古賀達也@吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓①キャンパスプラザ京都@新春古代史講演会@20240121@26:57@DSCN3323
どうもありがとうございまし たビジネス通でね何年前ですかねも1年前 に初めていただいてそれ以外けようやくえ 講演に来ていただいてま内長もようやく あのオがされてねえ 本ま今日の少々員が大体ま今から200年 300年前にまですけどあれだけのものが 残ってたらね今日話しする質の音ないるゆ いわゆる山大国の日のおがどこかなのかね も遠の昔に分かってますですよねだから僕 ら歴史研究してる特に古代研究の世界資料 が少ないえもう古代から伝ってるいくつか のものはあるんですけどほとんどはあの出 物から言たりとかあるいは文字資料で持っ てるしかも同時代じゃないと後の時代に 作った文字資料からあの分習するしかない そういうに限定された ところですからこれから話するのは当限定 されたスで何が言えるのか何は言っては いけない言えないのかこの話理屈っぽい話 をさせていただくんだね今日こ先生の話を 聞いた後こんな話たら申し訳ないなと思う んですけどあのえちょっとご進歩してえお 聞てと思いますえ吉出官と日小国内市に 見える秘密検証というのが今日のテーマな んですけれども去年あの佐県の吉野遺跡 から石間が出て中に何が出てきるか大騒ぎ 大騒ぎた失礼ですけどあのありましたよね で要するに そのちょうどその時代がいわゆる山大国の 時代の前後にするでもしかしたらその山 大国と関係あるものが出るんじゃないかえ 女王 のもが出てくるんじゃないか非常に こう興味心々テレビでやってたでなぜあの そういう現象が起こるかと言いますとあの 日本のあの歴史学の中でまそれこそ何百年 かけてずっと論争してるけれども決着が ついてない結構あるんですよそのうちの 1番有名なのがえいわゆる義姉和人殿三国 士の義姉和人殿に書かれて いる和国日本の昔の国で和国と言んですが そこの 女王の板宮がそのまいわゆる山太国と呼ば れてるでその山太国があどこにあるかこの 論争が延々とえ明治以をを続いてるんです ね でその主には2つがありまして え日本の歴史ダムいわゆる今の天皇系が ずっと日本列島の代表王朝であるから当然 僕のえ中心の役はえ奈良県大和にあると いうまいわゆる機内説というそれといや そうじゃないあのそれじゃ説明つかないえ 北部九州じゃないかという吸収説ま他にも あるんですがまこのえ2つがあるわけです
でえま今日ちょっとあのメディアのね奈良 新聞の方も来ておられるんでえどこまでっ ていか分かりません が今の広告学とかあの実際掘って物を掘っ て調べるという学の領域が広学でそれと あと文献市学というえ古事とか日本初期 あるいは三国市義姉は人でま中国の資料 ですね文献市学と大体この2つの分野でえ 主にはあの古代研がなれていますで現在の いわゆる有力説多数説は山国機内説大和 奈良建設なんですよだから奈良新聞社は あの山国は絶対ならにあるというのがさ みたいなところでえその7の前でそれ 間違ってる話をこれから実はする はいえ今申しましたようにあの高古学の 分野とか文献史学の分野ではもう山大国 機内設がもう最優力もここで決まるという 風にま大体言われてはおるんですねえ ところはあの 読テレビ関西のですねそこまで行って委員 会っていうのが え毎週日曜日ありまして多分ご覧になっ てる方はよくご存じだと思うんですがあの またまたま10月去年の10月1日の韓国 もたた見てたんですよそしたらそ山大国 論争を特集してるわけです山大国はどこに あるかでこういうえ8名のパネラーが それぞれここだということでえ 権楽学権法護の論争してまいわゆる バラエティ番組なんですねでこれ見て いただいたら分かるように8名おられる うちに あの 123456名が急説なんですよ要するに あのアカデミズムの領域て国学とか文献 史学では多数説はあのもう7県決まりと いう風に言われてるけどここに出てる人も ほとんどが急なですねだから えこういうテレビ番組で一般の人が抱いて いる感覚と学問の分野で言われてる学問の 世界での有力性がねどうも違うというのが 分かってきたんですえ特にあのもう左上の 方この方があの明治点の夜を もあ常康さんかなでこの方が有名なえ井沢 元彦さんといういろんなその歴史の本 たくさん出してる中でこも激しく論して テレビ番組ですよで大変あの興味深くま 拝見してたわけです がなんで論争してるかと言ったらその伊沢 元彦さんが山大国はどこにあるかた元々 九州にあったかもしれんけど徐々に移動し ながら山にに行ったんだというこれは東へ 移る当選説という山大国当選説実はこれ今 隠れたあの え通説伝説になりてたんですよまその説明
はれしますでそれをあの伊沢都さんがそう いっただから山田国なんていくつもあった んだみたいな感じねそれに際してこの武田 康さんはものすごく発さですあなた三国市 和人殿 のに書かれている国名は山太国ではないと いうことはご存知でしょうと何ともやです あんたご存知でしょあの伊沢本さん答え られないです要するに山田国は大和に行っ たという当選説ですからねだから山台だっ たら他業で大和近いからあの山田国大和説 が兵してるわけですでそれに際してこの月 のさは三国市義姉和人前には山大国なんて 国民は1つもないと山一国である一と体の 古いは受が2発山一北であでそれをあの こ行て批判さるわけですでもう伊沢本局 さんも立たちでも反論できないもうテレビ ででそのこの山石人前には原文は山大国で はなくて山一国と書かれてるっていうのは もう学問的にえ論証しえ論を最初に書いた のが私の恩師の古田たなんですねね ちゃんと書いてくれてるこの説は古田子 さんの説だと言って伊沢の年子を批判し てるだけですだから弟との私らえよく言っ てくれでやっとその私の本日の古田子の 名前がこういうテレビのバラエティー番組 でねもどどと言うだけでテるまってるわけ ですよ説明でねえこの時代にまようやく つうというまいう風にえ思ったですから いわゆるアデの世界の定説と一般の歴史犯 古代子フが抱いている気持ちがものすごく 回避してるというのがえこの番組の若これ 本は個人的に言ってるだけじゃなくてこの 番組のプロデューサーが指示したからこの 発言がカットされずにあのやされてるわけ です ねでま単純に申しますとその え山大国の場所っていうのは和人殿に この昔その大砲軍という朝鮮半島の総近に 大砲軍という分でえ所があってそこから ずっとえ移動して山太国いわゆる山一国 全軍は山一国いわゆる山谷国へ来たとで その合計の距離が1万2000って ちゃんと書いてあるんこの移動の距離が 1万2000だからこの今のソウルから 1番2000に先にその和国の宮バ書いて であと理が何メか分かればあの単純に計算 で出るだけですで例えばあの半がですねえ えほほ4000って書いてます3が 40004000で実際があの300km 今の時速値が300kmですから 300kmを4000類で割ったら大体1 が75mぐらいになるんですよ大体で他の いろんな三国市に変ってあるの高さとかも 全部や大体175mになだから75mか
1万2000であったらどんなに伸ばして もこの国ぐらいまでしかいかないんですよ 7件まで行きは ないだからあの文献市学的にはもうこれで 決着ついてるわけですこれを私の私の本人 の古田が言ったわけですあの三国士の一理 は75m正確には76mから77なんです がま75mで大いうことほんでえ王軍から 宮まで1万2000書いてるじゃないかと ったらどう考えたってあの北九州付近まで 止まってしまって奈まで行かないとこれを 今から55年ぐらい前にあの東大の市学 雑誌という一緒に権のある歴史学の区で 論文発表したその年で1番優れた古代の 論文長で認定されるでその後これを一般の 本に出したらものすぐにぐれに売れまくっ たま後で説明しますがまそういうことで あのこのことを先ほど言った武田常康さん ご存知だったわけですだからこれを言った わけです国民も違うよ山大国じゃないよと 山国だよとで えルートも1万2000でこう行ったら ちゃんとここに空九州博多付近に着くよと このことを番組であの武田さんが あかなり大声てねガといってで伊沢本子 さんはたじたじという感じで一応ここは 終わりました ででま何を申したいかと言いますと要する に今日の私の1番のテーマは山いわゆる 山太国山一国の女王秘密のおばがどこかと いう話をするわけですからまず奈良か奈良 セか北部九州かこのどっちかはまず決め なけ離れすぎてますからねですから今の説 で大体あの北部九州あの単純に義姉人前 あのいわゆる文献市学というジャングル どういう何が書いてあるかっていうの正確 に読めばあの北斗九州ということでま 決まると思うわけ ですじゃ次にですね あの高古学から見た山大国大説機内では ありえる山大関川これあのえ柏原国学 研究所という日本でも代表的な奈良県のえ 柏原研究所がありますでそこの今もう ちょっと年体感されましたがそこでずっと え大学生時代から40年近く奈をずっと 白くとしたまいわばその柏原国学憲長の 事実上のトップのあの広学者なんですね その方が本を泣かれて自分はもう40年間 ヤ怒ったとところが今山大国な痕跡はない とこと言うでしょうからみんな知てたん ですよ知ってたんですよ掘った人たちはで もさすがにそ言えなかった多分いろんな 事情があってね見えなかったとことはこの そそ言ってしまってで本本出してもう本が すぐ売り切れてもう絶なったんですよで手
にが手に入らなかった入らなくなったんで え私のこのテカで及びしてこの京都でも 講演していただいたこの奈とかあちこちで 講演していただいてでせ先生結構お酒が 好きなんでね終わった後に心会でこの話を してもう鉄板なって手に入らないから是非 復興してほしいとほんででえ出版社と書き あったら触れるっての分かってねこれが あのまた今手に入るようになりましただ から実際の広本のあの広告学者のあの特の 方がねえこういう本抱かれてもあの実は 日本の古代学会激しが走ったんですよだっ てそれまで全部山大国山プフ気ない説が 最右力説でねそれが吸収説なんてたまに そんの吸収節で論文書あの研究者いるん ですよた書た途端商標で批判されるわけ ですよそんなとんでもないこと言じゃな 雰囲気の証票で批判さ れるところがこの高のその奈を掘ったと長 にたことがちとこれを言ってしまったと いうことでもうおそらく 学会で激震が走りましたけども学問的には ま決まれだと文献史学ではあの私の恩師の 古田武がの単純計算1万2000って書い てるんだからかけれたらあの究しより他に は行よがないとで今度高校学者が4年なを 掘った人が出てこないと無理だともう はっきり言われてしまいますでじゃあ政 先生はあの山大国はどこにあったと思い ましたらもう国部九州に決まってるじゃ 国部九州のどこでどこと思いますかままた 意見上ないんですけどまそれはま学問でえ いいんですけどもうもうはっきりてどと おっしゃってましたで えさらにあのおそらくこれあと10年は 言いつけないなかなか認め厄介が認めない とだこれを認めたには私はあと10年を これは言い続けるとおっしゃってますた このくらいあの有力説がえ変わるというの はね残念なが日本の場時間がかかるで メディアとかま新聞とかテレビでね今言っ たことをきちんと報道すればね一気に僕 決着少んじゃないかと思うんですところが なかなかしないでもようやくこういう特の 先生がこういう音りますこれ読みやい一般 の素もけに書かれてますんでねえ普通の世 が読んでもよくで書いてく本でござい ますで えでまここまでの結論はいわゆる山大国山 1国ですねこれがもうど北部九州博多湾岸 付近そこら辺までしか距離的に行きません のでそこら辺だていうのがまえ一応の結論 になるでそこまであの運営教師とってえ 糸島博多湾糸島半島と博多湾があるんです がそこにえどういうものがあるかというの
をちょっと申せいたし ますこれ有名なあの鹿島の金員ですね金員 というのは中国の古代中国の王朝がその 周りの国の国のの人にあげるのが金員なん ですナンバー2は金員ナンバー3が同院と いうあの今のオリンピック金銀とに非常に よにててもう金員をもらえるそうそう もらえないんですねこれはその金員が博多 鹿野島から出てるわけですよそしたらそこ に日本連島の代表王朝の大玉がいたから そこにから出されまこう考えるのはえもも だろうと思い ますで次にこれはあのあの沖ノ島っていう 博多版から北の方ですね限界な沖ノ島っと いうこれはえ海の小員と言われてますもう 島中は全部国王です立ち入り禁止て島中の 出物は全部国王に認定されてる国の少々員 って言われそこからえこのあの本道性の 理由のあの飾が出してるわけですえ近藤性 の竜っというのがその権上1番上の動物な んですね流がだから あの戦前はですね天皇の顔はああの竜竜の 顔と書いて竜眼と呼ばれてするんですねだ からえその国のトップを代償する動物なん ですねしかも 金色でえこれはあの古墳から指導したこれ も糸島半島の古墳から指導したあの金脈の 鏡なんですよ 金脈要するに周りを全部金でめきしてるん ですね古ないでどうやってめきしたん だろうと思うぐらいすごい技なですで日本 国内ではおそらく4枚しか出動してません でこれが一番見事で大きくて割れてもいい ませんでこれがやっぱし博多湾岸から出動 してるわけですこれあの古墳時代の大和と か機内から出てませんあの九州のこれが 1番立派であと宮田県本県から出てます あとちょこちょことちっちゃいのとかね 破片が出てますが金脈の ええ状況中身はどうなんです金脈が施され てこういうのが九州から出ているわけで ござい ますでこれはちょっと記法教ってこれは 中国の係です中国の三国市の時代の義の 時代ですね義の係なんです要するにえ技の 王朝が日本の国女王の秘密に鏡をたくさん プレゼントするわけですねだどの鏡があの 沖の丁からもらった鏡かていうのは今大 ロトがついてるんですがこれも間違いなく あの木の時代の中国の確なんですこれが やっぱ福岡県から出てるわけです度し ですでえこれはすれですあの炭の跡が出て ましよね要すに三国市和人殿にはあのあの 手紙を書いてるわけで和国から中国に書い たり中国から和国に書いてるだから文字を
使ってやり取りしてるっていうのは書いて ますそしたら住を使ってこれすりなんです がこういうのがやはりあの九州福岡園を 中心にあの野時代古墳時初期に出動してい わだからえそういう非常に古い時代にそう いう文字文化が持ってるというのが分かる だけ ですでこれがあの寸の重りですねえこう いうりがあの天秤ばかりのりこれあの指導 するわけ福岡県から指導するわけです 要するにあのいろんな交流をしますから 物物交換も含めて重さをきちんと重さの 単位を共してかないと交流できませんので それがま出して いでこのとり多分京都の方と関さの方は 多分分かるんじゃないと思いますあの え北部九州の人だったらえよく知ってこれ 渡り鳥です毎年冬にあのえまロシアのあの 寒いとからシベリアからあの開飛んでくる 渡りのなんですでどこに飛んでくるかと 言いますと博多湾外に飛んでくるこういう 綺麗な口端と足があのオレンジ色の綺麗な 鳥です博多の北九州に飛んできますこの鳥 の名前が宮ほとですみほ今も宮であのまの 福岡園出身ですけど博多の人たちはこれ この鳥は宮ドリア知ってるわけ非常に綺麗 でね冬毎年冬になって鋼玉に飛んでくとだ から有名な通りてみんな知ってるじゃあ なんで見取りなんですか誰も知ら ない不思議なんですだからいろんなあの あの渡り鳥が飛んでくるけどねその飛んで きた鳥を宮鳥て名前つけようと思ったら ここ京都に来た鳥とか奈良の都に来た鳥 だったら都つけてあこれやあの皆さ共通も 認識できますよねでもいないそれでせで 最近強混んでくぜゆかまでんですよあので これは博がで誰もなで宮床は昔から宮で 呼んでるでどのくらい昔から行ったかと いうと万葉州に都鳥とあの鳥の名が出て ますだから万葉指導ですからま8世紀中頃 あるいは9世にかけてはもう宮取りって いうのがあの出てきますからねであるわけ ですだからこれが全部博多に今行ったよう に全部 う都が博多湾岸にあった証拠としかま考え られないというのがま私の理解ななけ ですですからまここまで来るとどうもあの 女王貧民の墓は福岡県しかも博多湾岸いや 筑前ね筑前地ありますが筑前ここまで 絞り込めると私は思ですあまであの屈の 問題ですけど ねね こ次 ますでここでやっと今日のテーマになった あのえ吉のから出動した石間ですねこの
石間の蓋がつに割れてましたであの蓋を 取ったら全部口で埋まってるんでさあ中に 何があるだろうかでもう前日キレで放送を してたの覚えてれませんか何が出るかと いうこうワワ感ものすごい演出してた でしょあれね申し訳ないけどね私があの 科学やってる人間から来たらね結局掘った けど何も出てこなかったんですよで土でね で科やってる人間からしたらそんなも 分かりきってるじゃないかなんとなれば今 ものすごく優秀な金属探地が安い値段で 売ってるんですよだから佐賀県の教育に会 がそれ持ってないやがねでこういうのを 発表する時はどこに金属器が埋まってるか 事前にまさき調べるんですよ下に下手に バーンとスコップ突っ込んで壊したらだめ でしょだから事前に金属簡単地で金属が あるかどうかあるとすればどこら辺になる てもね事前にさ調べた上で次用人深くけく んですよそれなで蓋上げてま何が入ってる か分からんかごとやって1週間ぐらいし たら結局何も入ってませんでしたでしょう あれね多分地元のあれが掘った航空学者は ね知ってたと思います絶対金属式でやる はずです今の日本の航空学の技術がもう 世界トップレベルですからものすごい ものすごい技術で中をあの事前に調べる です掘ってから分かるんじゃない事前に 調べてその調べた情報に基づいて正学用 事物がるん ですだから多分ねあれあの最初から何も ないたらあのマスコミメテが騒いてくれ ないからやはりちょっとを持たせながらね ちょっとゆくやったんじゃないかなと私は 思ってますもしくは佐賀県の教育が非常に 予算がなくてね傷たえなかったまその場合 は私は登場し ますでま私はねあのまこういう魚の狩りの こう いういろんなこういうのこ出動しまして えこの吉野狩の給料の中にですねこういう 北分球法あと南分球部がありますねでその 横にあのひし神社ってあるんですよ神社が え私の音信のあの古田武彦と2人で吉野狩 が出た時にすぐ行きました あのどんなものが出てるかったら あのま私のじの古田大変まその有名なま グレコの小出し学者だったんでね古田武子 が下仲間でバーっと見てくれるんですよ ほんであの中間で入ってて 発の途中でしたけどね見せていただきまし たでその時にあの本のった竹子が言ったの はこの分球簿も重要だけどもっとあの注目 すべきはその横にあるこのひし神社だ こっちの山が高いんですよ風気より高いだ
から1番あの大事な有力者をほるんであれ ば1番高い山のあっちの方だでそこに えこの 吉野狩集落のトップの人をったら神聖な 場所だからその上に神社が構成作られるん だこうを あの古はま言ってたわけででその時から 私たちはこれずっとすごくてたこのひ神社 の射れしたという のでえこの吉野遺跡はですね もうかなりこれ昭和11年の資料なんです がえひし