45年45人|唐亜明:絵本で架ける日中文化交流の橋―日本の出版社初の外国籍社員
中国のパンダのイメージは
様々な方法で表現されています。
ほら、どれも違う本でしょう
これは現代の子どもたち向けで
アニメっぽいもの
これは写実的
これは鉛筆で描いた絵
これは日本でとても売れているイラストレーターが
描いたパンダです
私がストーリーを書いて
イラストレーターは日本でとても有名な
高畠純さんというベストセラー絵本作家
こちらの作家さんはすばらしいんです
彼はこの本には中国語のタイトルがなければならないとおっしゃった
日本の本には普通、中国語のタイトルは載せません
中国の作品なんだから、「我家有熊猫」とつけようと
「うちにパンダがいるよ」
このお話は私が書いたものです。
私たちが北京で小さい時に雪合戦をしたことを思い出して
みんなが、
わあ、首に入って、冷たいよ。
と、こんなふうに騒いでね
彼女が5歳の時
両親はパンダのぬいぐるみを贈りました。
彼女はパンダをとても可愛がっていた
そして、このパンダのぬいぐるみはそれを聞きお入りと。
二人はおしゃべりしています。
一、日本語の勉強を始めたのはいつですか?
1969年当時、
下放のため黒竜江の中ソ国境に送られ
北の広い荒野にいました
二年余りを過ごし、北京に戻りました
当時は軍隊文工団に入るため、アコーディオンを一生懸命練習していました。
1972年、北京でアコーディオンを必死に練習していると
私の母が言うんです
音楽だけではだめ、外国語を勉強しなさいと
私は思い出しました
父は日本に留学したことがあり
家には日本の本がありました
私はとても日本の本を読みたくなり
日本語を勉強することにしました
そして中国人と結婚した日本のおばあさん
を見つけ
毎週日本語を勉強しに行きました
ちまたではこの日本のおばあさんがスパイだと言われていたので
誰も近づきませんでした
でも文化大革命中の最中で
私も反動集団の子とされました
反革命家庭
ですから、反革が反革に会いに行っても問題ないと
毎日自転車に乗り日本語を勉強しに行きました
自転車でどうやって勉強するかというと
時間を節約する方法を考えたんです
単語帳を手に持ちます。自分で作った単語カードです
単語帳をちらっと見て、前をちらっと見る。
自転車に乗る時間も惜しんで、外国語を覚えました
こんな風に頑張って
日本語を身につけました
当時、私の母が病気で
その日本のおばあさん
その日本のおばあさんに
日本から薬が買えませんかと
頼んだら
彼女は本当に買ってくれたんです
買ってから、辞書をひいて
その薬の説明書を
翻訳して母に見せました
それが生まれて初めての日本のものの
翻訳でした
ニ、中日外交関係回復後には、どんな経験をしましたか?
中日友好平和友好条約を締結し、
中国と日本には正式に法律の正式文書を持つことになりました。
当時私は軍隊にいて
プロのアコーディオン奏者をしていました。
だから私たちはもっと日本語を勉強しなければならなくなった。
今後、日本に関する仕事をすることがあるからです。
もし中日国交正常化がなければ
もし中日平和友好条約がなければ
今の私はありません。
私は完全に別の人生だったでしょう
だから、その意義は両国だけではなくて
一人一人の中国人に影響を与えました。
私はこの部隊から転職し、
まずは中国旅行新聞に入りました。
中国旅行新聞の待遇はとてもよかった。
当時は大きなバスに乗り、
あの「杜丘(冬人)」の様なトレンチコートが支給され
すごくオシャレでした
その頃日本の観光ツアーが
80年代初頭からずっと中国に訪れていました
年配の人が多いのは懐かしがって来るんですね
私は日本のツアーグループに同行し取材をする機会があり
皆さんと日本語で交流しました
その後、ちょうど
中国文聯の中国音楽家協会が日本語翻訳を募集しました
日本の音楽資料や歌を翻訳し
日本の音楽家代表団をコーディネートするのです
私は音楽も勉強していし日本語も勉強していたので
受験しました
結果、通りました。
そして中国音楽家協会に勤めることになりました。
主な仕事は日本の歌を翻訳することです。
当時日本の歌が
大量に中国に入ってきた後、
中国は文化大革命の砂漠時代だったため
いい歌がない。
ですから、多くの歌手は
日本にはこんなにいい歌があるんだと
皆、私に翻訳の依頼に来ました。
だから私は当時の中国のトップスターの歌手たちと
仲が良いのです。
ある日、電話がかかってきました。
私の一人の先生です。
彼は中国民間文芸研究会で働いていました。
私がいた文聯の系列です。
彼は、唐くん、
明日日本の児童出版代表団が来るんだけど
私は風邪を引いて行けない
代理で行ってくれないか
私はその時、特に日本人と会話の練習をしたいと思っていた。
普段は翻訳だったので会話を練習する機会が少なかったんです
私は、わかりました、行きますと言いました。
翌日、それに行きました。
北京空港にこの代表団を迎えに行きました。
6、7人の団体
当時、私は誰一人も知りませんでしたが
みなさん日本でとても有名です
その有名な人達
例えば、日本人は誰でも知っている
スーホの白い馬
日本でスーホの白い馬を描いた赤羽末吉
彼は日本で初めてアンデルセン賞を受賞した日本の絵本作家で
かつて中国で15年間暮らしました。
また小沢征爾のお兄さんもいました
彼はドイツの児童文学を研究していました
中でも当時日本で一番大きな
児童図書出版社の社長松居直さんと夫人がいて
私は普段通り彼らを連れて見学や訪問、
翻訳交流をしました。
一週間ぐらいですね
最終日
その松居直夫妻が、私だけと一緒に食事をしましょうと言いました
そして松居さんはストレート言いました
唐さん、福音館に働きに来てくれませんか?
私は福音館は何をするところかと聞きました
宗教ですか?
彼は違うと言いました
この名前は
以前、カナダの宣教師がつけた名前で
私たちは宗教とは関係ありません
創立時のことを尊重しているからです。
小さな書店だったんですね
カナダ人が日本で聖書を売っている小さな書店でした
戦後、日本人の松居直さんが
それを日本最大の児童図書出版社
に発展させたんです。
三、来日後、どんな経験をしましたか?
83年に日本に来ました。
その前に
彼は正式な雇用証明書を送ってくれました。
正式な日本の出版社の社員
これは日本の出版界で初めてのこと
史上初、第一号でした
当時、私も半信半疑でしたが
来日しました
社長はわざわざ成田空港に迎えに来てくれました
その時、私に見せてくれたのは
できたばかりの
ディズニーランドなどです
社長は、一週間休んで日本を回っておいでと言いました
それが終わったら出勤しなさいと
当時は80年代の83年です。
日本と中国の
格差はとっても大きかった
ですので、私は初めて日本に来て
スーパーに入った時
自分で商品を取る、この方式
私達が小さな頃から知っている必要に応じて要求する
これはもう共産主義、社会主義になっていくのではない
という感じ
当時、中国ではカウンターを隔てていました。
スーパーはありません
勝手に取って
泥棒がいると言われたらどうしよう
勝手にかごに入れて持っていくでしょう?
当時、中国と日本は
あらゆる面で格差がとても大きかったのです。
しかし、年配の世代を含む
日本人は当時、
中国に対していろんな想いがありました
例えば、彼はなぜ私を雇用し、
この出版社で働かせたのか
実は直接尋ねたことはありません。
社長も私に教えてくれなかった。
しかし、私の分析では、第一に
この世代の人々は
中国を侵略したことに対して
申し訳ないという想いがあります
ですから、中国人にとても親切です。
そして若い中国人を育てたかった
その時、ちょうど私に出会い、
私を雇用することになった
もう一つは
私は児童出版の仕事をしたことがないが、
社長は
とても国際的で
とてもオープンな考え方を持っていた
すべてのスタッフにおいてプロを募集していません
彼が言った一言をずっと覚えているんですが、
誰でもかつて子供どもだった
子どものことを知らないとは言えない
私はすぐにそうだと思いました
私もかつて子どもでした
だから勉強に専念し
一生懸命に働き
何十年も経ちました。
もう一点は、私がずっと考えていたことですが、
80年代の中国の子どもが
こんなにいい絵本を
読めたらと
私たちは幼い頃から絵本がほとんどありませんでした
あるのは子供向けの本です
だから80年代からですね
私たちはよく中国に行き普及活動をしました
特に松居直さん
私はずっと彼について彼に翻訳をしていました
とても嬉しいことに
この数十年来に蒔いた種が
中国で今、根を下ろし、花を咲かせています。
中国のほとんどの現在の児童出版の
進歩はとても速いですが
これは日本の助けがとても大きい
日本から受けた影響がとても大きいです
四、日中交流の仕事で今後の計画はありますか?
この西遊記はかつて日本で出版されました。
30年前に私が書いた文、
中国の作家が描いた絵です
その後、ここ数年、尽力して
皆、ふるさとに帰しました。
これらを
再び中国の出版社に権利を持たせると
今こんなに美しいものを出版できます。
中国の子供は日本の子供と
同じく精巧な童話を読むことができる。
これも私たちの中日間の
交流の仕事の一つでしょうか。
私は五年前に
福音館を退職した後は
私の人生に残った時間は中国の子供たちに
捧げようと決意しました。
一つは良い日本の絵本を
中国に紹介し翻訳すること
もう一つは自分で編集することです。
創作するときは今、大体中国にいます。
自分の
他の人の本を編集する以外、
あまりきちんと統計したことがありませんが
自身の作品は120から130冊です。
コロナで、ここ数年は少し少ないです。
でも今年は次々にたくさん出ます。
五、中日友好条約締結45周年についての想いは?
今年は中日平和友好条約締結45周年です。
中国と日本の間の
一番良い選択は、皆、仲良くすることです。
この点は疑いの余地がありません。
だから日本人も
中国人も気付くべきです
私たちは不幸な歴史がありますが、
交流の歴史はそれより何千年も長い。
これが両国の友好を実現する唯一の方法です。
中国と日本は仲良くしていくのが一番の選択だと思います。
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