核燃基礎講座(No.12)三沢・六ヶ所・下北「バーチャル下北半島ツアー」 過去・現在・未来をみつめよう!案内人:伊藤和子 進行:澤井正子
訴訟 あのバーチャル え、下北ツアです。あ、各年基礎講座の バーチャル下北ツアをこれから始めます。 ご参加今日もありがとうございます。 え、今日は、え、このツアーの案内人として、えっと、伊藤か和ず子さんをお招きしています。 え、昨年サイクル組織 1 番に訴訟原国団の、ま、運営員でずっともうあのミ沢で生まれて、ミサーで育て、ミサーで、え、生きてるという方で、あの、はい。 人です。 で、後で自己紹介もお願いしますが、え、今日は、え、前半で 伊藤さんから、え、今の三沢 6 北の過去現在未来を見つめようということでお話をいただきます。 で、あの、その後半で、え、皆さんからの 質問という風に、ま、普通考えてるんです けど、なんか今日伊藤さんがですね、もし 、あの、あの、お話の途中でももし質問が あったら、あの、もうどんどん聞いて くださいという風におっしゃっていますの で、もし途中でその絵にあるこれは何とか 思ったらどうぞ遠慮なく、あの、ちょっと 手を上げていただいて、あの、こちらで気 がつくようにしますので、あの、ご質問も どうぞやってください。後でもやります。 で、あの、全体をですね、あの、今、え、 実は録画始めていますが、え、最初の話の 部分に関しては録画いたします。で、その 部分を後で原告団のYouTubeに アップいたします。で、後ろの質疑応答に 関しては、あの、録画いたしませんので、 あの、もう自由に聞いていただけたらと 思います。はい。え、それでちょっと、え 、今お話ししてるのは実は原告団の正子 です。で、あの、私も途中でチちゃャを 入れて、あの、これは何?あれを何という 風に聞いたりするかもしれませんが、全体 の進行をいたします。よろしくお願いし ます。え、それでは伊藤さん、あの、まず ちょっと自己紹介も兼かてやっていただい てお話を始めてください。よろしくお願い します。こんばんは。なんか拙いツって いうか案内を務めますけど、えっと三沢に 住んでます伊藤と申します。えっと私は ですね、うん、現在73になります。なの でとってもおっちょこちょいも元々 おっちょこちょいなので、えっと、 すごい物 もひどくてで話をしていても言葉も出てこ ない時がありますので、うん、皆さん言い 間違いとかあれ変なこと言ったと思ったら すぐ突っ込んでいただければっていう風に 思ってます。で、えっと元々ですね、話 することっていうか、こういう風に大勢の 前で話することがとっても苦手です。あの 、おしりは大好きで、あの、1人でも2人 でも見かけるとついあの、声をかけて 話しかける。あの、ここに今ちょうどあ、 あの、私が中央にいる写真があるんです けど、これ街当証明をしてる写真なんです けど、高校生、もう卒業生だという高校生 たちが 来たので、みんなに説明をした思いがあり ます。で、皆すごく素直にと話を聞いて くれます。で、突っ込みながらあの連絡は どうするのって言ったら2人はなんか県外 でこの時は2人は青森に残 るっていうことでお話をしてました。 そんな感じで、えっと、ま、署名とかこう いうのが得意なんですけれどもうん。なん かみんなの前で話すってことは本当に苦手 です。で、これから、えっと、実は私は ですね、 1971年に高校卒業して実は2年間民間 で働いて、その後に青森県労働組合、上産 地方多分皆さんの中で知ってる方、ま、 知ってると思うんですけど、昔の総の えっと青森のなんだ剣道のえっとその下し たけっていうか同じ組織の中の上産地方 っていうたまたま三沢6箇所それから えっと戸田で上北軍全部今のは8市町村 ぐらいしかないんですけど全部で13 市町村あったところの労働組合の初期をし てました。なのでちょうど勤めた、勤め 始めて何年かした時に実はえっと息子柄 開発にあのもう終わりの頃ちょっとかじっ てでその後に各年の話が出てきて関わる ようになりちょうどその頃は三沢の基地の えっとF16から16の配備とかで大きく こう変わっていく時代の時に初期をやった もんですからなん が仕事の中で、えっと、最初のうちは、ま、半原発や基地の戦いっていうか、そういうところに関わってました。だ、 えっと、皆さんのご存知の通りですね、えっと 1989年の12 月で総票は解散になってます。 で、その時自分も解雇でしたので、その後 、えっと、実は労働、労働金庫の食卓職員 として天然まで働いてきました。なので その間はなかなかこう主体的にっていう 感動に関われなかったんですけれども、ま 、学習会とかあのこういった証明があれば 出ていくとかそういうことを、ま、少し やってはいました。で、退職してからうん 。原告団のこととか新しいその 取り組みたいなことに、ま、首を突っ込み 、裏方を専分に、ま、裏方っていうか自分 的なこととかをやっているのが、あの、私 、今の私ですっていう感じで、えっと、 それではですね、続けていきたいと思い ます。で、えっと、1番最初の2ページ目 のここの写真なんですけど、もしかしたら この中にいる方が参加してるかなと思うん ですけども、えっと、90年の12月に 6箇所のオブチ、あの、お縁って言って 役場のところあるところの集会所で1泊で 、えっと、確止めたい女たちの都いを開催 してます。で、その後何年かしてから たまたま14年5月、これには東京の 方たちが参加してるかと思うんですけど、 女たちの命の大更新という、えっと、東京 での集会に参加してます。で、ここで、 えっと、ま、全国から女の人たちが6箇所 よほど何回も来てる人たちがたくさんい まして、ここの写真に皆さんもご存知だと 思うんですけど、島田けさん、それから さ井さん、そして、えっと、無藤る子さん 、おみそさんで、あの、たまたま時訪ねた 私、それから6箇所のキッカーさん、 えっと、ていうような形で、えっと、 ちょっとこの写真をですね、ちょうど14 年経ってからの東京で会った時の写真で、 ここにいる人たちが誰がどうなのかをよく わかんないような感じなんですけども、 ちなみに自分はこのセミっこにいます。 あの、奥の方にいますっていう感じで、 えっと、ちょっとこれをちょっと載せてみ ました。と、これはですね、ま、6箇所で 1番大きな集会っていうのが1989年の 4月9日に置かれた、えっと、確念6村 大動っていう、ま、全国の、えっと、全国 からの同員でっていうか参加者で 1万2000人のあの集会をやってます。 で、これはお縁の浜っていうか玉教のその 砂場、砂浜でっていうかでの集会でその後 にデモをしながらえっと今の最処理工場と かウランのその施設の周りを人間の鎖で みんなで囲んだって今ここにあるこちらの 方がウランの濃縮工場が建設されてカード をしています。 で、えっと、ちょっと待ってくださいね。で、で、ちょっとこれが、えっと、青森県ちょっと見えないと思うんですけども、もし後で印刷できる方は、えっと、資料を、あの、欲しいってことであれば原告団の方のページに載せれますよね。さんね、 えっと、全部映像と資料アップしますよね。 で、そこで見ていただければと思います。 これは青森県の軍事説と核関係のあの 原子力の関係のえっと細かい本当に細かく 書いてありますのでもし後で見て いただければでこれはあの現在の下北半島 と言われる三沢から6か所それからムで えっと東通り 大馬の地になりますから三沢を通ってこう 行けば全部その施設を ま、見て歩くっていうか、とてもこの狭いところの半島の中に危険なものがたくさんあるっていうことがよく分かっていただけると思います。 で、えっと、をうん。先にですね、三沢の基地のことをお話ししていきたいと思います。で、もう三沢の基地はもう皆さん、あの、ご存知の通り沖縄についで大きな基地になってます。 で、三沢は1938年から、ま、あの、 海軍の非常の建設で着手されて、で、それ が基地の始まりで終戦後にあの非向場とし て建設工事が開始されています。で、え、 ま、見ていただければと思いますので、で 、これがですね、昔は、あの、像の売り って言ってここにこう柱がこういっぱい 立ってるのがあるんですけども、昔はこの これがレーダーっていうか 通信施設だったんですね。で、今はこれが ないです。で、ここの後ろにある白い ピンポン玉みたいな、ま、ホルフボールっ て今言われてるんですけど、これが、えっ と、通信防施設になります。で、えっと、 この写真を撮った時はたまたまこう一緒に 乗ってるのを見つけたもんですから、載せ てるんですけど、今は、えっと、2014 年にこのゾーンの折りのこの柱の部分が 解体されてなくなってまして、あの、この ゴルフボールっていうか、えっと、代で 20個以上点在してます。で、実際にいつ から始まったっていうことは、その通信 施設がいつから稼働したとか、いつにこう 取りかうんとなんていうの交代したとかと は全部極費になってまして、いくら調べて も分かりません。えっとこれが小柄湖の ところにあるそのレーダー施設です。 そびエタとかいろんなとこの全部もここで あ、皆さんもあの防されてるっていうこと になります。それから、えっと、右側の方 の写真はこれは、えっと、三沢空港、あの 、民間機の、えっと、ターミナルから撮っ た写真です。で、唯一三沢で、あの、三野 基地は米軍と自衛隊と民間が共有共同で 使ってる飛行場になります。 えっと、奥の方にあるのが各光で多分この飛行機ちょっとなんだかわかんなかったんですけど F16かと思います。F16ですね。F 16 がちょうど飛び立つ前のところです。滑走路が 1 本しかないのでそれを共有で使ってます。 で、えっと、一応基地の相面積は、ま、三沢の全体の 1/5を締めて売ります。 で、それがえっと三沢だけじゃなくて、 都市なのかな?三沢だけではなくって東北町それから 6 場所にも関わるようあのまた上がっているか少しですけどあの基地としてのえっと共同のスペースがあります。でからですね。で、これがですね、えっと基地の東側になります。 コピルみたいなのが見えると思うんです けども、これが米軍の構層住宅になります 。で、それを大きくしたのがこちらになり ます。で、小川湖に行く通りにあの市民の 森ってあるんですけど、その周辺を取って いくとこういう構層住宅が、えっと、今 全部で何個あるんだろう?こな間だ ちょっと見てある、見たんですけどこの 東側だけではなくって、えっと、西側の方 にもなんとか立ってますし、あの、大きな こういうで全部もちろんあの、日本人が 入ることはできないです。あの、必ず渓谷 っていうこういうマイクがあっ、あの、 看板がありますし、それから最近、あの、 ずっと見てなかったんですけど、ドローン の規制についてのお願い、つまりドローン で写真を撮ってはいけないっていう、こう いう看板もありました。それから、えっと 、この下の方の白いちょうど林があって 見えないんですけど、さっきの折りって 言ったところなんですけども、その柱の 部分っていうか任しの、えっと、アンテナ がなくなって、えっと、今はこのゴルフ ボールだけになってますですね。で、えっ と、一応次は三沢基地の、ま、ちょっと 待ってください。1つもしかしたら飛んだ か 。えっとと米軍のみは基地に大な配備の 舞台と航空機っていうことで、今はF16 があ、えっと配備されてます。36機あり ます。で、あとはこういったあの 体があってうんと今F16から実はF 35Aっていうのに48期 になっております。で、26年の春に1台 、あとは順時36期じゃなくて48期 変わっていくっていう形になってます。で 、やはりF16よりも35Aの方が、えっ と、騒音の方も高くなります。で、えっと 、自衛隊の方は今F35先闘機が39期 配備されてます。で、その他の部分がこう いう風に入って、で、F35、ま、一応 参考までに一気148億円するということ になります。で、えっと、ま、三沢基地が 及ぼす、ま、基地の公害っていうか、事故 財政問題について若干だけ、あの、専門的 なことはよくわかんないのであれなんです けど、まず総がひどくて集団一点とか住宅 の本を対策、これがすごく進められてい ます。で、以前は今もちゃんと農業に 対する保障も、えっと、いくらかされてる と思いますけども、詳しいことはちょっと 調べないと、あの、皆さんにお伝えする ほど資料ちょっと持ってませんので、えっ と、ま、結構ネットでも見れるんです けれども、あと飛行機事故の、あ、ま、 もちろん事故が、あの、必ずつきまと思い ますけど、大きな事故としてはF1の中、 あの、墜落時が1980ね。ちょっと写真 が薄くて見えないんですけども、この木と 木の間をもう完全に突き取っていたって いう、あの墜落事故があってます。ただし 民家に衝突はしたんですけども、人身事故 に至らなかったっていう大きな事故がこの 1980年に起こってます。ただ小さな 誤射とか小学とか落下物とかそういうのは 多数あります。と財政ですけど、三沢は 本当に基地交付近で成り立って るっていうような感じになるんですけども 、それに対する費用もたくさんかかります し、維持管理費もかかります。で、えっと 、日部あの安全条約によって米軍の固定 資産税とか市民税とかガスの電気とかそう いうのは全部非課税になってますので、ま 、皆さんの国、あの税金ていうことで、 えっと、基地があることでこういうことも あるっていうことを覚えていただければと 思います。と、今までの一応1960年、 ま、基地ができた頃から80年代の半期の 戦いていうことでちょっとメモってみまし た。あの80年の後半、つまり総評とか そういうところがなくなったと同時にです ね、やはり地域逃争がこう衰退していくっ ていうことで反線とか半角ま、反原原発の 運動がどんどんやっぱり少なくなってる。 それは基地に関わることも同じだったと 思います。で、特に三沢市はですね、集団 移転が進んでまして、防音対策なので、 そのことの方がその条件逃争的な形とか 共演あの共存共栄の方向に進み出していて 、そういう運動はどんどんなくなってます 。で、ま、朗読名も本当にこの基地撤去と か安保条約に反対する集会とかが多くあっ たのもその70年80年代であはその後は なくなってますし現在は政党とかそういう ところでの抗義とか凱旋が少し行わられ てるだけです。で、あと基地のあの住民に た住民の運動もえっと当初の頃F16の 配備とかそれから死ぬあのまだ移転になっ てなかった地域の人たちがあのやはりそう に対する えっと講義とか不安でっていうことでの 町内会でのえっと行政に対するですねあの 運動とか入れとか労働組み合いと一緒に なってやっ運動も、えっと、70年度80 年代はあるんですけど、今は本当に地域の 人たちは本当に行政と一緒になって騒音 対策に力を入れて、ま、あの、防費で持っ て学校をよくするとか、えっと、施設を作 るっていうようなことにね、あの、力が 入ってるのかなっていう風に思います。 で、もちろんあと市民団体もやはり同じように 70 年代の頃は多かったんであったんですけれども、 えっと、この時ですね、 1971 年には実はチ本沢で公演をしてます。で、アルという反戦があったんですね。 で、そこのところに、あの、全国の、ま、 若い人たちが来て、その地域の人たちと 一緒にとか、あと軍人の人たちと平和運動 みたいな形であの、関わっていることが ありました。ただし、えっと、それもです ね、そのRも2年ぐらいで閉店してます。 からその後にその閉店も三沢に残ったあの 反省運動を続けるために残った人も数おり ます。で、そういう人たちがムつ小柄開発 とかにも関わってきております。で、一応 ここですね。で、これがえっとさっき言っ た騒音のために移転したところの地域の 写真です。ここ横編っていうとこがあるん ですけど、ちょうど本当に写真を撮りに 行った日に、ま、上を飛行機がこういう風 に飛んでる形になるんですけども、全部で 400個押せたいぐらいあったところが 全部1点になりました。で、ですからここ は全部今は防衛長の土地になります。で、 たまたまですね、その移転の後地にはです ね、神社とそれから実は三も太平洋のそば なのでっていうか本当にここ何メル500 かなしか離れてないところに太があるので 津波に襲われてます。そのための慰例その 時の慰例費とそれから神社が今ここの地域 のところに残っております。で、えっと、 で、4日目の地区から集団移転するんです けども、 南性の方に3kgぐらい、ま、3kmを ずれたからそうが、ま、あの、ま、上を 飛ばないっていうだけでも違うのかもしれ ませんけれども、あの、集団移転したのは ここでこう区画されたところに、ま、 大きな内を立てて住んでいるのが、ま、 三沢市になります。ですから実はあの 3.11の時も大きな被害ではなかったん ですけど津波に襲われてます。 ですね。 えっと、ま、で、ちょっとこな間だ話した 時に三沢の、ま、軍事基地の町っていう ことで、沖縄とか三沢っていうことで、 その違いは何なのかっていうことを ちょっと聞かれて、え、果たして何かなっ て思ってちょっと調べてみたんですけども 、三沢って本当にあの太平洋の戦前の直前 9000、ま、1万人の人口しかいなかっ たんですけども、基地の建設工事のために その、ええっと、三沢に集中して人が入っ てくるっていう形で1番すごい多かった時 が4万人の人口になってました。ただ現在 は、ま、これは全国どこでも減ってるので あれなんでしょうけども3万6000の 人口にす。で、何が違うって言うと、 やっぱり基のために集まってきてできた町 みたいなところがあるので、沖縄みたいに 本当にせ、あの、戦争のこの沖縄線の悲劇 っていうか、 そういう経験もないっていうか、そういう こともあって、皆さんはその あまり監視が、監視がないというか、そこ は沖縄とすごい違うな、あの、沖縄と全然 違うんだなっていう風に思います。あと、 あの、沖縄では米変の犯罪が問題しされ てることが多いんですけど、三沢は意外と ありません。ただ、えっと、例えば交通 事故があったりとかする時は本当にあの 米軍の車には近寄るなっていう大外的な ことで公的な部分であったのにはちゃんと 保障はしてくれるかもしれさんだけど米軍 があの、ま、軍人が事故を起こしたりと かっていうのは本当に私たちが泣きねりを するようなのは実態としてあります。 どうですね?見ました。で、ま、自衛隊の 人たちも三沢基地は、ま、沖縄いる休み やすいと言って三沢に家を持つ自衛隊も 家族もたくさんおります。ですから単子不 をして沖縄に行って戻ってきてっていう ような生活が三沢ではされています。と 沖縄は、ま、あの、沖縄とか他の基地軍 運用機の、ま、中継や兵隊の質のための 役割を果たしてるんですけど、やはり三沢 は太地攻撃ミサイル先のあの、えっと ゴルフボールじゃないですけど、防信の 情報の収集という重要な役割を 果たしてる基地 だという風に思います。 これがですね。 あ、すいません。かず子さん、あの、見ている方ですね、深さんていう方から、 あの、今お話いたんですけど、えっと、沖縄のような米にる正犯罪 [音楽] 被害などの問題はあまりないというありますかっていうご質問だったんですけど、 全くないとはわかんないんですけど、表に出てるやつはな、聞いたことないです。 あまり はい。 昔あったかなっていう感じで本当に大きなことはないです。 はい。 はい。大きなっていうかそんなにこう新聞に出るとか問題になるとかっていうのを多分多少あるかなと思うんですけれどもそこのところはないないですね。ないと思います。 はい。ありがとうございます。 はい。 でが現在の三沢基地の正面ゲートになります。えっと、ま、綺麗です。綺麗なんですよ。 というかで、えっと実はその正面ゲート からちょっと出るとですね、商店街ができ ています。なんと三沢市はアメリカ村って いうのを消してお建物だけはアメリカ風な 建物を商店街にずっと立てらせましてでも どこどこもなっていうかあのシャッター 買いにはなってるんですけども道路だけっ ていうかお店だけはこんな感じで三さは できております。たら本当に人は歩いて おりません。それからえっと毎年三沢で 航空祭が開かれて昨日実は航空祭だったん ですけどブルンパレスが昔は20万人 ぐらいの人が集まったっていうんですけど 今日のニュースでは昨日6万人の人だった そうです。で、えっと、三沢については 大体こんな感じで終わりたいと思います。 で、えっと、1番最初にちょっとあの、 ちょっと私が自分が運動する中でこう気に なったことっていうか、あ、こうだったん だや、あの、こんなことがあったんだなっ ていうか、こういう繋がりで、えっと、 繋がってきたんだなっていうのがやっぱり 調べてるうちっていうか、今まで関わって て感じてることをちょっとまとめてみまし た。さっきあのRっていう反線喫茶のこと を言ったんですけど、そこに行った人たち がその息つが開発の反対運動の例えば炎に 行ったりしてるんですね。で、その炎の 繋がりでその6箇所の人たちと話ができる ようになって実は確念が来た時にこの後に お話するんですけど落農家の村起こし コンサートが開催されてます。で、それを あの取り持ってくれた人がそのRで運動し てきた人たちでで、えっと、例えば ムつ子柄開発の村民とか、ま、ロック名と かいろんな、ま、ム戦の戦いに参加した人 たちがあの6箇所にっていうな形でその 半角年度に加わってきているし、例えば 東通りの、えっと、本当にここは長いあの 反対運動してるんですけども八の市民運動 の人たち労働組合の人たちが品の チラし巻き配布行動をしてそれが2年 ぐらいびっちりそのまらし巻き をするんですけどもその中でえっと繋がり ができてあの6箇所への怪奇の時の寿司 行動を知らぬかの民の人たちもして いただいたっていう本当にそのなんか見え ないところなんだけれども繋がりができて いたそういう時代もあるし、今もそういう ところはどこでもあるのかなっていう風に 思ってます。ですから特に青森県、ま、 県外からもですね、6箇所には多くの人 たちがあの 参加しで最初のうちは常にそこに地元の 住民がいました。で、大きな運動も大きな 運動の練りもあったんですけども、それで もやはり息子柄開発で土地を売り、漁業権 が売られて、ま、原発それから最初に各年 のサイク、サイクル施設がま、こんな にっていうか本当にすごい状態で作られて いったっていう本当になんでだろうって いうかなぜだろうって思うんですけどそれ でもうん。なんか見えてくるもちろんあの 私たちの力が足りないというかやり方が おかしかったのかうんとお金に負けたのか いろんなことがあると思うんですけれども えっと六カとか下置きを尋ねることで見え てくるものがあると思います。そういう 意味で是非あのバーチャルじゃなくて実際 に来ていただきたいっていうことも含めて あの次に進んでいきたいと思います。 で、一応これが三沢から6箇所へ今度は 移動していきたいと思います。でと三沢の 1番端っこの北端になるんですけど太地し 、あの射撃場でこれちょっと本当に木が 多くてですね、秋だとか冬に撮ると写真が 綺麗に撮れるんですけど、たまたまそう いう写真がなくて、これが監視灯で、この 監視灯の奥にあの的があります。で、これ は空から飛んできてこのに当てるっていう 訓練をします。で、ですからここではその ちょうど地域っていうかな、ここに ちょっとま、立ち入り禁止の看板があり まして、ここの田ぼにも本当は入れません 。ただもちろん持ち主は入れるんですけど 、立ち入らないようにっていうことで書い てあります。ですからこの辺の補射、あの 5爆とかゴ車というのはたくさんあります 。実際に平地区のところでもあの鼓爆で 被害を受けた方もいらっしゃいます。で ここもですね、あのその射撃場の移転の ために雨鬼って いうそのちょうどあの射撃場の近くの ところにある集落がえっとなんとし森って いう名前をつけてですね、その移転をして あります。ここも先ほど言ったようなの、 えっと、移転先と同じようにあの区画され た綺麗な立ってます。で、これはもう三沢 の端っこになります。で、えっと、三沢と その6箇所の間にある小川湖と高瀬川って あるんですけど、この端を抜けると6箇所 に入っていくっていうような形になります 。では6箇所に入っていきたいと思います 。で、 えっと、6箇所っていうとまず最初工場と か各年の施設っていうことになるんです けど、 六か村の婚用地帯絶対クレッションだと 思うんですけども、えっと、これはあの 今日進行してくれてるサワイさんが ドローンで撮った写真です。で、えっと、 手前にあるのが高箱の生。ま、ここはあの 若サぎとかエビ桜エビがよく取れるところ だったんですけどもとその上にここが最初 工場になります。で、そのこちらの方の上 なんて言うのかな?右側の方の奥の方に あるのがフランノ工場です。で、その奥に は今は風力発電が全部でこうその最初に 確念指鉄をこ取り込む ようにですね、全部で風力が92機あり ます。こな間だ100くらって書いてあっ たんですけど、なんか最初に92機になっ てました。なんで減ったのかがよくわかん ないんですけど、今92機の風力があり ます。で、えっと、こちらの左側の方に 行くと、あの、ちょっと見にくいかもしれ ませんけど、ブルーの小さいのがこうカ みたいなのがいっぱいあるんですけど、 これが国家石油備蓄基地51期です。79 年息子が開発でたった1つだけできた施設 になります。その後は土地をか、あの、 全部買いしめてはいたんですけど、産業 らしきものが来ないままに現状はこちらに なってしまったのが実態ですね。で、えっ と、備蓄基地のですね、手前の方にこの辺 なんですけども、今は広大な太陽光の発電 所が建設されてます。で、あの、本当に 親切なのかどうかわかんないんですけど、 ピチキチとこの太陽光のところの通りの ところにわざわざ展望台まで作ってあり まして、自由に見れるようになってます。 ですから写真を撮ろうと思えと最処流も 備蓄もそれから太陽風力っていう全体が ドローンでなくても取れるような状態に なりますので是非写真を撮りにっていうか うんをし見ても欲しいなと思います。 なか然とします。 で、えっと、一応ここにちょっと6箇所の 村民は、ま、国作っていうか、そのムつ柄 開発とそれから、ま、こっちが息子が開発 ですね。で、えっと、各年サイクルに、ま 、翻弄され続けたっていう、そしていつも ちゃんと抵抗する人たちがたくさんい たっていうことをですね、私たちは きちんと見てかなければいけないと思うん です。これがこちらの、えっと、左側の方 が1975年11月にあの小柄息子柄開発 に反対して、えっと、お母さんたっていう か魚民、あの、村民が集まって、えっと、 役場で購入し、竹内、その当時の竹内父が 、ま、あの、説明会に来たんですけども、 入れずに帰ったっていう時の写真になり ます。で、ここの本当に左端に立ってる人 がムつコが開発の時の反対をしていた小泉 さんとおっしゃる方です。で、こちらの方 はちょうど10年後になるんですけども、 あ、で、こちらの方はですね、6か所の南 地区の人達っていうかな、あの、南の方に よった平野とかクラ内っていうそちらの方 の人たちが主任になります。で、えっと、 右側の方は1985年7月。これは各年 サイクルの建設に伴う解気調査に反対して 泊まりのお母さんたちが玉業ですねの会議 室でみんなでそのっていう集会に参加して て、えっと、この時はこの方がよく歌が 上手で踊り踊れる方だったんですけども、 あの、買でえっと姿勢を上げてくれたで、 みんなやっぱりちょっと楽しんで るっていうか、そういう雰囲気思ったあの 漁師のお母さんたちだなっていう風に感じ ました。で、これがちょうど10年後の 確年サイクルでもこの人たちも、えっと、 開発の人たちもみんなどんどんその土地が 売られたこととか、ま、泊まりの場合は 選挙で許業権も売ったりとか賛成をして いく、あの、確に賛成していく中で、えっ と、みんな、ま、こうバラバラにな るっていうか、運動には参加しては、今の ところ参加してる人は少ないし、もう、あ 、もうほとんど買の状態にいます。でと こっからですね、青森県の原子力説はこう してけら上げられたっていう形でちょっと えっとこれはこのムつ柄開発の時の土地を えっと買う人たちがあの看板うん地だとか 不動産屋さんの看板とか旅行を募集してる のからいろんなこう写真があります。 もちろん反対の看板もあります。で、ここ に嘘と小しのムつ小柄巨大開発反対って いう大きな看板は寺下さんという村長さん のうちのところに立てられた看板です。で 、青森県はですね、えっと、ま、57年に ムつ生徒性ってあのムに哲鉄所ができる ことになってるんですけど、これも計画 倒れでこれは全くできませんでした。で、 1956年から67年は実はビート栽培 富士政鉄とこれは三沢の隣りにある6の っていうところでやったんですけど、えっ と、農家の人たちに一斉にビート栽培を、 ま、強制するっていうか、作らせ、砂糖を 作らせ、あの、作って、あの、どこのうち にも白砂糖がいっぱいあるっていうような 状況がありました。私も実は農家育ちで このことをよく知ってましてうち レモピート栽培をしたことがあります。で もあっという間にト座してしまいます。で 、倒産してでその後に来たのがその海電 ですよね。あの、田ぼを作れとで、みんな が改善に、あの、農家の人たちが改善を する。で、お米を作って、あ、ようやく なんかそれで生活ができると思った時には 今度は原端で買電にかかったお金は残って いく。なんか農業政策そのものも本当に おかしいなって思うところで私は育ってき ました。だからきっとなんかえなんだろ うっていうそういう疑問を思いながらも うちの母親には女将のに逆らってもどうに もなんないってよく言われながらあの 6箇所が用意した 1人です。で一応67人は本当に土地 ブームが起こってあの三井不動産まそう いうところがどんどん開始にきます。すみ ません。 はい。 ごめん。 何? 電話がなったの? あ、そうですね。 はい。 すみません。ちょっとだけあの、 LINEさせてください。 はい。ちょっと待、あ、ちょ、すいません。 23 分さん休憩にさせていただきます。申し訳あります。 はい。はい。 はい。ちょっとあの このさっきあの伊藤さんおっしゃったよう にあのあのえっとさあですがあの私も すごくよくあのいろんな学習会とか言って 聞かれたんですがあのあのどうして6科書 はそんな簡単にその最初工場に土地を渡し てしまったのかっていうことをですねあの 思う方が多かったんですね。で、それは ですね、この無償開発の時に土地の開始目 もあったんですけど、この漁業権っていう ことで、あの、それも放棄するっていう ことが同時に行われていて、え、その後に 各年サイク、その無双開発がして、その後 にあの、え、電磁連が入ってくるわけで、 その時にはですね、飲みの方は土地もない し、業件、漁師は業件も持 いないという、ま、そういう状態だったんですね。あの、そんなことを、ま、これからお話だきごめんなさい。 すみません。すみません。 はい。お願いします。 ちょっと自分を楽にしながらです。 はい。話の、えっと、 ま、あの、両方なんか比べると、あ、とてもいいなっていうか、こんなまた将来なことができないかなっていう風に思ったりして、この写真は見ます。 えっと、で、ま、えっと、さっき爽さんの 方からもありましたけども、土地は全部 返しら、あの、買われてしまって売られて しまう。で、 1971年にムつ子柄開発が発速して、 その当時寺下村長、寺下さん、力さって いう村長がいて69年からちょうど 73年1期だけあの村長をやるんですけど も、反対教 た村長です。で、ずっと長いですね。寺下 さんはよくあの言ったんですけど、開発は 強い人間をよりあの、ま、太らせるで弱い 人間より苦しめ、あの、弱い人間はより 苦しめ、あの、苦しめさせられ るっていうで財産とか学歴のあるものは何 、どこ行ってもできるけども、そうでない 人は土地と隣同士の支えがある。だから こそ暮らしていけるって。そういうことで 難民を作ってはならないとずっと言い続け て反対運動をし続けた人です。ですから そうですねなんかあんまりこうおしゃべり するな方ではないんですけど黙々とあの ずっと立ってみんなのそばにいる集会でも 何でも出てた方でしたですね。 で、あの、その時に村長は損の人たちをあの、鹿島の鹿島でない。どこだっけ?あそこはあの鹿島でいいんだよね。えっと、工業の開発 [音楽] コンビナト鹿島のコンビナトですね。 に村の人たちを村の予算で、えっと連れ あの見学に行くとかそしてそれもあの賛成 だけじゃなくていいところだけじゃなくて 悪いとこも見せるっていうようなこともし たんですけども結局損会の方で賛成派が 多くなってえっと73年の村朝鮮ではあの 古川伊勢松市にま破れてしまいます。で、 で、古川伊勢町は4期村重をしました。で 、その頃ですね、ごめんなさい。 厳選ムつっていうか、ムではその大都に 入ってくるとか、あの同時進行でですね、 小あの小原開発があり、厳選物があり、 そしてもう知らぬかの原発がこの頃騒がれ ている時期であります。で、74年には あの民打ち60%が売られてしまって、 えっと、土地代金が134億円。ま、この 時代で74年の134億円ってどんなもん かわかんないんですけれども、ま、損内の 村民に落ちたっていうか、入ってきたって いうことになります。で、ただ79年の あの開発では国家石油地区基地だけができ てでその後は一切何もできませんでした。 大きな稚業としては何もなかった。本業し たいところじゃなかった。で、それはあの 寺下さんとか米山さんっていう方が嘘 とごしの開発だって言ってたことがその ままになったという形です。で、この頃 ムツ子には1983年からはその港をです ね、基地のためにび地区基地のために使う 形で進むんですけど、今は最処理の最処理 っていうか年サイクルの関係の運搬用の 大きな港になってます。で、84 年に電気人用連が県に対して、えっと、建設の要請をし、よ、もうすぐ翌年にはもう件は受け、受け入れることを回答しています。で、えっと、実はここに内山木一郎さんとしさんお 2人の、えっと、一応写真を載せてます。 なんか仲悪いようにしてるんですけど、 なんか実は長件闘争訴みたいなことをあの 寺下さんがした時に米えさんが少し半を 振り合したていうかなんか喧嘩をしたこと があるとかっていう話をちらっとしたん ですけどもでも本当に村のこととか いろんなことをこう知らぬかもそうなん ですけども戦い を進める中で止まりもそう ごめんかずちゃん知らぬ顔東日が通りです ね。はい。東通りの原発に反対していた ところでもそうなんですけれども、あと 6箇所の止まり漁でもそうなんですけども 、あの、なんて言うのかな、やっていく中 でどうしても条件闘争的になってきた部分 がいくつか見受けられます。ですから、 それが本当に良かったのか悪かったの かっていうとちょっとあれなんですけれど も、その時に米山さんていう人はが本当に 頑固にこう自分の意見を通すっていうか、 ま、すごい人だったんだなと。米山さんの ことを買っただけ、あの話をしただけでも 1時間ぐらいきっといろんなことを話さ なければいけないという風に思います。で 、実は米山さんが25歳の時に若、和歌山 県に行って6箇所から行ってた条の ストライキを支援したことがあるんだそう です。で、その中に木村さん、沼さんって いう女の6箇所の方が2人いるんですけど 、さっきのあの 役場で女の人たちがいっぱい座ってるん ですけど、あの中の中心的に活動した人が その木村さんだったんですね。で、米山 さんが若い時に偶然なのかなんかわかん ないんですけども、その木村さんっていう その泊まりの泊まりじゃない、えっと、 6箇所の女の方たちとあって、それが 息子柄開発にも繋がってたと。米山さんは 本当に何かあると6か所に会をい詰めて えっと集落ごとにとか誰かのうちに行って 車本当に車にあって話をしてこの開発は おかしいんだっていうことをずっと解いて 歩いた方です。で、もちろん寺下さんも 同じように尊敬を、あの、村長は1期しか やりませんけども、その後もずっと開発を 出してはいけないという本当に6箇所の ことを考えて各年にも反対してきたお2人 になります。で、で、ちょっとこれがです ね、ちょうどムつ子が開発の時に新屋って いうところと高っていうところとあとどこ だっけ?なん、あのムツ子が開発で全部の 地域がその土地を打ったわけではなくって 信内屋っていうところとそれからあの主な とこて言うとどこなんだっけ?えっと ちょっと待ってね。息子柄開発では、あ、 その今最終工場が立っているあの矢坂隊 っていうところと高とかその地区で土地を 売ってるんですけども、その信屋に小泉 近吾さんていう方が住んでまして、実は 最初から最後まで絶対自分の土地を売ら なかった方なんですね。ですからここで 全部で50個くらいの人たちがあのしあの 信内の土地を守るかいっていうのを作って 反対をしてそうじゃない人たちは最初に 移転をしてるんですけど本当に最後までっ ていうか1980年頃まであの 本当に完全にあの回っていうかにならない 1番最後まで残ったのが信内なんですね。 で、そこの人たちが実は小泉さん1人に なったんですけど、その50個の人たちは あの開発の時に新宿というか集団いての ために6箇所は千歳、あの千歳っていう 集落を作ってそこであの移転先として 大きなま、住宅を作、あの住宅街っていう か地区を作ってるんですけどそこに実は 新年の人たちが全員移転できなかった んですね。で、その後に実はうん 50個が新庄っていう 30なんけの人たちがその重 新宿区じゃなくてごめんなさい。 新獣区の移転ではなくってその一部の最後まで反対していた人たちの一部の人たちが新所らに移転をするんです。 で、実はここに神社があるんですけども、 ここの神社がですね、えっと、泉田稲神 神社って言うんですけども、新屋の人たち がうん 、 あの、 なんか言葉が出てこなくなった マイオルキングさんか神楽 そうです神楽です。 はい。で、をやってて、小泉さんもとっても上手な方だったんですね。で、その神楽もその地域が分散をすることによってずっとできなくなってたんです。 で、実は 2022年にNHK でですね、離れても心は 1つ6 箇所村っていうので風雪に舞う人々っていうので特集を組んですね、えっとこの神楽をテレビで放送したことがあります。 で、ムツ子柄開発と、そのそこでバラバラ になった人たちが22年で何十年に初めて 神楽を一緒にできたっていうことをあの 放送してたんですけど、本当に村の人たち がここは金さんは1人残る。の地域の人 たちは2箇所に分かれて神楽ができなく なってたっていうその本当になんだろう 開発っていうあのそういうものまで全部 壊していくっていうことをあの後にする ようなその特集をま組んでたてかその当時 やって欲しかったなと思うんですけど今に なってその神楽の放送をしてました。 えっと、あとここにですね、ま、金さんは あのこちらですね、新屋のこの開拓。明治 6年に新屋っていうあの地域はできたん ですけど、今は小泉さんの位置があるだけ で、この泉田神社を、え、近さんたちとあ 、開発に反対してきた人たちが守ってき ました。で、えっと、実はここに1人 向かい中野さんっておっしゃる方がお縁で 、お縁の方の役場の隣近くなんですけれど も、ここは息子が開かずに、ま、関係な いっていうか土地は売ることじゃ、あの 対象外だったんですけども、彼は開発に 反対をして、えっと、ここに住んでて、 ここの今ちょうどもう なんていうの分かるかなと思うんですけど 、これが看板が立ってたんですね、今 もなくなったので誰も看板の手入れもして くれませんし全部も で覆われています。でここにはずっとです から小柄小柄開発の反対の看板各年の看板 がずっと立っていました。で、彼、彼は ですね、家族の人とか親類の人からも全部 外せと言われても最後まで、えっと、外さ ず死ぬまで、えっと、ここには看板があっ た方です。で、行く。あの、私たちが行く と必ずあの、なんか食べるとか、周りに ある3歳を持っていけとか、いつもそんな ことをして、あの、集会とかそういうに 出る方ではなかったんですけども、あの、 訪ねた人や大きなと集会みたいなのがある と裏から来てとか選挙があるとここのバス 停のところで立って何かをくれて、あの、 みんなに手を渡してくれるっていうあの方 だったんです。で、こういう方がその 信内屋の奥にとかやはり、えっと、 反対運動の数を減ってたんですけれども、 何人かの人たちがあの、やはり各年のこと も一緒に戦った人たちがおりました。で、 えっと、で、次はですね、で、よいよあの 、ま、施設の立地の反対運動が始まっ たっていう形で、その83年に中園が下北 半田を原地のメ下に行って発言をして、 それ以来、ま、あの、この頃はもうまだ 労働組合とか政党とかいろんなところが 一緒になって、市民団体とか一緒になって 、いろんな運動ができた時代ですので、 えっと 85年にはあの条例制定ま、県民の一票 あの投票でその受け入れを決めろっていう 請求、あの制度の請求、制度請求の署名 運動を始めました。でここの上にあるは 6箇所の方々です。6箇所を先に集中して 証明活動しました。 で、この時にかたくさん集まったはずなんですけど、そしたら次の日にはもう県知事とか、えっと衆議任議員が来て、 えっと、該回答を宣伝をしておりました。ご乗車ください。ご乗車になりますの中ほの方までおめください。車内中ほどの方までお進りください。 んはい まもなく東急行きが発車いたします。第口からご乗車お願いいたします。 すいません。どなたか、えっと、ミュートでお願いいたします。 はい。はい。 はい。ごめんなさい。はい。 はい。 で、この証明は短期間で行われましたけど実はえっと確か 6箇所で3000 ぐらい集まったと思うんですね。 で、ちょっと詳しい私今ちょっと手元に ないんですけれども、最終的に、えっと、 書いた人から100名所の書き止めで、 えっと、取り消しの漁師が届きました。 書き止めで全部印刷とそれからあのドイツ 文書でっていうつまり締め付けをしたん ですね。で、そういうことが本当名の時に 行われてます。で、えっと、実は下の ところにある写真はその時の県と県の全員 協議会で受け入れを決めた、えっと、85 年の4月9日の日の、えっと、南で講議し た時の写真です。で、その頃は農業者の人 たちもあの一緒に反対決議をして、ま、 確念に対する運動は大きく盛り上がった 時期です。ってこのようにですね、えっと 、農業者の人たちはむしろ端で集会とか それから年部の人たちは看板を作って県内 に設置するとかで朗読組名というか神党 さんつまり6箇所含めた労愛のその私がい たとこの地方路ではですね6箇所村損を 全部で10何箇所回答をしながらあの改を して今日学習会がありますみたいな形で、 えっと、地域地域での学習会を全部で19 回、この頃やってます。で、もちろんあの 6箇所だけじゃなくって、この頃八戸とか 三沢とか上北町とか農業者も含めての講演 会とかが本当に数多く行われております。 で、ここを中心的に広瀬さん、広瀬孝志 さんが行ってくれたんですけれども、えっ と、市川佐尾さんとか水口健也さんとか たくさんの人たちがやっぱり6か所なり 青森に入ってきて各集会をしていただいて おりました。で、これはあの、あ、今行動 ですね。ちょっと誰が来た時の写真だけど 、PRセンターにうん。 北電池連カと来た人の写真だったと思い ます。各のメモのちょっとわか忘れたので えっとこんな形で村民の人たちがまし たっていう形になります。で、あとあの 1988 年には今あの現告団あの主催でやってるんですけども 88年の8月6 日にえっと原国団が結成されてみんなでこれは確かこ国のうんとこれあの意義もうん鍵長の前だ 議長の前ですよね。で、この頃6箇所の 方たちも、えっと、お2人3人 いらっしゃい、あ、3人4人いらっしゃい ますね。で、えっと、みんなで、ま、よく して弁護士た、あの、田さんとかも いらっしゃいますけども、行った時の写真 です。え、このちょっと1個前に ん、 戻して、あの、 はい、1 個前に戻して、あの、この皆さんにこの 83と84、85 って見ていただいたら分かるんですけど、これ全部チェルノブ入り事故の前。 あ、そうです。そうですね。はい。 それでね、あの、受け入れてですね、あの、受け入れてしまった後にですね、 1年後にチェルノ 86年 4.26 でチェルノブイル事項が起こってですね、そのすごく県内の反対運動がものすごく盛り上がっていくんですよね。 そうですね。うん。 はい。 そのことはね、私ちょっと触れてなかったんですけれども あ、あの実はその 4月の26の鶴のびの事故があった時に 泊まりの 戦いというかあって 母親の会ができた日がその日だったんですよ。う ん。ああ、そうな。 そうなの。うん。 あの、隣のあのお母さんたが子供をる母の会を作った日が偶然にも 4 月その上の事故があった日でみんなでえっていう何が起こったんだってみたいなことを泊まりで知った の覚えてます。ああ、 で、隣のそのお母さんたちが [音楽] 母親の会を作ったのは実は広崎にある母親の会の人たちが泊まりにえっと何回かあの学年のことを知って欲しいっていうチらし巻きをしててその繋がりで母親の会ができたっていうのもありました。 [音楽] で、実はさっきあの コンサートの話をちょっとしてたんです けれども、あの三沢の援をした人たちがっ ていうで実は85 年の8月、これは落農家をしている佐々木 さんとおっしゃる方がいて、その方が代表 になって、えっと、 ちょうどそうですね、南側というか、西と 6箇所の中でもま南側にあたるえっと山手 の方っていうか太平洋側じゃない奥の方に 開拓の地域があるんですけど初森それから 商内全部その移転をしてきたののの開拓に 入ってきた知名なんですけどそこにある 楽能家の人たちが若者たちが中止になって えっと各年に頼らない村作りをするって いうことで俺たちは楽能で生きていくって いうことでのコンサートを開いたんですね 。で、その時に、えっと、友川和とかあと 三かっていうあの人が来てこうあの コンサートをやったんですけども、その 佐々木担当をしたら代表の方が先月の えっと8月のですね、11日のデイリー 東北に6箇所は豊かになったのかっていう そのコンサートをやった、つまり40年前 のコンサートのことを企画した佐々木さん にインタビューをして記事になってました 。彼はやっぱりあの時は間違ってなかった と。で、彼は実はですね、その初森って いう地区が本当になんかあれなんですけど 、三沢の基地の騒音のためにえっと実は1 点をしてるんですね。全部に落のこ あったのかな。その初森りからその全部 それぞれバラバラに移転をしてえっと楽納 した人もいればそうじゃなくってもう普通 にサラリーマンになった方とか三沢に来て いる方とか問技にいたとかあの色々で本当 にこの時に落能していた人たちが今も落能 している人が45人しかいらっしゃらない と思います。で、代表してた佐々さんは、 えっと、隣町の七の部町っていうところで 現在落能をして息子さんが後をついて一緒 に落納をしています。で、その時の コメントをやっぱりおかしかったっていう か、ま、これは間違ってなかったみたいな ことをちょっと載ってますので、是非字が 小さいと思うんですけど後で見て いただければと思います。で、あと、えっ と、皆さん多分ご存知の方多いと思うん ですけど、キッカーけ子さんは1994年 に、あの、その前から六下市に戻ってきて 、えっと、チリップも祭りやったりとか、 ハーブの裁判をしたりとかっていうんで、 えっと、県内からの人たちに、ま、あの、 情報を提供したり対応をしていらっしゃい ます。で、これは今年の5月の時にあの 原水金がツアに来た人たちにお話をして いる写真です。で、あのそんなには もちろん確年だけじゃなくって農業をやっ てる方も業をやってる方もいらっしゃい ます。で、ただどんどん減ってます。 えっと、200個、ま、専業の他は100 ぐらいで楽のも50個で漁業については もう本当にあの全国的な問題ともあるん ですけど量がどんどん減ってますのでただ それでも確年マネによる助成金があります 。例えば落してるたち には牛者の関係だとかそのま、どんな保証 の仕方をしてるのかちょっとあれなんです けどもあの助成金が入りますしもちろん楽 の以外にあの農業とか楽のに家族の人たち は専業にしてるわけじゃないので全部確に 関わる仕事をしている方が多くてほとんど もう どこの家族っていうかなうちにも全く関係 ないっていう人たちがどんどん減ってると 思います。ほとんどないような形になると 思います。で、これはま、さ、あの 漁教の今噴旧と会気調査の戦いってことで ちょっと写真を載せてあります。84年の 5月から、ま、あの、原連産業が会長とか 会役調査のために海をどうしても調べ なきゃいけないっていうことで 許可が必要なんですね。それによって実は のが本当に総会で何度もあの流会をしたり とかあのこんな感じでドタバタしたりとか いろんなことがあって逮捕者を出すなども ありまして噴し続けます。で、1番最初に あの6のお母さんたちの写真を載せてたん ですけども、あれは泊まりのお母さんたち が会機調査に反対し、あの漁業の総会の時 とか、あのそういう時にみんなに座り込ん だっていう形の写真でした。で、えっと、 これがですね、85年の、ま、80 、ま、会機調査のことで確念に反対する ことによって、えっと、85年の12月の 村朝鮮を泊まりの魚民の人たちが泊まりが 中心になって村長も戦うんですけども、 その後86年の6月2日に怪吉が強行され ました。で、前夜です。夜中の12時頃の 週だったかな。えっと、泊まりの完璧を急 の完璧にみんなで座り込んだ時の写真です 。このように機動体がえっと立っています 。で、これは海の中に公案のえっと 船が出てで逮捕された人たちに対する行動 をしている写真です。真ん中にいるのが 衆議院の関れマスで朝室についてあの建国 団の代表している団長してる朝一さんで この方が今日の組合長です。うん。で ちなみに私この中にいるんですけどきっと 誰もわかんないだろうってさ自分でも わかんないって言ってましたけど私が座っ てます。はい。 で、えっと、6箇所の村朝鮮です。これは 寺下さんの選挙からあのちょっと書いてみ ました。寺下さんは69年の先ほど言った みたいに1期だけ村長やってるんですけど もその後2回村朝鮮に挑むんですけど破れ てました。でその後の1985年の12月 に先ほど言った泊まり農業教の組合町で ある滝口さんがえっと村朝鮮にま戦うん ですね。で、泊まりで大体1/3ぐらいの あの、あ、あの、なんて言うかな、1/3 ぐらいの 損味がいますので、この時はかなり 盛り上がったっていうか、本当に悔しい 選挙をした 選挙です。で、お母さんたちが一生懸命 毎日あの、ま、12月の選挙なので本当に 寒いんですけど、それでも朝から晩まで チラシウをしたりとかこういう風にあの 逆場での座り込み、あの誰が選挙に来る かっていうか全部チェックしながらこう うん、 座り込んだり、それからこれ役場のマで ない通りですね。あまりの中心外で該当を やってる時にみんなで撮った写真です。 で、でもま、滝口さんの選挙の後ですね、 1985年の後に次にえっとごめんなさい 。 89年の村朝鮮は、えっとと公約に 各年凍結を訴える土田ひしさんっていう方 が出場をするんです。で、この時に泊まり の中でえっと、ま、毎選挙負けてるしどう しても勝ちたい。そんな思いもあったりと かで、その凍結でもいいのでっていうに 泊まりの今まで反対運動してきた人たちが 本当に別れて身分されます。で、それでも 癌としてその推進で反対をしたいっていう ことで高な鳥蔵さんってこの方が村朝鮮に 立していただきました。ですからすごい 少ない一挙に少ない人数の中での選挙戦を 戦ったんですけどもこの時はえっと全国 からの支援を見ながらえっと全国から いろんな人たちが来県からもという形で 89年の選挙を戦ってます。ただもうその 時には泊まりの村っていうか、泊まりの 地区は本当に2分っていうか、今まで一緒 にあったお母さんたちも全部がその凍結に 行ってしまった形で次への運動が見えてこ なくなった時でもあります。もちろんその 怪気調査がもう受け入れをしてしまう形に なって運動がどんどん減っても来ていまし た。で、それでもその後ですね、父は泊ま りっていうか6箇所の選挙を1993人に は高田さんっていう方がえっと2期挑戦し たのかな。で、梅北洋子さん、キッカー さん、遠藤さんとか山田さんとかが立候補 し、今まで無競争ではなく村朝鮮を戦って ます。で、その時の中心的な役割を果たし ていたのが種一の坊さんていう方です。 で、自分の家を最後の何回かはもう他のうちが選挙事務所になるような形で、えっと、提供し無争 2章はしたくないってその1 つで、えっと、ロ科のこの挑戦を戦っても言してくれる私が全国でも全 それでもえっと表どんどん減ってます。 300ぐらいかの最後は 万ぐらい そんな形ですね。 で、 全国選挙 全国選、 あの、そう、高さんのと全国選挙でした。はい。で、ま、今はあの本当に護者を要立することもなかなか難しいし、それでもあの谷さんは強くもう頑固に選挙は無争にしないってあの頑張ってきました。 [音楽] [音楽] その谷さんも去年の11月10月か なくなりました。で、えっと、あとで、ま 、施設とか、ま、建物とか施設の建設とか 商業がで、いろんなところでの、ま、集会 とかは、ま、ずっと続けているんですけど 、村民の姿はもう人数本当の数人のみで 例えばあの、寺田さん生きてる時は寺下 さん、種一さんがいるとか本当に数少ない 人たちの中での集会で全国とか県内のロ名 とか市民度の人たちが集まるような集会が ずっと持たれてます。で、1988年に欄 の、ま、コードの着行から最処理の着、 それに対する、ま、あの、建物を立ててる ところでの集会とかいろんなことをしてき ました。で、これはですね、1995年4 月に高レベルの放射性廃棄物が搬入された 時、ちょうど雨が降ってですね、その雨に 当たった途端、ま、高熱を走って湯気が 立たれるって本当にすごい写真が撮れ たっていうか、あ、こんなすごいんだなっ ていうので、あの、いろんなところで使わ せてもらっている島田さんが撮った写真に なります。もう皆さんもこれは何度も見 てるかと思います。で、えっと、次です。 はい。え、今の格ネロサイクルの施設です 。これが最種工場の成門あの門ですね。 西門もあります。それからムつ柄 でこれは塩済み燃料 とかが入ってくるところのえっとこれは何 だったっけ な?何て言うんだっけ?あ、あのクレーン クレンだね。はい。 クレーンですね。クレーンとこういう風につでもあの船は え、うん。150t クレンですね。大きい。 そうですね。大きいやつですね。で、下の方がウ場の専門になります。 [音楽] で、今は各年サイクル6箇所にはあの最 処理工場とそれから裏納縮場低レベルの えっと埋接センターに高レベルの一上施設 あの木の加工向上っていう風に建設がされ てますけども最初にはあのご存知のように 27回の延期でえっと一応27年3月には 進行する予定です。どうなるかはちょっと わかんないんですけども。で、も同じよう に10年に着てるんですけども、延期して これも27年にあのやるっていうか完成 予定です。で、今えっと私はあの放射能の のこととかその専門的のことはあんまり 得意ではないんです。よく分かってないっ ていうか、何回聞いてもわかんない本当に 。え、放射のべくれる。ん、じゃ、どうな のとかっていうと苦手なんですけど、ま、 皆さんのホームページとかでそのところで 見て欲しいなと思います。で、青森県には あの今のゴミが続けておりまして、低 レベルのま、えっと廃棄物の前説センター には と37万ですね。37万5619 本。それからウランレベルの法レベルは 1830 で、えっと最初の方はあのアクティブ地験 であったガラスコ体が346本ていう風に もう それからムの厳選はあの 原子郎かなそれが1つありますしそれから 東通りにもえっと廃棄物があります。で、 ムの中間はこれまで、えっと、建物だった んですけども、せ、あの、た、まだ入って なかったんですけども、去年の11月に 69本、えっと、1のキャス君が入って ます。1本のキャスが入ってます。で、次 は11月頃という予定なんですけど、まだ それも見てないようです。 で、えっと、あとなんか最初のこととか、 あの、ウラ工場、あの、乱工場とかの方も あれなんですけども、実は最初の隣の、 八坂方っていう敷地の大きなところにいつ の間にかいろんなその関連事業の建物って いうか会社が つります。で、1つは、えっと、6箇所の 、これは最初に工除に行く途中にあるん ですけど、6箇所のなんだ、6箇所の ソイル、あの、ソイルセンターの土上の 洗浄をするっていう、ちょっと詳しくは よくわかんないですけど、こういうのが できてたりとか、あと核融合の施設も今 できております。関連の施設が3つぐらい あります。それと、えっと、 その他にはですね、あの、本当に たくさんの、えっと、関連事業が 気をつれて社かと思います。で、その他に 風力とが太陽光発電に関わる人用所も、 あの、その式地の中にあります。で、今 先ほど言いましたけど、風力が92期。 太陽光の発電は3発電というか3者大きな 会社が3つ入ってて、えっと、 16万8000KW の現を作ってるっていう風に言われてます 。こんな感じで6箇所はいつの間にか本当 に大きな施設とか建物が立っております。 で、時間があれですね。なくなりましたね 。すいません。 あと東とか関根ね、無通感受蔵の関係はえっとじゃはってしまいます。あの皆さんの意見の方を大切にしたいなと思います。 ざっくりざっくり ざっくりとえっと先ほど言いましたように東もムつもそれからえっとム小柄開発それから確念なんか同時進行で下北タ半島はあの隠化されていったなっていう風に思います。 [音楽] で、これは20年、去年の9月の20だと 初めての中間使用済み燃料が入った時の コミコードの写真です。で、えっと、これ はとムつ厳選のあのムつ厳選が関根浜に、 あ、大港にから出ていって、あの、こうし たあの、漏れをしてで、また戻ってくる という時にあの関根浜にぼを作るっていう ことになってたんですけど、それに抗議し た時の1982年の仲間の写真です。 この写真はあの原生物のえっと 真ん中のあの接したとのあの あれ うん。 えっと原子炉 そう原子炉残すためのあの 施設を作ってる。 施設っていうかそれ原子炉運ぶ時のこれあちゃんあの科学事間に運ぶ時の写真で翻業してる人たちがここにいるっていうような写真です。でこれが現在の関根浜光です。 [音楽] で、えっと、ちょっと高台から見える木の 影でようやく見えるんですけれども、えっ と、船が入ってきて、さっきの塩済の キャスが専用道路で運ばれて、ここの中間 貯蔵の施設に入るという形になります。で 、えっと、ここにちょっと、ま、東通りの あの反対運動ってなかなか皆さんに知らせ るっていうか、知らされる機会がなんか 少ないんじゃないかなと思って、えっと、 ちょっとメモしてみました。あの責任通り の白ぬか地区っていうところにあの全の チラシを毎週行った人たちがいるってお話 をしたんですけれどもその時えっと 知らぬかの臨時総会っていうのでま ずっとその反対その東の原発に反対すると かそのていうことがずっと揉められて10 年ぐらいの戦いをしできてるんですけども 、9時に年々知事の発戦で業務保障額が 高くなってで、その時の臨時総会で実は 141票対361票で負けてしまうんです ね。で、よく見てるとの専業、専業量子 って言われる先週の人が150人ぐらいで 、こう133人の組合のうち専用してる人 が150で、残りはデカセとか サラリーマンで、ま、量子を実際にしてい ない人たちが海を売った形になってい るっていう。してよく見ていくとこれは 例えば責任でも6箇所でも同じことでそれ で各年のあの会機調査の受け入れ量を受け て受け入れたりとかですね。そういう地 で業権を打ってしまっているっていうのが 今の日本の漁業の現状だっていう風に思い ました。で、もう全国どこでも同じような 形で業務を専用にしない人たちで持って いる人たちが海を売っているなんか本当に 虚しっていうかその国作っていうか農業も そうなんですけれども行用もそんな形で その業件を売ってしまってで 東原発とかそれからのあの関根浜の暴法か それから中間鉄道の施設とか大の原発が 同じような形でできていったっていう構図 がそのこの青森県の中で全体が見えてくる ような気がします。で、反対運動は もちろんあの6箇所とか確年にも連休はし ていってるんだけどもその やはりどうしても負けてしまってい るっていう構図があるのかなっていう こんなところにあるのかなって思います。 で、えっと、これは現在の大馬の、えっと 、大馬原発です。で、これが防災公園って いうところからちょっと話題の方に上がる とここに全部見えてきます。で、朝子ハウ スってずっとあの途中占いで頑張っている お 熊さんか朝子さんの娘さんが今あ子さんと いう方がそこにいてえっと頑張ってるん ですけどその方の多分朝がこの建物の建屋 の前の方かな後ろ後ろ 後ろ側かなこっちだよね。100mうん。 うん。この辺にあります。で、あの彼女は自分のそのうちに行くのに専用の道路をちゃんと持ってて、え、入り口にはガードマンがいてっていう形でおります。で、えっと、これが朝子ハウス。 それからこれは今年のオーマグロックの写真です。で、真ん中にいる方は超活動の反対して下北っていうかで頑張っている栗は橋さんとおっしゃる方です。 で、こちらは、えっと、あえて風景のいいところを移して才能仏が裏の写真になります。で、これを見ていただくとなんでこんなところにおま原発があるのか本当にここから 20kmないですよね、きっと。 うん。うん。 こういう地形のところにこの大きな原発があるっていうま、日本みんなそうなんですけども、本当地震とこの半島っていうところに原発があることに本当なんかやっぱりおかしっていう風なことを感じます。で、一応大体こんな感じでえっとその他にですね、ま、昔の最近の写真ってセラっていうことでちょっと載せてみました。 [音楽] [音楽] これはあの当初に県庁前で反出をした時の写真。 うん。 これは裁判の高木ちブ郎さんがあの承認調べをしてその後の記者会見をしている時の写真です。 [音楽] で、これは本当に小さい金5月の13なん ですけど、今核のゴミから未来を守る青森 懸備の会っていうので本当に核のゴミの ことをきちんと守れよとあの レベルは最終書しない返せって約束してる んだから返せっていうようなことをあの 運動のま柱にしてまして国と事業者との ヘアリング集会を国会で行った時の写真 です。で、これはですね、ちょっと何年だ かよくわかん。うんと高 じゃないんですけど、6箇所の、えっと、 高橋八鳥さんで村朝鮮に聞いた方で、この 方が楽やってた安田さんていう方、それ から許業をやってた酒井さん、それから 農業で頑張った小泉キ吾さん、えっと、4 方がその4角での4.9の集会に出ていっ た時の写真があったのでご紹介します。 くれからこれは本当にこれも古い写真なん ですけど多分1975年頃だと思います。 米山一郎さんが三沢で、ま、ま、いろんな ことあるRとかいろんなことをしていた、 えっと、若者たちを囲んで、あの、ま、 飲んでるっていうか米山さんを囲んでお しりをした会の時の写真です。で、ちなみ に、えっと、学校の先生がおったり、 新武記者がおったりとかとその他に、ま、 いろんな方がいて、えっと、ま、何らかの 形で関わっていていうことでちょっと載せ てみました。で、これは、えっと、広崎の 母親の会、各年前の、ま、デモ更新を ずっとやってた、えっと、母親の会の最後 の315回最後で、ま、最終のデモの時の 写真です。それから、えっと、ここが今年 の大馬のマグロックの写真をもう1枚 ちょっと載せてみました。それからあの 県民の会の6つの中間貯蔵の県地集会を やった時の去年の写真です。で、去年の 11月に実は青森で核のゴミを捨て場に するなっていうフォーラムがあって、その 時にあの今までの運動のことだけじゃ なくってこれからのま、みんなの力で 青ましい青森りを作ろうっていうテーマの パネルスカッションしてその時にあの 、ま、最近年を取った人ばっかり集会に出 てるんですけど、たまたま若い方でなんか 面白いことをしているっていうか、新しい ことを取り組んでいる板橋さんっていう方 がパネラを務めてくれました。なんか そんなこともちょっと新しい形で、えっと 、反原、反念っていうその運動の若の中に は入ってないんですけれども、でも自分 たちが住い青森なり自然を大切にするとか 自分たちの生き方を見つけてそのそれでも こういうフォラムに参加してくれた人がい たっていうことでの紹介をしたいと思い ます。で、えっと、最後、これで最後です ね。はい。ちょっと待って。これは単日の 防産って先ほど えっと24年にお2人ともなくなってるん ですけれども書でずっと反対運動してきた かそれから青森の波岡でえっと知事選挙に もあの出場をしてくれた平根領立んと えっと2人がたまたま一緒の時がありまし てその写真を載せてみました。金一さんは いつも習慣があるとこんな形で1人で ドラマを叩いたりとか、あ、ドラム感だか これドラム感を叩いたりしていました。で 、えっと、去年の12月に、えっと、この 、ま、抵抗の後数少なくっていうことで デイリーさんがその他さんのことを書いて くれた記事が載ってあります。で、今も さんのうちに実は誰も住んでないんです けども、えっと、娘さんが 同じに住んでいる、近くに住んでる娘さん が管理をしてくれまして、やっていきたい なと改めて改めて私も思ってます。だから 地域に運動はなくてもやはり1人1人の ことていうか自分も含めてですね、うん。 どういう風に関わっていくかというか、 対話をしたり話をしたり、えっと、 いろんなことを楽しみながらそれでも おかしいっていうことを伝えていくことを 、ま、やってかなきゃいけないんだろう なっていう風に思ってます。で、えっと、 長い間にか変わってきて、やっぱり変わっ てるなっていう全然違うその朗読み合いと かそういうところがあった時はそこにこう みんなが集中したけどなくなった時に じゃっていうじゃ私たちやっぱり1人1人 だり組織を作るっていうこともすごく大切 、あの大変なことだっていうことを感じ ますので、えっと、それをどういう風に なんていうのかな、組み立てたり作って いくかっていうことをみんなが協力して いかなければいかないんだ。あのいか なければいけないんだなっていう風に思い ます。で、ま、あの、今回この資料を作っ たりいろんなことしてて改めて米山さんと か寺下さん、たさん、ま、それだけじゃ なくってこの名前が出てこなかった人たち でも本当に数えきれないくらいの人たち から学ぶことが大きいし、学ばなければ いけないしで大事にしてかなきゃいけない んだなっていう風にで、6箇所って やっぱりすごかったんだなって思うのは 全国の人たちがそれもすごい人たちが たくさん来ていたし、新聞記者もそこだし 、本を書いてる人たちもで、それに関わる 本だけでも山ほどあるっていうで、でも それをきちんとその 関わってきた人たちのそのチラシ、本 なんかよりもチラシ1枚とかえっとその人 たちの関わってきた人たちの一言一言って いうかなメモがとっても大切なんだていう 風に改めて思ってます。で、確かにあの 各年のこととか放のことはもちろん怖い ですし、あの 大変だなと思うんですけども、それよりも なんか住民っていうかな、地域とかそう いうことがどんどん壊されてきた。で、 権力に負けてくか、あの、負けざれを得 なかったっていうか、そういうことの方が もっと怖いんだなっていうことも改めて こう思ったりしております。で 、最後になるんですけども、あの、えっと 、 なん、何だっけっていうか、 ね、高木さんがちょっと書いてあることで 、ま、 け、うん、電源の方かな。ちょっと ちょっと待ってくださいね。うん。 うん。なんか、あの、推進する側は技術が 進めば将来放射の廃棄物の問題は解決する のではと進歩を信じてる。例えばその ことを言ってるでも未来をどう想像するか によって問題っていろんなことがあるんだ よねって人が育ってきた環境やちょっとし た経験で大きくこう左右されていくって いうことではないのかなと本当に そういうことをきちんと伝えていかなけれ ばいけないのかなっていう風に思ってまし た。うん。あの、最後ちょっと取り止めな いっていうか、どういう風にまとめたら いいのかあれなんですけどもう あ、あの、いろんなことを見ながらいき たいなという風に思ってます。なんか、 あの、とりあえずはい。よろしいでしょう か。はい。あの、どうもありがとうござい ました。長い。はい。 すいません。レコーディングはもう終わり ます。それで、あの、えっと、今日のこの 伊藤さんの資料、今皆さんのところには チャット欄に入れてあります。後でホーム ページの方にもあの掲載いたします
▋▋▋核燃基礎講座(No.12)Zoom学習会▋▋▋
「バーチャル下北半島ツアー」
日 時:2025年9月22日(月)
案内人:伊藤和子(核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団運営委員)
進 行:澤井正子(元原子力資料情報室核燃料サイクル問題担当)
六ヶ所核燃料サイクルを中心に、下北半島の過去・現在・未来を見つめます。
案内人は、青森県三沢市生まれの伊藤和子さん。
六ヶ所巨大開発闘争〜核燃料サイクル反対運動などの過去・現在・未来。
さらに米軍三沢基地を中心に軍事要塞化する下北半島と青森県の現状など、
リアルな下北をご紹介します。