玉ノ井親方(元栃東関)と《足立区梅田・西新井》#12

TBSポキャス [音楽] えさてえ今私の目の前に今日お話を伺う方 がえ座っていらっしゃるわけでございます けどもえまずお名前を伺ってよろしい でしょうかはいえ玉井大輔です玉井大輔 さんはいご年齢はえ46歳です46歳はい じゃ肝心のご職業を伺っていいですかそう ですね今相部屋のえ親方をやっております よろしくお願いいたしますよろしくお願い します玉のい親方とお呼びすればよろしい でしょうかはいあのま僕玉の親方っていう よりかは元々やっぱり土あ関というあの 印象がとても強くてですねまというのもま 私今27歳なんですけどもはいえま結構 家族が本当に相撲がずっと好きでし大相撲 がでもう今でも覚えてるんですけどもその 2006年の1月場所の時にですねまその 当時おそらく横綱でまかなりこう敵なし 状態みたいな形でいたのがあのその時朝 昇龍関がいましてえそこに栃関が 立ち向かって朝昇龍関を任して優勝し たっていうのがでその時にものすごく会場 もそっからま親子3世代見てたんですけど ものすごい家族が拍手活で湧いたのが ものすごい覚えておりましてありがとう ございます強い日本人史といえばていうの でやっぱ松崎に思い浮かぶのが月で今今で 玉方だったんですけどもその幼少期の頃に こう憧れながら見ていた方が今目の前で いらっしゃるというのがとても嬉しいん ですけどもまそう言われてもちょっとね やりづらいとは思うんですけどもはい そんなあの今でその玉の親方と今日はその 区はいにえ関する話をちょっと伺えたらと 思うんですけども東京式東京式これは ずっとそこにあった東京に気づく音声 プログラム今日も2位の座標に赴き出会っ た人と共にの東京の東京を往復そこで 浮かび上がってくる協会東京式を探り [音楽] ます校6年ですかねこっちに越してきて はいでそこでま相撲部屋をずっと構えてた んですよ最初遊ぶ場所って全くわかんない ですしなんか行ったらこう迷路だったので うんうん帰ってこれなくなるのがやっぱ 怖くてあんま行かなかったです今みたいな はい感じでは全くなかった大きなねあの 工場あの地帯みたいなのもありましたし ちょっとなんかこう街並みをちょ薄ぐらい かなてそんな感じのとこでしたよも周りに でも来ててもやっぱりいい顔しないあの人 もいましたしねおはようございます無視さ れて行かれたありましたそういうの本当 ありました部活をやって夕方終わって帰っ

てくるな形だったので当その同級生に見 られた時お本当あの時は疲れてたよな ずっと下向いてたよな思いを今届けたい この先 ずっとのと [音楽] 探るの 敷え今私がここにいるその玉井部屋という のもこれ足立地区の何という場所になるん ですかね今は西新井ですね西新井はいここ は西新井というのはあの有名なの西新井 大子はいあはいはいあの薬よもそういう ものも含めてのはい大きな大様佐野役よ大 あるじゃないですかその1つま西新大市 っていうはいあ本当の真裏ですね確かに その今日我々は大子駅駅はいから来たん ですけど本当目の前にそうです大きな神社 といいますかがありましてはいで道原大子 からもう直線なのではいはいあ確かに一本 道でしたねそうなんですよそのところに玉 部屋があるということなんですね今はそう ですねはいはいただやっぱこうその 相撲部屋と言うとどうしてもやっぱこう すだくのイメージが結構あるんですけども 元々そのここにその玉のを始めたというの はいはえっといつからどういったきっかけ でとかだったんですかえ私が25歳の時に こっちにま越してきたんですけども元々 1番最初に部屋をやったのはえ梅田という ところでまこれもアダチクの梅田ですね 浄水上の本当近くのバス通りのところに 最初あったんです梅田ここからだとどれ ぐらいここからそうです10分ぐらいです かねはいああそうなんですねそこがま部屋 でま自分がその幼少期ま小学校6年中1 ですかねこっちに越してきてはいでそこで ま相撲部屋をずっと構えてたんですよあ そうなんですかはいだから13年向こうに 12年から13年ぐらいいましたかね梅田 のああそこでその後にこの西の方にそう ですこっちに越しということはその玉親方 はえっと元々じゃあ足立の生まれではない ということなんですか僕はそうなんです あのあの住田禁止なんですよああ住田はい でまだからあの両国の本当1個手前です けどうんそうですね向こうでこう育てて こっちに来ましたはいあそうなんですね なぜこちらに来ることになったんですかま うちの仙台のまはい親がま相撲を起こすと いうことでま両国近辺よりもこっちあくで ということでま あのお知り合いが持ってるその建物があっ たんですよねうんうんでそこにま一応こう 中を回送して相撲部を作るということでま それがきっかけでこのアチ君に来たって

いうのはありますよねあそうなんですか ええ最初こう引っ越すってなった時はこう 来た時ってどんな印象でしたかこの辺 いやあ本当の下町で静かでしたねうん静か ですかやっぱり金糸と比べるとやっぱりま 近所もま下町ちっていえばも本当昔は下町 だったのでうんそうだったんですよねま それよりももっとこうなんて言うんですか 静かな場所でうんうんうんま当然のごとく 周り何も知りませんからね確かにはいはい だからどういう風にここから学校に通う かってのいつもうん迷ってましたねそれ小 学校小6中学生ですか学ですねそうですか ええそん時に来て田地区に来てなんか学校 はここら辺の地元の学校いや僕あの名大 中野というとこで東あのに行かなければ いけなかったのではいはいはいで朝まあの 駅に行くかそれともバスで行くかま最初バ スっていうの全然知らなかったのにどこ までそのバスで行けるのかをですねあそう なんですねでやっぱり時間もあるじゃない ですかうんその中で最初は駅までまその 梅田から駅まで結構10分15分ぐらい 距離あるのであ結構遠いですね確かそうな んですよでそこからあの日比谷線の東武線 から日比谷線に変わるんですけどもはい はいはいもう秋葉から はいに行ってでそこからま東中野ですよね はいかなり遠いですいやかなり本当うん あの当時や遠かったですねでマイン電車に 揉まれながらうわあ朝行ってたんですけど まだんだんだんだんこの学校に行って同級 生もできて同級生がたまたま近くにいたの であその梅田の近くに住んでたそうですね で一緒の降駅が梅島駅ってとこだったので はいはいはいま色々と教えてもらうこう ことがあってうんまそのうちの部屋から あのバスであの町屋に行けたんですよね うんああ町屋はい東西線ですね千代田線 東西線あのが繋がってるはい千田線の町屋 駅からはいはいはいはいあの下落合とま うん途中東西線乗り換えてはいはいはい はいそっちでも行けるようになりましたあ そうなんですねへえそういうところで ちょっとずつこう遊ぶ場所とかも広げてた そうですねもう最初遊ぶ場所って全く わかんないですしうんうんうん行ったら こう迷路だったので帰ってこれなくなるの がやっぱ怖くてあんまいかなかったですね そうですかはいだからその友達とはい少し こう教えてもらいながらはいあの遊びに 行ったり出かけたりしたのがと当初の思 うん記憶ありますねうそうなったんですね うんはい街の雰囲気とかってどうでしたか なんか人の感じとかあでもやっぱり駅の

周りは結構やっぱり通勤される方がすごく 多かったのではいま朝のやっぱりラッシュ がすごかっうんですあそうですかはい結構 はいでまここから北千住ってとこにもあの 梅島からうんみんなあの行ってそこでまた 降りたりするので結構人の流れは多分あっ たと思いますねうんあそうなんですね かなりじゃあそこからそれこそじゃあその 新宿やったり池袋たそちの中心地に向けて こうはいま仕事に行かれる方たちはいった と思いますけれどもうんまただなんせ やっぱりずっとそのいたわけじゃないので うんうんま知らないとこにポツンと来て はいそういうま徐々に徐々にじゃないです けどま慣れていくということしかでき なかったのでうんふんふんうんあそうなん ですねなんか当時おそらくえっと玉親方が 中学生ぐらいの時って平成の初期とかです かねそうですねここが平成うん平成2年か ですね平成2年の時に足立区の梅田にここ にそうですねはいいやだから今みたいな はい感じでは全くなかったです大きなね あの工場あの地帯みたいなのもありました しそうなんですかはいちょっとなんかこう 街並みもちょ薄ぐらいかなってそんな感じ のとこでしたよそうなんですねええなんか 本当にこれは私の勝手な偏見で恐縮なん ですけどもなんかこう足立地区の方って ちょっとこう治安が少し良くないみたいな イメージがくない よくなかったんです昔はそうでしたかえ どういうところが良くないなみたいなあり ましたやっぱその薄ぐらさじゃないです けどやっぱなんていうのかなうんうん あんまり人と人とかこう喋って るっていうのあんまり感覚はなかったです しはいうんあんまりま大きいそういう工場 はあるんですけど建物自体もあま当時 マンションがあんまりなかったのかな一軒 屋が多かったと思うのでへえはいあそうな んですかま本のあのご近所さんのお付き合 いってのはまこっちに越してきてま自分の その家の周りですよねうんうんうんうんで も周りにでも来ててもやっぱりいい顔し ないあの人もいましたしねおはようござい ますっても無視されて行かれたとかあり ましたそういうの本当ありましたねえそう なんですかえそれはやっぱりどういうとい まやっぱりあれじゃないですかま弱牌も じゃないんですけどま来てまこうやって やっててもやっぱりなかなかね受け入れ られなかったのかなと思うま方たうんまし たけれどもまだんだんでもやっぱりはい はいはい挨拶するようになったからまそう いう人たちもま徐々に徐々にまうん感じは

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にそれを親から勝てるになったらもっと 面白くなってくるからって言われて3年間 はあの3年先の稽古しろってよく言われて ましよね ええすごいなあ中学からずっとその世界で はいはあだから あのあれだよ青春なんていう1ページ なんていうのはごめんなさい何もなかった そうですかじゃ鉄もに開けくれる毎日です しあそうなんですか全然そんなになかった ですねじゃあこの辺の足立の例えば公園と かでそん時のガールフレンドと少しデート したみたいあないない学校だ男子校です もんあそっか男子校ですそうか名中のそう ですそう男子ですよ淡い思い出の人つ何に もありしないすねそんなの全てをこう相撲 に捧げてへまま全てを捧げるというよりも まそのやっぱり男友達とたまにその カラオケ行ったりとかああまその時僕らが ちょうど本当にうん中学校になった時が カラオケボックスが流行り始めた時だった のでそうなんですか本当平成初期のはい そうですで昔でいうここら辺にあの ラッキーレーンっていうボーリング場も あったんですよそうなん古かったんです けどねはいはいはいはいでそこでねあの 遊んだりとかしましただって昔ボーリン グって手書きでって知らないでしょ手書き 手書きって知らないでしょえスコアですか そうえそうなんですかそうですみんな 手書きだったんですよナピ倒したとかあ そんなの出てこないですもんあそうなん ですあ今の写真を出してもらいましたけど はいはいそうなんですへ手書きですよ ラッキーレ今もあるんですかもうなくなっ ちゃいましたあなくなっちゃいましたか はいそっかで想像するんだったらそこら辺 があってそういうとこに行ったなっていう 風な思い出がすごく強いですしええやっぱ 都市開発での駅前もガラっと変わりました からマンションも増えましたしねそうなん ですねはいあそこに大きな日進坊っていう ねあのあれがあったんですよ工場地帯はい 西あ工場地先はいはいはいはいだからま そこら辺本当にさっきも言いましたけど 本当薄暗いとこでしよ少いところが本当 じゃここの30年かけてちょっとずつこう 明るそうですねま明るくなっていきました し今やここでもねやっぱあそこにもね 大きなマンションが立つようになってはい はいはいやっぱり2もすごく人が増えてる んじゃないですか今うんそうですかええ やっぱなんか住む住んでる人の空気とかも 変わりましたかうんまね徐々に徐々にです けどまここ立ちの人じゃない人たちも

こっちに越してきたりとかもしたでしょう しうんうんうんまそういった面では ちょっとまた変わりましたよねだいぶね うんうんちょっとさっきの話と聞きそびれ たんですけどはい玉のい親方はカラオケで 何を歌われるんですかあの何歌ってますか 僕のでもねあの小学校6年生の時に好き だった曲がうんうんちょっとあの当初僕の 同級世界言うとお前その路線に行くか みたいなこと言われたんですけど鈴木正幸 さんのはいはい恋人恋人はいはあえどんな 曲ですあの思いを今届けたいてそうそう この先ずとてこれが好きだったんですだっ て僕らだってCDの時ですもん始めです 始めですかはいちっちゃいやつですよはい はいはいはいもうその前はカセットじゃ ないですか確かにそうですねはいそん時だ から中学時代にしたらだいぶ渋い選挙です よ渋いですよだからね当初ウォークマン からねあのそうですカパカパっていうなん て言うんですかねあの音楽聞くえCD プレイヤーかはいはいあれに入れてよく あの聞きながら行きましたよ恋人恋人です 何がそんなにこう刺さったんですかなん でしょうねやっぱあの人やっぱ歌声ですか ねああ確かにソールフルてそうですねあの 時代本当にそれを聞きなが学校に行ってて はいそうなんですか隠しながら隠しなそう そうそう怒られますからね確かあやっぱ 怒られちゃうそっかそっか弁当箱の中に 入れなあのねなんか違うとこに入れながら 分からないように持ってってましたねはい で恋人聞きながらそうです朝通ってました ね東京本当に部活って夕方終わって帰って くるような形だったので当初そのま同級生 に見られた時にお前本当あの時は疲れてた よなつってずっと下向いてたよなてあ中学 時代ですか ええそうなんだそうんですやっぱり過酷 でしたかそのいわゆる傾向いやだって知ら ないうんまあねその部活部活じゃないです けどとこに入っててうんうんま1から10 までまあまあ最初1段階2段階でま少し ずつこう上がっていくんですけどうん やっぱきつかったですねはいそれで別に 帰り道も長く満員電車に揺られながはいで 歩きながら帰るってうね歩そうだからそれ がすごくこうきつかったですね本当に鈴木 正幸さんが唯一そこのが傷癒してくれる 本当癒しというかねあのはい音楽を聞き ながらはいはいまあまあなんとなくこう やってたような気がしますねえがっつりは できなかったですかからやっぱりそうです よね確かにはいたまに本当に少しの休みが あった時にカラオケ行ったそうですね

カラオケに行ったりしてうんうんあの歌っ てたって感じですかねまそのぐらいしか あの当時なかったんだ本当あたゲーム センターですよねあゲームセンターははい もう本当下町のゲームセンターですね どんなゲームあったんですかその時昔あの 今はまたまにあの田舎のこう喫茶に行くと あるんですけどうん麻雀の知りませんAB BCDefgってなってるとこ麻雀のパイ があるんですけどそれをこう打ったりする ような機会があるんですよ100入れて へえ麻雀ができるんですか麻雀ができるん ですよゲセンでなありましたそういうのえ 僕はもう全然なんか本当はマリオカートが あそうですねそういう時でしょその時だっ たんで僕らもう目の前にそのあれですね 座ってやるようなゲームが結構多かったの でだインベーダーゲームとかも当初もま僕 ら子供頃あるじゃないですかあそっかそっ かはいはいはいはいあこういうやつああ見 たことあるかしあょあるでしょこれこれが もう世代ですもんあそうなんですかそう ですそうまま世代つてもねそのネもっとね あのはいうんいますけどはいでも僕らは これこれが1番あれでよねうんうんえでも 麻雀ゲームってそん時楽しくいいですか いやもうなんだわかんないじゃないですか 何があやるのかなって見たらやっぱり1番 端っことかにねやっぱり何列か何列とか ずらーっとこの麻雀の機械があるわけです はいはいはいに座っててみんなやってる人 たもいましたしそれ見てえてやるんだ みたいなはいあとなんか昔バイバイクのね なんかあのゲームがあったような気もし ますねまたまたがってこうそうそう またがってそう左右に揺れるああいう機会 とかありましたありましたはいはいはい またなうんあとなんかF1みたいなレース するのもあったかなと思いますけどま ちょっと今記憶がね定かでないんですけど なそういうゲームしかなかったですもんね あそれはあれさっき言ったその西の ラッキーレでしたっけはいそこにもあり まし はいはいうんそこに行ってましてねあそう なんですかええその玉の親方の インタビューとかを拝見すると結構やっぱ 足立クがすごい強い方なんだなっていう イメージいたんですけどいつ頃からこう この街ってあいいなとかなんかこの街 愛せるなみたいに思えるなったんですか うん ま中古でもまだやっぱあの中学校から高校 になってくるとやっぱ全然あの変わって くるのでうんだからそこでそうですねま

色々とお店も覚えたりとかいろんなところ のやっぱりこううんうんうん人たちともま ある程度話ができるようになりましたし そこ辺がちょっと変わってきたのかなと 思いますねそこら辺でねああじゃ人との 繋がりみたいなのが増えてきた増えてき ましたねえはいそれこそ大関になられて 優勝しててなった時になんかこう近くで パレードとかうんやったみたいにはいやり ましたやりました当初そうですねここで えっとこっちの前にはその埋立てところで 1回目やってはいはいはいはいはいま すごくこう人が集まってた記憶があります よねでその後はまあ3回目がちょうどここ だったのであそはいこっち映ってきた時に ここで優勝した時はもうそこのずとこの道 がうんうんはいもうすんごい一緒だった ですねへえだからここのここに来てここ からこの部屋に入るのに10分15分か かかったくれうわあそんな人がっあそうな んですねはいたまらないっすよねそんな なんかまそうですねも嬉しいね あのことですよねそんないろんな社にね あの来てもらってねうんっ た東京 市来週 は 親になってからの梅田西の位置を探り [音楽] ます

玉ノ井部屋に伺う前から、我々の魂胆はもうバレバレでありました。

玉ノ井親方には前日の段階でおおよその「質問事項」を送っておりまして、その内容とくれば、オブラートで何重にも包んではありましたが、早い話が「親方、どうか治安が悪かった頃の足立区エピソードを教えてください」に他なりません。もう、剥き出しでした。

足立区の犯罪発生数が23区でワースト1位の記録を保持。これを80年代のマスメディアがこぞってこれを面白がりすっかり物騒なイメージが浸透。令和の現在において、犯罪件数は劇的に改善されており、徐々にではありますが足立区は「かつて治安が悪かった区」という認識が広まりつつあります。

ということで、当時の足立区の話を聞きたいという浅薄な衝動に身を委ねたのです。

玉ノ井親方が足立区にやってきたのは平成2年(1990年)のこと。当時、親方は中学生。まさに足立区が「全盛期」だった時代に、思春期を迎えていたのです。ちょうど相撲に目覚める過渡期でもありました。

松重ディレクターが薄氷を踏むかのごとく「治安が良くないイメージがありますが」と切り出せば、親方は「良くないイメージというか、良くなかったです」と意外にも磊落にお答えくださいました。

では、どんな具合に治安が悪かったかといえば、親方の話には意表を突かれました。通常、我々が考えるような治安の悪い町といえば、全ての店前にヤンキーが屯し、ちょいとカメラを回せば自然と『クローズ』の実写映画が出来上がる、そんなイメージでした。ところが親方が語る治安の悪さとは、

「あんまり人と人とが喋っているという感覚がない」

我々の想像を簡単に寄り切る、皮膚感覚の宿った言葉。

「(ご近所に)おはようございます、と言っても無視される」

住んでいる人々に覇気がなく、どこか全体が暗澹としている。自転車を盗まれるとか、ヤンキーに殴られるとかではなく、「挨拶が返ってこない」これこそが、実際に住んでいた方でないとわからない、「治安」の感覚。

「おはようございます」この思いを届けたい、この先ずっと。

鈴木雅之のグラサンに当時の玉ノ井親方改、志賀太祐少年の姿が、そっと写り込んだところで、後半へと話は続くのです。

文責:洛田二十日(スタッフ)

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