0042 石川明人『キリスト教と日本人』を読む(その5)

第42回配信を始めますタイトルは石川明 とキリスト教と日本人を読むその5 ですえっとですねまずあの前回配信の補足 ですけれどもあの裏紙4番崩れえですがあ これ はまあのウキペディアなどウキペディアな のでえじゃかまあの出展が不明確とか色々 問題ありますけれどもえ概要を知るには これで良いと思いますが えっとなんで44番って言うかって言うと 裏紙崩れっていうのはあ都合4回あるわけ です ね 完成2年店舗13年安静3年そして最後の 慶王3年 とでまあ特に1番 まあ重大事件となったのは4番崩れです ねそしてです ねあの 裏紙4番クについては私は 2016年頃ですねえま8年前に少し検討 したことがありますこれあの やはり同時期のですね え物希釈これがあ大変な仏教弾圧だみたい なことを言う人が多いわけですけれどもま 裏4番崩れに比べたら足したことないよね ていう私の率直な感想でありまして えただその際にですね状況を基準にする こと 自体がまあどうなんだろうかと いう考え方もあるんじゃないかと思います 準so基準にすればあ廃物希釈なんか全然 大したことない話なんですがあなぜ準so を基準にするのか あそれあのちょっとそれを考えてみたこと もあるんですね 私が中教の観点から論じたことに対し準教 を基準にするのは暗黙のうちに宗教なる ものの基準をキリスト教に求めているので ないかというような批判があるかもしれ ませ んで私は新物分離廃物釈に批公害する人々 に対して前々から違和感持っていたので もう少し冷静に客観的に見るべきではない かと思ってあまず比較のための1つの視点 として教に着目したわけですねただまあ準 教者がやたらにキリスト教に多いのは確か であってです ねま不思議といえば不思議ですよねそして 山崎正が世界文明士の試み神和と 武武 にようにですね書かれていることが参考に なるかと思い ます准する宗教孤独な自我の方 が今日世界のあらゆる場所に信者を持ち

地理的に最も普遍的な宗教であるキリスト 教だがこれほど文明史的に得意な宗教は他 にはある まいカソのキリストがユダヤ人であり ユダヤ教の神を自らの神としながらそのを 改革したために同じ民族から迫害を受け 十字架上に準したという異例の成立事情が この特殊性を生んだと 考える振り返るとキリスト教は異様に準教 者の多い宗教であってそれも伝動者や成人 だけでなく平凡な市民や農民の准教者の 帯びたしさは他に例を見ないので ある そしてカルタゴの ビクトリアについてですね え役所の要求は皇帝を神と認めえ偶像に 犠牲を捧げるという一点だが生が定を 名乗る少女は皇帝に中性を誓いながらも その皇帝の繁栄はキリストに対してのみ 祈ると譲らない拷問にも役人の根切な説得 にもこうして彼女は商用と死を選ぶので あるこの平凡な少女の中教は2つの点で キリスト教の生んだ新しい信仰の形と人類 の倫理感の進化の画期的な一歩を物語って いる第一は言うまでもなくこの少女が たった1人で拷問と警視を受けえ純粋に 内面的な個人の信仰を守ったことである 過去の民族宗教の信者も迫害と殺戮に耐え たし後のイスラム教徒も聖戦に倒れたが その靴は常に同胞と共有共有されその勇気 は隣人の見る目によって励まされていた彼 らの倫理はベルクソンの言閉じられた社会 の中の気安であったがこのキリスト者の 少女の周囲には隣人の励ましも見る目の 強制もないそこにはベルクソンの開かれた 世界があるばかりであってえそのの中で 彼女は孤独なへの飛躍を選んだのであっ たということでです ね教にも2種類あって生成に受ける選手 っていうのはま結構あるわけですねえ上土 新州の三川の国大浜騒動や明治6年越前王 の今立堺3軍の暴動におけるえま準教者 上土新集側から見たら準教者もですね えに受ける戦士タイプですよね しかし周囲には隣人の励ましも見る目の 強制もないにも関わらず行われる孤独な 支援の飛躍は珍しくてま日本ではキリスン ぐらいなんじゃないかなという感じがする んですねまもちろんあのえキリシタンに ついてもですねえ最近の研究でえこの辺り の見方もちょっと変わっているのかもしれ ませんえ宮崎シアですねえ宮崎市に賛成す 宮崎健太郎市や宮崎市に近い立場の研究者 はですねえ況についてもあるいは何か述べ られているのかもしれませんが私はこの

辺りちょっとまだあもううんこの辺り あんまりその後研究してないのでちょっと 現在の学会の状況は分かり ませ そしてですね えっと裏紙4番崩れのですねえ具体的な 有様については片岡焼きというですねえ方 の日本キリシタン 教師にですねえ詳しく書かれてい ますパリ外国選挙会新都発見キシタの復活 裏紙4番崩れ明治政府の裏紙処分旅一村 ソル罪の悲劇子団の警告と政府の反発旅の 話進行を貫いたギ団 発でえ実情調査実施近代日本の夜景弾圧 停止ということでですねえ非常に 詳しくいろんな事例が上げられていてえ 特にですね鶴の寒ざらしというエピソード はカルタのビクトリアをホストさせるよう な話です ね山中の一家は家族理3の華々しい霊の1 つで あるこれちょっと私あの読みがですね地名 とかもこの主の言葉 もちょっと変なことばかり言ってるのかも しれませんがちょっと土地感もないし え人命ともよくわかんないんでその点 間違いがあったらあ容赦ご容赦して いただきたいと思いますえ家郎は明治 ガンネル月つに流され2年2月28日准し た55歳であった聖史郎の子密蔵と娘鶴は 萩に流された母光と娘初はどこに流された のであろうかつの班の異臭と人員長には いどしずと あるツ野に流されてから9ヶ月目え千もら が氷の池に投げ込まれるような拷問を受け ていたところ郎は牢で病気で苦しんでいた 1867年 え小島郎桜町郎でひどい公務を受けた体が 本福しないのにまたこの異境で寒さとえ 飢餓に悩まされた上赤にかかっていたので ある苦しみを天主に捧げて傷よく耐しぶ ようにと千英門が励ますとあまり苦しいの で思わず声が出るのじゃが心では決して それを忘れておらぬう命を様に捧げている と答えた後ではよく自生して唸り声を1つ 出さなくなっ た千英門ら11人が福場密生に呼び出され た時自分だけ彼の前で信仰を公表できない のが残念だと悔しがったしかし11人が 信仰をひさないで帰ってきたのを見て大い に喜んだ死の前夜一度ちとに集まって彼の ために祈った聖子郎も一緒に祈っていたが 祈り終わや一同に向かい私はやがてパラに 行く行ったら天使様にお願いしてえ11人 1人残さず天主様の味そに引き取って

いただくからそれを頼りにして辛抱し なされと言っ たと浦川 あ和三郎司教の旅の話裏切りキシには記さ れている とでの次に鶴が出てくるんですけれど もその娘つるは超主はぎでひどい寒ざらし を受けたので後年までの語り草になっ た旅に行ったところでどこより取り扱いが 優しかったのはさでえ最もひどかったのが 長州萩であったこれは旅から帰ってから皆 が体験を語り合った結果分かったと愛花は 中門老人が私に語ったことがあるその萩は 流された300名のうち鶴 末水現清松裏は最もひどいい拷問を受けた 人々であっ た明治2年22歳だった鶴は18日間役 役人から毎日毎日御用に呼び出されたお主 はどれほど時聞かせてもわからぬやじゃあ 草でも食ええ私は獣物ではありません草は 食べませんお主は日本人ではない日本に できた着物を着ることは許さぬ脱げこれは 私が作った着物です脱げませんえからにで も飛んで受け日本の土を踏むな私は砦では ないので飛べません張ってくださればやっ てくださればからの国でもどこへでも行き ますこんなくだらない言い合いをした後1 週間全く食物は与え ないということで え乏しい食料を同質の人に分けてもらわな 心おしいと思っていたところ1週間後今度 は新刊に呼び出され ますまあ長いので全部は読みませんが とにかくですねえ新刊 ともやり取りした後ですね え新官はそれではこれからお主を倒して みせるお主を倒さねば他の人の海舟の妨げ になるわとお主との勝負だその通りえと 告ると翌日から腰巻1枚の裸で冬のさか 外庭の石の上に朝から晩まで座るように 強制します とで1 週間目に大行となって鶴はいよいよ死を 覚悟する と同質の夫人たちはつのためにおらをえて え神の助けを求めようとしたが先立つもの は涙でえ声を出しうるものがないやっとの 思いでらしを人切り終わり外庭に目をやる とつの姿が見えないいよいよしぎ通すこと はできず会心者の部屋に連れて行かれたの かとがっかりしてよく見ると黒い髪がえ 白雪のに見えるではないか雪に生れて しまったので あるということでですねとうと役人がこ 負けして部屋に入れて温めてやってですね

この日を最後に女性のゴを怒行れなくなっ たのだそう ですでこんなにひどいゴを受けたんだから 死んじゃったんだろうなっても とは生き残ったそうなんです ねそして78歳まで生きたということなん です ねま あのこの話はですねやっぱり若干の脚色が あるんだろうなとは思うんです ね 片岡焼のキリスト教都にいるキリス研究に は現在の歴史学の水準からするとやっぱり ちょっと問題があるんですねまたあの片岡 焼個人についてもその研究者としての姿勢 に一部疑念が提されているわけですがま あのそういった脚色の可能性をですねえ 排除できないとしてもやっぱりあのでは ですね相当厳しい弾圧が行われたことは ちょっと否定しがいですよ ねちょっと面白いなやっぱりさハですよ ねさハではあの割と待遇ははえキリスの 待遇は割と良かったようで え上土新種を徹底的 に弾圧したサマハでえキリスタへの待遇が 良くえまた あの上土 新州が結構勢力がああって え高杉新作の経隊では上土新州のモント だけが構成するような部隊もあった長州で え非常に厳しい弾圧が行われた と まあ1番厳しい弾圧を行ったのは萩ですの でえ長州犯と一緒にするのも ちょっと ま地元の人によってはあ一緒にしないでく れってい風な考え方もあるのかもしれませ んがまさのと長の退避っていうのはこの点 でもちょっと面白いですよ ねそれでまあのこの時点でやっぱり宮崎 健太郎氏の准教者は一体何に対してえ命を 捧げたのかっていうことも少し検討しては 見たんですが えま結局そのがあまり深めていないという のが実情ですそしてですねあの実はあの 宮崎市の経歴を紹介する際にです ね宮崎市は父方が長崎 県ま外の海と書いてえ外海と前回配信では 4でしまったんですけれどもこれは外目だ そうです ねま本当に私はこの辺り 九州の土地感が全然ないのでえ外目以外に も 色々地名の間違いとああるかもしれません がちょっとご容赦していただきたいと思い

ますさてですね えっと次に宮崎健太郎節への 批判 を 少し検討したいと思いますこれは あの石川町では 110 え21ページ以下に出てくるんですけども その前にですねちょっと宮崎市のあの用語 の特殊性がちょっと気ににはなるんです ねあの普通はですね金近協来が出されて 以降の全ての信徒のことをさして学歴 キリシタンと呼んでいたわけですがしかし 宮崎はあ宮崎市は あ 16444年イエズス海の被災であった 小西マンシが死んで日本から指導者がい なくなった時から近況考察が撤去される 1873年までの約230年間これを潜伏 時代と呼ばれるんですねそしてその厳しい 弾圧の時代に日本の新とキリシタン風の 信仰を合わせ行った人々のことを潜伏 キリシタンと呼ぶ とそしてですねえ近居考察が撤去されて から神父たちの元に戻った人たちえ すなわち正当なカトリックの信仰に戻った 信徒たちを宮崎は宮崎氏は復活キリシタン と呼んでええその一方ですねえ新婦たちの 本当に戻らなかったものは隠れキリシタン とカカナでえ呼ぶんです [音楽] ねそしてですね え宮崎によれ ばえ学歴タたちは1873年以降は隠れる 必要などなかったの に伝の家庭で大きく変形してもはや キリスト教とは言えない独自の宗教になっ てい たそういう宗教をあえてそのままの形で 維持しようとした人々なんだ とすなわち隠れキリシタンは明治6年に近 教令が実質的に撤廃され信仰の自由が認め られたにも関わらずカトリック教会とは 明確に一戦を隠し近教科の潜伏時代を通し て先祖代々受けついできた信仰形態を今に 伝える人々なんだとこれが宮崎説なんです ねそしてその宗教は日本の諸宗教に普遍的 に見られる重層信仰祖先崇拝え現在利益的 な性格を強く取り込んだキリスト教とは 全く異なった日本の民族信仰なのであると これが宮崎説なんですね [音楽] ま あ一時期はですねこういう考え方が あ学会では割と主流だったのかなと

いう感じがするんですがもちろん批判も あったわけですねそしてあの現在ですね その批判をですね最も理論的に整理した形 でえ述べているのがの業師です [音楽] ね中し師の長が首長はですねえ学歴リの 期限進行と信者の実装と いう原書房と いうこれは九州の出版社ですか [音楽] ねそこから出してる本でええまその出版社 側の紹介を見ると現在継承される隠れ キリシタン信仰の全員を明らかにする信仰 を変容させた信者という従来のイメージを 覆し長年の隠れキリシタン論争に収集を 打つ20年に及ぶ多的な研究から見えてき たのは400年前の選挙士たちが日本人の 精神とクラッシを理解して喪失した日本の キリスト教とそれを近居の時代にも守り 続けるために信者が選択した信仰並存と いう形だった250年にわたる近況時代を 超え400年間変わらず継承された信仰の 実像に迫るということでえ目次を見ると ですね各キリスについての考え方という ことでえこの従来の核キタ理解というのは あ主とし て 宮崎説なわけです ねで え中園市中園市あの民族学者と言わ あのいう肩書きを自らつけていらっしゃい ますけれども え麗キリシタン信仰の実にですねえ非常に 丁寧な民族学的研究を重ねたわけですね 平戸浦上外五藤下天草 今村千大ですかね下 はまそういった あ研究を踏まえてえ隠キリシタン進行の 成立過程についてですねえ独自の見解 を述べられることになったわけですね ちょっと経歴を見るとえ1963年福岡県 生まれえ平戸市月 島博物館幾月島でいいんですよねこれえ島 の島野間学芸院熊本大学文学部民族学卒業 保しや隠れキリス信興の調査研究に 取り組むということでえホゲとキリス研究 があ中園市の研究の日本柱ということです ねそしてですねあの西町にも紹介はあるん ですがちょっと検索してみたところですね この読入新聞 の 2023年5月1日去年5月1日の記事が ですねえ中園市の発想の基本をえ非常に 丁寧にですねえ教えてくれるような感じが するのでこれを読んでみる

とま最初はいいですよ ね学歴産の調査はどのように始めたのかと いう質問に対してえ1993年に行きつき 待ち原平年市の学芸院となったが当初は 隠れ切りしたのことは全く知らなかっ た生月島でえ行われる進行行事をビデオで 撮影し信者から聞取り調査をした撮影した ビデオテープは約400本に登り昨年度に デジタル化したとそしてで えオラシですよね行事で歌われるオラシと は何か学歴医団が唱える祈りのこと戦慄に 載せて歌われるのが歌オラ書でえ同等だけ にご本5局ほど受け付れており男性が歌う その1つグリオザは音楽学者南川達夫市の 調査で1553年にスペインで観光された 学府にある成果とラテンの歌詞と戦慄が 一致することが明らかになったスペインで は歌われなくなったが行きつき島では 歌い継がれ た平戸では1550年にザビエルが キリスト教を伝え行きつき島では58年 以降良民の一斉回収が行われた島での不及 は比較的早くオラを歌う文化が根付いてい たまた江戸バの近協より先に平戸松浦氏が 1599年に近況格政策を取ったため 新しい厳しい近況をバにアピールす必要が なく弾圧が比較的警備だった とそして次ですねカレキリシタンは キリスト教が変容したものという見方が あるそれは実態と異なる歌おらしを見ても 多少の欠落天下はあるが約400年もの間 ほぼ本来の姿を継承してきた競技や義 betweenは選挙師の戦艦事項であり 近況期に選挙師が追放された結果信者は 自ら変えることなくそのまま受け継い だ仏教や新党などと集合しているというの も謝り隠れキリシタン信仰と仏教新党など が独立並存している他信仰が実態だ隠れ リスタ信仰の要素のみを見れば近居以前の 信仰の形態を保持して いるで準しなかった弱気ものという偏見も あるようだ一月島などの信者は近況機弾圧 を受ける危険を負いながらもあえて仏教や 新党を受け入れてキリシタンの信仰形態を 続ける選択をした強い人々だ彼らの決断の 結果400年前の貴重な進行形態が50年 以上の時代を抜い今に伝わっている とまその後はちょっと寂しい話になります ね担い手である東内の信者減少傾向にある 1953年えには島民約1万1000人の 9割が9割弱が信者とされていたがえそれ から約半世紀経った2017年現在は わずか300人弱だということとです ねやっぱりオラ賞を分析した結果あそれが あかつての古い形態をそのまま残している

んだという発見をされたこと が中園市にとっては あ従来の説を根本的に疑う1つのきっかけ になったんでしょう ねまということで え現在ですねどちらの学説が優勢なのかと いう とまあ あ石川も別にはっきりとどちらに賛成する という立場は明らかにされていませんし もちろん私にそれを判断する能力はあり ませんがあ やっぱり相当ですねこの中園市の県会で学 中里市の研究成果が発表された結果ですね やっぱりま巻き返しと言いますか あ 宮崎説への批判っていうのはかなりつまっ ているのかなという感じはします ねそしてですね え石川が指摘されているのはこの問題は ですねキリスト教とは何かという根本的な 問題へへの通じるものがあるということ で あの宮崎市もですね別に潜伏キリシタン 隠れキリシタンを一般的な意味で のキリスト教のカゴには入れられないとし ているだけであってですねえ決して彼らの 宗教性や文化的価値を低く見ているという わけではないんですねえ単なる分類の問題 学問的な分類の問題であると ただですね えっと宮崎市はいくつかの著書で神聖な キリスト教という言葉を用いて議論されて いるんです ねそしてキリスト教に信仰における神聖さ とは一体何なのかという 問題これを考える必要は当然出てきます ねまあのいわゆるカルト宗教みたいな キリスト教系の新宗教や宗教みたいなのも あるので普通のキリスト教と相とは言い がいキリスト教を分けること自体がですね え全く無駄なあ議論のための議論という ことではないのですけれど もやっぱりですね え神聖なキリスト教とは何かということを 明確にしないままですねそういう表現を 使うの はま問題があろうということです ね石 石川市の文章ちょっと紹介してみるとえ キリスト教は日本におけるはか以前に ギリシアで土着化しフランスで土着化し あるいはアメリカで土着化しそれが日本に 伝わっているだけで純粋なキリスト教など 存在しないと考える研究者もいるとまそれ

まそういう見方もありますよ ねま石川もあのこの章では特に結論は出さ れていなくてですねえ第5章と第6章で もう一度考えてみますということ をということでえここはまとめておられ ます ね えっと え この後次の話題え次は あの近居考察の撤去 と古るベキ選挙士古別記と岩倉切断え等の 話になるわけですがえっと一応ここで人 まとまりになりましたのでえ今回の配信は これで終わりにしたいと思い ます JA

一、前回配信の補足

浦上四番崩れ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C

「殉教する宗教─孤独な自我の萌芽」(by 山崎正和)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32e8ff61dbd1d8aabb64b10c224d7a54
「ツルの寒ざらし」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81ad91fc84fa8ba75fd3ea2edefa1b86
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/659f002957310aee5dc16faa866de613
「殉教者」の光と影
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6edf2a4067094ea7d17ee0b8da79e73a
「今後の予定」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6a917e8022447306f57b7dcf2d1d45fc
「殉教者は何に対して命を捧げたのか」(by 宮崎賢太郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33f9018e38ad83b887f1c692a311cc25

「外海(そとめ)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%B5%B7%E7%94%BA

二、宮崎賢太郎説への批判

(4)「カクレキリシタン」について(p119以下)

宮崎賢太郎氏の用語は独特。
従来、禁教令が出されて以降のすべての信徒のことを指して「隠れキリシタン」と呼んでいた。
しかし、宮崎は、

 1644年(小西マンショの死)~1873年(高札撤去)までを「潜伏時代」
 その間は「潜伏キリシタン」
 禁教高札が撤去されてから神父たちの許に戻ったものたちは「復活キリシタン」
 戻らなかったものたちは「カクレキリシタン」

とする。
宮崎は「カクレキリシタン」の信仰は「キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった典型的な日本の民俗宗教の一つ」とする。

(5)キリシタンは「変容」などしていない?(p121以下)

「禁教期変容説」への批判

「信仰の価値 次代に伝える 平戸市生月町博物館・島の館館長 中園成生さん(60)」
https://www.yomiuri.co.jp/local/nagasaki/news/20230430-OYTNT50025/

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『かくれキリシタンの起源 信仰と信者の実相』(弦書房、2018)

現在も継承される、かくれキリシタン信仰の全容を明らかにする。「信仰を変容させた信者」という従来のイメージをくつがえし、長年の「かくれキリシタン」論争に終止符を打つ。
20年におよぶ多角的な研究から見えてきたのは、400年前の宣教師たちが日本人の精神と暮らしを理解して創出した「日本人のキリスト教」と、それを禁教の時代にも守り続けるために信者が選択した「信仰並存」という形だった。
250年にわたる禁教時代を越え、400年間変わらず継承された信仰の実像に迫る。

かくれキリシタンの起源

(6)「キリスト教とは何か」という根本的な問題へ(p122以下)

宮崎は「真正なキリスト教」という表現を用いて議論する。
しかし、キリスト教における「真正さ」とは何か。

どこまでが「キリスト教」なのか?
キリスト教を「信じる」とはどういうことか?

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