2024年12月8日「終末・リバイバル宣教」
説教題; 「回復の原因」
聖書箇所: イザヤ52章(新改訳第3版)
1 さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。
2 ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。
3 まことに【主】はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」
4 まことに神である主がこう仰せられる。「わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。
5 さあ、今、ここでわたしは何をしよう。──【主】の御告げ──わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。──【主】の御告げ──また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。
6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」
7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。
8 聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、【主】がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。
9 エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。
10 【主】はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。
11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。【主】の器をになう者たち。
12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。【主】があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。
13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
14 多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──
15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
(導入)
アドベント第2週、本日もイエス・キリストの預言から学ぶ。
職場にいたころ、上司が自分の友人の話をした。息子さんがバイクを乗り回し、気が気でなかった。ある時大事故を起こし、大腿骨を真っ二つに骨折し、入院した。そしたら、その上司の友人は、「ほっとした。これで目が覚めてくれたらよいが。」と言った話を聞いた。親は、自分の子どもの事をいつも気にかけている。社会的に悪い事をしていても、簡単に悪人呼ばわりしない。
これは人間の世界の事である。メシヤなるイエス様は、旧約のイスラエル(南ユダ、エルサレム)をこよなく愛している。どんなに悪くなっても、である。人間の比ではない。
本日は、エルサレム回復、そしてその原因者について学ぶ。
(背景)
先週もイザヤ書から見てきた。イザヤは、イエス様が生まれる700年前に活躍した預言者。50年近く預言活動をしている。当然多くの王の元での預言活動である。イザヤ書、52章の背景を、色々な角度から見てみる。
⓵当時の社会的環境
マナセと言う王が居た。象徴的最悪の王である。子どもを偶像の祭壇に捧げる。偶像を拝まなければ殺してしまう。多くの血が流された。(Ⅱ列王記21;16)これが象徴しているように、エルサレムでは、平均して、偶像礼拝が行われていた。当然、道徳倫理も廃退。
一番は、この国は、真の神を礼拝する民でありながらである。神殿の祭儀礼拝は、当然形式的である。
②イザヤの生きた国際情勢
イザヤは、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされていったのを目の当たりにした。(BC722年)アッシリヤ軍の猛威を肌身に感じていた。その約20年後には、南ユダに迫ってきている。王は、ヒゼキヤ。しかし、包囲されながら、突然神の介入があって、この軍隊は包囲を解いた。と言うよりも神に打たれた。185,000人が死んだ。(イザヤ37;36)
③52章がイザヤ書のどの様な位置づけか
イザヤ書のテーマは「裁きと希望」。大きく二つに分かれている。1-39章が、「裁きと警告」40-66章が「回復と希望」。また前半は、後半の繋ぎのような「裁きと希望が」折り畳む様に表現されている。後半は、回復の立役者(原因者)が、インマヌエルなるメシヤ、イエスキリスト。そして、後半に向かって、新しいエルサレム、新天新地が出現する。
52章は、エルサレムの回復を中心に、その原因者メシヤを表す。
(本文)
V1、2;「さめよ。さめよ。・・・美しい衣を着よ。」⇒罪の中で生きてきた。まるで酔いどれが、玄関先で、服も破れ、口から血を出して倒れている。そこへ、目を覚まして、エルサレムの本来の姿を取り戻せと呼びかけられている。エルサレムは尊厳と栄光に満ちた町でないのか。この呼びかけは、元々あなたの本来の姿だから私がその様にする、と言う言葉が隠れている。
この酔いどれは、いくら言われても半信半疑。それどころかそんな虫のいい話、おこがましくて、にわかに信じられない。しかし、続けて神は言われる。「ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。」
V3-5; 「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」⇒ただで売られたとは、エルサレムは好き放題をしてきた。罪を犯してきた。神の裁きとして、他国に売られた。※「ただであげるから持っていけ」
一方、金払わず買い戻されるとは、(例えとして、捕囚について北イスラエル、エジプト時代が書かれている)エルサレムは、無価値だったが、捕囚先で価値のある者になっている。だから、囚われのエルサレムが、また連れ戻されると言うのは、支配者たちが泣きわめいていると言う。無代価で買い戻されたのは、お金を代わりに払った人がいる。それが次の節の「ここに私がいる」と言うお方である。インマヌエルなるメシヤ、イエス・キリストである。※ここの捕囚先アッシリヤ、エジプトと言うよりは、我らの罪、悪である。その奴隷が本来の意味である。
V6;「知るようになる」⇒回復の原因者が、メシヤなるイエス・キリスト。そして、エルサレムの住民に徐々に徐々に知れ渡るようになる。
V7-10;「良い知らせ」⇒エルサレム回復の原因者がイエス・キリスト、メシヤと分かると、まずいち早くそれを発見し人々に伝える者が現れる。⇒「見張り人」この見張り人から、一気にその情報は拡散していく。エルサレム中に爆発する喜びがあふれてくる。主が帰ってきた。⇒「【主】がシオンに帰られる」
「すべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した」⇒世界の国民がこの回復、贖いの業を見る。そして驚く。
V11,12:「去れよ。去れよ。」⇒尊厳と栄光に包まれたエルサレムは、これから一切、この世の悪、罪に触れるな、そこから遠ざかれ。「逃げるようにして去らなくてもよい」⇒出エジプトを想起している。その時、イスラエルは、あわてて脱出した。今回は神が、前、後ろを保護して言うるから、ゆっくり脱出すればよい。
V13;「栄える。…高められ、…非常に高くなる。」⇒インマヌエルなる、メシヤ、イエス・キリストは、しもべである。しかし、その名声は、世界にとどろく。その賢い行動の証の故に。
世界の人々が、インマヌエルなるメシヤをほめたたえている。例;多くの人がこのメシヤをたたえる宴会。その時、皆さんに、このお方をご紹介しましょうと言って、幕が上がった。人々の反応はいかばかりか。
V14,15;「顔立ち…そこなわれ」「姿…人の子…違っていた」⇒幕が上がった、その後の、人々の反応が凄まじい。
後ろに栄光が輝く、颯爽(さっそう)とした騎士のような姿を想像したかもしれない。しかし、十字架にかかった、イエス様である。ムチ打たれた箇所があり、顔面からは血が流れ、形になっていない姿である。
人々はその驚きで釘付けである。
(適用)
次回は、このイエス・キリストを、もっと精細に解説する。
本日は、酔いどれのエルサレムの回復を見てきた。神様が、お前の本来の姿は、美しい姿だ。尊厳と栄光で覆われていると言っても、そんなことは信用できん、と言ってきた。しかし、神がその様に約束している。神の側の問題だと説得する。そして回復が起きる。その原因者が、メシヤ、イエスキリストであった。
私達も信仰による契約の民である。神が贖ってくださったからには、回復がある。
信仰の道から外れた兄弟姉妹おられるでしょうか。もう2度と悪の道に戻ることのないように。イエス様が贖ってくださる。
そればかりか、私達は自分の事ばかりでなく、神の国を建て上げる使命がある。この暗い世にあって。それは、それにふさわしい報酬がある。信仰者の祝福。
現代はとkに終末に生きるものである。イザヤ書66章を見ると終末を生きる者に対する祝福の約束が多く出てくる。大いなる神の祝福がある。天国の前取りをするような祝福がある。そして、終末ははもうすでに始まっているのである。