三重県度会郡度会町脇出生まれの父。私は父を見殺しにして殺してしまった。父、髙橋道雄死去。

この文章は、父と最後に過ごし、私と父の半世紀以上が過ぎた人生の出来事を思い出し真実を語った。父の老後迄の生活は、悲惨な人生を私と最期に出会う迄、一人で生活していた父は、哀れだった。太平洋戦争開戦に生まれた父は、終戦後。当時、高度成長期の日本。父。髙橋道雄。30歳、60年前に、愛知県名古屋市の大手商社、アパレル。瀧定に18歳で就職し20代後半で独立したが同僚にお金を横領され負債を抱え事業に失敗し、早期退職し、借金を退職金で払い、家庭内は、父が亡くなるまで争い事が絶えず続いた。私の母は、父の暴力で家を出て行き、愛知県名古屋市新栄から父は、子供4人を連れて、三重県の田舎、父の実家に帰省した。私は、8歳。次男。将幸5歳。三男。秀幸。3歳。妹。楊子。1歳、帰省後の父は、81歳迄、若い人達と地元の土建屋で道路舗装の仕事を一生懸命にし働いていた。私と10歳、歳の離れた三男は、子供の頃の面影は何も無く短気で変わり果て、父に暴言を吐き父が老いて弱り出した時を期に、父と同居していた何十年も働かない私の三男に、20年間、父の厚生年金と働いて得た給料全額を毎月奪い取り母屋から、父を追い出し、汚いゴミとカビだらけのトイレも風呂も無い、LED電球一つの薄暗い4畳半のプレハブ小屋で汚い布団で父を寝かし、わずかな食料だけを父に与えて、父は痩せ細り一人生活費を稼ぐ為に洗濯も出来ず、仕事で汚れた服を毎日着てそのまま汚い布団で寝ていた。真冬に、ストーブに入れる灯油さえ買えず、父は寒さに震え、膝の痛みに耐え、三男の奴隷の様に働いていた。そんな年老いた父の事が心配になり私は、夜中に実家に行き父に食べ物を渡していた。私は、あまりにも父が可愛いそうだと思い、父に実家を捨て、私のアパートにとりあえず来る様に何度も話していたが、父は、生まれ故郷を離れたく無いと言って数ヶ月が過ぎ、父は、2023年の真夏に、扇風機もクーラーも無いプレハブ小屋で一人脳梗塞で倒れたまま5日間、手足も動かせずうつ伏せの状態で、三男は父を助けようとせず放置し、瀕死の状態だった。私は夜中に父を見つけ直ぐに警察を呼び、救急隊員に父は助けてもらい入院を、期に私は父を引き取りアパートに連れて帰り、私は、父に、私の綺麗な部屋で綺麗な服を着せて綺麗な布団で寝かせてあげ人間らしい生活を、させてあげ父が亡くなる迄の短い間だったが、身体が不自由になった父を、介護し一緒に暮らした。父が元気な時に何一つ親孝行してあげなかった事を、私は、今も後悔している。私は8歳迄、愛知県名古屋市新栄の古い木造アパートに住んで新栄の千早小学校に通い千早公園で遊んでいた当時は未だ名古屋高速も無く白黒テレビ。路面電車が街を走り道幅100メートル道路では、正月になると父と私と次男で凧上げをした。当時の首相は田中角栄か、三木武夫だった気がする。子供の頃の私は父が嫌いで怖い父だった。子供の頃、公園で拾ってきた子猫数匹を、父はダンボール箱に入れて川に捨てて来るまで家に帰って来るなと言いい、日が暮れた頃に、仕方なく私は、橋の上から猫を投げ捨て猫が流れて行くのを見て泣いて帰った。半世紀以上経った今でもその橋が夢に出てくる。猫殺しの罪は重い。私はろくな死に方はせず地獄に堕ちて行く。父が仕事から帰って来ると、毎晩の様に酒を飲み、酔い潰れ、酒が無くなると私は、父に殴られ雨の降る夜道を歩き酒とタバコを買いにい行かされ父は毎晩の様に母を叱り殴り、子供の私は父を止める事は、怖くて出来なかった。私は母だけが頼りだったが、そんな母も父の暴力でアパートを出て行き残された幼い兄弟達は、寂しい顔して泣いていたが、私には2歳の三男と、1歳の妹には何もしてあげられ無かった。子供の私は、母に顔が似ていたので私だけが、父に八つ当たりされ毎晩の様に、殴られアパートを追い出され、真冬の公園のベンチに座り寒さに震え一人朝まで泣いていた。父が賭け事にお金を全部使ってしまい食べる物が買えない無い時に、私はいつもの公園に行き、お腹を空かせたている私を見た公園に居たホームレスのおじさんが、ゴミ箱から拾ってきた湿った食パンを、焚き火で炙り食べさせてくれた。私は、近所の飲食店のゴミ箱から残飯を拾い涙を流し食べ、風呂も入れず身体は汚れ着る服と靴には穴が空いて破れていた。私の歯は、虫歯だらけで歯医者に行った事など一度も無く当時、薬局で買って貰った今治水を綿に付け虫歯の痛みに毎日耐えて泣いていた。小学3年生の時、虐められて泣いて帰ると泣くな、また虐められたのか、やられたらやり返せ、強くなれ、めそめそ泣くから虐められるんだと父に叱られ翌日、私より身体の大きな者と喧嘩をし私は何度殴られても起き上がり泣きながらかかっていき、石を拾い顔を何度も気絶する迄殴り続け前歯を折り怪我をさせてしまい私は、数人相手に虐められるようになり学校から帰ると毎日の様に喧嘩をしあのまま大人になり名古屋に住んでいたら、私はヤクザに拾われ外道の人生を送り人を殺し、最後は殺されて名古屋港に沈められていた。父は突然引っ越すと言い仲の良い友達に別れも言わずに名古屋市新栄から父の実家の三重県度会郡度会町脇出に住所を移し田舎なので、食べる物には困る事は、無かった。養鶏場をお爺さんがしてたので小学校から帰ってくると毎日私と次男は、鶏の餌やりと子供には重いスコップとクワを持ち手のひらに血豆を作り重い一輪車に鶏糞を乗せ運び、鶏舎の掃除を手伝い、農繁期には鎌を持ち、稲を刈り農作業を日が暮れる迄して働いた。あの頃は酷かった。お爺さんと、叔母あさんは、恨むなら家を出て行った母を、恨めと言いい何も悪い事などしてない私と次男を、部屋の片隅に追いやり毎日の様に殴り、蹴飛ばして身体は青あざだらけになり、次男は、頭から血を流していた。同級生の家に友達数人で遊びに行くと、親が出て来てうちの子供と遊んだりするなと言われ私と次男は、追い返された。子供の頃は、楽しい事は少なかった一ノ瀬小学校を卒業し私は、人の愛情すら知らず、涙と感情を捨て、身体は青あざだらけになり痛みに耐える強い人間になり、3歳年下の次男は、涙一つ流さずよく耐えていた。私と次男は子供らしい笑顔はすでに消えて無くなっていた。何とか度会中学校を、卒業し私はやっと自由になり、父に逆らい父は、昔と何も変わらず私と次男を毎晩酒に酔っては、殴っていたので、私は、父を殺そうと思ったが、親を殺す事は出来なかった。そんな父も良い時もあった小学校の時に私と次男をバスに乗せ、隣り町の南島町へ、太平洋を見に連れて行って鰻を食べさせてくれた。夏には、地元の川にアユを取りに連れて行ってくれたり、秋には、山へ、松茸を取りに連れて行ってくれた事を私は思いだし、私は父に殴られても親に手をあげる事は、しなかった。父を殴ってしまったら、父と同じ人間になるから、父を殴る事は出来なかった。次男は、昔の面影と笑顔は全て消え変わってしまった。短気で、手のつけられない一筋縄ではどうする事も出来ない人間になり、父を殴り私の言う事すら聞かなくなり次男は私に言った、自分達は、親に恵まれ無かった只それだけだと私は、今まで次男が涙を流す姿は一度も見た事が無い。私も、同じだった誰の言う事も聞かず、涙を捨て私がヤクザの道で生きて行こうとしていた時だった、父は本当にそんな生き方でいいのかと、一度だけ真剣な顔で怒ったが、私を殴ったりは、しなかった。これで私を、見るのも最後になると思ったのだろう。私は、父に相談事は、一切した事など無い、お金を借りた事も一度も無い。酒に酔った父に話しても自分の事は自分で考えろとしか父は言わない。中学を卒業したが、私は、誰も頼る者も無く、次男を残して16歳で家を出て行き、中卒の私には学が無く、ろくな就職も出来ず、金欲しさに何でもやった、殺人、強盗、傷害、窃盗、恐喝、詐欺、死体遺棄以外何でもやった。二十歳を超え風俗、ダンプ屋、その他どんな仕事も寝る暇も惜しんで金の為に働いた。人のやらない汚れ仕事迄やるしか選択肢など無く、この世の地獄を私は見た。私の心は、汚れてしまい友と呼べる者も居ない、人を愛す事も無く一人生き人を信じる事は無くなり笑う事すら出来なくなり暗い顔になってしまった。私は、実家を捨て北海道から日本全国を転々と渡り歩き時が経ち子供の頃に別れた母の事を、ふと思い出しどうしても会いたくて、母を探し母を特養介護施設で見つけ40年ぶりに年老いた病気の母の姿を見て、私は涙を流し母を、引き取りアパートに連れて帰って母は、私の顔を見て言った。寂しく暗い目をしている。母は、腎不全でたった6年間の短い命だったが、母を介護する事が出来た。私は母と最後に暮らした時が一番幸せだった。母が死に、父の様子が気になり実家に帰ってみると父は、昔と変わらず地元の土建屋で若い人達と一緒に道路舗装の仕事を汗水流して一生懸命に仕事をして一人で暮らしていたが、父と同居していた、何十年と働かない変わり果てた三男が、父が老いた時を期に厚生年金全額と父が働いた給料全額を毎月奪い取られていて、僅かな食料だけ父に与えて父は、食べる物も余り食べて無く痩せ細って居たのを私は見て余りにも父が可愛いそうだったので、私は、夜中にバイクで実家に行き食べる物を父に渡していた。そんな年老いた父の姿を見た時、私は今までの父の全ての事を許し私は、父に話した。父は何も悪く無い、あの頃は、お爺さんも、叔母あさんも酷かった、恨むなら家を出て行った母を恨めと言い父の居ない時に何も悪い事をしてない子供の私と次男を部屋の片隅に追いやり、毎日の様に殴り蹴飛ばし次男は、角材で殴られ頭から血を流し、私と次男は青あざだらけになっていた。父は若く30歳過ぎで子供4人を育ていかなければいけないし、母も居なくて父も仕事の事で色々あったから、私は誰も恨んでいない。父と最期に暮らしてやっと解りあえ私が父を最期迄、看取るからと父に約束した。身体の弱かった、幼い私を何度も病院へ連れてくれた事と小学校の時にイジメられて泣いて帰った時に手で涙を拭いてくれた子供の頃を、私は思い出し、育ててくれた恩を返そうとした。私と10歳、歳の離れた妹は、父と母に育てて貰った覚えは無いと言いいだし聞いても居ないのに父の面倒など一切見ないと言い母の時も同じだった。父と母を、親と思った事など一度も無いと言いって葬式も来無い。父と母が死んだ事を知っても涙すら流さない薄情な妹を私は許す事は出来ない。子供の頃は、母も居なく寂しい思いをしたが、この世でたった一人の親なのに、妹は、中学を卒業し金に目が眩み嫁に行き、働きに一度も出た事の無い世間知らずの苦労などした事の無い人の気持ちなど分からない妹など話にはならなかった。私は人の情だけは捨ててはいなかった。今が最初で最期の親孝行する時だと思い脳梗塞で身体が不自由になった父をアパートに連れて帰り、私の綺麗な部屋で父をベッドに寝かせてあげ着る物も何も持たずに父は、来たので父に私のパジャマを着せて、父の髪を切り、髪を洗い、ヒゲを剃り、白髪を染めて、手足の爪を切り、オムツを替え、身体を綺麗に拭いてあげた。年老いた父は、嬉しかったのか泣きだしたが、流す涙は、すでに無く枯れていた。父は、自分の子供達に老後粗末に扱われ辛いこれまでの人生を一生懸命働いて一人孤独に乗り越えて生きてきた。私は、父の食べたい物は何でも買ってきて食べさせてあげた。私は、父に赤ちゃん人形を与えて、父の笑顔が見たくて赤ちゃん人形を顔にしつこく近づけても、あの怖かった父は怒ったりせず、私に初めて笑顔を見せた。脳梗塞で身体が不自由になった父は、高齢だが、私を頼りにしてもう少し生きようとしていたのに血圧が高かった父に、私は、病院から貰って来た降圧剤を飲ませ無理に血圧を下げ父の寿命を縮めてしまい、私は、父に育てて貰った恩を返すつもりが、父を殺してしまった。母の時も透析に行く朝に母のオムツを交換していた時に母は、突然、心筋梗塞を起こしてそれが最後で母を殺してしまった。私は両親をこの手で殺してしまい晩年になり泣く事など無い私は涙を流し、兄弟達は私が、父と母を殺したと言った。。
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