兵庫県相生市ほんまち商店街3 アーケードの建設 商店街の黄金時代 【兵庫県相生市 松本恵司】

この通り自転車がたくさん見えてますが、 あ、いは埋めた地で肯定差がないので自転 車がね、大変便利な町でした。昼間でも 自転車がたくさん生ききしてますが、これ が造船所の通勤時間になりますと、この道 いっぱいに何千台という自転車がね、列を 出してざっざと通っていきます。朝は7時 半頃にここを通って造船省に行きます。 帰りは5時に同線書を出て5時半頃にここ を自転車部隊がざざと駅や家に向かって 行きます。その自転車部隊が通ってる間 ここを渡ることができませんでした。だ から私とこの家ね、東川にあったんで、 西側に遊びに行った時はその時間を見立っ て家に帰っておかないと増所から帰って くる自転車の行列が通りすぎるまで通りを 渡って家に帰ることができませんでした。 そういう昼も夜もたくさんの人が自転車で 動き回ることを前提にしてこの商店街は 成り立っていたんですね。前後焼けうどん にホルモンを掘り込んで食べるホルモン 焼けうどんが考え出されて私が子供の頃 相酔いの町にはホルモン焼きうどん屋さん がたくさんありました。 ホルモン焼きうどんというと蓄産が盛かん なところに発達するんですが相いは全く別 のルートで発達したホルモン焼きうどんで 同線書で働く人たちのために安くてお腹が いっぱいになるもんということでホルモン 焼きうどんが発明されて発達しました。 あいの町の食べ物屋さんってね量が めっちゃ多いんです。でね味が濃いんです 。なぜか増でね、働く人たちはたくさん 食事を食べますので量が少ないと着てくれ ません。それと増染症では夏暑い時にはね 、塩を舐めながらでもお仕事をするので 濃い味にしないとお客様にね受け入れて もらえないんです。だからあ酔いの街の 料理は最近はねいぶその傾向なくなりまし たけどもうこの頃は休むで量が多くて味が 濃い。これがね、あ、の料理の特徴でした 。同じく1962年のアーケードの建設 です。 アーケードの工事が進んでいることが 分かるかと思います。商店街の中野の西側 の列は南から丸1食堂石原の主芸店本 の電気屋さん橋本のミ屋さんそして消防 自動車の倉庫があって佐藤さんのお酒屋 さんがありました。丸1の向こう側は朝日 会館というパチンコ屋さんでした。 パジンコ屋さんは海金橋から本町商店街 まで片手で余るぐらいありました。 スマートボールやっているお店もありまし た。で、この写真を見てここにわンこが 映っています。多分お酒屋さんが買ってい た黒ですね。この頃犬の話しがいが結構 多くってパン屋さんの次郎とかね、酒屋 さんの黒とかね、みんなお黒今日も元気か って感じでね、犬と一緒に生きてましたね 。その後ね、海犬をつぐ条例ができてこう いう話はしてはいけないということになり ました。1965年中学校1年生の時です 。家庭がお風呂をつけるようになって、 そのお風呂も薪や石炭で炊くお風呂から ガスで炊くお風呂に変わって、うちの父親 はガス工事や水道工事の免許も持っていた ので、お風呂を作ってガス工事、水道工事 まとめて引き受けてちょっと儲けたみたい です。お店の名前も松本桶店から松本風呂 政作署に変わりました。スバルサンバーの K4を買いました。お店の外観も対象時代 のままでは3ともないということで化粧版 を張って見栄をよくしました。ところで隣 の桃太郎やガング店は家を直す時に窓を 敷地ギリギリまで持ち出しています。なぜ そういうことするかと言うとお店の売り場 を拡張するためです。元々大正時代に鈴木 商店がこの商店街を作った時は表のどまに お店があってその奥に余上班の食事をする ところがあって2階に8条と6畳の拠室と 寝室がありました。ところがこの頃商売が 繁をするようになってお店を拡張しようと すると1階の余を潰して店舗を広げるよう になったんです。そうすると2階の居住 スペースを少しでも広くしないといけない ので、ここにある小屋にギリギリまで窓を 出しますと、ここに3畳ぐらいのスペース が生まれるんですね。ま、それも貴重な スペースなので、我が家のように2件使っ ているからそんなことしなくていいやと いう偽は別にして通常表通りを直す時に窓 をギリギリまで拡張する。お店もギリギリ まで拡張するというお店が多かったように 思います。この写真、我が松本商店を正面 から映した唯一の写真なんですが、なぜ こういう写真が残っているかと言うと、昔 のカメラってフィールムでしたよね。で、 フィルムを想点しますと、1番始めに0に なるまでカシャカシャっと2枚ぐらい シャッター切るんです。それから24枚 取りですと20枚ぐらいまで移して、あ、 ちょっと余ってしまったけど早く写真にし たいからこれで現像に出そうという時に あと3枚ウイルム残ってるから適当に シャッター切っとこうって適当にその辺を 映すんですね。で、それが何十年か経つと その最初と最後に適当にシャッターを切っ たところにお宝があるんです。この フィルムも24枚のうち真ん中あたりは 鳥取とか岡山城の写真なんですがその部分 は私にとっては何の価値もない。あ、確か に鳥取や岡山城へ行ったな。家族映って いるなというだけの写真です。で、岡山を 映したフィルムの最後に残った1枚に写真 屋さんに持っていく前に適当に我が家を パチッと映したと。これがこの貴重な写真 なんですね。 1967年の写真です。フィルムがカラー に変わっています。夕方なので西ビでオレ ンジっぽい色になっています。鞭バの 飾り付けがされているところを見ると再末 大出しの写真ではないかと思います。丸1 食堂石原の修芸用品店本電気店はミ屋さん も買って2件になっています。消防があっ て佐藤の酒屋さんがあって松田の酒屋さん があって吉村の花屋さんがあって滝久の 文房具屋さんがあります。この頃になると 商売人はK4のトラックやライト版を使う ようになりました。 67年というと、まだ自価用者はそれほど 普及していなくって、荷物を運ぶために 自動車を必要とする商売人からライトバや Kトラックの導入が進みました。我が家も 私が小学校の低学年の頃はリアカーにお 風呂を積んで配達してましたが、私が小 学校の5年か6年になったことにテレビを 買うのとほぼ並行してKトラックを買い ました。ま、テレビなんかなくてもいいん ですが、Kトラックは商売人にとっては 必需品です。自動車が入ったことによって 商売の能率はすごく明かったんですが、 やがてお客様も自動車に乗るようになると すると広大な駐車場が必要になるという ところまでは予想されていませんでした。 1968年の弁天祭りです。この女の子が 立っている辺りが私の家、松本商店ですね 。松本商店の前からシャッタを切るとこう いう風に移ります。ここに弁天さんの検討 が上がっていることから弁天祭りの風景で あることがわかります。弁天祭りは初め 男の子が見越し担いたんですが女の子も 私たちも何かさせろということでこういう 踊りが始まりました。当時この社宅会だけ で朝日小学校という1つの小学校があって 、一年に何十人も女の子がいて弁天さんの お祭りには小学生の女の子が踊るという こういうことが行われていました。今や 朝日小学校亡くなって中央小学校に統合さ れてしまって弁天さんの祭りの踊りも なくなって今小さい子供たちがお見しを 引っ張ってますね。という風に本町商店街 の歴史を見てきました。我が家に乗って いる看板を見るだけで商店街の歴史が語れ そうですね。1960年頃には松本桶店と いう看板がありました。で、1960年代 アーケードができた後で看板がこの プラスチックの看板に変わります。松本 風店です。その後洗面台や調理台も扱う ようになって松本重きに変わります。この 建物を建てた頃です。1980年代になっ て防音のホールにしてカラオケドレミハに しました。で、その後父親が体調を崩した 時に私がこちら側のお店をバリアフリーに 改造しました。で、今私が年取ってきたの でこのバリアフリーのここに住んでいます 。

相生市の中心的な商店街であったほんまち商店街。昭和の朝夕は造船所に通う自転車の列で賑わい、1961年にアーケードを建設しました。
#兵庫県相生市 #ほんまち商店街 #昭和の商店街 #松本恵司 
ほんまち商店街Ⅰ https://youtu.be/fsg3FRadsZ8
ほんまち商店街Ⅱ https://youtu.be/g4kiRxvK1rQ
ほんまち商店街Ⅲ https://youtu.be/2U_YN7pz8Gs
ほんまち商店街Ⅳ https://youtu.be/n8uQZpf9aTg
商店街の百年   https://youtu.be/URUb3QyF-F4

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