京都ポタリング 通りの端から端まで走る! #81下長者町通 #京都 #ポタリング #自転車

こんにちは ここは下長者町通の西の端 この通りは御前通です南を向いています こちらは北側この先に北野天満宮があります 今日はこの下長者町通を走ります ではスタートします 早速 左側の街並みが良いですね まだまだ良い街並みが残っているんですよね 家の前のお地蔵さんなんて最高です 夏は地蔵盆も行われるんでしょうね 焼肉屋さんが見えてきました 焼肉 江畑 ここは大人気の焼肉屋さんです 予約必須らしいです 食べログの100名店にも選ばれているそう 残念ながら自分は行ったことはありません 並ぶのは苦手なもんで 特注品のたぬきだ 機会があれば是非!予約して! ここの通り名は分かりません 後ろ側に千本日活があります またここも有名店です すっぽん料理 大市 創業340年江戸時代の元禄年間の創業だそうです 元禄といえば忠臣蔵の赤穂事件があった年代ですね 当時からこの場所で営業されているとのこと 志賀直哉の暗夜行路にもこの店が出てきます 「すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へはいり、片側にある寺の土塀の尽きた、突き当りにあった」 そのような一文があります 他にもたくさんの小説で書かれています 漫画の美味しんぼにも出てくるとか ちなみにこちらのお店にも来たことありません 一度は食べてみたいですね ちなみに1人26000円のコースのみらしいです 北の方を向いています この辺りが上長者町通の西の端千本日活があった辺りです この辺りは六番町という地名で 千本日活の辺りは五番町です 五番町にはかつて遊郭がありました 少なくなりましたが名残ある建物も残っています 五番長や六番町という町名ですが 秀吉が聚楽第を作り下級武士を 住まわせたことが町名の起こりです 一番町から七番町まであります そんな時代の町名が現代まで残っているんですね 右側の建物は「日蓮宗 妙徳寺」 先ほどの志賀直哉の暗夜行路の一文 「すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へはいり、片側にある寺の土塀の尽きた、突き当りにあった」 「片側にある寺」は妙徳寺だそうです 信号がないので千本通を経由して迂回します この信号は上長者町通です 下長者町通に戻りました この公園には悲しい歴史があります この辰巳公園には「空爆被災を記録する碑」があります 京都は先の大戦で空襲は受けなかった なんてよく言われますが空襲はありました その1つが西陣空襲 43名の方が亡くなられています 当時は被害を国が隠していました 今でも世界のどこかで戦争が続いています 現在のこの公園のように 子どもたちの笑顔が続く世界にしなければなりませんね この公園は#37智恵光院通の動画にも出てきます 次の松屋町通を曲がり少し寄り道をします ここをさらに曲がります 聚楽第の遺構となる梅雨ノ井がこの辺りにあるそうです この辺りには聚楽第の本丸がありました その中にあった井戸が今もあるとの事 探してみるもどこか分からず たまたま出てこられたご近所の方に場所をお聞きしました ここでした 「梅雨ノ井」です 秀吉が茶の湯に使ったと伝わる井戸です 残念ながら井戸はもう枯れていました 戦後しばらくくらいまでは使われていたんですが 井戸の石組みが突然崩れてしまい 使えなくなってしまいました 手押しポンプを取り付けて しばらくは使われていたそうですが その後 水も枯れてしまったそう 今は枯れ井戸が残るのみです この荒れ模様ですが バブル期に地上げがあり この地にあった神社なども壊されましたが 住民の反対運動もあり 現在はこのようになっているとか よく見ると後で取り付けられたという手押しポンプが見えますね 聚楽第の遺構はほぼ残っていません この井戸くらいは行政が入るなどして 整備して残して欲しいものです 梅雨ノ井という名前ですが 梅雨が明ける頃になると 水嵩が増して井桁を水が超えて溢れたとか なので梅雨ノ井と呼ばれたらしいです 井戸の場所を聞いたご近所の方も 井戸を掘り直したら 4メートルほどで水が出た そんなふうに言われていました 石組みが崩れて手押しポンプをつけた時かな 水が豊富なエリアだったんですね 下長者町通に戻ってきました 梅雨ノ井は左側方向になります 狭い道ですが結構車の通りがありますね 堀川通が見えてきました この堀川通から東の端の烏丸通まで 道幅が広くなり交通量も増えます 右手には京都府庁などの官庁街があります 右手には京都府警察本部があります 新町下長者町交差点 この建物は京都府警察本部 新しくてええ感じの建物ですね 令和2(2020)年に建てられたそうです ここにあるのは平安京左京一条三昧坊ニ町跡 「平安京左京一条三昧坊ニ町」というのは平安京の時代の住所みたいなものです そこで見つかったのがこの堀の跡 戦国時代のものと考えられています 当時の京都は大きく「上京」と「下京」に分かれ この辺りは上京でした その上京を守る堀がここにあったんです こんな感じに堀があったようです 少し掘ればこんな遺構が出てくるなんて 研究者の方にとっても京都は面白い街なんでしょうね #81 下長者町通京都ポタリング通りの端から端まで走る 右側にあるヤマザキYショップ 手作りのサンドイッチが美味しいんですよ おすすめです 下長者町通の東の端に着きました 烏丸下長者町交差点 下長者町通の東の端の様子です この通りは烏丸通 地下には京都市営地下鉄の烏丸線が走っています こちらの森は京都御苑の森です 京都ガーデンパレスというホテル ここにはかつて水戸藩邸がありました さすが御三家です御所の横のええことに藩邸がありました 信号を渡り御所側に来ました 見えているのは神社です 護王神社 主祭神は和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと) 和気清麻呂は奈良後期から平安前期時代の公卿 和気広虫は和気清麻呂のお姉さんです また配祀で藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)が祀られています ではお参りに行きましょう 2柱の御祭神の絵物語が神社の塀にありました 和気清麻呂は宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)で活躍しました 宇佐八幡宮神託事件とは称徳天皇のお気に入りの僧である 道鏡が天皇の位を狙った際 和気清麻呂がその野望を阻止したという話です 事件の際に和気清麻呂と姉の和気広虫は 称徳天皇の怒りを買い流刑となりました その後 称徳天皇が亡くなられ罪を許されて2人は都へ戻ります その後の桓武天皇の治世では 平安京の計画などで活躍しました ここの狛犬はイノシシなんです 先述の事件の際に刺客に狙われた和気清麻呂ですが どこからか現れた300頭のイノシシに守られて 無事に危機を逃れたという話があります またその時に足を傷つけられたが イノシシに守られ危機を逃れた後には すっかり足も治っていたとか なのでここの神社の狛犬は狛イノシシなんです いのししコレクションというものがありました これは「なで猪」 「頭が良くなりますように」と願いました チェンソーで彫られたイノシシです こちらが御本殿 先ほどのイノシシの話から この護王神社をお参りすると 足腰が元気になると言われています この「和気清麻呂公」という字 この夏に亡くなられた裏千家15代家元が書かれたそうです 和気清麻呂公です 君が代の歌詞にある「さざれ石」 長い時間をかけて石が固まり 大きな岩になるのがさざれ石だそう 木々の色づきも見頃となりました 街中の神社ですが結構広い境内です そうそう亥年はお参りに来られる方がとても増えるそうですよ まだしばらく先ですが 御朱印をいただくのも大行列とか 来られるならお早めにどうぞ さて そろそろ今日の動画も終わります 御視聴ありがとうございました また次の動画でお会いしましょう

京都の東西の通りである下長者町通を西の端(御前通)から東の端(烏丸通)まで自転車で走った車載動画です。
途中、地元目線での京都の町案内などをしておりますので是非ご覧ください。
#京都 #ポタリング #自転車

※日本語の字幕を付けています 多言語への翻訳はyoutubeの日本語から多言語への自動翻訳をご利用ください 翻訳文を付けられずすみません
※Japanese subtitles are included. For translations into other languages, please use YouTube’s automatic translation service from Japanese to other languages. Sorry for not being able to provide translations.

0:00 はじまり
0:06 ご挨拶と説明
0:38 下長者町通の地図
1:20 下長者町通の西の端の様子
2:15 スタート
4:42 焼肉屋さん
6:12 暗夜行路に出てくるすっぽん屋さんと五番町六番町
9:29 千本通
11:54 智恵光院通と西陣空襲
13:38 聚楽第の遺構とされる梅雨ノ井
18:57 堀川通
20:32 京都府警本部の地下には戦国期のお堀があります
23:30 ゴールと下長者町通の東の端の様子
25:47 足腰の守護神 いのししの護王神社
32:58 動画の終わりのご挨拶

△ 動画内に出てきた場所など
 焼肉 江畑
  https://maps.app.goo.gl/cbWB5dU5rAHtxYsj7
 すっぽん料理 大市
  https://www.suppon-daiichi.com
 空爆被災を記録する碑(総務省)
  https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kyoto_kyoto_city001/index.html
 梅雨ノ井
  下の方でおすすめの本をご紹介しています
 京都府警察本部
  https://www.pref.kyoto.jp/fukei/
 京都府埋蔵文化財調査研究センターの発掘調査現地説明会資料
  https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/gensetsu-pdf/gensetu-siryoupdf/r01pdf/R01-heiankyo.pdf
 ヤマザキYショップ アワヅ店
  https://maps.app.goo.gl/fJxaCQNdsdvwCB3R9
 護王神社
  https://www.gooujinja.or.jp
 京都御苑
  https://kyotogyoen.go.jp
  https://fng.or.jp/kyoto/

△ 梅雨ノ井に興味を持たれたら是非読んでいただきたい本
 「聚楽第・梅雨の井物語」 中西宏次著  阿吽社  ISBN : 4-900590-62-2
  http://aunsha.co.jp/聚楽第・梅雨の井物語/

下長者町通(しもちょうじゃまちどおり)
下長者町通は京都市上京区にある東西の通り
平安京の鷹司小路にあたる道となる
通り名の由来は上長者町通と同じで
安土桃山時代の天正年間頃に
通りの東の端辺りの場所に裕福な両替商が
住んでいたことから長者町と言われるようになり
その前の通りが長者町通となった

Hello everyone
Thank you for watching Panda Cycle ch.
In this video, we will take you through the streets of Kyoto,
which are said to be shaped like a checkerboard.
I ride my bike (and walk where I can’t) at a leisurely pace.
I hope to be able to show you around the city along the way.
Please take your time to take a look.

Shimochojamachi-dori
Shimochojamachi-dori Street is an east-west street in Kamigyo Ward, Kyoto City.
It is the equivalent of Takatsukasa-koji Street in Heian-kyo.
The street’s name is the same as Kamichojamachi-dori Street.
During the Tensho era of the Azuchi-Momoyama period,
a wealthy money changer lived near the eastern end of the street,
which is why it came to be called Chojamachi.
The street in front of the money changer became Chojamachi-dori Street.

Thank you for watching.
With this, Shimochojamachi-dori, Street Pottering will end.
Thank you for watching this video,
I would be happy if you could learn about a side of Kyoto that you don’t know about.
We look forward to seeing you again in the next video.

10件のコメント

  1. 今回も歴史の勉強になるスポットがありますね~。ほんと京都はすごい。
    梅雨ノ井は、せめて草刈りして整地して、案内板を立ててほしいですね。せっかくの歴史跡…もったいないですね。
    そして!護王神社!待ってましたー✨私、よくお参りしてました。狛猪🐗可愛いですよね。猪コレクションも増え続けているみたい😂
    私はコロナ禍前に行ったのが最後でした。また行きたいな…。
    画面越しに、パンダさんの足腰の健康をお祈りしました!京都の街を縦横無尽に走っていけますように🚲️💨
    今日も興味深い動画をありがとうございました‼️

  2. お疲れ様です。だいぶ体調が戻られたようですね。良かったです。西陣に聚楽第の遺構の一部が残っていたのは全く知りませんでした。ご近所の方の話が聞けて本当に良かったですね。文化庁が京都に移転してきたので、文化庁に梅雨の井の保護、そして復活をお願いしたいですね

  3. こんにちは😃

    今回も楽しく拝見させて頂きました、最初の西の端を見た時に狭くてどうかと思いましたが途中から自転車🚲マークが出て来て何故かほっとしました😅

    聚楽第の跡地が荒れているのが残念ですね❓

    今日から三連休で天気も良く京都は紅葉🍁シーズンで多くの人が訪れているでしょうね😮

    富士山も雲一つ無く綺麗に見えてますよ👍

    来年の特別拝観が豊臣秀吉関連の公開が多い気がしてますが理由があるのでしょうね!

    動画ありがとうございました🙏

  4. 西陣の路地裏の雰囲気をあらためて感じることができてうれしかったです。ありがとうございました。家の向こうが、中立売、下立売の通りで、どの辺になるのかな、と想像しながら楽しませてもらいました。梅雨の井も詳しくは知りませんでした。あの辺だけ荒地になっているのも不思議に感じていました。今年6月末には、護王神社で茅の輪くぐりをさせてもらい、うちわをいただきました。和気清麻呂公=イノシシさん、菅原道真公=ウシさん にも人気があるようですが、動物にも好かれるような方々だから、対立を恐れずものが言えたのかな、とも思ってしまいました。(和気清麻呂公の像の題字も裏千家家本の筆とのこと、本当に突然でした。)今後も楽しみにさせていただきます。

  5. お疲れ様でした。護王神社の名は知っていましたが実際に見るのは初めてです。とても良い雰囲気の神社ですね(*^^*)

  6. 梅雨井ってあるんですね!ご近所の方に聞いていただいたりして、本当に有難うございます。貴重な遺構ですね^^ジャングルですが…残していただいてるのが有難いです。

    下長者通りの西側は歩いたことないのですが、興味深かったです。

    基本、聚楽第は原初の平安京の大極殿や後宮などをエリアとしており、けっこう重なっています。君臨するには場所が良いんでしょうね。南北に坂になっていますし…やはり地理的にも防衛上も、見栄えの意味でも、桓武天皇の選んだ場所は王城の地にふさわしいのではと思います。もっとさかのぼると山城原野を開拓した賀茂氏(東側)秦河勝(中心~西側)の、秦氏の邸宅跡とすると、目のつけどころはなかなか、ということになりますね。

    えっと…明智光秀の話をされておられたので、その話がいいかなと思っていたのですが、又にして、今回、護国神社を丁寧にご紹介いただいたので、天平時代(奈良時代)の与太話を少々…ご興味なかったらスルーなさってくださいね。

    <護王神社: 孝謙天皇と道鏡ですね…。>

    孝謙天皇(女帝)即位の経緯と、初期の藤原氏の様子について。

    本当に、はじめの頃の藤原氏はけっこう強引で無理を通してまして、(いつもかなw)てか、はじめの頃はネームバリューもそんなにないので、ガツガツしてるわけです。

    日本の初の首都らしい地は、飛鳥です(592年~694年の百年)

    初代神武天皇は三輪山(飛鳥のそば)に住んでいました。その後天皇の代替わりのたびに奈良県内を転々とし、飛鳥周辺に落ち着きます。

    藤原氏の初代は鎌足(614―699 )ですが、飛鳥に都があった頃の、中大兄皇子(のちの天智天皇=668年即位)の腰巾着です。中臣鎌足がもともとの名前です。藤原氏は賜姓(あとから皇室から名前をいただいた、それも臨終の時に)で、血統的にはまんま「中臣氏」です。

    中臣氏は、神社とかの祝詞とかを挙げたりする専門の中級貴族でした。その一人であった鎌足が、皇位と日本統一(有力豪族を倒す)の野心まんまんの中大兄に見初められて、政権の中枢に食い込むチャンスをゲットしたわけです。

    この中大兄皇子ですが、両親は父親:舒明天皇 母親:宝皇女(のちの皇極女帝)のプリンスなのですが、疑惑のある方で、実は、弟の大海人皇子のほうが兄ではないか?とか、母親が再婚なので、連れ子じゃないかともいわれてるのです。

    原因は、記紀(日本書紀=国の公式記録、と古事記)に、生年月日が合わないんですね。弟の方が年上になっちゃうんです。おかしいですよね。これは、母親ははじめ、高向王(用明天皇=聖徳太子の父・の孫?それもはっきりしない)と結婚して漢皇子という男子を産んだと記録があるのですが、この漢皇子のその後の記録がまったくないので、もしかして中大兄のことか?とか、中大兄が実力者でありながら、母親を2回も即位させ女帝にして、いつまでも皇太子でいて長年即位しなかったのは、実は血統の問題??やり方が強引すぎてみんなの同意を得られなかったから??とか、いろいろ憶測を生んでいます。現存する史料不足で、正直まだ結論は出ていません。

    しかも、この兄弟はお互いが信用できなかったのか、それぞれの娘を何人もまとめて、お互いに相手に嫁がせています。(実のおじさんを夫にした皇女が多かったわけです)

    母親の宝皇女は、天皇と再婚した後、中大兄?、大海人、間人皇女の3人を生んでいます。

    それでなくても、「中」大兄ですから、皇位継承順位が2番目ってことです。1位は、古人大兄皇子(異母兄、母親は蘇我氏の姫)ですので、当時の大臣である蘇我入鹿は当然、古人大兄を即位させたいですよね。中大兄は、蘇我氏が天皇家をおびやかすほどの権力を持っている!として、儀式の最中にだまし討ちで、蘇我入鹿を殺します。(=645年大化の改新)入鹿の父は、これを知り一族自害して果て、蘇我氏は滅亡しました。

    自然と、蘇我系の古人大兄は即位できなくなったわけですが、中大兄は家来に命じ、兄・古人大兄が謀反を企んでいるということにして、殺害してしまいます。

    しかも、亡き伯父・孝徳天皇のまだ10代の長男も謀反の罪を着せて処刑しました。

    もう一人の有力者だった山背大兄皇子(聖徳太子の長男)は、一族全員、蘇我入鹿に殺害されたあとでしたので、さらにその蘇我と兄である古人大兄を滅ぼした中大兄が勝ち残り、即位できたわけです。古人大兄の姫は、自分の正妻であり、自分の側妃は蘇我の姫であったにもかかわらず。中大兄は両方の妃の実家を完全に滅ぼしたわけです。

    妊娠中だった蘇我の姫の方は、実家の滅亡を目の当たりにし発狂し亡くなりました。かなーり胎教に悪かったせいか、生まれた皇子は障害があり一生口が利けませんでした。

    (祖母である宝皇女はこの不憫な孫息子を溺愛し、彼が幼くして亡くなった時には、号泣状態の和歌を残しています。そして、女帝になった後、めちゃくちゃたくさんいる孫の中から、この皇子だけを自分の御陵にともに葬るよう遺言、合葬されました。)

    みてください、この有力な皇位継承者たちの運命の惨状を。

    中大兄はかなーりガツガツしなければ天皇になれなかったわけです。

    (このガツガツ活動を右腕として支えたのが鎌足です。)

    のちに、天智天皇となってからですが、彼は山科で狩りをするのが大好きな方でしょっちゅう来ておられましたが、地元の伝承によると、ある日、狩りの最中に行方不明になり、探しまくったんですが見つからず、靴だけが落ちていたそうです。仕方がなく、その靴が落ちていたところを御陵にしたとの伝承があるのです。

    多くの皇族や蘇我氏などの豪族を滅ぼし、白村江など朝鮮半島情勢にも出兵しており、(助けてくれと百済から要請があった)船を燃やされ全滅しましたが、敵国が追撃して日本に攻め込んでくるんじゃないかと怖れ、飛鳥を捨てて近江に遷都(湖へ逃げるつもりだった)、まあやり手なんですが非常に敵の多い方だったので、暗殺説もぬぐえないわけです。

    なお、山科にあるこの天智天皇陵は、調査の結果六角墳墓と確認され、六角形墳墓は当時の皇族の御陵の形の決まりでしたので、完全に確定しています。

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  7. いつもありがとうございます。それにしても京都が空襲を受けたなんて他府県民だけでなく京都府民でも知らない方が多いでしょうね。恥ずかしながら私も存じませんでした。

  8. いつも楽しく拝見しています。
    京都の路地裏は京都ならではの雰囲気があって良いですね😊のんびりと散歩やポタリングをすれば古き良き京都の町を満喫できますね😊

  9. 井戸はチラチラと気にしておりまたが、全く場所がわからずでした。
    これは教えていただかなければ見つけられないですね。
    まさか空き地のど真ん中とは。
    油小路を下がったところで友人が店をしておりますので下長者町通りはよく利用します。

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