青森空襲証言朗読240ー「空襲のあと」有村智賀志(字幕入)

悪夢の時昭和20年7月28日の夜が 開けると私たちは呆然として焼き跡に 立ち尽くした。 至るところ海人と貸し我が家は痕跡すら とめなかった。 国道沿いには根元の部分だけ残った立木や 電柱、崩れた石垣きや立ち切られた電線が やたると目につく。 足元には焼けたれた途端板や空缶が 散らばり、裸の水道線からはちょろちょろ 水が流れ出しているという哀れさだった。 何しろみので避難したものだからさに無から生きていくには乞食でもするしかしよない様だった夜の中を逃げ回ったので嘘みたいに思われた命だけは助かったという心の支えは確かにあった面腹を解決しなければいけなかった幸 台所の辺りに食べ物らしきものが見つかっ た。鉄鍋に入ったまま火をかぶった じゃがいもと流しのに水に散乱した大豆で ある。 焦げ臭い味はしたが結構親をしぐことは できた。 一息ついて考えてみると裏の空地には鍋 痩せた物類が埋められてあるのだった。 早速張り合わせの瓦礫で掘り出してみた。 泣けなしの日用品でも手元に所持している という安心感が湧いた。 次は身の振り方である。一家の柱を失った 私には頼るべき先取てなかった。母にも 実家もないし、ただただ途方にくれる ばかりであった。まってばかりもいられ ない。とにかくの姉がとついでいる黒石へ 行ってみようということになった。青森 から距離にして340kmはあるが徒歩に よるしか手立てはない。鉄道はいつ動く ものか当てにならないし第一切符を買う だけの持ち合わせがないのである。 午前9時4人は飛ぶと歩き出した。 アスファルトの国道は焼けるように扱った 。フルカーの古戦までの間にトラックで 運ばれる帯び正しい数の死者を見た。白円 と悪習の中を人が大勢行き混じっていた。 生まれ育った町に別れを告げるという鑑渉 めえたものはつほどもなかった。むしろ 中国編の世界から1刻も早く脱出したい 願いでいっぱいだった。 途中何度も気分が悪くなって道に しゃがみ込んだ。脇きし水を見つけると 飛びつくようにしてぬドゥルをうろし頭 からかぶった。しかし円天の熱キは 立ちまち体の水分を奪い取ってしまう。 真の鶴ヶ坂付近で畑泥棒をして食べた トマトの味は生涯忘れることができない。 まだ折れてはいなかったが大玉で水気を たっぷり含んでいた。誰にもとめられず 食い放題であった。 腹が駆逐なるとおかしなものでトマトの身 についた歯の跡が怪我人の無惨な傷口を 連想させた。私は急に吐き家けを模様。 空衆チョコ後に出会った私のもう1つの 異常体験を思い出さすにはいられなかった のである。 爆撃が収まった明け方私たちは松原地区に ある青森医学専門学校に避難した。差し たる当てもなく人々の動く方に従って 立ち寄っただけである。 校舎は元の国民学校のものだった。皇帝に は乾いた砂が敷き詰めてあり、生場のない 被災者たちが吹き溜まりのようにしえてい た。それに負傷したものが次から次へと 運ばれてきた。 屋内大量は9次第の急護所になっていた。 裸ロソの炎がゆラゆラと動く中で薬皮の 匂いが鼻をついた。 汗や血の匂いも混じっていた。 戦立すべき光景だった。 片腕の折れ曲がったのもいれば髪の毛が 焼けて丸坊主になったのもいる。上半身が ちまみれで赤鬼の装をした男。火傷のため に手足に水袋れができたようじ。 外償は見られなくてもエの状態で横たって いるロ婆。見舞いと思っても自然とそちら へ目が向いてしまう。 もっと生産なのは手術の場面だった。顔面 が潰れていたり、大胆が切断されたり中に は内臓がはみ出ているなど手の施しのない 重症患者ばかりである。 麻酔を使わない荒涼領子だから七線発の 苦しみを舐めなければならない。絞り出す ような不撃を走して暴れる患者を数名の インターが知った激しながら抑えつける。 医療器具も薬物も足りないづめで思うよう にならない苛立から隣続けの意思。人 一思いに息の根を止めて苦痛から解放して やった方がマしだろう。 私は子供心に感じたくらいである。 あまりのショックに私はせっかく食べた ものを吐き出してしまった。あのお輪切り になった赤の傷口がいつまでも脳りから 離れないのである。トマトを口にするたび に蘇ってくる。 私は無償に腹々しくなった。いいよ。や彼 に奇心を失いじい 思いをしなければならぬ酷な運命に対して 初めて息通りが湧いてきたのである。 不労者のような哀れな姿でうろついている ことに我慢ならなかった。大釈の山を越え 波岡丘の近材に差しかかると不合を過骨は 一層募るばかりだった。 目にする農家の様子はあまりにものどかで くった投げに移った。今時こんな見した なりがあったのかと驚くぐらいだった。 無釈ししていたせいだろうか。私はとさに 盗みを働いた。どての草むに乗り捨てて あった自転車に目をつけ影 のないのを幸い黙って持ち出した。中古で はあるが仕様に耐える実用者だった。両親 の過釈はなかったし、母も目立てはし なかった。むしろ私は息用としてみんなの 分の荷物をつけ覚え立てのハンドルさきで ペダルを踏んで見せた。あちこちによろけ たりぶつかって転びそうになると笑い声が 起こった。やっと家族にも明るさが戻った ようだった。 落ち着く先である中号村を探し当てたのは ひぐれ時であった。青田の野ずはどこまで も広く西の彼に岩木さんの総言な姿が眺め られた。口を聞くのも大義なくらい 疲れ果ていたが、どうやら人心地がついた ようである。この日から2年ほどおばの家 での器遇生活が始まった。 私の11歳における実態権である。

当時私は11才。爆撃が収まったあと、青森市松原にあった青森医学専門学校に避難した。そこは救護所になっていて、凄惨な手術の場面に出くわした。
出典:「次代への証言」第2集 青森空襲を記録する会 1982年
朗読:相馬信吉(青森空襲を記録する会理事)

この動画「青森空襲証言朗読240ー『空襲のあと』有村智賀志(字幕入)」は、青森空襲後の体験を語った証言の朗読です。内容を簡潔にまとめます。

– 証言者(当時11歳)は、青森空襲によって家も生活も失い、焼け野原の中で呆然と立ち尽くします。
– 家族は食べ物を探し、瓦礫の中から残ったじゃがいもや大豆で空腹をしのぎます。
– 頼れる先もなく、姉が嫁いだ黒石まで徒歩で避難します。道中、熱さや疲労、死者の光景、畑でトマトを盗み食べる経験もありました。
– 爆撃直後、青森医学専門学校の救護所に避難。そこでは凄惨な負傷者や麻酔なしの手術場面に直面し、子供ながら強いショックを受けます。
– 道中自転車を盗んで荷物運搬に使い、家族に一瞬の明るさが戻りました。
– 目的地に到着し、2年間おばの家で暮らすことになります。

この証言は、青森空襲の直後の悲惨な現状、避難生活、戦時下の厳しい体験や心理的衝撃について述べています。

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