豊川海軍工廠

1939年12月15日愛知県豊川市で営業を開始した豊川海軍工廠。
航空機用の機銃や弾丸、そして信管を製造していたということだが、1945年には従業員が56000人を超えて東洋最大の規模となったそうだ。
そのため工場の面積も大きいが、それだけの従業員たちが寝泊まりする宿舎が工廠の敷地の外に作られていたので、3交代制で毎日毎日通勤する必要があり、自転車置き場も作られていたようだが、なんと工廠内に鉄道を引き込んでいたそうだ。

東京の昭和飛行機も従業員の通勤のために、土地と資金を提供して昭島駅が出来上がっているが、当時の軍需工場っていうのはとんでもない規模で操業していたのがわかる。
また56000人もの人たちが集まっていたわけで、この豊川海軍工廠が元で現在の豊川市ができることになったということだ。

今回見学させていただいたところは、第一火薬庫と第三信管置場。
それぞれ保管するものを考えて工夫された建物になっていた。
第一火薬庫は建物自体ある程度丈夫な作りになっていたが、第三信管置場は土塁で囲む形になっていて、爆発の影響が他に及びずらくしてあった。

今は大部分の土地が住宅地などになっているが、見せてもらった当時の写真には巨大な豊川海軍工廠の様子が写っていた。
それは敵の爆撃機からすると恰好の爆撃照準となったことだろう。
人を狙って攻撃したとおっしゃっていたが、やはり狙いは工場でこれ以上武器の供給ができないようにするのが主目的なのではないかと思う。
攻撃して来たのがB-29となっているので、高高度からの爆撃だったかもしれないので、多少狙いがずれることは十分考えられるし、もし戦闘機が護衛で付いて来ていたとすると、迎撃してくる日本の戦闘機などがいなければ、下にいる人々を狙ったとは思うのだが、それにしては銃撃痕を自分は一つも見えていないので、おそらく戦闘機の護衛なしでB-29は来たのではないかと想像している。

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