昭和記念公園(基地の町、砂川闘争の記憶)
2025年4月30日、東京都立川市の昭和記念公園を訪れサイクリングを楽しみました。サイクリングコースの紹介に加えて昭和記念公園の歴史にも言及しています。
昭和記念公園の由来として、大正9年に「陸軍立川飛行場」が設置されたことに始まり、終戦の昭和20年に米軍基地として接収され、昭和44年には米軍飛行場の機能が停止され、昭和52年に日本への全面返還が行われたこと。昭和天皇御在位50年記念事業の一環として昭和記念公園の建設が決定され、昭和58年に開園したことなどに触れています。
立川米軍基地の時代には、いくつかの事件がありました。朝鮮戦争(昭和25年)の時は米軍の極東最大の輸送基地としての役割を果たしましたが、基地周辺では米兵相手のいかがわしい商売が賑わい、米兵による市民への暴力事件や航空機の騒音問題も発生しました。当時私は小学校高学年~中学生の時代でしたが社会問題には興味を持っていました。
次は砂川闘争(砂川事件)です。昭和30年から昭和35年かけて、基地の拡張計画により土地接収など生活基盤を奪われることに反対する住民運動が展開され、昭和32年には抗議デモ隊と機動隊が激しく衝突しました。当時私は高校3年生でしたが毎日食い入るように新聞を読んでいました。
基地内に立ち入った住民デモ隊の裁判では日米安全保障条約の違憲性が争われ、東京地裁は「米軍駐留は憲法9条に違反する」として被告に無罪判決を下しましたが、最高裁は「米軍駐留は憲法違反ではない」として地裁判決を破棄しました。理由は「高度な政治的問題については司法審査対象外」との判断でした。
この砂川闘争は後の学生運動の先駆けとも言われ、昭和35年の安保闘争では当時大学2年生だった私もその渦中に巻き込まれたことを思いだします。これらの事件により私の頭の中では立川は「基地の町」とのマイナス印象が強く残っていました。
新緑映える昭和記念公園をサイクリングや散策中にこのようなことを思いめぐらす人は100人に一人、いや1000人に一人も居ないのではないでしょうか。少なくとも70歳以下の若い人にはこのような感慨はないと思います。
現在、旧立川基地の跡地は、昭和記念公園、陸上自衛隊立川駐屯地、立川広域防災基地として利用されています。それぞれの面積は、昭和記念公園 約180ha、(供用中は約169 ha)、陸上自衛隊立川駐屯地 約35 ha、立川広域防災基地 約115 haです。
立川広域防災基地について補足すれば、首都直下地震などの壊滅的な大規模災害時の緊急輸送の中継・集積拠点としての活用です。主な機能は、内閣府災害対策本部予備施設、C-1輸送機も離着陸可能な滑走路900mの立川飛行場、災害医療センター、東京消防庁航空隊・警視庁航空隊、東京都立川地域防災センターなどです。
昭和記念公園の経緯にはこのような国家非常事態の観点からの問題提起もあるので、清々しい新緑と美しい花を観賞しサイクリングを楽しむだけでは語りつくせない面もあります。今回の昭和記念公園サイクリングにより久方ぶりに若い頃の記憶が蘇りました。