京都ポタリング 通りの端から端まで走る! #61 六角通 #京都 #ポタリング #自転車
京都の東西の通りである六角通を西の端(佐井西通西入ル)から東の端(西木屋町通)まで自転車で走った車載動画です。
途中、地元目線での京都の街案内などをしておりますので是非ご覧下さい。
#京都 #ポタリング #自転車
※日本語と英語の字幕を付けています
※Includes Japanese and English subtitles
0:26 ご挨拶と説明
0:36 六角通の地図
2:04 スタート
4:09 西大路通
6:17 六角通は一時中断 迂回します
8:09 西高瀬川
11:13 後院通
11:32 六角通復活
12:13 武信稲荷神社と六角獄舎跡
17:58 堀川通
22:45 烏丸通
22:53 六角堂
31:10 寺町通
31:30 誓願寺
36:04 河原町通
36:59 ゴール
△ 動画内に出てきた場所など
日の出食品株式会社(アジロソース)
http://www.kyotoajiro.com/prof.html
京のおばんざい わらじ亭
https://warajitei.com
武信稲荷神社
https://takenobuinari.jp
更生保護法人盟親(六角獄舎跡にある施設)
http://meishin.moon.bindcloud.jp/index.html
史跡としての盟親
http://meishin.moon.bindcloud.jp/qanda.html
齋造酢店
https://hanabishiponzu.com
京都新町病院
https://www.kyoto-shinmachi-hp.jp
アマムダコタン京都
https://www.instagram.com/amam_dacotan_kyoto
頂法寺(六角堂)
http://www.ikenobo.jp/rokkakudo/
華道家元池坊
https://www.ikenobo.jp
誓願寺
https://www.fukakusa.or.jp/
京極かねよ
https://kyogoku-kaneyo.co.jp/
六角通(ろっかくどおり)
京都市右京区・中京区にかけてある東西の通り
平安京の六角小路にあたる道となる
通り名の由来は東洞院通と烏丸通の間にある頂法寺の六角堂に由来する
六角堂は平安京が出来る前の聖徳太子の創建という伝承が伝わる
通りの西側は住宅地が続き 通りの東側は老舗が立ち並ぶ道となる
更に東の端近くになると観光客が集まる
新京極通などと交差し賑やかな通りとなっていく
また通りは途中JR嵯峨野線などにより中断している
Hello everyone
Thank you for watching Cycle Panda ch.
In this video, we will take you through the streets of Kyoto,
which are said to be shaped like a checkerboard.
I ride my bike (and walk where I can’t) at a leisurely pace.
I hope to be able to show you around the city along the way.
Please take your time to take a look.
Rokkaku-dori (Rokkaku Street)
An east-west street that runs through Ukyo-ku and Nakagyo-ku in Kyoto City.
It is the equivalent of Rokkaku-koji in Heian-kyo.
The name of the street comes from the Rokkakudo Hall of Choho-ji Temple,
located between Higashi-no-toin-dori and Karasuma-dori.
It is said that the Rokkakudo Hall was built by Prince Shotoku before Heian-kyo was built.
The west side of the street is a residential area, while the east side is lined with long-established shops.
Furthermore, near the eastern end, it intersects with Shinkyogoku-dori, where tourists gather, and becomes a lively street.
The street is also interrupted by the JR Sagano Line, etc.
Thank you for watching.
With this, Rokkaku-dori, Street Pottering will end.
Thank you for watching this video,
I would be happy if you could learn about a side of Kyoto that you don’t know about.
We look forward to seeing you again in the next video.
7件のコメント
いつもありがとうございます(*^^*)
京都の都心をポタリングする機会が少ないので楽しく拝見しています(*^^)v
こんばんは😃
今回はこの道を知っていないと通れないですよね😮
9月の京都では初めて六角堂を訪れたので途中から見覚えのある場所が出て来ました。
六角堂隣のビルの中に入れるとは分からずこんなに近くで六角堂を上から見下ろせるとは😅
確か来年の冬の特別拝観で六角堂が入っている様な覚えがあるので確認します😮
毎回動画見る度に感心してます😊
動画ありがとうございました😊
六角通りは一部分しか知らなかったので、端から端まで見せていただき有難いです😃
西の端は急に行き止まりになってますよね。私も車で入ってしまいUターンしました。
後院通~武信稲荷は以前より注意書きが増えてますね。ナビ頼りの配送車が迷い込むようで、京都のあちこちで「道幅狭し」とか「通行困難」が増えています。
六角堂はよく休憩で立ち寄っていたのですが、ハトが飛びすぎてホコリが舞うので最近は避けています・・・
高倉の交差点は変則十字路ですね。高倉通りを北進する車は直進できなくなりました。
お疲れ様です。
六角通は一度ポタリングをしてみたいと思っていたので参考になります🎶
六角堂も是非とも行ってみたいと思っていたところです♪
ご説明済ならばごめんなさいなのですが、ポタリングの向き(今回は西から東)にルールはあるんですか?
おお、六角ですか…長い距離をUP有難うございます。ボケ防止に現れました…😎🔆
寺町通以西が平安京の六角小路にあたるようです。『元亨釈書』に、勅使が祈願すると六角堂の位置が15mほど移動したという説話が残るものの、六角堂の実際の創建は平安時代中期頃と考えられており、長く京中の信仰を集めました。この通りの左京周辺は、平安―鎌倉期には邸宅地だったとみられ、『明月記』によると、元久二(1205)年に六角×東洞院大路との交差点付近にあった平賀朝雅の邸宅が鎌倉方に襲撃されたと記録が残ります。
平賀朝雅は、河内源氏(源義家の弟・義光系)の流れを受け継ぐ御家人で、その血統から、頼朝に重用されました。彼は北条時政の娘婿、かつ、母は比企一族であり、まさに鎌倉幕府中枢にいた人でした。鎌倉2代将軍頼家が追放され、3代将軍が就任した頃、鎌倉は混乱期にあり、政治的おさえとして、京都守護として派遣されました。3代実朝が、どうしても京の姫君を御台所に迎えたいとゴネたので、朝廷と折衝し、後鳥羽の母后の実家の土御門の姫をゲットしたのも朝雅の交渉力です。
その頃、平家の残党が源氏に対し、伊勢&伊賀で反乱を起こしました。現地の守護であった山内首藤経俊は初動を間違えた上に、逃げ出します。そして鎌倉幕府の命令により、平賀朝雅が出陣、見事反乱を平定しました。これにより、彼は朝廷で高く評価され、京都守護に加え、伊勢伊賀の守護にも任命され、後鳥羽上皇により認められ、北面の武士から院の殿上人へと破格の出世を果たします。
この様子を見た北条時政(政子の父)は、彼を鎌倉殿(第4代将軍)にしようともくろみます。北条一門の中でも、時政vs政子(娘)vs次の執権である義時(息子)の利害が対立していたのです。
時政は、若い後妻(牧の方)を迎えており、言いなり状態でした。そして、その若妻の産んだ娘を、平賀朝雅の妻にしたので、また(政子を頼朝に配した時のように)権勢をふるえると考えたのです。愚管抄にも「ワカキ妻」と書かれたこの牧の方が、畠山一族を陥れたり、台風の目になります。どうやら、彼女は政子に変わる権力を手にしたかったようです。
が、この目論見は敗れ、政権奪取は失敗しました。時政と夫婦ともに出家させられ、伊豆に引退させられますw(政子と義時の勝ち)
時政の動きを読んだ政子と義時は、いちはやく京に軍勢を送り、平賀朝雅の六角の館を取り囲み、火をかけ、合戦の末、山科で自害させました。次の将軍候補を即、消したわけです。そして父・時政を鎌倉から追放しました。結果、北条一門の内紛で、また、有能な河内源氏の若者が20代で命を散らしたことになります。こうやって、貴種である源氏は根絶やしになっていきます。自らの命を狙いに鎌倉軍が現れたという第1報に接した時も、落ち着いて院の御所を辞し、堂々とした態度だったと伝わります。
ただ、牧の方のたくましいところは、夫の没後、権中納言と再婚した娘を頼り京にのぼり、大変贅沢な暮らしをして天寿を全うしたようです。たくましい人はたくましいです…。なお、牧の方は、平家の池の禅尼(平治の乱で、まだ10代だった源頼朝の助命を平清盛に懇願して成功した、清盛の継母)の姪といわれています。(命の恩人ということで、池の禅尼の子供や係累は、平家でありながら、特待待遇で頼朝に大切にされていました。)