みんなの図書館 おとなの夜学

[音楽] [音楽] えどうも皆さんこんばんは今日は ありがとうございますえ今日は49回目に なりますねもう9年ですね実際カバ君と 始めてからね で初めから実はこのあのえっと茶野町え 茶の湯の街作りまで話は広がると思います けど今日はあのやっとあのこのテーマが また実現するということも非常にあの 嬉しくあの思っておりますえ最後まで皆 さんと一緒に聞きたいと思いますどうぞか 君よろしくお願いし ますそれでは皆さん こんばんはえあと1回今年度のえ最終がえ 50回ということでその直前え49回とえ この文化不毛の地岐阜市でよく50回も テーマがあったなとえいうことなんですが あの50回やってるうちに文化不毛の地と は到底言えないえ地層みたいなものがえ 見えてきたなと思っておりますえ本日は ですねえまさにその本日言うとま武器文化 の始まりから今に至るまで えいろんな観点からその京風をですね文化 茶野軸としてえ岐阜の文化の給付みたいな ことをえ見ていただけるようなえ会になる かなと思っておりますえ本日のえゲストは ですねまずえ地元からえこの日本遺産信長 校の表なしが行き着く戦国城下町をえ民間 の立場からですねえまさにその城下町内に お住まいになりながらえ文化的に広げてえ 来てくださっておりますえ林大道さんです よろしくお願い え実はあの私の娘もですねえ大道先生の ところで裏のお茶を習ってまして えなんかね小学今中学生になりましたけど あのとんでもない人の前であのお茶会えで お茶を出しさせていただいてい るってことに本人は気づいてないと思い ますけどもえいつもお世話になっており ますはいでそしてもう1方ですねえ本日は 奈良からえお越しいだきまし え茶の湯を通じたえ街づくりですねえま それを聞いただけではどんなものか想像 つかないかもしれないですけれどもえ結構 とんでもないレベルでえ茶の湯を通じた 街づくりをえされていらっしゃいますえ 若き企業家でいらっしゃいます藤丸さん来 ていただきました藤丸ですよろしくお願い し ますえあの最近あの自分より年下のえ企業 家経営者と会うわけですけどももう本当に あのちょっと年違うだけであ世代違うだけ ですねなんかもう天才的な全然違う切り口 でえ新たな未来を切り開いている方に最近

よくお会いするんですけどもえ彼もその 筆頭でえ岐阜のあのお茶農園のえなんか 地域づり関連のえ事業でえたまたま出会っ た奈良のお茶農園を えなんか広げていらっしゃる企業家を通じ て数年前にお会いしたんですけどねそのお 話聞けば聞くほどその知識の深さとえ チャレンジの面白さで1回岐阜きてもらい たいなということで昨年えお越しいただき ましたことがえあのきっかけでしたけども え今日に繋がったわけですえ今日は順番に ですねあのまずえ林大堂先生に えま武の怒りから今に至るまでのえ岐阜の え茶の湯文化のえ給付みたいな形でえって いきえ後半に藤丸さんに奈良の事例とえ そして戦国部将とか歴史マニアでも いらっしゃいますえ藤丸さんの観点から ですねえ岐阜であるべき茶野の街てどんな ものだろうというヒントをいただこうと 思っておりますえ実はお二方にえ昨年度 協力いただきまして日本遺産信学校の表 なしって言うんだけど実際どんなものなん だろうっていうことを観光体験としてえ 作るというのを昨年ご一緒いただきまして えこの会はですねあの後楽草という城下町 のえ両茶室亭で えあの実際にウリの茶事をですねえ少し その時代中世にタイムスリップした感じで やっていただくとえいうことをあのやって いただきましたえこっそり僕がねこのねえ 中世のあの侍の格好でお客さんをお招きし てるですけども え茶室ではあの当時のえおじですとかお 道具なんかも見していただきながらですね えあとはお香などのえ武家の文化などもえ 楽しんでいただいておりますえ改めて今日 はですねまこれ実験的なものでしたけれど もえ実際にこの岐阜のえ町でですねえ どんな茶のい文化がえ起こり今に伝わって いるのかえ楽しまれていたのかあるいは武 の茶とは何なのかそういったところをえ 話していければと思っおりますはいそれで はえ早速ですねえハ先生の方からお手元の 資料え使ってですねお話しいただこうと 思い ます [音楽] さっきちょっと 時間 ちょっと はいえ映像の方はあのもうすぐ出ると思い ますのでえお話の方をさせていただきます こちらの方のレジメが皆さんお手元に ございますでしょうかあですねはいあの 今日の私のテーマといたしましては美野と

ま私の茶の湯混じということで実は岐阜 ミノというのは日本文化茶野文化のですね 総本山であるえというところですけどね えというのも偉大なの軸の創造者をですね えその事態ごとに排出しているんだという ところをですねあ今日はえ鎌倉室町そして 江戸そしてえ明治大正昭和とですねま長 特急でえミノのお茶を少し語ってみたいと 思いますのでえご成長いただきたいと思い ますえちょうど今あのかさんの話もあり ましたけれども今文化庁の日本遺産第1号 となりましたですね信長港の表なしが行く 戦国城下町義父ということであのござい ますまこれがちょっと再審査とかですねま 色々あの厳しいこともあるんですけどその 中の理由の1つがあ市民への浸透とか市民 の三角がないというところが指摘があり ましてま本当にこの地元の私え自治会とか 街づくり教員会とかえで普段 あの片さているもといたしましてはええ これではいかんなとまししてはお茶やおこ に関わってきたものとしてはこれ最後のご 方向としてこの信子の表なしえ戦国城下町 岐阜にですねえ自分なりになんかえ貢献 できたらなと思っておる日々でござい ますそれでは神学浄化町という意味でも ですね武下文化とは何かっていうことを ですねま私なりの視点であの2つの ポイントで語らせていただきたいと思い ます1つはですね新物 あきもう1つは座の文化というま切り口 ですね新物あというのはあの当時の武士と いうのはですね死に直面し て常に死が隣り合わせの世界を生きてる わけですよねで今日は敵の武将の首をあげ たけれども昨日は弟が殺されたとあるいは 父親が殺されたとそういう病彼ら生きて いるわけですよねだけど自分は生き残って いるんでそういう中にあって彼ら適性で あろうとも肉身のものであろうとも彼らが 成仏しない限りにおいては自分も成仏でき ないというそういう世界を本当に精子の間 をあのギリギリの中を生きているのが当時 の武将だと思うんですねそういう彼らに とって新物というのはですね非常に大きな 存在なんですね茶の湯につきましてはよく あの えまずえ仏に備えてそして人に施し我も飲 むっていうあの南房録の方の言葉がござい ますねお茶の方のえこれはまず仏にやっぱ 備えることなんですよね建家ですよねそれ が稼動としては 剣かお花を仏にで行動は健康ですよね そして敵とも言います笛ととか発とか全て こう中世の武下文化っていうのはそういう

仏にまず捧げるところから始まっていると いうまそういう武家の武士の生き方と直結 したものであるというところですねで次の 2番目の座の文化というのはですねあの これはあのまず仏に備えそして人に施して 我も飲むということで決して私が主人公で お客さんに与えるばっかりじゃないんです よねお客さんとのやり取りそして仏様と仏 様お客様そして私で一座をなしてそして その一座を混流するま会話であってもそう ですよねいろんなあのえお道具のええ失い でもそうですけれどもそれあの亭主が出し たものをお客様がそれを受けて反応して 会話が成り立っていくとかえまたあそこに 常に仏様があるそういう世界ですよね座の 文化まこれがま和の文化とも言えると思う んですけれどもま神倉室町の文化としては そういうものがレガであり徘徊であり行動 であり作動であり稼働であり脳なんか特に そうですよね亡くなったものの報われてい ない救われてない魂を救うそういう やり取りがまさに脳ですよねまそういう ことによってま武はあ武士であるものが 自分も成仏できま敵もそして自分の身内も 成仏させるそういうま文化の機能がある そういったものが武器の文化の特徴でも あろうかと思いますえ次にあの義父のです ね えお茶のミノのお茶の期限というかあそれ を考えますとどうしても鎌倉室町木のです ね時の存在をですね忘れらることはでき ませんま時というのはあの えまあの鎌倉時代の守護職のがここにも ございますよさですねえ1300年前後 活躍されましたえ鎌倉の護憲人としてま 中央でも活躍しておりましてなんとえ法条 家の特装家の娘を性質にもらってます えそして えまあの活躍をする鎌倉でも活躍するわけ ですけれどもま鎌倉東大一の前走である 無双祖籍をとも交流して祖籍を義父またみ に呼んでえお寺を作り庭を作りというです ね今国方の英法陣がそうですねなんで国方 の報時無双祖籍が作ったお寺が立見にある んだというところなんですやっぱこれ時計 なんですねねでこのえヨサの息子は有名な バサ大名でえ寄島というんですけどもえ 京都でまま活躍するわけですけれどねあの 悪い方に活躍してあの高原天皇に弓をいて えイか犬かって言って弓をいてしまいま 責任をとってえあのえなくなるわけです けども普通ならば時計これで廃絶するよう な事件なんですけども時をやっぱ消すわけ にいかないんですよねそれでまその後を 受けたのがあのヨアでこのヨアがあの

えこの尾と美と伊勢を3億の守護大名だっ たんですよ大変なこれあの勢力でしてねま 都家というのはこれくらいまあの大勢力を 誇ったあ鎌倉室町木の大きな大きなな武 集団でありますそしてこのえヨアの娘が です ねなんと当時の打上大臣 え最高の簡易のですね性質に突くんですで こう南北長の内乱の時にえ五高言天皇です ね南朝に攻められて五高言天皇がなんと 居川町の小島でご存知の方も多いかと思う んですけどトグと言いましてね公が居川町 の島にあった時代があるんですこれは二条 吉本の妻の要は実家を頼って時計を頼って 天皇以下3000約3000名の釘がです ね岐阜のイの尾島でですね高居であった 時代まこの時代に色々あの歌会とかレガと か会をやられましてね小島のすみっていう あのレガ集が残っておりますねまレガの 世界でもまそういった意味で大変な エポックメーキングな土地柄でもあります まそしていよいよま戦国時代でミノのお茶 の始まりと言えるのが私はどさんだと思っ ておりますどさん実はまマムのどさんとか 色々ダーティーなイメージがあるんです けども実は大変な文化人であの不十案10 説でございますかねえこれはあのえの13 大将軍ヨシテルの側近でま文化とか芸術の 部分のトップなんですねでこのこれをこの 方を美野に何度も読んでま言うなれば送電 の書まようなれば免許買電の書をどさんに 与えているんですねスキ岩をのずと言うん ですけどねで今度これをどさんは自分の 家臣である稲葉一鉄ですね稲葉一徹に 伝えるんですでこの稲葉一鉄からですね どこへ行ったかというと京都のですねあの ここにありますねえ八明あ8じゃないすい ませんしのしの家し竜ですよ今名古屋に おられますね元々京都なんですねで首のま これによると市野宗派あですから3代目 あたりでこの伝書がですね同さんからの 秘伝の免許海田の秘伝の伝書がですねえ 一鉄一鉄から死の宗派に至ってえし竜のお 茶とし竜のお香が確立されていきま京都の 文化日本文化を代表するような流れになっ ていくわけですねまそういうま流れが ございますまあの ええそうですねまあの時間がありませんの でこの辺あの非常に稲一てつもですねど さん面白いとこあですもう少しまた今度 信長となりますとね次信長でですね信長と なりますとね信長もまた実は信長を語る よりもまずは父親の信秀このこの方はです ね大変やっぱり文化の理解者でしてあの えっとあの伊勢神宮のえ式年船具これが

ずっとできなかったんですねこれが信秀が 7000がと言えるお金をですね寄進して 式年選をあの実施した男ではもうあります し当時の天皇え5 5557天皇ですねえ天皇この方は大変な あのま有名なところではその当時天辺地位 があってあるのは自分の不のいつところで あるということであの全国にあの近事の 半家信義を書いてですねこの平平を願った してこ全国へ送ったものが今でも残って いるというような変まあのす年の暑い天皇 なんですけどその天皇の拠が大変後輩して いたので4000がを送って公共を修復 するというそういうようなあのあの部将で あったんですねでまたその部下というか 平手正秀これが大変な文化人で実は平手 正秀が森役として育てたのが信長とウなん ですねであの正秀っていうのはまた大変な これ文化人武の女王っていうお茶人がです ねあのおりますあのまえ村田樹高武野城 千野理というま詫びの経夫と言われるま2 代目ですね城は元々レガ市なだったんです けどもこの女王についてまあのお茶を学び まやしこのことこうこつと書いて時つと 読むんですけどね時つについてまけまりと かそういったものに能な男でしてま後に山 時が尾に来てあのその文化の高さ賑いに びっっくりしたってことがあの時継狂気 っていう日記に書いてあるほどですねま この えようなあ家で育てられた信長なんですが 今までの武将とか将軍と信長の茶の違いは ここにありますように茶の湯五聖堂という 概念ですねねまお茶は3つの側面があると 一般的によく言われております1つはあの 増しけというかお作法ですねま あそう令法的なものでもう1つはあのえ 遊芸というか社交というかの面でもう1つ はあの行としての同としての修行の道を 求めるどとその3つの面があると う一般的に え言われるんですが信長はその3つのうち にもなかなか当てはまらなくてですね信長 はこの武下社会を武下社会のヒエラルキー というか支配構造をお茶という装置を通し てえ支配構造を作った男と言っていいかと 思いますねま簡単なことを言いますと 例えばお茶会えに出れる将は信長が先行を 認めたものしかお茶会にまず出れません そしてさらに先行を積むとやっと信長手塚 からえチキをですね茶入れとか茶碗とか 茶つぼとかあるいは軸とかですねそういっ たものをいただけるんですそして最後のが ですねお茶会を主催できるこれを最後許さ れたあの秀吉はですね本当に涙を流して

大喜びをしたっていうそれくらいのですね まこういう茶の湯まの五聖堂という武下 社会の支配構造をお茶を通してあの作った 男というような点もあるかと思いますま 確かにあのお茶もですね自分の個人的には 表なしということで一般的にいわゆる津田 創業とかあのえこの久をですねお茶でお なししと亭主信長自らがご飯半期を運んで お代わりをついでだとか長男とかえ自分の 娘がですねあの解析の料理を運んだとか そういう表なしなんかも残っておりますが 信長というのお茶というのは後ろ茶のご 聖堂的なそういう意味があったのかなと いうような気たしますま次あの裏って私が 実は裏なもんですから是非とも取り上げ たかったんですがウサは信長と14歳年下 でありますのであのま弟と言ってもだいぶ 離れておりますですねえそのまウサはま 岐阜に岐阜城にいる時にはま戦場敷のとこ で主に作道お作道としてまお茶を仕切って いたと言われておりますまウグはですね実 は大変義父にもゆりがありましてあのま ジョアンってお茶室がありますねあの ジョアンというのは戦霊名なんですね当時 のあの大名ははあのま流行のように洗礼で 受けるわけですねでそのジアが残っており ますね犬山にまその犬山の一した責任者は 元々市出身の堀口捨て先生って言いまして 戦前から戦後にかけて作道文化士の対地2 者の先生でした元の出身ですねそしてこの ウラクのですね長男は長男と言いましても 即の長男と性質の長男というまあの要は 側室が長男だったんですねでその側室の方 はですね実は大野町の今日方がおられたら 嬉しいんですが大野町に野ってありますよ ね野の古墳があるところですね美野の野村 班というのが実はウクの長男長隆があのえ 関ヶ原の後江戸時代納めた土地で今でも あの野村もみっていうのが大野町の天然 記念物あるんですけどねあの初め赤くあの 目が出てんですねで途中で青くなって最後 にまた赤くなるっていう野村もみとか 大野町の国の重要文化財の牧村家っていう のは牧村兵部の家につがるんですけどねえ その牧村家はウクのあの途中から牧村の方 へ流れたもんですから本流ではないんです けどもこの牧村は国の重文化財でウクの 長南の長田の家臣の家が今国の重要文化財 として残っておったりしますまあの先ほど またあのえっと時の寄島がバサ大名で名を なしたと言いますとね今度はあのえ戦国 から江戸の始めはですねあの歌舞伎者とし て実は性質ウラクの性質でやった長男ヨナ がですねひよに使えたんですね父のウグと 一緒にですですねこの永は歌舞伎者として

東大1の歌舞伎者と言われたというですね 言うなればファッションリーダーであり 文化の文化のクリエイターとして東大1 だったということですねまそういった流れ がありますまそして江戸時代となりますと ですねえーまあの岐阜元出身の古田オリベ ですよねそしてあの高山の高山とか水主ゆ のえ え金森ソアですよねえこの2人はですねま 非常に江戸の文化の特に最初の韓栄文化 ですねこれはもうまさにこのフルタオリベ と金森宗和の弟子たちが作った文化と言っ てもいいかと言えますですから今日の文化 と言われながら江戸の文化の花と言われ ながらも実はこの金あの宗和とオリベのま えお茶のが芸術家としての2人の感性が結 したものが海栄文化と言えるのではないか と思うほどでありますまオリベの弟子は 小江信博ですね信田信博っていう小江大山 と言われる方ですね書でもあり諸家でも あり作道もありそれであの昨日ありました んですかねアンラアの作田ですね彼はあの お茶人でもあるんですね作田龍と流派を あの茶を編み出しておられるほどの文化人 でやっぱりえオリベの弟子ですねまあと 高越ですよ高越そしてま演習こり演習ま こういう流れが古田オリベ流れですね そして金森草案につきましてはですね 京焼きって言えば人生って言いますよね 野村人生野村人生はの京焼きというのは まさに宗和が方方方方から方方肩からです ね こう全部宗和がこれ与えて作らせたという 言われていますですから共と言いながらも まミ高山の金森宗和が実は考案してそして 術結実したのが繁栄文化と言われるもので でまた韓栄文化もゴミの天皇ってゴミのさ って言って京都なんかでは言われるよう ですけどね当時のま大変文化度の高いあの 天皇でもあるんですがこのゴミのさんは歌 の人なんですね歌でゴミのさんま天皇家は 祈りと歌のが主なお仕事であるんですけど 天皇家の歌は何を持ってそのレゾン デートルと言えるものかと言いますとね 大和町の小金伝授なんですよ大和町の小金 伝授が葬儀から山上西実高に行て三条西 実高から五所伝授というですねこのゴミ脳 天皇とかその御勢天皇とか え年あの桂球を作った年天皇とかあの辺の 流れ歌の流れってのはこの小金伝授からの 歌 のう流れがですねご所伝授として行って 天皇家の歌のが今現在あるわけなんですね えまですからこれもええ大和町ですからね ええまそれもなぜ大和町なのかってのまた

理由はあるんですけどこれはまたちょっと 時間がないかと思いますので省いてあれ ですねえまあのゴミ天皇とそれからゴミ 天皇の中宮東福問員ですよねこれも信長の 妹の大一の山女の小郷の日田なんですよね の娘かず子と書いて高子と読みますけどね この方が繁栄文化の花というか ファッションクリエイターであり芸術の あのリードしたこの2人でこの下のの2人 の元で野村人生高越争奪消化道安楽案作田 という人たちが華々しく活躍して展開した のが繁栄文化江戸江戸時代まこれ京都が 関西がの文化ではありましたけどねそう いうものがありますえそしてまあその時代 岐阜は岐阜町ですのでねあの今でも残って おるにわとかあ鹿島とかあるんですがにわ はあのこの池の流れでしてねあのこの池の お え学この池名のお茶室がありにに家木材の 庭さんなんですが江戸時代けまりのあの 免許 回転そんなあの時代がありましたそしてま 明治時代になりますねま金貨山役とか色々 あるんですけれども明治時代になりまし たら今度ま日本の伝統文化がまさに絶滅の 危機を迎える時ですねでこの時殺そと現れ たのが柳の原三経さんですよねえ三経さん 増田ドンの三井の大番と言われた方々は 国際ビジネスマンですので国際人たるには 時国の歴史文化を愛しそしてそのそれを 体現できる人でないと国際人としてま認め られないというかですねまそういうことを よくご存知の方でありましたのでこよなく 自国の歴史文化増結が深く愛された方で ありますまお茶のえお茶もやはりもう 絶滅まその頃を描いたのが宮尾智子の松風 の家ですねね小説になっていますまお香も そうでしてね宮尾お香の方はキャラの女と 書いてキャラの人って言んですがそういう 小説を書かれておりますたまたまあの キャラの人の宮子が取材に行ったのが私の あの師匠であり恩師の方であったもんです からみ富君はしょっちゅうに来られてです ねあの中に小説にはかけなかったけれども まあれ裏あウグじゃなくて裏選挙のことを 題材にして本なんですけどねあの京都の 東府屋さんがもう家元の前ではパフパフと 鳴らせなかったと必ず買に来るけど絶対に 払えないことが分かっていたからという ぐらいま審査をなめた時代ですねそれをま この財界人たちまと今で言えば月給が何億 という方々ですからねあのまそういう絶滅 する文化を自分たちが資産を通じてま守っ たですねあのえならの幸福寺の50の塔が 15000で焚き物で売り出されたですね

15000とも15万とも言われるんです けれども15000ですよね15000で も買手がなかったんですだから残ったん ですよね焚き物として買われたら今あのご のとなかったんですよねそんな時代ですま そんな時代にこの財界人たちが伝統文化を 守ったんですがま多少ちょっと行き過ぎた ところがありましてねま要はわるく言えば 成金ですので湯水のごとく文化にもま使っ てまかつての大名家のもの天皇家のものも 買い占めたりしましてねその反動と言って もいいんでしょうかねあの対象昭和として 出てきたのは心のお茶を提唱するこれも実 は東の東京帝国大学ま あの東京今市犯えあるいは東京分離台え 早稲だとかそたとこであの展開したのは 奥田小三先生高山出身でチミという本が ありますそして西の方はですね久松新先生 これは長北町ですよねあのまあの久松先生 久松先生はですねあの前週は寺に誇り まみれで残っておるけれども前はお茶の中 に残っていると要はお茶イコール前茶前 一味を唱えられました前のお茶の3つの 側面ですねあの えしつけとか礼法とかそしてゆ遊芸ですね 社交線のものそしてこの方々はあくまでも 行動としての心のお茶道としてのお茶を 求めるというそういうことをお茶碗は掛け 茶碗で良いというのが奥田小三先生軸は1 本年柄年中1つで良いというそういうま心 のお茶を提唱されましてねこれが対象昭和 となってまいりましたま私はま前の立場で もありましたのであの次のねえあのまえ私 のさやかなえお茶の流れで言いますとま3 経でま3度よあの原三家の検証を通して ですねま3度ほどま大茶会ま各流派ご流派 来たら来ていただいたらこい家とウ茶で やると10席できるんですねでまたおこが 2席やりますもうそれだけでそして公園を まあのその心のお茶の公園ですね行動とし てのお茶の公演をまこしまこれがちょうど 私がまだ30代の時の写真ですけどね1番 上の司会進行やってますけどねまあの えか表年先生や母孝郎先生や神房博幸先生 方にまそんな心の茶をやっておりますね次 でま岐阜の水銀亭もですね産経算を検証集 と20年あの平成14年までですね20年 続けてまこれは100人程度の会ですがえ 次はえその後はまあ茶禅一味のこの心の茶 があることはですねこれ世界に通用するの はやっぱりこの心の茶であろうという風に 私としましてはあのあの思いましてですね こあの茶前一味の会ということで全国展開 ということで北海道から九州までま大体1 回200人ですねあの各流派6流派ぐらい

なるとお茶席でも12席なりますまそして ま公園もあり天心もあるともう朝9時から 終わるのは4時という感じですけれどもま そういうことでこま岐阜のま義父のとは 言いませんけどもこれからの世界が求める お茶というのはこういうお茶であろう心の お茶であるということでこれが実はあ岐阜 の高山の奥田小三先生であるあり西で兄弟 でた松先生が提唱されたものをですねま 実践するとまこれはあのえっと新潟の豪農 の館って言いましてね約1万坪で本作が 1200坪です65の部屋がありますま ここでも12席だったりとかま東京では あのえ小園って言いましてね細川家の別た と言われるとこ1日借りるのに100万 かかりましてねんでほんで2日減るんで 準備はカウントしないと思ったら準備も カウントされましてね約100万赤字と いうそんな感じであのやっておりましてね ま東京やら1番西はあの青岸園と言いまし てこれあの鹿児島ですね細あの細川さん じゃなくてえ島津さんですね島津さんにも ご党首にもお越しいただいてま各流派の 幹事長さんに席を持っていただきますもん であのま支部町さん方商工会員省回答方皆 さん来ていただいてまお茶席と公園とえ やってですねその前にやるのはですねまず 座禅をしてお茶席でそしてチミを読んで それからお茶をやるっていうそういうのを 全国展開をしておりましたまただちょっと なかなかこれもえ原職である時代ならでき たんですけど退職するとなかなか厳しいな ということでま岐阜に引きこもってですね まえおりましてま心のお茶を細細とそして 先ほどあのカのお嬢さんたちにですね私の 老後の慰みとしてお付き合いいただいてま 心の茶を毎回彼女ら彼らが来てくれると まず一緒に掃除をしてそして座禅をしてで チミを読んででお茶の稽古す感じたおり ましたところがあの信長湖の表なしでもう 最審査ということでまなんかやっぱりお茶 やこに関わったものとして恩返しをしない といけないなということであの今あのあの 取り組んでおりますが普段はあの岐阜公園 の界隈の約50か所の食材ですねお花畑 それの草取りから始まってえ水やりやら やったりしてえおりますあの昔前は信長湖 の表なし商定園って言っとったんですけど 最近ちょっと自信を持っちゃいましてね野 なの表なし100百火炎という風にあの ちょっと強気ですけどまただそのおかげで 懸賞炎になっちゃいましてね両腕懸賞員で 草取りででま糖尿病だからなるなるんだと 思うんですけどまお恥ずかしいことで手術 したばっかりなんですけどねまただあの年

に2回こう茶会をやってうんあの えま熊倉澤先生に来ていただいてまま信長 のお茶を考える公園とお茶とおことという ことでまあ1一昨年が60人え去年が90 人ま今年が120人そして再来年になっ たらあのあのえままさにそうですね信長と 言ったらレガ配下行動作道稼動の高商刀剣 銃料理以後将棋迂回この全てをですね金 家地具には33価値あるんですよねま滞在 型でまできることならあのかつて私何度も 婦人画法であの特集していただいたことも ありましてまもう今婦人法フランス資本に なっちゃった残念ですけどもカバさんのわ の線とかありますそういうところと提携し ましたらねま滞在型で全国でま家元もお 越しいただいておりますので裏ですけど 小田家が来ていただいておりますしまナセ も来ていただけますのでま価格に応じて席 を用意してま私の席はあ5000円ぐらい で家元の席は5万円ぐらいとかですねそれ ニーズに応じたま滞在型の信なの表なし 仙人茶会がですねできるといいななんて ことを夢みてよる今日この頃でございます どうも成長ありがとうございまし たはいありがとうございましたあのまさに え本当武の怒りから現代に至るまでえこの ミノの地が偉大な美の鬼宿の創造者を排出 しえ繋がってきたねあの関文化の華やかな もののルーツがえミノにあるということ ですとかま各時代時代のあのトレンド リーダー文化的トレンドリーダーここにい たえそしてその京風に林大堂先生もつって いるっていうですねえそういうことがよく わかるえご講演でございましたえちょっと 岐阜に自信を持っていいのかなというえお 話を聞かせていただいたところでえま実践 的にま奈良でですねそのお茶を持ちいた 地域づりをえされていらっしゃいます藤丸 さんの方から事例とあの新たな岐阜への 観点をですねえ伺えればと思いますじゃ ちょっと付け替えますので少々お待ち くださいいいですあ改めましてあの奈良 から参りましたと申しますよろしくお願い し [拍手] ますあのなんか小さい頃から歴史が好きで あの母があの録音テープに入れてくれた 平気物語であのそれで夜寝るっていうのを 繰り返した男なんですけど場が岐阜のあの 大野町にいた関係で初めて中学校2年生の 時になんかおばが遊びに来るって言われた 時に織田信の場所に行けるわと思って感動 してで岐阜女を見た時になんて山の上に 素晴らしいものがあるんだと思ったのを ちょっと覚えてるんですけどおばその後も

よく呼んでくださってでよく来ててあの 岐阜すごく好きな場所の1つなんですけど 今あの福岡地元福岡で奈良の大学に行って 奈良であの街を行使をしながら自分で仕事 をやってまして今年で18期目ですかね あの大学生の時に会社を起こしましたので であの起こしを始めてなぜお茶の世界の方 に入っていったかをちょっとお話しさせて いただきますのであのちょっと足早になる んですけどお付き合い くださいえっとまず私プロフィールなん ですけどえ今年40歳ですねこれ39に なってるんですけど40歳ですであの福岡 県打フ出身であんまりあの学校に馴染め なくてで実家が和菓子屋だったので ちっちゃい子がずっと仕事手伝いながら 実家に来るお客さんといろんな話をし ながらえ大きくなりましてまあのすごく あのなんて言うのかな和菓子屋って やっぱりあの保守的な人たちがたくさん 集まる場所でその地域に行ったらすごく 頑張っていろんなことやってる方が集まら れるんでいろんな夢物語を聞いて育ちまし てこれちょっとごません話が一部古いん ですけどま地域活性局っていう会社をなら でやってましてえ僕歴史がすごく好きなん で多分九州の歴史好きの999.9%は 最後高森が好きなんですけどあの僕は 大久保道っていう人が内務省って組織を 作ってなんか日本中の速算工業をやったの にすごく感銘を受けましてなんか伝統産業 の家とか会社に行くと内務省がやってた あの内国官業博覧会で表彰上をもらっ たってのをたくさん皆さん飾ってあるん ですよねあの時代に武士がまだ戦ってた頃 にそういうことを考えて始めた方って 素晴らしいなと思ってただそれを戦後の今 の時代はもう民間でもできるんじゃないか ということで地域活性局という会社を始め まし たまずはま情報発信拠点を 奈良町資料館 であの町奈良町っていうのが奈良の旧市街 地ですね猿沢の池から南側のエリアになる んですけど幸福寺が歩いて5分ぐらいで 街中にはガゴ寺っていう世界遺産のお寺も あってえ少しずつお客さんが来始めた頃 だったんですけど2007年の10月5日 にま大学4年生の時にオープンしまして 近所近所の方が建物貸してくださいまして なんかやったらって話でで観光案内所始め ました奈良ってすごく人の優しい場所で なんか九州から来た人が頑張ってやるん だったら応援するわって人が多くてあの 看板東大寺の長老に書いていただきまして

これがね意外と結構お札みたいになって なんかねあのそう変な人が来ないような 感じで始めさせてもらってレンタサイクル の看板があるんですけどレンタサイクルも 近所のNPO放置の方が10代ぐらい貸し てくださいまして本当無一問から初めて 授業を展開しましてよいしょで観光案内上 中は簡単に言うとま観光案内したり界隈の お店から広告を集めたりで物販やったり レンタサイクルやったりでまあのお客さん 来た来てくれたお客さんには高等でこんな お店がありますとあんなお店がありますっ ていうの紹介しながらやりましてで広告主 も徐々に増加しましてま当初2件で2点 だったお店今211件広告もらってまして ま少しずつ増えてきたで長町もあの会社 始めた頃100件ぐらいだったお店商店の 数が今300件近く増えてましてならでも 珍しく経済的に伸びてる地域ですねでそこ でまあの町にたくさん人が街の中を歩いて もらえるように1分でも滞在時間が長いと 消費の額も上がるで消費の額が上がれば 地元の食材を使ってもらったり地元の経済 が形になるので回ってもらえるように地図 を作ってましてだまお散歩ガイドマップっ ていう名前で地図を出してるんですけど これも今年やっとあの300万部突破する 毎年15万部から20万部ぐらい釣ってる んですけどまあのコロナも影響もあって ちょっと1回減ってるんですけどまた 作り直して増えていってますを訪れた人に は情報感で渡して奈良に訪れた方にはお 散歩ガイドマップで奈良町に来てもらうで ならにこれから訪れようという方には ウェブサイトから長町にアクセスしてもら うっていうのをえやっていますあとま いろんなイベントですねこれこれもだいぶ 前の2010年のこれ1300年歳の時に やった事業なんですけどまあのバスの団体 客が入店できる規模のお店がなまほとんど なくて5人10人20人ぐらいまでしか 入る店がないんですけどただその平常先度 1300年歳ってあの鹿の角が生えた お ががあの踊っててあれなんか意味があるん かなとか思い ながらあのねで人がたくさん来るのでそう いう人たちがはあの団体で来てもいろんな お店に入れるように俺はあの近畿日本 ツーリストさんと組んであのなんて言うか 1000円の件を出すためにやった企画で 街のお店が80件ぐらい参加してください ましてやったイベントのこれはプレス発表 の時の写真なんです けどでま多くの焦点と結びつきができたの

で次は地域全体に集客する方法をちょっと 考えたいなと思いましてまチネ授業による 地域課題の克服とブランド化戦略というの をえ考えましたこれがちょうど2011年 ですねの話なんですけど奈良の課題って春 と秋でね客層が違うんですよこれねすごく 面白いことでで宿泊の客数が少ないえ日本 で1番宿泊客が少ないのが奈良なんですよ ねでえっとワースト2が徳島 県結構ずっと戦ってましてそして破れて おりますなぜかと言とま京都大阪が近い からなんですけどであのそういうところで イベントをやるとね結果なんかあのまサジ 型のイベントってね前後5年間授業を 食い潰すんですよそのまとめてたくさん来 てもキャンペーンを大手の企業とかにも やってもらうんでそしたら次の年って別の とこに行っちゃうんですよねそのイベント 乗ると次のその後どんどん需要が 食いつぶして宿泊客がね減少していくん ですよね平常線と1300年歳はすごい たくさん人が来たんですけど100100 施設ある100100部屋ある宿泊施設は 100100部屋以上売ることができない でも残りの4年間の需要も食いつぶして るって考えたらあと人来なくなって結果ね 1300年の後円高も重なってねあのすり 3000円まで奈良落ちましてなかなかの ねなかなかのポイントがあってでま奈良の 地域産業吉野杉とかひのきとか吉のくとか 筆とか隅ですねこういう客層を集めるよう な事業をやって換算期に宿泊客が欲しい なっていう風に考えましてでそっから ずっとこう奈良の産業を見渡して考えて いくとなんかお茶の世界で使われてるもの が多いなっていうのを気づきましてま吉之 杉っていうのはあの千の球さんが吉野山で お替えをやった時に美しい杉の木があ るって言ってピッピッて切ってあのお箸を 作ったって話がありましてであの吉すぎ っていうのは基本的にスキア建築で使うん ですねあのスキア建築ってお茶室を作る こと簡単になんです言うとそうなんです けどそういうものとかまひのきは建築剤 ですね吉野の林業は徳川時代の大阪城を 作った時に山を切った後に林したところ から始まるんですけどそういうゆりがあっ たり吉のくに関してはあの伝聞室の1番 本性の高いもの皆さん風引いたらくを飲ま れてたと思うんですけどくず湯があの えっとなんて言うかなえっと医療の許可を 持ってる人が売るとカコ灯になるない人は くになるんですけどそういうものも奈良で 作ってまたりあと炭とか筆ですねものを奈 で作ってるのでそういったものってお茶で

使われてるんですね吉のくは日本料理で 使われてますし炭や筆って実はあのえ案内 場ですねお茶会の案内状態必ず皆さん炭で 書くんですよねそれ使われる珍しい今では 使われる業界なんでそういったとの方を 対象にしたいなと思って考えたものなん ですけどあとお茶会はね冬がオンシーズン なんですよね皆さん初釜っていうのご存知 ですかおいも おっとまだ終わりませんけどでお茶会は冬 がオンシーズンでならは冬がオフシーズン なんですよねオフシーズンにオンシーズン のものを引っ張ってきたいっていうのを 考えましてでお茶会ってね結構ね前日に 宿泊して当日にねもう綺麗なお召し物で 着物で会場に行かれる方が多くてね宿泊が 期待できると思いましてでお茶会事業あで ならは文化芸術に関連する店舗が多い奈良 の商店街ってね小術症むっちゃたくさん あるんですよお茶に関連するお店があって 新しいお店もあるんですけどね古いお店が 多いんでこれだったら経済交換も期待 できるかなという風に思いましてで茶の湯 で待ちおこしというのを計画しましたま1 つはお茶会大茶会を開催したいとでもう1 個は拠点作りをやりたいなっていう風に 思いましたでま会社の5周年パーティーの 時にそれを発表しましてま佐道で街起しま すっていうのを発表しましたでこの時に あの京都の仏教会の理事長さんの有馬来店 さんって方がいらっしゃるんですけど えっと金閣寺金閣寺のご住職だ当時ご住職 だった方なんですけどこの方に手紙を書い て会いに行きましてこういうことがしたい とであの奈良のお寺さんをみんな説得し たいと流儀のお湯元も説得できるように 有馬さんお願いしますって言いに行ったら 自分の想像以上に喜んでくださいまし もう僕が頑張るわ言ってくさいましてさん に記念講演やってもらってそれから茶会が 始まりましてで奈良市に企画を提案 持ち込みまして奈良の換算期に高所得者を 及ぶ事業として大茶会事業というのを考え ましたであのま当大事さんであったりガ寺 さん最大事さん大安寺さん当初大事さん当 大事さん薬さんで奈良が参加する授業で えっと表3ですねそれからあのま今はとか さんたくさん入ってくださってるんです けどで支部を中心に組織を動かして開催さ せてもらいましてま1回目の受行茶会と2 回目の受行茶会の写真を載せてるんです けどなんかあの多分信長と岐阜の話もそう なんですけど名前が受行茶会って言いまし て村田公さんていう人ならでお茶を始めた 人ですねそれまでお茶というのはあのお茶

の産地を当てる到茶っていうのが流行って ましてそれを飲むためにねあの3つぐらい の産地のお茶を持って来て飲み比べして どこの産地が当ってるっていうのやってた んですけど皆さんそれにね物をかけ始める んですよ土地をかけたりお金をかけたりし ていくうちにお茶じゃなくなっていった から村田号さんてのはそれやめて皆さん コミュニケーションだけができるお茶にし ようってことで税宅を取り払った姿って いうのがわびになっていったんですよねで その村田公さんを検証しようと思ってお茶 会えを始めたんですけど1回目終わった後 に結構クレームがあって村田事なんかどこ にもいないじゃないかって言われまして ただ集まってお茶やってるだだけじゃない かって言われてそしたらこのねこのその 右上の有葉ラテさんがわしに任せろて言わ れまして受行さんゆかりのお道具を持って きてくださいまして2回目にやって くださいましてでま右下でシンポジウム ですねとかもやらせてもらったりあと左下 石手流のお茶なんですけど野立てを イメージしてこれあの陣幕の中でお茶を やってるんですよねつまりあの出陣して戦 の前にお茶を飲んでるって形ででお茶は もう馬上杯っていうちょっと面白いお茶は 持ってくださったりとかしてなんか違う違 世界のものを雰囲気見せてくたりしまして なんか面白いお茶会をさせてもらったりで これはあの20002018年なんです けど今お茶の世界では武者工事選挙の戦争 さんていう方がすごくお茶のことを世間 社会に広められてるんですけどその方を プロデューサーにして幸福寺の中国道の楽 matter包容に合わせてあのお茶会を 行いまし て当時あの日本というのは歴史上仏教勢力 というと奈良の幸福寺と京都の平山炎力寺 がバチバチに関西で戦ってまして京都でも ならあの幸福寺の土地だった場所を遠慮寺 が取ったりとかやってはったんですけど 今回この戦総さんが2つ重ねて一緒に合同 包容を企画してくださいましてであとあの お茶会の関手の1人はあの廃物希釈の時に 幸福寺の仏教美術をたくさん購入して保護 してくださった藤田美術館さんにやって もらったお茶会をはいやりまして 2万5000円のお茶会をたくさん人が来 てくださいましてまならちょっと変わった 雰囲気の形を演出できましたこんな感じ です ねあの僕事務局長で動いてたんですけど 幸福寺って形態が広いんですよで僕は皆 さんあの会場が3つあってお弁当をずっと

配ってもらないとだめで1回も検車が見れ なかったんですけど初日歩いたあのキロ数 がね10km歩いてましたすごい広い形態 ででもなんか来てくださった方皆さん すごく喜んでくださいましてまこういう ことをならでえやりました ただあのねコロナになってお茶っていうの はコミュニケーションなんで人と出会う人 と触れ合うことがポイントなんですけど コロナでできなくなるんですね本当暇な 時間を過ごしたこともあったんですけどで この中に2つの授業を進めましたま外に 打って出る授業とチャネルの拠点を作 るって事業なんです けどでこの急場大きにならが他の地域から どのように評価されてるかをもう一度確認 する授業を行いたいなとで中小企業庁の小 規模事業者持続化補助金っていうのを使用 してこの中に外に打って出ました都の土産 店京都ならっていう客にしましてま信頼 関係のある奈良と京都の企業5者が集まっ て特産品の展示販売会とお茶会講演会を 東京山梨岐阜で開催しました参加企業はま 吉野クのえ福川本家さんっていう葛谷さん であのカバさん紹介してくださった健一 自然農園っていう無農薬のお茶を作ってる 農家の方でホテルオバさんっていうのは ならで今東海っていうあの夏の風物市の イベントをやってるあのホテルの社長さん であと私の会社あと京都に渡文さんって いう死の小屋さん西人の小屋さんがあって この5社でやりましてまそのうち岐阜と 岐阜でさせてもらった時は海津市っていう ところに重要文化財の早川住宅っていう 立派な建物があるんですよあのえっと 3000つの敷地内に600つの建の家が 立ってる皆さんおちょぼって行かれたこと ありますよねその入り口からちょっと入っ てすぐ左側にある大きなオタクがあって ちょっとご縁があったので借りしてお茶会 をやりましたま展示販売会ですね着物とか 道具の展示販売会やったりお茶会をやっ たりさせてもらったんですけどあこの時ま ちょっとお茶道具どせてるんで簡単に説明 すると奈良の人京都の人が岐阜でお茶会を するってこなんで3つの地域に関連する テーマが必要なんですよねでそこで考えた のがまず待ち合いに先ほどちょっとお話も 出てきた小江流山光って小家の投手の軸を かけました奈良にいた時に呼んだ歌と思わ れるもんなんですけどこの方元々あの織田 信長とすごく親しくて信長と親しかったん ですけどあとは鹿児島の島津さんとも 親しくてで海津市ってあの島が頑張った 法力の治水工事の話などもあるのでそれに

くっつけてえっとこのさんの軸を待ち合い にかけましてで本石ですねお茶席にはあの 本1番大事な事故をかけるの今回のテーマ の軸をかけるんですけどそこに理さんの軸 をかけましてま理さんというのは関西の いろんな商業勢力え貴族とかいろんなお寺 とかの勢力と東海の覇王だった信長をつげ た人ですよね理さんていうのはすごくこう こまめにいろんな活動したことによって 信長さんは関西で地を得たと思うのでその 方を軸にかけさせてもらいましてで講演会 とかもさせてもらいましてこんな形であの 全国を回りまして楽しいあのコロナの事業 をやらさせてもらいましたでまコロナに なってあこのも1つやつね茶の湯の拠点を 作るっていう今左側あの貸していただい てる事務所なんですけどこれも国の補助金 を使って全面回数しまして中にお茶室を 作って今毎月お茶会えをやってますであの お茶会えもね最近はねなんかあのお茶の 先生が亡くなる人が多い先生がなくなると 次の先生探すのが難しくて結果お茶でき ない人が増えていくんですよねだそういう 方もお茶会には行きたいという方がすごく 増えてましてそういう方がね全国から来て くださいましてえっと大阪京都滋賀え兵庫 ですねで名古屋から来られることもあるん ですけどそういう方がたくさん来て施設を 使ってくださってましてま自分でお茶会を することもあれば使っていただくってこと もあるんですけどまこういうことをやっ たりで昨年はあの国の授業を県庁から頼ま れて企画を書いてインバウンド向けのお 茶会を行いましたえ東大事さんえハデラ さんでしさんですねで薬さんですねこの時 はあのもうなんか内容がお茶をやってる人 にお茶を楽しんでもらう企画じゃダメなん ですよね外国から来る人ってお茶なんか 分からないただ日本のことは好きで来 られるので村村田事項が始めたわびの 始まりの雰囲気村田事項が始めた頃って いうのはお茶道具がまだないんですよなの で中国とか東アジアから来てるものをお茶 道具にに見立てで使ってたんですよね 見立ての文化ですよねなんでお茶碗が 重かったりするんですけどそういうのを見 て考えながらでも村田号さんてのは茶線と か茶借を作って竹製品を持ち込んだ人でも あって元々あの抹茶を救う茶借っていうの は中国の薬さじだったんですよね銀とあの 後来性え朝鮮だったらえっと銀え銀の銀と か鉄ですねで中国だったら造なんですよで も増のものを庶民が持てないですよねで受 さんはそれを武の車借に変えたんですよね こういうことやって国産家にちょっと

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領主がどんどん対当していって最終的に 機内政権から武政権に権力が移行されて いきますまそれが言ってみたら平見物語の 話ですねここではあのねあのそので戦いが あったりとか義のお兄さんの友永さんが 戦死したりとかしてる場所も岐阜にはある んですけど で鎌倉幕府っていうのは今度都があの宮と 鎌倉の間をあのが最重要行路通路最重要論 になるので東海道をすごく大事にするん ですよねで東国を盤とした鎌倉幕府が誕生 するとま東海の軍事的重要度は存在感を かなり上げていき ますで室町幕府に切り替わりますね次足が 京都に室幕府を作るんですけどで東国盤に 盤がある賀政権足政権は栃木県出身で栃木 の足さんが大きくなっていったんですけど 足さんってあのえ僕見て見てないんです けど去年のタガドラマ昨年かなであの出て きたんですけど皆本家の系統を継いだ家で 法条家をのけると1番土地持ってた人なん ですよね圧倒的に持ってた人なんですごく ま力があったらしくてただその関東に基盤 があったのでなんかあると関東から兵隊を 助けてもらうのが分あったと思うんです けどま重要がすごく増してたんですね町 時代でただこれが大人の乱を迎えると機内 はま別としてほとんどの地域がねあの独立 大名が出てきて交流攻撃ができにくくなっ ていくんですよねでちょっとした勢力が どんどん日本中にできていくんですけど その結果ま大海がね継続して住んでるミノ とか尾の農業経済力はね各地をどんどん 凌いでいくんですよねでこれちょっと気に なったんでえ食べたんですよねこれがあの 機内及び東海の大体ね国田数1598年の ものなんですけどこれがあの各地の国高数 なんですけど元々あの日本で1番豊かだっ たのは大和の国なんですよね農業始まった ところでもあったと思うんですけどその 機内って言われる5カ国ですね大和山代 石下線石下線って言われるんですけど今の 大阪府奈良京都の3つの都道府県ですね その地域の経済力を小田信長の頃にね東海 地が気に追い抜くんですよこれ多分すごい 大回訓だったと思うんですけどその結果ね あの圧倒的な軍事力で経済力でま人数を 連れて信長さんが攻めてくるんで全く対応 できなくなるんですよねその時にあの関西 はあの商売人がたくさんいるんで信長の方 にくっついてく人が多かったんですよね あとまあの大江の浅井長さん三川の徳康 さんとかも信長さんにくっついてきてるの でこれでね勝負ありって感じで ひっくり返るんですよねでま岐阜はまカコ

の歴史があるんですけどカコイコール災害 ですねおそらくねあの記録残ってないだけ ですごいたくさん災害があったんじゃない かな災害の旅に多分土砂が出てそれを解禁 するって作業をずっとやってたと思います でそれは同時に解禁した人たちが解する 組織力が大きくなって武士団が形成される です ねでそれからそれを形に大きくして1つの 勢力したのが織田信長ですねで分地統治 天領の歴史があって直産工業の歴史があっ てそしての歴史があると思うんですけどま 河川の氾濫開国の繰り返しとねえっと平安 期時しが進出して300年値を張って皆 さんあの1回調べてもらいたいんですけど 時1期があの芦川県のために戦った青野原 の戦いっていうのがありましてここでねも と時さってねもう一族が滅亡寸前まで 追い込まれるんですけどそのおかげでね 日本の歴史ってそこで保たれてるんですよ 今の歴史っていうのはそこで都市がね多分 戦って負けてたら多分歴史が南張型にぶれ てた可能性があるんでそういったものをね あの自に残って守り続けた時家っていうの はやっぱすごく歴史の強いところででその 中世武士団の感覚でま都市その後ま斎藤家 ですねを仰ぐ名主に仰ぐ連合隊があってね 次に巨大な海地と商業力持つ信長の寝室が あってで小田政権下の主上ですね岐阜条約 10年さっき9年っていう風に教えて もらったんですけどでミノのね岐阜のね 出身の武将ってね強いんですよすごく戦争 に強くて信長が戦主な戦争って大体ねミノ 州の活躍で勝ってるんですよね簡単に言う とあの姉川の合戦ですねミノの一族のあの 稲葉一鉄さんとかの活躍で勝ってるんです よねあと森家とかねで歴史に残る力強さ 粘り強さがあってま明光秀でもそうですね 軍事的にすごく優秀な家だったんでま日本 の歴史の統一事業の抽出を担っていったと 思い ますで今度はね江戸時代になるとねそれを ね徳川さんがすごく恐れまして有力な戦後 国大名が出た地域っていうのは必ず有力な 大名を置かないようにしてるんですよね 分割統治させるんですよでこれであの日本 中ね今でも綺麗な街並が残ってるとこって 大体ね分割統治になってるとこなんですよ 5万国から10万国の地域の街が残ってて 街並が美しいんですけどミノもねだいぶ カットされて1人の大きな大名が出ない ように作られてますねでま直産工業の明治 以降の歴史はやっぱり繊維産業であったり ま農業陶芸などが躍進していったのかなと いう風にえますでこれあのミノ国の国高

ですねの変遷なんで農業生産高ですねえ 慶長3年1598年もう関ヶ原の2年前な んですけど54万国だったのが最終明治5 年の調査では73万円ぐらいの間で伸びて まして ま1.2倍ぐらい伸びてる感じですねこれ が面白いのがね奈良の大和の国はね室町 時代から爆発までほとんど伸びてないん ですよ農業やめて商業の方やったりしてる んですよねでところがあの山口県長州犯の 山口県はこの江戸時代260年で3倍まで 伸びてるんですよ地域によって全然違うん ですけどすごくこう着実にやってきた歴史 っていうのをこっから見ることができるの かなっていう風 にはい思いますでま斎藤どさんがすごく 愛した織田信長です ねで信長が目指した稲山ですねなんか国 取り物語で信長が何回も突撃していく稲山 っていうのが僕のイメージにすごくあるで あの山を見るとなんかドキドキドキドキ するんですけどで信長が命名したと言わ れる義父という名前です ねで信長のハゲを近づく支えた 義父で信長が流行にした茶の湯ですね 先ほど早先生もお話ししてくださいました けどそんな時代の流行だった茶の湯をね 地域で楽しんでもらうようなことが岐阜に はできるんじゃないかなとで同時にね今 観光って本当に変わり始めてて京都に行く とオーバーツーリズムって言葉が流行って まして自分たちの宣伝以上に外国たくさん 人が来てしまってキャパが間に合わないん ですよねでそれ結局ねならでもそうなん ですけど日帰りの観光客がたくさん来ると トイレ貸して終わりなんですよ全然地元に お金が落ちなくてで行政はどんどん投資 続けるから疲弊をして結局誰も観光に手を 入れなくなっていくんですよねそういう ことがねもう京都ならでは起こり始めてる んですよねなんで不特定多数の押し寄せる 観光ってのはもう終わったと思いますで これから先はまあ1泊2色プラスお茶会と いう体験をくっつけてま1人10万円 ぐらいで消費される観光っていうのを作っ ていかないといけないもしくはま国内の 企業版故殺納税とかを使用して1名 30万円ぐらいのプランを作って売ること が必要なんですけどま歴史的なものを 考えると岐阜はそれが十分できる場所なん じゃないかなという風に思いまし てはい以上なんですけどあの先月11月に もうちょっといいですか3分去年の11月 に太郎さん100年の年だったので織田 首取り物語をテーマにお茶会をさせて

もらったんですよねで織田信長ゆの道具 なんか持ってないんですけど信長さんが どんな人だったかて考えてお茶道具を 揃えることはできるんですよねで信長って 6月生まれなんですよ亡くなったのも6月 なんですよねで信長が大好きだったのは馬 なんですよ信長はとにかく馬が好きで馬で 領内を走り回ってた人なんですよねであの 桶狭の戦いなんか見ると自分が走り回って た場所に敵引き込んで飼ってるんですよで すごく馬が好きでだからあの東北の伊達 さんとかがいい馬を送ってくれた時すごく 喜んだらしくて自分の好きな病夫は全部馬 の絵だったらしいんですけど信長馬年だっ たんですよね調べたらなんかそういうこと があってまんかだから馬の名前の書いたお 茶ワを出したりあの信長さんはお父さんが すごく好きだったみたいでお父さん信秀さ んって人ですね信秀さんは息子の信長の ことすごくま信用してたんでしょうね将来 性があると思っただから絶対着男を変え なかったんですよね信長ってお兄さんもい たんですよで優秀な弟もいたのにお父さん 死ぬまで着男っていう地位を絶対買えない んですよねその割に好きに法認させて信長 が自分が好きなことばっかりしてたんです けどそれがね結局法人主義がすごく成功し た信長っていうのは多分お父さんがすごく 好きでだからそのお父さんが急に亡くなっ たから怒って証拠の時多分あの戦投げ ちゃったんやと思うんですけどでそんな 信長のがそのお父さんのこと好きだったん でお父さんのために立てたお寺が京都に あるんですよねえっと大徳寺のオバ員って お寺が信長が信秀さんのために作ったお寺 なんですねそこの住職がねタコが飛んで いくけどそれをよく見ながらでもしっかり タを握りながらね高く飛ばせ高く飛ばせっ て書いてる軸があってそれを使ってお茶会 をしたりしましてすごくま楽しませて もらいましたちょっとあの画像入れれる 時間が間に合わなかったんでちょっと省略 させてもらったんですけどなんかいろんな 楽しみ方があったり自分の野を表現できる 場所とかあると思うのでそういうのを岐阜 もやってもらえたら楽しんで奈良からバス できたいなと思うんですけどはいすいませ んちょっと打席になりましたけど以上に なり ますはいありがとうございます最後の自分 の信長を楽しめる場所っていうねなかなか 聞いたことないワードだなって思ったん ですけどねなんかあのお茶の世界ってあの 戦後にあの学校作道えっと女性がお嫁さん に行くための修行としてお茶をする人が

多くなった関係で男女の人工費が一気に 逆転してうん 女性のお茶が流になってるんですよねで なんか僕なんかはもう歴史上の武将を検証 するお茶会をしたいので基本合わないです よね企画としてでもこれからはそういう ことをやりながら歴史が好きな男性がお茶 をやってくれてお茶の中で歴史上の自分の 夢を表現してくれるようになったらいいな と思ってましてはいはいいやでもあの結構 なんて言うんすかねそのお茶会をする時の 道具合わせとかあのその日のテーマに 合わせてとかまお客さんに合わせてとか あのなんていうか妄想の翼を羽ばたかせて で色々連想を入れたりとかしてあのま すごくクリエイティブに楽しんでいたのが まその武将の頃から男のね今言ったあのお 茶だなって思うんですけどねあのそういう クリエイティブさはちょっと一時期その 学校茶会によってうんちょっとなんか そっちじゃない左方みたいななんかその やっぱり人口が一気に増えたことで やっぱりそのちゃんとはいできる人を 増やさないといけなかった時代があったの かなと思いますねただお茶の本質には ルールえっと思考はルールに回さるって 考え方があって思考はルールにまさるうん ここんなことをやりたいんだったらルール は崩してもいいっていうのがあるんですよ うんそういう考えもあるのであかやっちゃ ダめてことはないんですよねうんうん なるほどまさっきおっしゃったねその自分 の信長を表現するっていのはひょっとし たらこれだけ人気の武将ですからそれぞれ のんあの停止とかねお茶会を コーディネートする人ごとの信長像とかね その季節ごととかね今の自分の気分のね 同じ信長校のお茶会でもこかなり多様な 解釈とかねクリエイティブがあるんだろう なっていうの今のはい突然馬が出てきて なんかもうひらめきですよねそれ多分ね なんかそのやってるうちにひらめくんです よだからお茶の先生って前の日の夜眠れ なくなって道具を書いたりするはい 結構するんですよみんななるほど面白いん ですよこんな形でくっつけたのかっていう 話もたくさんあるのでそれを見に行くん ですよねお茶は手段そのそれ表現する手段 なんでうんはいなるほどはいは先生も結構 それこそそれぞれのテーマで様々な茶会の 思考を作られてきたと思うんですけどそう ですねあのま私があの最近艇でずっと茶会 やった中であのちょうど利の400年期 のいのにあの茶会ありました時にねあのま 私の恩師というか師匠がお越しいただいて

講演していただいたんですねでその時の理 の茶とは何かって言われた時に2つの想像 力だて言われたんですよ1つは クリエーションと1つはイマジネーション だってなるほど理のワブチというのは2つ の想像力はいえそういう意味ではまさに もう本当にどいよなる展開もありなんです よねの想イ想像する方の想像力ですはい そういう意味ではまさにもう本当にすごい 世界が展開できるとしていいんだというえ そういうことがるかなこういう話してると ね先生が構想されている岐阜町33家事の 仙人茶会もですねあのまさにこのコロナ後 の苦境に立たされている長川温泉のですね オフシーズンを解決する あの能をす感じ本当にあのちょうど藤丸 さんのご縁のあの有馬来てはいあの館長を 囲む会なんかがありましてねそれなんか 細川さんとかですね早々あるメンバーが おられるんですよそういうのにそう そうそう一気に呼んじゃえばいいんですね そのそういう方々をそうですねえそして 先ほど言いましたようにあのカバさんの わくとか組んでやればもうすごいはい イベントになると思いますねねではなくて あのそういった文化のそうですね血脈と あのこういった思想みたいなもの感じ られるはいそこには義父にはあるんです からねそのそういう全てがえ揃っていると はいなんかあのカバさんのはいスタッフの 方がなんか峠をやってると聞きましてで なんか斎藤どさんのお城の後の土使ってお 茶碗作ってみようかて言われた時に ものすごいドキドキしてそんなお茶れ使っ たら大するやろうなと思っ確かにそうすね あそこの土使っていいんすかとかあとその あの高々高々ってあのおこを入れるあの ものなんですけど蓋の後ろにデザインを 入れたりするんですけどそこにあの青い波 ですね正解派で動産を忍ぶ形にしていあの 表は気強を入れたりとかなんかそういうの をね考えていくとね寝れなくなってくるん ですよ ねはいまどんな遊びでも展開できそうです ねできるさしっかり学でやっぱあの皆さん のね頭の中にその国から信長湖の物語が 入ってるっていうのがあの様々なこの守行 を茶会で表現した時にあの通じ合える みたいなとこがこの岐阜城下町にあるのか なとうんはいはいちなみにあの金華山焼き ってのはやっぱそういう思いがあって 始まったもんなんですかねねあの江戸時代 にまあの終わりのですからあの武士がです ねあのちょうどはい えとか王とかそういう方々がまあと長人も

作っていましたんでまあのまあ私なんかも 時々茶会に使う時もありますですけどね あのまよろしいんじゃないですかねま そして今現代の金貨山焼きもないといけ ませんねそういう点ではねええてますので ねえなんかあのお茶道具とかってお茶会を したいって人か考えてこうさんに願いくお 茶会がなんかいろんなテーマを皆さん考え てやっていくうちにもができるっていう 感じだと思うただ昔と今違ってやっぱり あのあま大きい子で言えないですけど税金 が高くなってってるんでねそれなんか授業 する時もう補助金取るしかないってところ もだいぶ出てくるんですけどそういう時に 工芸予算をただ工芸でいろんなもの作って 見るんだったらこういうのに使ってもらい たいなという風には思いますねうんま芸が 単なる工芸ではなくって1つのこのお茶 みたいな世界観の中で必要とされて生まれ てくるとかテーマの中で生まれてくるとか まそういうことですよねあのま結構 やっぱり文化のねこの縦割りみたいなもの があの起こってきてますけどお茶っていう のはやっぱり総合的にねそれを楽しめるし クリエーションできるっていうね起点に なり得るのかなという風に思いました さっきあの理さんのその想像せって話が出 たんですけど理さんが好んだ色って黒だっ たんですよねはいうんお茶あんとか黒いん ですけど多分ね球さんの影響だと思うん ですけどあの当時天主格みんな黒いんです よねああでそれがなるほど小演習江戸時代 になってこエの時代になったら全部白に 変わっていくんですよねで白は潔白の白 つってあ身の潔白さを証明する純白の色な んですよねで武士の色と言ったら桜の白が 江戸時代の1番の色なんですけどそれに 変わっていく色のねセンセーショナルな ところもすごくお茶とくっついてて面白い ですよねなんかそういうのを見ててあこの ここの後ろはこの色だからこの時代かかと かねあなるほど考えたら面白くて寝れなく なっていくですまた全然寝てない全然寝れ ない本当に寝不足であのま武器茶の特色が まさに今の表現で言いますとね完全送電性 って言うんですよ一思送電じゃなくて自由 に変えていいんですねだから理が黒なら俺 は白でいくってそういうことがありの世界 がブケ茶の特色で完全そうで受けついた ものがもう完全に自由に変えていいんです はいええどういうですかあの完全にあのそ あの完全に受け継ぐあ完全送電性っていう んですねあのま師匠から受け継いだものを 完全に書いてしまうえそれでもって総と いうそれを受け読むとえなんか

パーフェクトにそのままやらなきゃいけ ない雰囲気の地ですけどパーフェクトに 書いていいとそうなんすそうなんですよ それがブケチの完全電性というあ相当 面白いねかですからあの正直言いましてね 裏龍はあの見私の方は見の裏龍なんですね で名古屋の尾の今のお家元とは手前が随分 違うんですねええもうおいの流儀なんです ねええそういうにガラガラっと変わって いくんですね完全総ま選挙の場合一思送電 ということで一期の器をま伝えていくって いうところが特色でもあるまそれでも 変わってはいますよね湯元になって だんだんまそういった特ですはいそうです ねブケ茶は完全送電性がその最も特色であ るって言われておりますはい分かりました じゃああの信長からのお茶を 受け継ぐというよりはま信長をこの時代 から見てえ自分の信長を表現するとまそう いったあのお茶をやってもいいんだって ことですね多分あの人によってはね信長 信長ゆかりの道具を持ってる方も いらっしゃるんであそうですねそういう人 にもてもら 言うことないでしょうしはいなんか いろんなやり方があると思いますねそう ですねいやでもあの今回のえっと藤丸さん の事例からはですねあのそういった自分の お茶を表現しつつも実際に経済効果を もたらすことで街とかお寺とかをこうやっ て巻き込んでいくっていうですねえまそう いったことも学ばせていただきましたしえ ま一方でやっぱご自身がすごく楽しん でらっしゃるなんていうのねえ感じ えどうでしょうか林先生こんな感じの岐阜 町でのはい大会はいそうですねあの真 楽しみに皆さん楽しみになってきません でしょうかね本当にもう私必ず実現できる んじゃないかと必ず実現できそうな感じが 今日えしてまいりますちょっとならあのお 寺とかあのお寺の地の並びの強さが強すぎ て東大とか東大とかね寺と大体なんか世界 遺産とかなってねはいまなんかそういう ことじゃないんだなっていうことも今日 ちょっとねあの我々なりにやっていいんだ なっていうこともちょっとえ学べたのかな とえ思っておりますなんかあのなるべく あのお茶をお茶の作法を知らない人が感動 してくれるお茶会っていうのをテーマに やってもらいたいなと思いますうん なるほどなんか星座をしないといけないと かそういうことをやっていくとね本当にね 入れる人が減っていくんですよでもお茶っ て星座のためにやってるわけじゃないんで スんもうたにねさん考えてやるのではい

そうですね素人が素人さんでも感動できる お茶うんのがこれからのテーマかなと思い さっきの石流のあの野立をイメージして皆 さんあれはなんか戦場の陣幕の中で椅子と いうかあれなんて言うんですかね将棋言 ですねあれに座ってらっしゃってまああ いうことだとかなりスタイルとしてもあの 幽霊よりもなんかラフというかですはい 楽しめたりねるま結戦国部将が活した岐阜 のですからああいうスタイルもありですよ ねうんはい岐阜公園もなんか新しくなる みたいですしはいそういう展開も楽しみ ですねはいあとじゃあ5分っていう風に なったわけですけれどもあの珍しく5分 残しましたのでえあの会場の方からですね ま感想でも結構ですしえせっかく奈良から お越しいただいてますから質問でも結構な んですけどもなんか出てくると嬉しいなと 思うんですけどいかがでしょう かはいそういうつもりで来てなかっ たそういうつもりで来てなかった悲しみ はいあああいらっしゃいましたはいはい ちょっとじゃあすいませんマイクあ ありがとうございます はいありがとうございましたちょっと スイッチ入ってないかも はいはいありがとうございました えっと大変素晴らしい企画をあの実行して いらっしゃるように思いましたが えっと1番最初っってやっぱり大変だった と思うんですけれどもどういう風に始め ていかれたのかっていうのをちょっとお 聞きしたいなと待ち起こしと言っても なかなか 行動ができていかないと思うんですけど 1番最初はどうされてたのかなと思いまし えっと元々奈良に行った時にまそれも実家 のお客さんが奈良であの酒屋さんえ作り さんだって挨拶に行った時になら僕この街 でなんかやってよみたいな言ってください ましてそっから考えたのと元々そのダザイ 布っていう観光地で生まれて育ったので頭 なか観光能になってるんですようんあのみ 正月の3ヶ日に250万人店の前を通るん ですよで実家和菓子屋なんでねどうやって 売るかを考えてるんですよ祖母がで隣のお じいちゃんお店のおじいちゃんは1個 100円の梅貝持ちっての売ってるんです よ で今日は先行売れたぞたきて僕に自慢して くるんですけどうちのおばあちゃんは 5000円のセットを700セット売って たりするんですよなんそういうの見ててま いろんなやり方があるんだなっていうのを 知ってただなるほど観光地もいろんな形が

あってダフは線なんですよ山道っていう線 でやってて奈町は街なんで面なんですよね 3つの通りに6つの筋があって出来上がっ ててまた形が違うそれを見るのがすごく 面白かったのと歴史が好きなんで歴史の あるところに行かないと多分死ぬやろうな と思ってで初め大阪にちょっといたんです けどもうすぐ全然ダメで奈良に引っ越して きたんですけど奈良がすごく良かったので そこでまどちらか言うと奈良でさせて もらってる感じですよねで古い街ってね なんか素敵なお年寄りがたくさんいてこう だああだって話をしてくれたり戦争の黒な 話とかさせて聞いて教えてくださったりし てなんとなく歴が歴史が頭に入ってきてで それを他の人に話すとお君よく勉強してる ねって言われてあ勉強してないんやけどな と見ながらなんかそんなことでちょっと ずつコミュニケーションを取っていって 広がっていった感じですねなんかうん自分 がなんか頑張ってやったってるは人の力で やらせてもらったっていうのが多いので なんかあんま自分がなんか優れて るってのは感じたことはないんですけど あのただ1つだけあの朝日新聞の記者に 言われたんですけど藤丸さんは孫キャラ だって言われましてうん少子高齢化の今お 年寄りをたくさん自分のテリトリーに入れ ていってるって言われましてで10国 ぐらい上の先輩からはじじ殺しって言われ まし てそう殺した棒やないんですけどまお願い しますお願いしますって言ってるうちに なんか形になったものが多かったかなと 思いますねいやあまラテさんをね手紙1つ でその気にさせるっていうねマキャラっす ねキはいあの世界の孫っていう漫画がある んですけどね最強の孫がねお年寄りを 口説いていくっていう漫画それを自で言っ ているなっていうのを今ね感じましたはい はいお答え良かったでしょうかはいえそれ ではま概ね時間となりましたのでえ本日の え夜学この辺りでえ閉じさせていただき たいと思いますえまあの奈良の事例も使い ながらですねえ岐阜の今に続くえこういっ たえ結役というかですねえ文化の地層 みたいなことをえベースにえこれから我々 がえ野校の表なしえが行きづく戦国城下町 をえどう作っていったらいいかという ヒント いけたような気がしますえお二方誠に ありがとうございましたありがとうござい まし [音楽] た

信長公は千利休を「茶頭」にとりたてお茶に親しむ中で、茶湯のとりこになり「九十九髪茄子」などの名物を集めるようになります。戦場での激しい戦いに明け暮れた戦国武将たちにとって、茶の湯は穏やかな心を保つともに、互いの文化度をはかる大切な素養でした。信長公は、堺の茶人・商人の津田宗及に対して、金華山麓居館で彼一人のためだけの茶会を催し、城下では明智光秀、羽柴秀吉との茶会を行うなど、茶湯は岐阜市の日本遺産「信長公のおもてなし」の重要な構成要素であると考えられます。奈良で茶の湯による観光まちづくりを手掛ける藤丸正明さん、織田信長公の弟・織田有楽斎より連なる有楽流宗匠の林大道さんに、織田信長・茶の湯・まちづくりなどをキーワードに、戦国より今に繋がる信長公のおもてなしについて語っていただきます。

【藤丸 正明(ふじまる・ただあき)】 
株式会社 地域活性局 代表取締役 
1983年、福岡県太宰府で和菓子屋を営む家に生まれる。
奈良大学在学中に「株式会社地域活性局」を立ち上げ。
日本で最も古い町・奈良市旧市街の「ならまち」で観光案内所運営や産地育成事業等、
観光を軸にした地域経済の確立を目的とした企業活動を展開している。
現在、流派を超えた茶会の企画や茶室づくり通して「茶の湯でまちおこし」を推進中。

【林憲和(林大道)(はやし・のりかず)】
全日本大学開放推進機構理事 金華まちづくり協議会事務局長
学生時代から、禅(臨済宗)、剣(直心陰流)、茶(有 楽流)、香(御家流)の日本文化にまみれ、半世紀。 地元において、愚の如く魯の如く只駆けずり回る 日々。原三溪柳津文化の里構想実行委員会副会長。

『 岐阜にいながら 知らなかった 岐阜を知る。
岐阜ならではの知性が集まり対話する、おとなの為のまなびの場。』

みんなの図書館 おとなの夜学とは、岐阜の郷土文化にまつわるあれやこれやを学ぶ講座です。

岐阜の文化発信のあらたな中心地、ぎふメディアコスモス 岐阜市中央図書館を舞台に、各回とも岐阜の地域文化に通じた様々な分野の専門家、“その道の第一人者”を招き、対談やパネルディスカッションを行います。
岐阜に住んでいる、関わっている「おとな」にこそ知ってもらいたい、そんな講座です。

〔主催〕岐阜市立図書館

〔企画・プロデュース〕NPO法人ORGAN

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