京都ポタリング 通りの端から端まで走る! #59 壬生川通 #京都 #ポタリング #自転車

京都の南北の通りである壬生川通を北の端(壬生車庫前交差点)から南の端(京阪国道口交差点)まで自転車で走った車載動画です。
途中、地元目線での京都の街案内などをしておりますので是非ご覧下さい。
#京都 #ポタリング #自転車

※日本語と英語の字幕を付けています
※Includes Japanese and English subtitles

0:30 ご挨拶と説明
0:40 壬生川通の地図
3:06 スタート
3:44 壬生川通四条
4:30 今は無き壬生駅
8:59 五条通の陸橋から
11:00 ちょっと島原へより道
14:16 七条通
14:45 壬生川通は中断するので梅小路公園を通り迂回します
16:57 紅葉がとてもキレイ
20:03 壬生川通へ戻ります
20:09 六孫王神社
23:05 東寺へより道
27:00 ゴール

△ 動画内に出てきた場所など
京都府中京警察署
https://www.pref.kyoto.jp/fukei/site/policemap/nakagyo/
嵐電
 https://www.keifuku.co.jp/
京都産業大学附属中学校・高等学校
 https://jsh.kyoto-su.ac.jp/
誠の湯
 https://makotonoyu.jp/
角屋もてなしの文化美術館
 https://sumiyaho.sakura.ne.jp
梅小路ポテル京都
 https://www.potel.jp/kyoto/
梅小路公園
 http://www.kyoto-ga.jp/umekouji/index.html
六孫王神社
 http://www.rokunomiya.ecnet.jp/
洛南高等学校・附属中学校
 https://www.rakunan-h.ed.jp
東寺
 https://toji.or.jp/

壬生川通(みぶがわどおり)
京都市中京区・下京区・南区にかけてある南北の通り
平安京の壬生大路にあたる道となる
壬生(みぶ)は元々湧水などの水資源が豊富な地域で湿地帯だった
地名の由来として水を生むという言葉が壬生に変わったという説もある
そんな水が豊富な壬生には壬生川という川がかつて流れていた
現在はその川も無くなり通り名に名を残すのみとなっている

Hello everyone
Thank you for watching Cycle Panda ch.
In this video, we will take you through the streets of Kyoto,
which are said to be shaped like a checkerboard.
I ride my bike (and walk where I can’t) at a leisurely pace.
I hope to be able to show you around the city along the way.
Please take your time to take a look.

Mibugawa-dori
A north-south street that runs through Nakagyo Ward, Shimogyo Ward, and Minami Ward in Kyoto City.
It is the equivalent of Mibu-oji in Heian-kyo.
Mibu was originally a wetland area with abundant water resources such as springs.
There is a theory that the origin of the place name is that the word “mizu wo umu” (to produce water) was changed to Mibu.
Mibu, which is rich in water, once had a river called Mibugawa running through it.
The river has now disappeared, and only the name of the street remains.

Thank you for watching.
With this, Mibugawa-dori, Street Pottering will end.
Thank you for watching this video,
I would be happy if you could learn about a side of Kyoto that you don’t know about.
We look forward to seeing you again in the next video.

6件のコメント

  1. こんばんは😮
    壬生川通りとの事なのでてっきり壬生寺の前を通るのかと思っていましたが違いましたね😅
    一昨年だったか?土方さんの銅像が出来たと聞いて訪れました😮
    四条大宮から西に歩き南に下り嵐電の踏み切りを渡り行きましたが道幅が違ったので雰囲気が違ってました😅
    東寺も今年の2月に冬の特別拝観で行きました😮
    紅葉の京都は特別ですねー
    動画ありがとうございました😊

  2. おお、長い距離をご紹介有難うございます✨ボケ防止に現れました😎🔆

    錦小路以南が平安時代の壬生大路に当たります。壬生大路の由来は、延暦年間に遡り、延暦13年(794=平安遷都の年)、大内裏創建の際、大内裏の南側・朱雀門の東に建築された、二条通に面し壬生大路に通じる美福門(外郭12門のひとつ)によります。この美福門建設を越前の国が担当、役人の壬生氏が監督し当初は「壬生門」と呼ばれました。美部大路が別名です。平安時代には、この大路の西側に二条大路から三条大路にかけて大学寮・弘文院・勧学院という教育施設があり、今も商店街のそばの神社にも跡地が残ります。九条大路との交差点の北東角には東寺、二条大路との交差点の南東角には神泉苑、空海の祈祷をはじめとして、長く雨乞いの際の祈祷場でした。(宮中の管轄ですが東寺傘下でした。)貞観年間の大災害続きの際には、御霊会(祇園祭のおこり)が行われ、どうやら、当時は皇位継承争いで非業の死を遂げた貴人の祟りだと考えられていたようです。(なお、貞観大陸地震では、三陸沖を震源としたM8.6の大地震+大津波で数キロに渡り水没、数年の間に富士山噴火、鳥海山噴火、阿蘇山噴火、開聞岳噴火+大規模な疫病が重なり、日本の人口は3分の1まで減少しました。清和天皇の御代です。)生き残った人々がお祭りで集まるから余計疫病が広がったでしょう。祇園祭は、平安当初の都人のトラウマの記憶でもあります。

    なお、室町時代頃には「壬生」が地名として定着したようです。戦国時代にこの通りにあった立本寺は天文法華の乱で焼き討ちされ堺に避難、周辺は応仁の乱前後から「壬生村」という集落になります。江戸時代の古地図によると、すでに道は曲がっており、北は中堂寺通(丹波口駅近くの東西の通り)から曲折しながら九条通に至っていたようです。戦中の強制疎開の為に道筋が崩れ、戦後になってから本格的に拡張されました。

    あとは、六孫王神社、おっしゃる通り、源氏の祖先を祀る神社ですが、大宮通でご紹介いただいた大通寺ですね、このお寺はもともと六孫王神社の隣にありました。鎌倉源氏3代将軍実朝が暗殺され、その正室だった土御門の姫君は、後鳥羽上皇の従妹に当たる高貴な姫でしたが、未亡人になり出家した後、京への帰還を望みます。北条の天下をもくろむ尼将軍北条政子並びに一門は、自分以外の「尼将軍」が出ては目障りなので、嬉々としてこの申し出を受け、財産をつけ大通寺を建立し、彼女を京に送還しました。彼女は権力欲のないタイプで、それゆえに政子ともうまくやれていたようです(やれてなかったら消されてますw)実朝の木像が今も残るこの寺で、夫の菩提を弔いながら、西八条禅尼を名乗り、源氏の先祖にも仕えました。JRの線路を整備の際、寺は移転させられます。源経基は、源を名乗る多くの元皇族の流れが藤原氏に圧迫され消えゆく中、子孫の行く末を心配したんでしょうね。西向いて極楽浄土が流行りの時代に、「自分は浄土には行かず」屋敷の池に化生の龍になってとどまって子孫を守るというのです。涙ぐましい心優しいお殿様です。嫡子の満仲は如才ない世渡り上手で心配ありませんが、後々までの子孫の繁栄を思うと、心配は絶えなかったでしょうね。。

  3. ♯26拝見しました😅
    四条大宮から壬生寺迄のコースははっきりと覚えてました。
    その先を行くと島原に行けるとは知りませんでした😮
    最近はスマホで見てから、テレビの画面で見る様にしていて京都に行った気になっています。
    何時も色々な風景をありがとうございます😊

  4. 梅小路公園の紅葉が綺麗ですね🍁この公園を訪れるのは観光客よりも地元の人の方が多いみたいです🎶
    まさに地域住民の憩いの場という感じですね👫👫

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