「苦しかった」避難と移住、そして転職 福島県南相馬市の体育教師が歩んだ15年
東日本大震災の発生によって多くの人がふるさとを離れることを余儀なくされました。
福岡県北九州市にも福島県から移住した男性は、「あの日」から15年たった今もふるさとへの思いは消えていません。
福島県南相馬市での暮らし
北九州市役所に勤めている今野貴充さん。今野さんはもともと、福島県南相馬市で、家族4人で暮らしていました。今野貴充さん(57)
「娘と自転車に乗る練習したりとかですね。これが息子で、初めてシャボン玉を見たときの写真がすごくよかったので、額に入れてましたね、これ福島のあれですね」
プロのキックボクサーから体育教師へ
今野さんはこれまで様々な道を歩んできました。大学を卒業すると、プロのキックボクサーとしてリングに立ちました。
その後、高校時代の部活の恩師とともに働きたいという思いから、30歳の時に教職の道へ。
体育教師として充実した日々を送っていました。今野貴充さん
「このまま退職して福島で、余生を過ごしていくんだろうなと思ってましたけど」
男子寮の壁が崩れた
しかし、2011年3月11日。「あの日」が今野さんの人生を一変させました。
今野貴充さん
「私、男子寮の方にいたんですけど、寮の壁が崩れ落ちて。救出にいって『出てこい』って外に。高台の上にあったんで街が一望できるんですよ、雪降ってきてるうちに今度火災が起きて街が燃えるんですよ」
家族4人、着の身着のまま南相馬市を離れた
生徒たちの安全を確保し、自宅へ戻った今野さんは、家族4人で、着の身着のまま車で南相馬市を離れました。
向かった先はおよそ80キロ離れた同じ福島県の郡山市。福島第一原発で事故が起きたことは、避難所で観たニュースで初めて知りました。
今野貴充さん
「私は駄目だと思いました、ここには多分もう住めないなとは思ったんですね。いろいろ葛藤もしたし、いろんな方に意見も求めたんですけど、でもそこ住めるのかなって思って」
南相馬市の自宅は原発から20キロ圏内で、避難指示の区域となりました。
今野さん一家は東京に住む妹を頼って1週間を過ごした後、京都で1年間の避難生活を送ることになりました。
今野貴充さん
「苦しかったですね。(教員を)そのままやっていけない、じゃあ、やめるしかない、その仕事を変える決断っていうのは、すごく恐ろしかったです」
北九州市への移住を決断「仕事より家族」
そんな時、北九州市が職員の採用試験を行うと知り、移住を決断しました。
縁もゆかりもない土地への移住。心を動かしたのは、家族への思いでした。今野貴充さん
「やっぱり家族守っていかなくちゃいけないので、家族を守るということは仕事がないと。天職だと思ってた教員という立場とかそういうのを守るということよりも家族を守る方が優先だったので。ただ本当苦しかったですね、本当にやめていいのかという葛藤と、何者でもなくなった自分ということを考えたときに本当苦しかった記憶はあります」
「ここにきて良かった」妻の言葉
妻 今野有里さん(51)
「必死でしたね、子供のことがやっぱり一番大事だったので、私は、ここに来てよかったと」
今野さんが北九州市に移り住んで14年。
就職や進学で子供たちは巣立ちましたが、これからも妻と一緒にこの街で生きていくつもりです。
「息子と娘はここがふるさと」
今野貴充さん
「必死だったので、生きることに。もう15年たったのかって感じはします。(ふるさとへの思いは)それはずっとあります。捨てられないし捨てたくもないですね、ただそこ(福島)で生活していればどうなったのかなっていう思いはあるんですけれども、いまはいまで幸せなので。私と妻の中では福島があるんですけど、多分娘と息子はここがふるさとなんですよね、そうなっていると思います」
2万6281人が今も被災地から避難
復興庁のまとめでは、東日本大震災の発生によって今も避難している人の数は、2026年2月1日の時点で2万6281人に上っています。
このうち福岡県に避難している人の数は、359人。
15年たった今も多くの人がふるさとを離れたままになっています。
詳細は NEWS DIG でも!↓
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2523694