は恐怖の列車と呼ばれるよう になったそりゃさすがに怖すぎるそんな 状況でも運転手であるBは上司の命令通り 1度も射せずさらに3つの赤信号もスルー したことでなんとか14時45分頃に法 プルムに近づいてきていたんだでも時間が 迫っているそうだからこそ彼はもうあまり 時間が残されていないなんとか国興を超え なければと考えていたなぜならもしかりに 1分でも遅れてしまえばシージにも責任を 問われ厳しい対応を受けるためだった上司 の方だけじゃなく秘密警察の人にもという もこの当時スタージは公共の交通期間の 運行スケジュールなども厳しく管理してい たんだそのためBにとってはノームや線路 の状態がどうであれ最高時速である 120kmを出さざるを得なかったわけだ なそして彼が運転する列車が法プルム駅を 通り過ぎようとした時Bはあるものを目撃 し驚愕することに なる一体何があったのBの目に入ってきた のはなんと別の列車のテールランプだった んだそれって そうこの時彼が見たのはビターフェルト から晴れへ向かう地方旅客列車で戦闘と 最後尾に機関車が接続されたP 723だったこの列車は毎日15時に公園 プルム駅に停車し近にあったボイラー工場 から帰宅する労働者たちが数多く利用して いたんだそのためP723は地元の人たち からシフト労働車列車と呼ばれていたぞ 交代性のシフトで働いてた人たが主に使っ ていたってことだねそうだそして事故当日 もP723はいつもと同じように駅に到着 し工場で働く人たちを乗せてゆっくりと 出発し始めたところがこの日は突如として 列車の後ろから車輪のけたたましい音が 聞こえてきたんだそれが最高スピードで 走っていたD354その通りだそして霧の 中から突然見えたテールランプに気づいた D354の運転守備は急いで緊急停止をし たしかし123Tもの重量がある列車が 衝突する前に止まるにはあまりにも遅すぎ D354は最終的に時速40から 100kmほどでP723の最後尾に突進 する形にやばすぎるこの衝突の衝撃は非常 に凄まじいものでけたたましい音が駅に なり響きP723の機関車が押し出され 1番後方の車両の半分がペチャンコに潰さ れてしまったそして一瞬のうちに小さな村 は大混乱に陥ってしまったん だ早く救助しないと事故発生後まず最初に 駆けつけたのは地元のボランティア消防隊 で続いて数分もしないうちに常勤の消防隊 や警察救急者などが次々と到着したぞなお この時救助活動を指揮したのは地元の救急 石だっただが彼は現場の光景を見た時の ことをこのような事故見たこともなければ 立ち合ったこともなかったですと後に改装 しているそれだけひどい状況ってことか シート救助隊員たちはまず列車同士の衝突 の衝撃によって座席から投げ出された乗客 を助けていたものの瓦礫とかした列車内に 閉じ込められた人たちの救助も急がなけれ ばならなかったというのもP723の後部 の車両に向かうにつれ重傷を追った乗客の 数が多かったからだとなると1番後ろの 客車に乗っていた人たちはだからこそ時間 との戦いだったわけだなそのため消防士 たちは列車の上に登って屋根の部分から 閉じ込められた人たちを助けようとしたん だだがここで問題が生じてしまう何通常で あれば高温の炎を出して金属を焼き切る 統治と呼ばれる道具を使って穴を開けるの だがこの車両の内部は非常に加年性の高い 木材と合成樹脂の混合物でコーティングさ れていたんだ そのため地を使用すれば火災を引き起こし てしまう可能性が高いため彼らは普通のの 切りを使って地道に切っていくしかなかっ ためちゃくちゃ時間かかるじゃん実際に 救出にはかなりの時間を用することになり その間に閉じ込められた生存者たちから ここから出してくれるという普通な叫びが 聞こえたというだが消防したちはその声を 耳にしながらもひたすらに列車の屋根を 切り続けるしかなかったどちらも辛いね そしてようやく屋根を切り終えて車内に 入った時Cたちは驚愕の光景を目にする ことに なるな何があったのそこには座席と見 られる残骸の下から無数の腕や足が突き出 ており荷物棚には若い女性の遺体が 閉じ込められた形になっていた地獄へず なおしはこの当時のことについて本当に 忘れられない光景でしたしかしそれから気 にならなくなったのも事実ですなぜなら これ以上は状況が悪くなりようがないと 思ったからですとの地に語っているなおP 723の乗客を救出するのには12時間 以上もの時間がかかり列車の残骸から最後 の犠牲者を収容した時時計の張は午前4時 30分を示していたまたP7523の運転 手も運転席でなくなってしまったことが 確認されているなんてこと逆にもスピード で走行していたD3504の方の人たちは どうだったのこちらにももちろん怪我人が いたためCや消防隊員たちが救助や手当て をしようとしたがしかしここでまたある壁 が立ちはかることに今度は何それはこの 事故の報告を受けたスタージが現場に 駆けつけB723に近づくことは許さんと いい列車に入ることができなかったんだ なんでというのもD354は東ドイツを 通過してベルリンとに西ドイツの移動を 可能にしていた交通手段のため厳格な国境 管理が行われているこの時代には前にも 伝えたように特殊な列車だったと言える そのためスタージはこの事故が何者かに よる妨害工作や計画的な攻撃ではないかと 疑っていたんだそういうことかでも早くし ないと怪我人が最終的になんとか救助活動 は許可されたもののD354の中に入れた のはシージの幹部が許可したシと数人の 救助隊員のみしかも救助している間も スタージは救助隊の同行を鋭い眼光で 見張り続けていただがそんな状況家でもC たちは自分たちの職務を全頭しなんとか 乗客たちの手当てを終えたぞ立派な人たち この4時間後新しい機関車が到着したため D354のうち損傷のない車両に多くの 人々を乗せて西ドイツへ再出発そして数 時間後には国境に到着したが当然予定して いた4時間を大幅に超えることになっ たちなみにこの事故で亡くなった方や負傷 された人はどれくらいいたの運転手を含め P723に乗っていた11名が死亡し両方 の列車から重継勝者46名が出てしまった んだそういえばD354の運転手Bさんは 彼は重賞を追ったものの命に別状はなく 助かることができたぞかなり大きな被害や 犠牲者の方が出てしままったけどもしP 723の最後日に機関車がなかったら客者 はもっと凄まじく潰されていた可能性が あったのかなまさにその通りでこの機関車 がクッションとなったことでまだこれだけ の被害に抑えられたという側面があるただ 実はこの日最後日に機関車がつがっていた のは本当に偶然の産物だったんだどういう こと本来この機関車はヴィッテンベルク から晴れまで単体で運行する予定だったに も関わら 霧で視界が悪かったこともあり急遽ホエ プルムの手前の駅で接続されていたんだ なるほどつまり霧がいい方向にも悪い方向 にも働いた事故だったんだねところで いまい分からないことがあるんだけどなん だそもそもどうしてD354はP7523 に衝突してしまったんだろうP752が 毎日同じ時間にホエプルム駅に停車してい たりD354も止まらずに全速力で通過 するのはいつものことだったはずだよね それなのに霧が出ていたとはいえこの日 だけ事故が起こるなんておかしくない正直 そこについて私も調べてみたがなぜそう いうことになったのかが不明ではあるただ 通常はD354はP723が到着するより も先にホエプルム駅を通過していたような んだそのため1つの可能性を上げるとする ならばこの日切りの影響でD354の到着 時刻が遅くなりP723の方が先に駅に 到着したことで衝突したということなのか もしれないな確かにP723はいつも通り 15時についていたって言っていたもんね ということはD354は視界が悪すぎた から無意識にいつもよりゆっくり走ってい た可能性もあるのかなただあくまで水速の 息を抜けないのでこの動画を見てくださっ ている方の中で何かこれについて知って いる人やこういう理由だったのではないか という考えがあれば是非コメントで教えて 欲しいぜお願いしますなお事故ごも スタージたちは今回の件に対して妨害工作 や攻撃の線を疑い続け事故の犯人探しを 開始したと いうあくまでも事故だったと思うけど そんな中で犯人なんてどうやって見つける んだろうかまさに霊夢の思っている通りで 下は明確な証拠を見つけることはできず 結局詳しい調査結果は公表されることは なかったんだしかしそんな中ある人物だけ が処罰の対象となってしまう誰それはD 354の運転守Bだ事故から数ヶ月後人類 的要因がこの悲劇を引き起こしたとして彼 25年の経がかされたというニュースが 報道されたえBさんは上司の命令に従った だけなのに全ての責任があざっくり まとめるとこの事故の原因については運転 は赤信号を無視して走り霧で見通しが 悪かったにも関わらず最高速度で運行して いたため発生したものであるという形に なったんだどちらも4時間以内に国境を 超えろって言われていたからなのに 少なからずBさんだけのせいじゃない気が するけどこれはとかのしっぽ切りにされて しまったのかな時が経過した現代に今回の ことを振り返るとこの事故は単にここの ミスや技術的問題によるものではなく当時 のドイツ全体の社会的政治的状況に深く 影響された結果だと言えるだろうだから こそ調査結果が公表されなかったのかもね なお1990年にドイツが再統一された時 この東西を有機する列車の運行は停止され 東部の鉄道インフラは徐々に改善安全基準 を満たしていくようになったまた今回の 事故で列車を牽引していた両方の機関車は 事故後に修理されさらに30年間運行し 続け200015年に現役を引退そして 最後はスペアパーツ用に解体されたぞ そんなに長く現役で走り続けてたんだね なおホエプルム列車衝突事故ではこのよう な事故が起きた時に通常は作られる慰霊費 が存在しないなんでそれはこの当時その ような監修がなかったからだろうだがこの 事故に関わった200人の消防士のうちの 1人である男性はウルドになるたにあの2 月29日の記憶が読帰りますと語っている さて今日はこの辺で終了しようと思うご 視聴ありがとうございました

1984年、第二次世界大戦も終盤に差し掛かっていた頃、ドイツで悲劇的な事故が発生しました。
あまりにも酷すぎるこの事故はなぜ起きたのか?
そこには現在では考えられないようなある規則が存在しました…

▼列車・鉄道事故リスト

▼事故まとめ見リスト

Share.

32件のコメント

  1. 5m先が見えない状況って、歩くのも慎重になるのに120km/hって…..
    相当神経すり減るし、テールランプ見えた瞬間絶望だろうな…..

  2. そうかまだ冷戦中だったか。この頃の東側って、どんより灰色ってイメージ。運転手Bさん、見事な尻尾切りで気の毒。でも当時は何も言えなかったんだろうね。命が助かっただけでもよかったと言うべきか。投稿お疲れ様です

  3. ベルリンの壁で思い出すのが崩壊後に東西の検問所から出てきた自動車が
    一方は当時最新のBMWやアウディ、もう一方は旧態依然としたトラバントでお互いがカルチャーショックを受けると言う物でした

  4. 5mでは無かったと思うが吹雪で10m位の視野中田舎道を30キロ位で走ったときは道路が分からなくなって反対車線を走ってたよ。
    両脇雪で停める場所もないし前も見えないしで多分10分くらいが一時間位に感じたよ。
    そのあと道の駅に逃げ込んだよ。

  5. やはり、共産主義・社会主義は危険な存在。
    2005年の福知山線脱線事故も、共産主義者らが関わっていそうだ。

  6. この動画一つ観ても、共産主義や東側の思想がロクでも無い事がわかるのに、未だに信奉者が居るのが不思議でならんわ。
    つか、共産主義が機能しないのは小学生でもわかるだろ。

  7. 霞ヶ浦の近くに住んでたとき、年に1〜2回は濃霧の日があった。国道125号バイパスを使ってたんだけど、みんな慣れてるのと信号がどこにあるのか覚えられるほど少ないのてで、数珠繫ぎに30キロ/時くらいで走ってたような?前の車のテールランプが逆目印になって、置いてかれないように必死だった。

  8. まるでJR西日本福知山線脱線事故を思い起こさせるような大惨事に絶句
    犠牲になった方々のご冥福をお祈りします…

  9. 国民を平気で犠牲にする共産主義体制。だからこそこの事故を恐れてはならない。隠すのではなく語り継ぐべきだ。

  10. 上司のプレッシャーで運転手がスピード出しすぎた所は、JR西日本の事故と似ています。
    政治の犠牲になられた方のご冥福をお祈りいたします。

  11. 「救助する間もシュタージが鋭い目で見張り続け…」いや突っ立ってないで手伝えよシュタージ。そりゃ東ドイツもあっさり潰れるわ。

  12. 昔々、箱根ー熱海間の十国峠で、フロントガラスに自身の
    顔が映るほどの、まるでクリームの中にいるような濃い霧
    に遭遇し、友人を先に歩かせて目の前に微かに見える路肩
    やセンターラインを頼りに10Km/h以下で走行した事を
    思い出した。あれに近い状況で、いくら列車とは言え
    100km/hで走行・・狂気な冷戦時代だったな。

  13. 共産主義では体制が絶対のものとされるから、組織が事故や不正の責任を取ることがないし、それゆえに幹部や党首、書記長とかいうのは長く居座ることが可能になるね

  14. 旅行で行った冬の北海道で吹雪かれて、それこそ視界5メートル?と言う状態になった。徒歩だったけど、それでも一寸先は闇って感じでなんか怖かった。
    霧だったらまた違うのかもしれないけど、それでも120キロは流石に…😭

  15. 超濃霧に遭遇したが自分の腕が見えない状態ではランプなど無意味です止まるしかないブレーキランプが見えたら手で触れる位置です本当に怖かった

Leave A Reply