カンディンスキーと不倫相手が成し遂げたもの【表現主義4】

カンディスキーについてはものすごくま やっぱ作品がたくさんあるしあの語り 尽くせないんですがまたねあの別の切り口 で色々語ることができるとは思うんです けれど も今回最後はねカデスキーのこの成功の鍵 にうん実 は女性がうん3人の女性がいるということ でうんうん これをなんかちょっとねあのえこんなこと があったのかって結構ねびっくりしたし 知られ知ってなかっ全然知らなかったな 肝心スキーのことばっかり知ってたなと 思ってうんこんな人がいたのかと思ったの でちょっとこう紹介したいなと思います はいうんこのね今回紹介するのは ガブリエレミューターっていう女性です うん女性のね表現主義者なんてね全然私 知らなかったんですが表現主義の中に女性 が1人いるんですようんこの人 ですこの人はうんミヘンの前衛芸術の最 前線にいた表現主義の画家ですま一応 ドイツのね表現士の画家ですって紹介され てました全然知りませんでしたそんな人 ですうんで ねここにね彼女は画スキーを 学び同棲し表現主義団体ディアブル ライターの創立メンバーでもあったって 書いてあったんですようんどんな絵を書い たんだどんな人だったんだろうと思って もう興味津々で うんま結構上流会計ねいいお嬢さんだった みたいなんですがうんまあね当時ねデュセ ドフにねまあ今ではね女子芸術美術大学 みたいのあるらしいんですけどうん当時 じゃなくって そのこのねダーメンシレっていうとこ芸術 家のウリースパッツの元で一応 ね芸術訓練を受けたまデュッセルドロフに はちょっとね入れなかったりしてうんま そんなこんなでよく考えてみたらそのうん 完全スキもなんか美術学校に行こうと思っ て行けなかったっていうさうんうん独学し たみたいなのがあったのでなんかその すごい接点があっ てそれでね知り合っていくことになるん ですよ おミンタがま うー女子芸術学校のうんも叩いたんだけど 閉ざされていてうんでま絵だけ並べれば いいんだけどって言ってま勉強始めたと うんで同じ1884年に母も亡くなっ ちゃってうんでま食べていけないわけじゃ ないからうん両子が残したお金の遺がま それも頼ることも なくその十分なんか生きてけたらしいん ですよまたすごいうんすごいんですよ なんかこの人はなるほどで翌年の1898 年にはお姉さんと一緒にアメリカに住む 親類の元を訪ねてるんですようんうんで そのアメリカので色々なものを見てすごく こう影響を受けてデサしたりま写真撮っ たりして帰ってくるんですようんうん 19001900 年その時に1901年にミンタがミヘに 移った時 に当時 そのうんなんか あ進歩的な芸術学校ファランクスっていう とこにうんたんですよね うんうんここで完全好きが頑張ったま先生 後してい て美術を教えていたと うんでこの学校では一応なんかね肖像デサ 6ヶ月間学ぶとかなんか色々ま基本的な こう勉強してこの上告も学んだりうん あーまラフですよね女性モデル使ってそう いう絵を描いたりしてここ で次のまそれ をあの基本を学んだ後にカンディスキの 絵画教室に移るわけですようんここで ものすごい影響を受けてだからそれまでは さすごいさあのま古典的なデサを学ぶって いうことしか知らなかったからうんうん すごい先生がいるだなってものすごい尊敬 し てで う画家のその内面的な精神っていうさ なんかそういうものをこう絵に表現するん だっていうそういうことを学んもなんかさ それまでこうさ こうなんて女性としてももうなんか女流 階級だしさ社会とかそういうものに目目を 向けたこともなかったのは急にこう目の前 がさこうすごい開けてさこう海岸しちゃ うっていうかうん違う世界が見えてき ちゃうわけですよ完全好きとあった途端に うんうんそうでもさもう声に落ちちゃって 完全好き奥さんいるんですけどうんまう こんな感じになっちゃうんすよこれ ミンタ写真までちゃんと残って残って ますもうさもう一心不乱に絵を描き始め うんもう先生のさもう先生にさ褒められ たい一心でうんうんうんも先生大好き先生 に認められたいうんまそうしてさロシアに さ妻がいるのにうんアンディスがさそう いうもうさけなげなさミンタのさ見る見る うちにさこうなんか自分の思ったとに育つ さその姿にもう さなんて言うのかなやりがいでも感じるし さうんこう自分自身のやったことがこの人 の中にこうさ芽ばえてそれ開花するって いうもうさ夢中になっちゃうわけよ神好き うんうんうんで一緒に旅行しようってなっ ちゃうわけ うんそれでねあですねま1902年から もうお互いにもう愛し合ってしまってうん うんでもうあっちこちねま スケッチ旅行しようっていうかさうんもう あっちこっち旅行していろんな人と会い ながらさあの絵を描こうってなっちゃう わけなんですようんうんでまサイクリング したりとかねう193年にはねグループの ま学校がねオーバープファルツ地方の カリムンツに移ってもん夏にはねカデスの 火講習会までね参加してうんずっと 追っかけちゃうわけですよね でまペンティングナイフによる修作を書い たりしてもうさ木板がやったりとかさもう 全部カディスキーから色々学んででま カディスキーもすごいけどさまたミンタも ねすごくこの吸収力があるっていうかうん もうね見る見る絵が良くなってくんです 確かにうんうんうんそしてねまこの後見て もらいますけれどその作品はいうんねえ 1911年まではねカディスはね他の女性 との結婚維持したままだったんだ けどもうその状態で同性生活を行ってまし てしまってま当時はねまその当時の同一人 の女性としてはもちょっとまずいことだっ たとは思うんですが うん旅までねしてもうだからミヘにいられ なくなっちゃうわけですようんちょっと まずいとこのままじゃうん車がいてそれで ねオランダに行っちゃったりね19004 週間滞在したりチュニスっていうとこに 行っちゃったりねもうイタリアまで行っ たりもうねずっと続いて2人で あっちこっち行っちゃうんですよなんか うん うんまあねそんで1906年にはパリに 行ってうんまたミたはもそこで絶賛教室に 通ったりして印象印象派主義の油彩画を 修作したりあもうねそんなことしてるうち にねミンタがねどんどん認められるように なっちゃうんですようんパリでねサロンで ザルティストザンでパンパンダンっていう ねあのサロンドトンヌとかねもう絵画をね あちこち出品するんですよま展示しても いいってことになってくんですようん ね次のねあの1908年にはねその ベルリンに移ってベルリンのケルンのね サロンレノーブレがね64点のミンタの 絵画を展示するとかもうバンバンなんかね カンデンスキよりもねうんの方がね活躍し ちゃうんですようんこれまこれなね ちょっとね うーんここからねやっぱりねどうかなって なってっちゃうんですよね でまボンでもねハガ作品が展示されたり チロルに行ったりミ変に行ったら あっちこっち旅行してまだから相当 やっぱりお金の余裕があったんですよね うんこあっ てで仲間はできるしみんなさこのなんかね ムルなにね家も立てちゃってミンタがそこ にねまあのカンデンスキーがいるっていう でみんなこう来るからなんかねそこは ロシアロシア人が集まる家だとかってさ なっちゃったりしてうんまあとにかくね あのもうこう表現主義をやってる人たちの はたまり場みたいになってくんですようん うん当時感電スキーももうぞそういうさ 経済力もある ミンタ悪まなんて言うのかな最初はね やっぱりやっぱりななんかまずいなとは 思うけどさやっぱり生きてくために はまあこういうことがあってもいいかなと 思っちゃったんですよねうんまミンたの 肖像まで書い てこれカンディンスキーが社実的に書いた 珍しい作品なんですけれど1905年の うんこういう女性 でだやっぱりね 相当財力あったんだろうなと思うんですが うんんであちこち活躍してちょっとね やっぱりね居心地悪くなってくんですよ カティスキーもまずいなこのまんまでいい のかなこのままでてなっ てくんでま一応ね1909年にはカンディ スキーが会長になるミヘ新芸術家協会が 発足されてうん年末にはね新芸術家協会第 1回でにはミンタの祭10点と目が11点 も展示されてうんふんうんすごい活躍する んですようんでフこねムルなに家を買って ろいろんな人が住んできマルクあと フランスマルクも来るしマッケも来るしっ ていうねでまロシア人の家だとされたと うんでまたね1910年にはねブラックや ピカソルオといった特にフランスの国際的 な技術家の参加によって得られたこの2 回転うん新芸術協会第2回店うんなんかま そういうフランス人との交流もあったりし てうんうんところがねそんなことやってる うちにだんだんねやっぱりねメンバーの間 に分裂が起きますうんでね カンディンスキーミンタフランツマルクが そこから脱会しますうんうんでそこ でそこから青岸っていうのが生まれてくん ですよねうん うんんでまその青きのま展覧会映して ミュンたっていうのはまこうなんて言うの かなカディスキーと中心になってこうさ もうなんて言うのかなこれから活躍がこう 約束されてるようなところがあるんです けれどもまその当時の作品をちょっと見て いき ます最初こんな感じでした まちょっとこう印象派にたような うんこれがだんだんね肝心スキーと会う ことによってだんだん肝心スキーらしく なっていくというかうんうんこうですよ こんな感じうんままだ甘い甘い感じがある うんうんでねこう緑をねうん緑とか紫とか 使ってまそういう色使いなんかもちょっと 完全好きいいから学ん でまこういう表現主義的な作品が出てき ますうん 雑にこうね塗ったりして うんまこういうねちょっとこう落ち着いた 色みたいなものなんかやっぱりね肝心好き のようになっちゃいけないなっていうさ うんなんかやっぱ自分らしさもこう出さ なきゃいけないなって葛藤がここでも見 られると思うんですがうん うんねこの黒の使い方なんかもねなかなか こうしいるけれどもままとまりなんかま 結構こう感電スキーからさ多分こう色々 教わってきちっとしたこう表現力みたいな のこう持ってると思うんですがうんうん 1914年ですよ ねまこの辺に来るとねあ完全好きかなり公 影響はもらっちゃってるけどまこまそう いう葛藤があるとかそのまま鵜呑みにして 同じようなの書いてもいけないしっていう ねうん難しいんですよだここでね私がこの ミンタを通して伝えたいことっていうのは まずね表現主義っていうのは主義っていう のができるとみんな似たようなの作っ ちゃうんですよもうミただけじゃないん ですようんうん肝心スキーがいいってなる とさみんな肝心スキーのようにやれば認め られるんじゃないかってなっちゃうんです けどうんうんやっぱりそれはね表現主義が すぐにダメになったことの裏返しでもある しうんみんなそこから離れていったことの 裏返しでもあるんですようん飛びつきやす くってみんなやりやすいんだ けど自分らしさがをどうやって出すか すごい悩まなきゃならなくなるうんだから その主義っていうものいいのかどうかって いうことがここで問われてるしうんそして やっぱりアーティスト同士っていうのは ものすごくやっぱり難しいと思ううんうん この後悲劇が起きてきますかうんまここ までさいや要するにカデスキーを尊敬し カデスキーをから学びいい作品がかけた ミンタは結果的にカデスキーにとっては 迷惑ってなっちゃうっていうかあそうなの うんってなるのかなで思ったんですがうん 別れが来ますはいま確かにミンタの作品は 評価されて1913年にはまあ84点の 絵画が並べられるミンタ初の古店も ベルリンで行われるしうんで行われ ますそして1914年の第一世界大戦がま 始まるとまここここでね一応ま管理スキー は名目国人としてロシアに戻るんですが うん帰ってこないんです よですけうんうん帰ってこ ないなんて言うのかななんか気持ち分かる んですよ私はねなんとなうんでま色々こ ミンタはカデスキーがいつ帰ってくるん だろう帰ってくんだろうと思って待ってる んですよずっとうんうんだけどうん漢人好 きっていうのははうんまだからまなんとか 会いたいからこのミンタはチリ品のこって 末年でカデスキに会う準備も始めるんです ようん当時なんかスーデンだったら被告人 と会っても まあなんか許されるみたいなのがあったん でしょうねうんうんうんでストックミンタ はストックホルムねスウェーデンの ストックホルムに移ってまその同地の芸術 家たちとも交流したりなんかして年末に 完全スキーに合う一応合うんですようん うんで一応こうミンタがねなんとかこうさ ロシアからこう引き換えさせようと帰ら せようと思って一応ストックホルムの メソンガローで2人天みたいなのね開か れるようにこう色々カサするんです よしかしこの3月16日まで一緒に過ごし た後感電スキーはこれを最後に しようで帰ってっちゃうんです よ詳しいことは書いてないんだけどうんか ここ読んでた時さなんでかわいそうなん だろうなと思ったんだけどと一瞬ねうん うん うんなんか ね嫌だなと思ったと思うアンデスキー はうんうんなんか自分の力でやってるん じゃなくてさミンタに色々さおお前立てさ せられしてもらってこう活躍するって嫌だ なと思ったんじゃないかなそんな弾じゃ ないよって思ってたうんそんなことしなく ても自分は人天なんかしなくても十分 ヨーロッパで認められて自分の古典を ちゃんと開催してもらえる実力があると 思ってたと思うんだよねうんどう思うす さんうんまそうそうだと思う よそうだと思うよしか言いよがないけど うんでも2度とねミントと合わなかった これでね一応ねあの人を返してねミンタに ね預けてあったね作品解説とか色々言って きたみたいなんだよ ねちょっとなんかこいねなんかうんだけど ねたねこれはね慰謝料としてちょっと ねしたいからとかね色々まあねあってね うんうんでもねカデスキーはねもう絶対 会ってくれなかったみたいうんうんうんで ねなんとねその後ねま管理好きはね別の 女性と結婚するんです よなるほどここでねミンタ崩壊うんうん ミンタとの関係は崩壊して2度もうねここ でねミンタは2度と筆はもつまいと思うん ですよええ 絵はやめちゃうんだもうやめるって決める んだけどさうんだだもうね不も持たなく なるまそうかもな当時の女性だったらそう なんだろうな私だったら絶対そんな風に 思わないけどなと思うんだけど うんまあそうだねその技術に罪はないから ねいや私は さ何のために絵描いてるのとか思うわけよ ここで カンディスキーにさ愛されたいから絵描い てるんじゃんってまダメじゃんそういうの て思っちゃうんですよね私はねまでも女性 だしね女性はそういうとこあると思うよ そう嫌だなと思ったらここ でこういう絵はねうん絶対私だったら見 たくないなと思ってうんこういうさなんか 人にさこうりついてさ学んでさ書いた絵 なんてさもう絶対価値がないと私は思っ てるんだよねうんうんだからさこうでもね 多分ね うーんこれが女性らしいんだよねきっとね うん うんでも愛とそのだからでもねすごいだ からさ考えさせられるうんその芸術への愛 と人間への愛って両立できるんだろう かってま切り分けは相当難しいだろうね うん絵を描いてもうその絵の中に没頭して いたらさ人なんか愛してる余裕がないって いうか さ うんそうねどうなんだろうねまハイデガー とアレントみたいな感じだけどさでね カスキーはいい意味でねミからねいい ところをこうさ吸収してるっていう風にも ちょっと思ってたりするんだよねうん うんでもミンタねうんいいところも自分で はね気が付いてないうんうんそこもね問題 だなと思うだよ ねうんま執意のどん底 でミーターはストックホルムでま一応 グループ店にも参加したけどもう1920 年までの間ずっとスカンジナビア半島で 暮らしてるんですようんうんうんま帰って これなくなっちゃったんだと思うんだよ ドイツでもさちょっとねあのうん うーやこうね妻がいる男性とうんうん あんな自由に生きままに生きてい てちょっとやっぱり走行的にっていうのが あったかもしれない当時の社会ではうん うんでま1918年には海が100点を 含むまあ古典もコペンハーゲンで開かれて いるんですがま経済的にもだんだん苦しく なって追い詰められてきますうんうんで しょうがなくて1920年ミュンヘンに 戻ってきますうんうんでだんだんこうねう 病になっていくんです ようんえこのことでねまあずっと絵描いて ないわけなんですよこいねうん うんうんま少なくなったとは言ってもね ほとんどいい作品なかったですよねうんで えま色々人の繋がりはあるから声はかかる んだけどうんまま昔の作品とか貸したり なんかして展示したりしてでまた1920 年以降ね一応代理人を通してねコンタクト 思けれどもミヘに残したカデスキーの作品 の所有権っていうものをどうするかって いうことになったわけですようんうんうん で管理スキーはねこの全作品を変換したい してもらいたいって言ってきたんだけど うんうんやだって 見え言ってうんうんで一応ね法的なね争い の末にねま対策は人スキーの元に戻ったん だけどうん他の作品の権利はみミュータン の貴族っていう風になってうん うーんまあねお金の問題ではなくてミンタ としてはま罪のつなとしてそうして欲し いっていうことだったんだけどうん うんまそういうことも起きたりし てまそれがね決まってからね再出発します ま現金なものでミンタも新しい彼が現れ ます良かったなと思うんですがアヒなと いうねヨハンネスアヒなってまたねま大体 好みがねこういう人が好きなんだなって いうなんかこう学者っぽいまこの人はね うん術家でね哲学者のヨハネスアヒなって いう人がいるんですがうん1927年にね ベルリンで出会ってうん あなんかねなんかうますけどねあま才能 認め肝心スキーについてま研究したかった んで彼彼はうんま彼を彼女を通してカデ スキーの色々ほら彼女しか知らないさ側面 をうん勉強したかったんじゃないかなと 思うんですがまミンタよりも早くね 亡くなっていますあなうんうんま年上 っぽいもんねそうそうそう そうまあね ここういう作品とかね30年代はねし うん書いてますねまこういうねあの風景が うんあってねなかなか なんて言うのかなまカディスキーによって 良くなった部分もあるけどあのミンタ ミンタなりのね良さがあるんですようん これなんかはどっちかっていうとあれに モントリアンなんかをすごく普させるよう な作品ですけれどもドリアなお花花の絵ね うんうんうんこれはあの油彩でユを描い てる作品でうんうんうんま表現主義的な 作品です うんま色々あってまヒットラーのことかと かま色々あって ま時代も悪くてねあの大芸術ってなっ ちゃうと発表できなかったりするからまあ なんかミンタミンタなりにこう色々生物が 書いたりこうさ鼻の絵描いたりしてまなん とかしのいでうんうんで一応ねカディ スキーの作品は こうむムルなの家の地下に隠してあったの であれは一応大敗芸術だったんだけどま ミンタのおかげでで残ったっていうことも あった らしい微妙なんですよだからなるほど ねそうなんですよこれ本人たちの問題とは 別でねそうなんですようんだからまミンタ はミンタなりにこう罪をね償ってほしいっ て言ったけどミンタなりにいいことにも なってますうんうんうん残し作品が残 たくさん残ったのはミンタのおかげとも 言えるかもしれない うんでミンタはねもうねその後はね本当に こうさやっぱり表現心理からどんどん離れ ていくというか うんこういうねありきたりな作風というか ねうんうんうん実直で誠実でなんかあまり こう気を照ないま普通の絵になってた感じ ねなってきますこう完全好きからどうやっ たら離れられるかっていうさうん そういうところこうま私はそれは良かった んじゃないかなと思うんですよ帰ってうん うんだからカンディスキーもね多分ね よかれと思って別れたかなとあのまま カンディスキーをやっちゃったらやっぱり 良くなかったと思うし うんまあね続かないよね確かにねそうなん ですよこういうねこうなんかもううん 可愛らしい可愛らしくてなんかさあみた らしいのはこういうとこにあるんじゃない かなってさうんうんうんからなんかポップ な感じで帰ってねこれが残って良かった なって私は思ってるんですがうんうんま そうかもねみたはなんか さ辛かったかもしれないんだ けどなんかか絵を書くっていうことは やっぱりこう恋愛とは別に考えていかない とうん素晴らしい人に認めるために認め られるために描くて言んじゃない方が私は いいと思ってるんです ようんうんそれをねミンタからね学べるし うんうんま反面教師な部分もあるま本人は ねそう思ってないわけですよ辛いと思って 書いてるだけなんですようんうんなんだ けどもあのここからね私たちは多くのこと が学べるなと思って でま配線後にねうんまもうね年取ってから はねそんなに対策みたいなもの書かなくて ま紙にねあのま色々こう展覧会には誘いが 来るしそれなりに活躍していてまたくさん 書いたおかげでねまあコロシをもらったり なんかしてい ますでレバハウスっていうあの最初のま 前前回ぐらいに紹介したミヘンにある美術 館にはそのうミンタが一生懸命地でねあの 隠し持っていたああいう肝心スキーの作品 なんかが起動されていてうんで自分の作品 も偽造されてもうすごくこういい美術館に なってるんですよ貴重な美術館でま なおかつそのアヒナが美術師家だったから まそういう意味でミンタもカディスキーも ちゃんとこう美術師の上で評価される作家 になったのはもしかしたらこのアイヒナー ていう存在も大きいと思います えいろんな意味でねこのミンタと カジンスキーが出会ったことも重要だし そして別れたことも重要であったしミンタ はミンタなりにこう肝心スキーを恨んだか もしれないけれどもしかしそれによって 作品が残り2人の活躍が今もれるっていう のは私は大成功かなと思ってますうんま ニンテは悲しかったし辛かったとは思うん だけどうんまこういう作品がね残ってます 1959年はねあの神にユサでこうささっ と嗅いたものと かもうなんかこの辺ながすごい新しいなっ て私は思うんだけど肝心スキーとは違う 離れてもうすごく現代的な 作風にうんこの作品も好きでしたねうん これはね水彩とパステルで書いたもん でもう全然このさ昔のさ栄光とかさ肝心 スキーとかもう全部こう取り払ったうん こうミンタがこうなんていうかな こうたどり着いたミンタの世界がここには 出てると思うんです がまそういう意味で貴重な作品がこう見れ てま見つかってね色々調べてよかったなっ て思いました はいまこういうね あの評価としてはね肝心スキとの別れの後 にやっぱり あのなんて言うのかなミンタは抽象的表現 にいたたけれどもまこの青岸時代の特徴も 残してたりなんかしてカデスキはねその後 中傷にこうがっちりこうさ組み込まれて いくけれどもミーターはミーターでなんか このそうじゃない方向にこう分れていっ たっそのカンディスキーとは肉体的に別れ ただけではなくてこう作風も分れていくっ ていうところで意味があるという風に評価 されていますうんうんうんっていうことで ミンタのとカデスキーのこのアーティスト とのこのねあの絡み合いていうものを紹介 しましたはい野さんどうでしたか今回の話 は今回なんか案外まとまりがないねでもね なんかね色々言ったからなんか表現主義の 話がま真ん中ではあったけどもうん カンディンスキーまで行って カンディンスキーは表現主義なのかみたい なねのもあるしね表現主義から中小海外に ねうんうん映るところだね映ったところな んですなので1番最後に持ってきたわけ ですよ結局中小絵画っていうのがその表現 主義の後に来るのでうん本当はもうあと 表現主義に前に生まれてるから1番の長老 なんだけどうんうんうんうんでま一応ね このフォービズムとその表現主義の違いっ ていうものを研究されてる人がいるんです ようんえっと学習院大学の教授されている 方 であの学習院大学のあのホームページを 見ると立派な論文が上がっていましたうん えっとそれがこのね有川はおさんっていう 方の論文にちょっとすごくあの興味深く 読ませていただいたんですがうんあのそう いうところをちゃんとこう厳密に調べてみ たい方は是非ねここをあの検索してみて いただけたらいいんじゃないかなと思うん ですなるほど結局のところね区別っていう のは非常に難しいというのはうんあの大体 ま1949年に表現主義が紹介されてま 五歩からピカソまでっていう展覧会だった んですようんでもこの中でも うん表現主義とピカあのだからもうさ ゴッホもピカソもさうんフランスので活躍 したな人なんですようんでもドイツの表現 主義はどうなんだっていう感じでもう当時 はまだ表現主義っていうものと フォービズムを統合するような視点で紹介 してるんですうんでここのとまあ1959 年になるとヨーロッパのフブっていう形で まだ表現主義っていうことをやめちゃって もフォービズムっていうのでまこう一括り しようとしてる動きがあるんですようん うん展覧会ではで色彩の勝利っていうあの タイトルでヨーロッパのフブだからドイ ツっていうところにらないっていう激ほら ムンクがいたり さあのオランダの作家がいたりとか色々さ あるわけですよ表現主義でもいい作家が うんそれでと一にするドイツ表現主義って いうのがちょっとこう片落ちなんじゃない かっていう考え方でヨーロッパを一国立 するとフブでまめちゃおうっていう考え方 まずあったんですようんだけも1966年 になるとラスのフォービズムとドイツの 初期表現主義っていう風になってきますだ からカテゴリーも色々こううんその時代 時代でま政治的な思惑もあったりして フランスとドイツとの関係もあったりして うんうんうん揺れ動いてますうんうんなの でそのところを詳しくこの有川さんが紹介 されているのでもっとちゃんと研究され たい方はぜひここチェックしてはいそんな のかそんな人は見てんのいややっぱりね私 も最初はねビズムとドイツ表現主義の違い を比較しながらみんなで見てこうみたいな こと考えたんですよ少しうんうんうんでも ねやっぱりねそれはちょっとね絵画の見方 としてどうなのかなすごくこううんうん 研究的な視野なんで楽しむそううんこの YouTubeにゃ適用しないな あのそう本気の勉強になっちゃうからなっ ちゃうはいでまそういうことでままひ まとめてみましたがすいませはいそうもう 長い間すごい今回盛り沢山だったので大変 だったと思いますけれどはい今回長かった ですねうんはいまでもあのカンデンスキー のあのいろんな由来が知れたのは良かった ですねああそうですねそうちゃんと頭で 考えた絵だったんだってのがよく分かる話 だったと思うのでうんうんその経緯が 分かったのは割と価値があるんじゃないか なと思いますはいま中小ね絵画って感覚的 にただ思いつきで書いてるんだろうって 思ってる人がうん多いと思うんでそうだね あの線とかにね全部意味があるっていうね うんっていう視点で見るとまた見え方が 変わってくるんじゃないかなと思います はい うん本当にあの長いお疲れ様でした ありがとうござはいお疲れ様でした ありがとうございました

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