【哲学】出口康夫先生「WEターンから「AI親友論」へ:価値のWEターン1」【#立ち止まって考える】
はいえ昨日に引き続いてえ今日もよろしく お願いいたしますえっとタンからAI新論 ということであの昨日はあ前のシーズンの えお話のまあ確認通かのリピートだったの でま今日からあ実質的に新しいお話にあの 移っていくことになりますま全体としては 第4回ということですで今日のテーマはま さらなるウターンへということでま様々な 価値のウターンのお話に入っていきますえ まこれまではですねまずは出発点として 第一出なさ定正ですね単独こ有不可能性え ま私は1人では何もできなというまそう いう主張ですけれどもまそれやその他の いろんな全前提からまずはあ身体行為の この行為者ですねえドアや事故に関する愛 からへのウタというまそういったものが 導かれるってい話をえしてきましたでま 今日はこれらの2つのVターンを踏まえて えま責任とか権利とかまウェルビーイング とかま全良さ自由とまそういったこれ いずれも価値に関わるま価値後価値概念 ですよねまそういった価値に関わるウター とえすなわちその価値の主体や単位があI からウへシフトするていうまそういうお話 をえしていくことになり ますでまずま可価値のVターンこれから いろんなまたVターンがぞろぞろぞろぞろ こう出てくるわけですけれどもまちょっと あのざっ外観をしておくとまこのように なりますということですえまこれあのこの 後お話する順番とはちょっと若干あのずれ がありますけれどもまとりあえず並べてみ たということですまず権利ですねライツま ヒューマンライツ人間の権利基本的人権 これ非常にえこの社会を支えるま重要な 概念ですけれどもこの権利のウタすなわち 私の権利から我々の権利でとまそういった ウターンということが出てきますでこれは 私の権利がこうなくなるとか我々の権利に もう回収されて吸収されてえ我々 ファーストになってしまうということでは なくって私の権利っていうのは常に我々の 権利の中で担保されるってまそういうお話 ということになりますでさらにこの権利の 裏返しに責任レスポンシビリティという ことがありますはこれもまウタン私の責任 から我々の責任へまこういうシフトが 生じるのではないかということですまこう いうあの話をしますとやはりますぐにです ねやっぱそれは足連帯責任ではないかと いうまそういうえま器具も生ずるわけです けれどもまそういった足連帯責任をま 避けるためにはこのウであるところの マルチエージェントシステムいろんな エージェントがいますよねそういう エージェントごとがまこのある行為にま 果たしてる役割大きな役割小さな役割直接 的な役割間接的な役割意図的な簡易を全然 意図も何もしてないんだけどなかやっ ちゃってるとまいろんなあ程度やモード 容態の違いがあるわけですけれどもそう いった違いに応じて各々のエージェントの え責任も重み付けられるま変化させられる ま大償の違いがあま入って当然でそうじゃ ないとこれは悪平等主義足連帯責任という ことになろうかと思いますまこの点また後 でお話をしますでさらにはこのウェル ビーングですね幸せ幸福まこれ今非常に 重要な概念としてえ再び脚光を浴びてい ますけれどもこのウターンていうのも 起こるえすなわち私のウェルビーングから 我々のウェルビーングへだから我々の ウェルビーイングなくしてですね私の ウェルビーングなんてものはそもそもあり えないというまそういう話になりますで さらにこれは今日お話はできません次回の 話することになろうかと思いますけれども 自由ですね自由もまそれを守るべきま非常 に重要な価値としてま現代社会の中心に ありますけれどもこの自由もですね私の 自由から我々の自由へとウタするという ことま具体的には例えば現代の標準的な 自由である自己決定性事実性オートノミー としての私の自由からま全体主義的な我々 からの脱却我々の全体主義からの脱却と いう意味でのま我々の新たな自由これ私は 柔らぎ自由と呼んでますけれどもそういう やら自由へとのまウターンというお話をま 多分次回させていいただくことになろうか と思いますまこれが全体の話ですよねで まずはあそのあのまあウェルビングの ウタクの中でについての話をしていきたい と思いますこれもう以前まお話をええした ですねあしのこの論証構造あのまスライド 1つ持ってきてるわけですけれどもえま あのこれまでお話をしてきたあ講者の ターンるから事故のウターンるかいわゆる え新的な精神的な活動のウタンまそういっ た非常に重要なウタンを踏まえた上でまず はですね人生のウターンっていうお話をさ せていただいてそこからウェルビングのウ ターンへと話をこうま移していくまそう いう形でまずお話をえこれからしていき ますのイタンということですけれどもまず はそのまそもそも行為とは何かっていうま 単なのなんかその辺のいろんな営み活動が あります雨が降ってるとか台風が来てなん か木が倒れるというまそういったものと この行為がなしはあの身体を使った身体 行為が違うのは違う点はやっぱり行為には 必ずやっぱ目的とか意図が伴うっていう そうじゃないと単に体がなんかブラブラ 揺れてるとかですねそういったものであっ てそれは彼も恋とは呼べないやっぱり意図 や目的がているまあ掲げられてい るっていうのが行為の非常に重要な ポイントということになります逆に言うと ま意図や行為が変われば目的や意図が 変わればそ行為が違う行為になる行為が変 わるってこと目的意図が完全に結局同じ じゃんっていうのはそれは要するに1つの 同じ行為だということに言えると思います つまり行為の単位どの等位を1つの単位と して考えるかと言うとそれはその目的や 意図がどういうまとまりをなしてるかと いうことでえ考えることができるま難しく 言うと行為はその意図や目的によって個別 化されるとえいう風にも言えるかと思い ますでま別の言い方をするとその行為え 全ての行為はあ共同行為だと私は考えてい ますけれども全ての行為にはですねそれを 可能にしてるマルチエージェントシステム てかその背後にうわーっとこう泣いたっ てるわけですけれども1つの行為に対して 1つのマルチエージェントシステムが内達 だから1つのえ目的え意図に対して1つの うい我々が内立まこういう風な形になろう かと思いますまこういう行為の単位って いうのは目的や意図にあるということを 踏まえてでさらにその行為の間にはま いろんなこの関係特に大償関係っていうの が考えることができるのではないかという 風に私は考えていますまずその大償関係の 出発点としてですね2つのま行為の間に 手段目的関係が成立してる場合がある でしょうとある行為の目的っていうのは別 の行為を実は実現するため別の行為を実現 するために今頑張ってこれやってんだ みたいなそういうことはありますよねその 場合今やってる行為は手段でその別の行為 っていうのが目的という風な形になって 行為の間にこの手段とか目的の関係が設定 されますまこういう手段目的のま関係に ある行為ましばしばいわば大償関係にある ケースもあろうかと思います手段としての 行為っていうのが目的としての行為のも 完全に一部に入っちゃってえまつまり目的 としての行為の部分行為になっているま そういうケースまいろんな事情のケースで 考えることができるんじゃないかと思い ますうん例えばあの通勤手段として自転車 に乗ってるっていうま30分ぐらい乗る 行為があったとしますでこれは何のために 寄ってるかてやっぱ通勤ですから1日の 仕事をするというより長い何時間かにに 渡る大きな行為があってその行為を目指し たその行為を実現するためのま手段となっ ているということになってこの場合自転車 に乗るっていうのは大きなこの1日のなん か仕事をするということの一部にすっぽり この入ってるわけでま自転車に乗るのは 小さい行為え1日の仕事をするというこれ が長いえより大きな行為っていう大償関係 が成立するわけでなりますまこういう風な 大償関係えまいろんなケース成り立ってる と言えるでしょうでこういった大償関係も ですね2つの間じゃなけなくてどんどん どんどん入れ子上にえ拡大して考えていく ことができますしまそういったケースも たくさんあるんじゃないかと思います今 申し上げたように自転車乗り自転車乗 るっていうのは30分ぐらいのものだとし たらま何時間かのこの1日の仕事をするっ ていう行為のま1部分30分の部分になっ てるとしたらこの1日の仕事っての やっぱり1年の仕事ってなんかありますよ ね僕ら持ってるその1年の仕事のまあ 1/0みたいな形でその一部になってる1 年の仕事ってやっぱり10年でやるような 大きなプロジェクトがあったらその10年 のプロジェクトの一部という形でま どんどんどんどんこの大償関係がま外側に 向かってこう拡大していくまそういった ようなことがあるんだろうと思いますま これイコ構造小さな行為がすっぽりその ままより大きな行為の中に入っていてその より大きな行為もすっぽりそのままさらに より大きな恋の中に入ってるっていうこの 入れ子人形みたいなそういった構造という ことを考えることもできますまそういう風 な形でどんどんどんどん広げていって いろんな広げていき方があると思うんです けれども例えば個人の一生生まれてからま 亡くなるまで何十年間あま通常あるわけ ですけれどもそれをまあ1つの行為として 見るつまりそこに1つの目的があるんだと つまり人生を全頭するま簡単に言うと人生 するというような目的意図ま常に我々 そんな風に考えてるわけでもないんです けれどもふと自分の過去のま何年か10何 年か何十年かのえ人生を振り返ってま1つ のやっぱり行為やってるなと後付けであっ たとしてもそういう風なあ意図目的って いうのを意識した途端にまこの人生という 1つ大きな行為として組み上がる 立ち上がるまそういったことがあろうかと 思いますまそうすると例えば自転車のり っていう30分ぐらいの行為が部分となっ ていてそれをより大きな1日の仕事さらに それより大きな1年の仕事どんどん どんどん行ってますなくても個人の人生と しては最大の人生するというまそういう ような行為へとま向かっていくような 入れ子構造があるということでありますで 全ての行為と同様この行為としての人生 何十年にわたる非常に巨大な行為ですよね まこの主体ユニットもま行為行為者のウ ターンを踏まえれば私ではなくてこの申請 するっていう行為を支えているマルチ エージェントシステムということになる わけでま行為をしているま主体ユニットっ ていうのもまこのマルチエージェント システムをその都度その都度いろんな エージェントが入れ替わり立ち代わりあま 現れるわけですけれも少なくてももう シームレスにえ生まれてから死ぬまで ずっと続いた大きなまシステムとしての 我々というものがこの行為の主体であり 単位ユニットだということになるわけです そうすると人生をこういった仕方で行為と して見た場合 ま私の人生から我々の人生へという人生の ウタが生ずるということになりますでこっ からウェルビーングに話を移していきます でウェルビーングま幸せ幸福とは何かこれ まあ今非常に重要な問としてあちこちでえ 掲げられていろんな形で回答が与えられて いますでま幸せとは何かちょっとこの後 ですねえ次回もう少し具体的に踏み込んで 考えてみたいと思いますけれども今 ちょっとあのもう少しまあの別の側面で 考えていきたいと思いますま幸せって結局 何の性質っっていうことですよね幸せと いう性質をぶら下げているものは一体何な のか1つの答えはこれですえ例えば我々ま 幸せな人生とか不幸な人生っというような 言い方をまごくごく普通にしますよねその 時に何を夢意味してるかって言うと幸せと か不幸というまそういった性質をタグとし てぶら下げている もっていうのはここでは人生が1つ挙げ られてるということになりますつまりま 幸せというのはま1つの考え方によれば 人生の属性特性というまそういう風に 言えるだろうでそうすると今人生の主体 単位が私ではなくて我々だ愛ではなくてう だまそういう風なことを認めるともうすぐ にですねえ 我々へとシフトすることになりますつまり 私個人の人間としてのウェルビーングから 我々その個人のま行為を支えているマルチ エージェントシステム全体のウェルビング というこのウェルビングのWEターンて いうのが成立することになりますで今この ウェルビングのウターンていうのをこの 人生のウターンからこう導いてきてこれ 以前お示しした図れはそうなってたんです けどもちょっとそこには役しの書きません でしたが別のま導き方もありうるだろうと いう風に思いますあのお見せした図の中に はいろんなこのぐじとなっててですねえ 外的事故のウターンっていうのは左の下に 出てきてえ内的事故のウターンっていうの は右の下に出てきたっていうそういう図も ございましたまそういうそれ合わせて事故 のウターンからウェルビングのウターンへ とこう繋がるまこういった道なし別論象も ありうるだろうという風に思いますのでま その話もお次にえしたいという風に思い ますまずこのウェルビングと事故これは かなり切っても切れないですね深い関係 腐れ円的な関係がありますまウェル ビーインググっては何か今あ盛に研究がさ れてるという風に申し上げましたその研究 のま中ではですねま少なからの研究がその ウェルビーイングのあり方ま幸せなのか不 合わせなのか幸せだとしてもどんな幸せな のかもうそういったウェルビングのあり方 は結局は事のあり方によって変わってくる 事故がある日のあり方をしていたら やっぱりウェルブインが出てくる事故が別 のあり方をしちゃうとウェルビングじゃ なくって不幸せイルビングが出てきて しまうというような形で事故というものが ウェルビングの非常に重要な主要な決定 要因だとまそういう風にえま主張する考え ている考え方今ちょっとざっとあげておき ましたけれどもえそういった考えが たくさんま提案されていますそれをここで 私にに言い換えるとウェルビーイングって いうのは先ほど人生の属性という風にお話 をしましたそれはその通りだと思うんです けど一方で自己の属性という風にも言える だろうという風に思います言い方を変える とウェルビングの主体というのは結局の ところ事故だつまり幸せ不幸せな人生と 同様に幸せな事故とか不幸せな事故って いう表現もま十分可能だそして事故がある 時には幸せになったりある時には念ながら 不幸せになったりするということも同然 起こるというわけでありますじゃここで いうこのウェルビーングっていうのは 単なるこの事故が感じるですね主観的な 感じ幸福感なのかもう少し客観的な状態ま ちゃんとなんか健康が成り立ってるとか 経済的なセスが成り立ってるというもう 少し客観的な事態なのかまそれに関しては この両方な二重の状態だていう風にここで は差し当たって考えておきますまこのよう に考考えるとまつまり人生の えすいません幸せの主体っっていうのがあ 事故だという風に考えると今度はまこれ まで見てきたこの事故のウターンからあ 幸せウェルビングのウターンを導くことも 当然できることになるわけでありますで もう一度事故とは何かにこう戻りますこれ もま以前からお話してるようにま様々な 事故に関する考え方自己感といったものが これまで提案されてきましたでこの ウェルビングがこの事故の属性だとすると この事故のあり方が変われば当然 ウェルビングのあり方も変わります自己感 が変わればウェルビングをどういう風に 考えるといういうまそういったことも 変わるということでありますまそういう風 な仕方で様々な自己感があってまそのうち 例えば1つが私が提案しているセルズIと セルhasウとまそういう違いがあるとし たらまセルhasIからは私の ウェルビングそアウからは我々の ウェルビングていうのは出てくるという ことで私はこの黄色でハイライトをして いるセウと我々のウェルビングの方をま あの採用してるということになりますま それ以外にもいろんな様々な自己感こう いうある種のま対立として特徴を付ける ことが自己あできるあの自己感があると 思いますけれどもそのうちの1つとして これからお話する行為超然的な事故とこれ 私が呼んでいる事故感ですけれどもそれ から行為遂行的な事故まエクティブセル フっていうまそういう今英語でえ言われて いる自己感っていうのがありますまこう いう自己感があったとしたらこれに関連し てまこれに託けられる性質としての ウェルビングもま好意超然的な ウェルビングと好意遂行的なウェルビング エクティブなウェルビングということも 考えることができるこれこの後すぐにお話 をします私としてはこのエクティブな ウェルビングをウゴンbeingではなく てゴーイングという風に読んでいます ちょっとこの後まサイドえトラックに行く かもしれませんけれどもこのウェル ゴーイングのお話をまいくつかのスライド でしてみたいと思いますまずこの自己感が 色々あるその中の1つとしてえ行為超然的 な事故と行為遂行的な事故エクティブな セルフとこの2つあるっていうこういうお 話をしましたこれどういうま対象かという とこの左の行為を然して然としてるって 言いますかそういった事故っていうのはま 行為をすることもあるけれども行為をして いない状態もありうる事故事故っていうの がいてそれがま時々時に応じて行為をする し時に応じて行為をしないま時に応じて なんか自転車に乗ったり歩いたりという するような行為もするけどあの別の時は 何にもしないボケと座ってるみたいな無 行為状態である同じまそういったものも 存在するまこういった考えに基づいた自己 感がこここでいう行為超然的事故であり ますつまりここでの事故っていうのは行為 に先立って存在しているなし行為から独立 に存在しうる事故でまあくまで時に応じて え行為にを行うそういった事故だという わけでありますま様々な自己感実体的事故 とか関係的事故とかいろんなことがまた あの提案されてますけれどもこういった 実体的事故とかあいろんな関係的事故に 関してもこういった行為超然的な事故を 考えることができるという風に思われます でそれに対してこの右側の行為遂行的事故 っていうのはまさにこの行為超然的な事故 の反対そういうの否定をした概念という ことになりますこのまあ行為遂行的 エクティブな事故っていうのはまさに行為 そのものとしての事故行為に還元回収され てその外側には何も残らないような事故 行為をしていない状態をそもそも持たない そういった状態はありえないような事故 行為に先立って内行為から独立に存在して いない事故というような自己感まそれが エクティブなセルフこいう遂行的事故と いうことになりますでは単にこの場合の 事故っていうのは例えば身体と結びついて いる身体に還元されているだけではなくっ てもう身体行為に回収還元されて るっていうそういう事故であり ますでまこういったあの概念まあのこう いった事故感っていうのはま歴史的にも 色々遡って見出すことができる割と日本の 思想の中にはこういった行為遂行的事故の 考えがあったのではないか例えば13世紀 の前の思想家の同元もそういった考えを 取っていたのではないかこれは私のあの 同元解釈ですしそれからま京都学派のえ学 者西太郎特に行為えその後期ですね行為的 直感的事故っていうことを言い出すそう いった時の事故感というのがこういうま エクティブセルフっていう風に解釈できる のではないかこれも私も解釈なんです けれどもえそういう風に考えていますで今 このエクティブセルフっていうこと自体は ですねこのバレラっていう人がまこの90 年代に初めに出した非常に影響力の 大きかった本エンボディmindこれは あの日本語の翻訳も出ておりますけれども まそれに始まる認知心理学ロボット工学等 でま盛に研究議論されている事故がまさに このエクティブゼル行為遂行的行為の外に いないような事故ということでまこれ割と 現代でも有力な事故感としてま様々な科学 や工学でもま使われているということで ありますこういった経由が あるで私としてはこういったまエクティブ セルフっていうのもまある種のその事故の アーキタイプでとして重要なものではない かという風にに考えていますこれどういう ことかということですこれもあの果2学で しばしば議論されてるんですけれどもあの 内的な事故ですよね単になんかこうある 存在としてある事故ではなくて我々がま 感じる事故ま事故に関する認知とか直感と か概念これはま生まれた時からまば大人の 事故感っていうのがボーンとこう備わっ てるのではなくって様々な発達段階を通じ てどんどんどんどん発達していくま非常に 最初は何かふわふわ全概念的な出会った ものがいろんな仕方で明確に概念化されて いくまそういったこの自己何者自己感自体 が発達の産物だまそういう風に考える考え 方も今非常に有力なあま考えとしてえ いろんなところで議論されていますでこう いった事故そのものがなし自己概念自己 意識そのものが発達していくんだっていう まそういう風に考えた場合その発達の プロスプロセスの1番最初ですよね出発点 にあるのはどういう事故かかってのは当然 気になるところ問題になるところであり ますまこれもいろんな議論があるわけです けれどもあるあの1つの標準的な考えに よりますとまずはこの 対物ものを対象とした身体行為そういった 中で立ち合われ現れてくるような自己ま 意識ちょっと全概念的な割とふんわりした ような直感さらにはその次には単なるもの ではなくてやっぱり人パースですよね対人 的な感 具体的な言葉を交わしたりとかなんか ちょっと遊びをするみたいなそういう対人 関係の中で立ち会われてくるような事故感 これが発達の1番初期に実はま持たれる 出現する事故ではないかという風にも考え られていますつまりいのケースもですね まずは今行為が私が行為を行っている ないしは何らかの身体行為が行われてい るっていうこういう認知があってなんか やってよなみたいな認知があってその認知 の中で事故が立ち上がってくるというま こうが事故のば出発点誕生ではないかと 言われてるわけでありますつまり今なんか 行為が遂行のまさに終わってないんですよ 途中にあるこういう行為途中認知がなけれ ばそもそも自己認知がないというまそう いう風な考えでありますでこのことは何を 意味するかていうとま事故っていうのは 色々こう発展発達していくわけですけれど も最初期のアーキタイプこの自己意識自己 概念のアーキタイプつまり原型ないしは 原子形態というものは行為主体にある行為 とその主体である事故がもう本当に身分化 な状態があってそっから初めて出てくると いうわけでありますでこの行為と主体が 一体化されているま主体が行為に回収され てるという風に言ってもいいかもしれませ んまそういったあり方がエクティブセルフ という風にま呼ばれてるわけですけれども これはこの発達心理学や認知科学の考えと 重ね合わせるとこれこそが事故の アーキタイプ1番最初に持たれる自己意識 という風に言えるのではないかまその後 どんどんエクティブじゃないもも出てくる かもしれませんけれども出発点は実は エクティブセルフではないかまそういう風 に言えるではない言えるのではないかと私 は考えていますでそうすると事故に色々 あるとで1番最初の出発点っていうのが アーキタイプっていうのが実は行為遂行的 な事故行為との外側にはもう出ていけない ような事故エクティブセルフだとすると ウェルビーインググっていうのは事故の 属性でしたなのでいろんな仕方で事故が どんどんどんどんこう発達していったら それぞれの事故がこのウェルビーングって いうのをぶら下げていくわけぶら下げて いるわけですけど1番最初に登場する ウェルビーイングというのはまさにこの エクティブなセルフにタグ付けられたそれ の性質特性としてのウェルビングすなわち エクティブウェルビングと言うべきだろう という風に思いますでこの最初にあ るっていうのは単に最初にあって後で いろんなものに乗り越えられるというわけ ではなくてやっぱ最初のもっていうのが その次に出てくるものの先行模判例になる ウェルビーングって何だろうって分から なかった時に1番最初に持ったあの実感あ あれがウェルビングじゃないかだからそれ が今それで似たようなものをあ僕が持っ てるとしてらそれこそがまさにウェル ビーングと言えるんじゃないかという風に 最初のものがその後に続くま例のいわば 模範例規範例になるとまこういったあの 先行模範例規範例のことをパラダイムと いう風に呼ぶわけですけれどもまさにこの えアーキタイプとしてのウェルビーイング こそがその後大人になってもやっぱり ウェルビングは何だろうという風に考えた 時に結局手探りをしして行きつく最初の 規範例としてあま機能を知ってるのでは ないかまそういう風に考えられますとする とこのアーキタイプ的事故というのが行為 超越的ではない意超然的ではない行為化さ れた事故であるならばそのアーキタイプ的 な事故にくっついてるアーキタイプ的な ウェルビーングも行為超前的ではない まさに行為の中にしかない行為の途中その 待中にあるウェルビングま身体行為の属性 へと完全に回収還元されるそういった意味 でエクティブなウェルビングという風に 言うべきではないかと考えてい ますえつまりまこのウェルビーングの1番 のアーキタイプそして後のウェルビーング で言えばモハレとなるようなウェルビーン ググっていうのはまさにこのエクティブな ウェルビングだということになるでこの エクティブなウルビングを私はここでウル ゴーイングという風にま呼びたいという風 に思いますつまりま1番のウェルビングの 1番の元っていうかその規範的な模判例 っていうに考えるとそれはまさに ウェルビーイングていうよりはむしろ ウェルゴーイングと言うべきようなもので そしてこれは遂行途中の身体行為というま そういった文脈の中で常に考えられねば ならないそういった文脈の中に置きもさっ ねばならないようなものではないかいう風 に思いますじゃあこの身体途中のこの身体 行の途中で感じるようななんかこう良さ 何かこれはやはりこの行為がまさに今順調 に動いている動きつつあるなんかうまく いきそうになってるなというま身体行為の 途上における遂行順調性なんかうまく回っ てるなというような感じ例えばよちよち 歩き始めたばかりの子供あうまくよちよち 歩きが今できてるな これがまさにこの皇位途中の水行純性なし は水行純性に関する気持ち直感ということ になります例えば対人え関係で言うとなん か対話がすれ違って終わってしまうのでは なくてそれなにこうやり取りがポンポン ポンポンうまく繋がっているま会話が弾ん でいるまそういった事態ないったはそう いった感触ま同じようなことがこううまく ご飯食べれてるとか遊びがうまくいってる というまそういったことでもま言えるかと 思いますまそういうまさに身体行為が スムーズかつ成功理に遂行できていること ないしは遂行できてるというこういたま 実感それこそがここで言うウェル ゴーイングであってこれが全ての ウェルビングのアクタイプではないかと いう風に私は考えていますだもう少しこれ をま身体行為からどんどんどんどん広げて いくといろんな活動例えばある種の グループの活動とか企業の活動とかそう いったものがうまくいってるなうまく回っ てるなそういった重感とか手応えとか 張り合いま広く言ってやりがいといった ものがこのウェルゴーイングに相当するん ではないかという風に思いますまもう少し 細かくちょっとま通常の意味のこのウェル ゴーイングではないえ身体からば取り出さ れうるようなものとしてのウェル ビーイングを左側そしてこの身体の中に あるウェルゴーイングを右側という風に こう並べてみましたもう全てで読みません けれどもウェルビーングてのはある種のま 状態を教授するていうまカウチポテトって いうことが昔あったんですけどなんかソフ に横たわっなんかお気に入りのビデオを見 てるだけみたいな感じであまりそこにえ 身体行為っても実はあるんですけども あんまりこう目立ってあるわけではないま そういった状態を教授しているようなあり 方非常にま性的スタティックなあり方ま そういったあり方を持ってるとすると ウェルゴイがまさにその逆で行為を遂行し ているこのまさにこのまただ中にある動的 躍動的なあり方を持ってるということで ありますでウェルゴーイングはやっぱそう いうえあり方である以上この運動感覚身体 感覚なんかこう体がうまく気持ちよく動い てるなというまこれはキネステティク にほっとしてるっていうな状態それに対し てウェルゴーインググっていうのは常に まだ目的は未達成で目的を達成する途上に あるといこういう途上の状態ということに なりますまあその目的を向いている常に 目的の方を向いているそういうベクトル的 な矢印的なあり方現状で満足して るっていうよりは未来を思考しているま そういったようなあ意味合いですねだから ウェルビーングとはどちらかというと結果 終わり集団まそういうあり方をしてると するとウェルゴーイングというのはまさに 途上的でありこの後次の行為がやってくる 好意駆動的なあり方をしてるとまそういう 風に言えるだろうと思いますとするとま これまで色んな仕方でウェルビーイングっ てのは語られてきてまその中のあるものは やはりここで言ってるようなま現状満足的 な状況教授的なないしは中段的なあり方を してるとしたらそういったものをこの ウルイかしていくそういうした方でもう 1度見直していくウェルゴーイングへと再 翻訳していくっていうまそういう作業も 必要となろうかと思います例えばこの ウェルビーング状態教授的な中で語られて きた安心感があるとしたらなしアド感が あったとしたらそれもやっぱ行為の文脈に 置き換えてま再定義された上で実際にそう いうことがどれだけあるかどうかっていう のがま実証を図られ測定されるべきでは ないかという風に思いますまあの全部やめ ますでまこういうウェルビングからウェル ゴーイングへのこれまたある種のシフト ターンの話をしてきましたけれどもこのま 事故のウターンというものを踏まえれば このウェルゴーイングを当然ウターンする ということでありますまウェルゴーイン ググっていうのがある行為のえその途上に おける遂行順調性であるとしたらそれは私 だけがやる単独行為がうまくいって るっていうまそういった感覚ではなくって 常に我々が行っているこの共同行為ま集団 行為の遂行純調整ということになるだから あその中で初めてその集団の行為に参加を している私のウェルゴイングっていうのも 意味を持つようになるということでなり ますまここではまどこれまでと同様にウル ゴーイングのWEターンということもずる すなわちま我々のウェルゴーイングの実現 なき私だけのウェルゴーイングととという のはま単に悪いとか望ましくないというの ではなくてもう定義上概念上そもそも無 意味だし不可能だということになるわけで あり ますはい今あのこのウェルビングなしウル ゴーイングのウターンの話をしてまいり ましたあと最後にま2つの今日あの価値の ウターンのお話をえしていきたいという風 に思いますえそのうちの1つは責任ですね レスポンシビリティのウタであります えっとある声が起こってまいいことも結果 も起こるし悪いこともやっぱり結果も 起こるわけですよねいい結果をした時に それま誰かが褒められるっていうか パチパチパチっていう形で称賛されるわけ ですし悪いことが生じてしまったらやっぱ 何らかの形で責任が問われるまそういう ことが起こりますその場合この褒められる あ人う褒められる主体対象責任を問われる 主体や対象ってのは結局誰かというとこれ はやはりあのその行為を行った人行為の 主体行為者だということになりますで我々 すでにもう見てきたましたようにこの行為 に関しては何行為者に関してドアに関して は行為者のウタというものがま起こってる まそれを受け入れたとするともうそっから あのすごく自然にですね責任のウタ すなわち責任主体の私から我々へのシフト というのが発生するということになろうか と思います それはまあの逆に言いますとこの我々の 一員であるところの私というのは常に私が 共同行為者として参加した我々の全ての 行為に対してま好むとこの混ざるとに 関わらず結果として共同責任をざる得ない ということになります場合によっては意図 的に参加した行為っていうのもあった でしょう全然意図しないで知らず知らずの うちに場合によっては無意識のうちに参加 をしてしまったというま結果とそしてま サポートアフォードをしてしまったような 行為っていうのも当然あるわけですけれど もそういったケースも含めて私はやっぱり 何らかの共同責任をおわざの得ないという ことでまこれかなりなんかヘビーな連体 責任ということでこれはちょっとしんどい なというまそういった感想を持たれること もあろうあるかもしれません例えば隣の町 の全く見知らぬ他人赤の他人が私を全然 関係ないところで何か犯罪を起こしてしま た犯してしまた例えば殺人を犯してしまっ そういう時にも私は何か連帯責に負うのか どうかこれを追うべきだとするとこれは ちょっと過剰な連体責任ではないかとま そういう風な器具も当然え生じるだろうと 思いますでそうに関しては私もこれも 先ほど言いましたやっぱ重み付けていうの が非常に重要な意味を持ってくるという風 に思います我々のこのま各メンバーですよ ねいろんなこのエージェント私はその他の エージェントがいるわけですけどけもそれ は我々の行為に対してまいろんな仕方で 関わってるま常に同じ程度同じ仕方で一定 の役割平等に果たしてるわけではありませ んあるエージェントはより中心的なより 主要でより重たい役割を果たしていてそう でないあのエージェントは非常にもっと 周辺的でえ福次的で軽い役割しか果たして いないまそういった違いっていうのは当然 あり得るわけでありますでその場合まこの 個々のエージェント私あなたや他の いろんなものですけれどもそのまここの エージェントはそれぞれが発揮している このま役割え担ってる役割発揮してる エージェンシーの程度やモドの違いに応じ てま全く平等の責任を負うのではなくてま 異なった重み付けを持ったま場合によって は重たい場合によっては軽い責任まそう いったあ責任を負うべきではないかつまり この責任というのは全ての我々のメンバー に対して平等にま分散あ分配されるのでは なくて個々のエージェントにその役割まの 程度に応じて異なった仕方で異なった程度 で分散えされるべきではないか負わされる べきではないかというわけでありますでま 例外をあるにしようですね例えば何かその 犯罪行為が起こってしまった場合ま通常 最も責任が重いま最も重い責任をわ問わ れるのはやはりこの問題となる行為を行っ たの身体があるわけですけどその身体の 所有者でありますこれ前回言いました身体 の所有者はまだ我々ではなくて私なので やっぱり特定の私がある身体を持っていて その身体がある犯罪にま直接に関与するっ ていうがやっぱり起こるわけでありますま 1番あの重たい責任を負うのはまそういっ た意味で我々の言葉で言うと犯罪者この場 だと殺人者ま本人ということにならざの得 ないわけでありますただし例えば赤の他人 隣の町に住んでいる担任の本と生きている 私であったとしても例えばその同じ社会に 属してる以上がこのような犯罪行為が2度 と起こらないように社会を再設計すると 例えば貧困をなくしたりこの武器狂気の 蔓延を防ぐといったことですけもそういっ たま共同の市民的責任をやっぱり覆って いるとまそれはそう言わざの得ないのでは ないかていう風に思われますま犯罪という のは例えばま自然災害っていうのはもう 個々の本当に数のいろんな要因が複雑に 絡み合ってなんか起こっちゃってるわけ ですけれどもそれと同様に無数の要因が 複雑に絡み合って起こってるという意味で ある種の災害まソーシャルディジーズま 社会的災害という風に捉えることができる のでないかと思いますけれどもま我々は そういった災害に対してある種の責任を 負うということは当然あり得るわけです けどそれはそういった災害の未然防止それ から起こってしまった場合はその被害を 軽減するためのあまそういった市民的義務 をやっぱり広く追っているという風に言う べきではないかと思いますで次にま権利の ウターンでありますその責任の主体ま責任 を持つまそれを持たざる得ない主体って いうのは同時にまた多くの場合それは権利 の主体でもありますま権利を持つっていう のはそれに応じた責任を持つっていうこと 責任を担うということはそれに応じて やっぱり権利も持つというまその2人が2 つはですねコイのえま2つのまあ表面 みたいな形でやっぱりあのえ人にま 結びついているわけでありますそうすると 今お話ししてきたように責任のウイターン というのが起こったとするとそれはその ままですねそのコインの裏側である権威の ウターンへと直結するま権威のウターン すなわち権利の主体とか単位の私から我々 へのシフトというのをま連鎖的に引き 起こすことになりますでそうなりますと これあの私の権利がなくなるとかそんな ものは2の次であるということではなくて 権利とはまず何よりも私の権利ではなくて 我々の権利我々の権利が担保されてその中 でそのま決定的に重要な不可欠の1つの ピースとして私の権利が確保されるという こよにま言えるとまそういう風になろうか と思いますまそういった考えというのがま 私はこれで勝手に言ってるというとこも あるんですけれどもあの今日の世界特に非 西洋のま社会を見渡しますとやっぱこう いったような考えというのはまあるところ でま主張され始めています例えばアフリカ 連合というまそういう政治的なまあ結合体 があるわけですけれどもそこそれがまその 自慢への人権宣言というものを1980年 代に出しておりますまこれかなり系外化し てきたわけですけどもそれ今実質化しよう というそういう動きが出てきております そこでは例えばこのヨーロッパ型欧米型の その権利の宣言に比べてもま我々ま すなわち集団や共同体の権利というものが より全面に出されているとまそういう風に 言われていますまそういった考えとま今を 一にするような考えがここでいう権利の ウタではないかていう風に思っています えーこれがあ最後から2番目のスライドっ てですねでまこのあのまウタですよねこの 我々これマルチエージェントシステムなん ですけれどもこのマルチエージェント システムはあの自転者のりのケースがそう であったように人間もその中に含まれます けれども人間以外の様々なエージェント 例えば人間以外の動物とか植物とかあ石と かうん川とか山といったま自然の生物と いうよりは無生物えさらには自然環境生態 系それからあ人工的な無生物ま コンピューターとかカメラとか机とかって いっったものAIとかロボットもそうです よねまそういった様々なエージェントが 含まれていましたそうするとこの権利の 主体ユニットっていうのを我々として 考えるマルチエージェントである我 システムである我々として考えるという ことはそのシステムの全てのメンバーが私 が何らかの権利を持つのと同様に一定の 権利を持つことになるつまり我々観点って のがあってそれはいろんなメンバーに分配 されていると行くとするとその我々県の 対象ま分配の相手というのはえ人間以外の 生物無生物人工物にまで及ぶということに なりますえそのことはですね逆に言えば このウターンでは人間とそれ以外の エージェントがあったとすると人間のみが 権利を持った存在権利主体でそれ以外の えあのエージェント例えば自然物動物とか 植物とかさらには人工物っというのは権利 を一切持たないもの権利を持ってるか持た ないかに関して人間とそれ以外の エージェントの間にも極めて明確な関係 って言うんますか明確な切れ目が入って しまってるようなそういったような考えは 取らないということになりますまそういっ たま考え人間だけは権利を持って他一切 権利を持たないとまそういった考えはま 西洋でもあるし非あの根強くありましてえ そういった場合人間は権をしたなんだけど あとは全部ですね人間のあの利益や目的の ための道具だまそういう風にむしろ考える べきだとまそういった考えもしばしば主張 されてきましたえアリストテレスは昔です ね結局あの奴隷っていうのは生命のある命 のある道具であり道具は命のない奴隷だと まそういう風なことを言いましたまそう いうアリストテレスの言い方を変えると 要する人間がご主人様マスターでそれ以外 の人工物とかあ自然物っていうのはそのご 主人人様に一方的に使える奴隷だとまこう いう風な考えがまあ主張されてきたわけで ありますでそれに対してこのウタの元では これ後でお話をします次回お話をします ように我々の全てのメンバーの間には実は 人康物も含めてですけれどもより平等な フェローシップ関係ま仲間共冒険者関係が 設定されて全てのメンバーはま何らかの 意味でまその大償思い軽い色々あります けれどもやっぱ最低えフェローシップ権 つまり仲間共暴険者として扱われる権利を 付与される持つということになりますま これは次回お話することになろうかと思い ますまこれが今日の最後のスライドです けれどもまこのようにですね行者のウタン ドアのウターンから始まってま事故のウ タンさらには今は人生やウェルビングなし ウェルゴーイング責任権利のウターンと いうのを見てきましたで次回はこれに加え てま全ですね道徳的な良さや自由のウ ターンについてもお話をしますまこういっ たいろんなものがウターンをすると やっぱりこれはま非常に社会において非常 に重要な基礎的な概念ですのでま社会その ものがWeタンしていくとすなわち私中心 の私社会アイソサエティから我々中心の 我々社会へのシフトっていうのも当然ま 視野に入ってくるわけでありますまって ことが本当に起こりうるかどうか何年 かかるのかそういったことは別にしてま そういった我々社会っていうのもなし我々 社会へのシフトというものもえま視野に 入ってくるわけでありますでこれはあの 個人をやっぱり重要な行為主体ま事故自由 責任権利の主体としてきてみたしてきたま この近代のま西洋型の社会とやっぱ ちょっと違うそれに対するオルタナ社会で あるという風に言えるかと思いますで ただしあのこの私社会とオ社会がもう2尺 択一でこれを取ったら向こうはダメみたい なあそういった関係にはむしろなとないし はむしろそれは良くなくってこの両方の 社会のあり方を例えば1つの社会の中で 共存させるまそういったあ考えの方が私は 重要ではないかという風に思いますまこれ 後でお話することになろうかと思います けれども社会個人まそれ自身が実は価値観 そういったアイデンティティが1つの単一 のものではなくて様々なアイデンティティ がやぱそうなしてこう重なってるそういう 多層的なあり方をしているこれがあ社会や この我々のなし私の事実ではないかという 風に私は考えていますけれどもそういった 価値の多少性という風にまということを 踏まえるとこの1つの社会においても私 社会の部分もあればいいあってさらには 我々社会のあの部分もあるというこういっ たものが服装的に層をなしている多層社会 を目指すべきではないかという風に考えて いるということでありますま大体今日は こういうことで終わりますけれどもま次回 はまこういうあの社会のウターンま あ我々社会ないしは私社会と我々社会の この多層的な社会ということをまん考えた としてもですねな場合によってはそういう 社会が実現されたとしてもそういった社会 は彼氏も全てえ100%自動的にいい社会 であるいい我々であるとは限らないえーま 単純に言って良い私もいれば悪い私もいる ようにえ良い我々もいれば悪い我々もいる なのでこの我々なしはその私我々の一員と しての私がなすべくなすべきですねある種 の道徳的な要請義務というのはその自分が 属している我々をまどれだけどのようにし てよくするすのかどのようにしてより良く するのかどのようにしてま最前のものへと 近づけていくのかまそういったことが重要 になるというお話をからな次回は始めさせ ていただきたいという風に思いますはい 今日の授業はこれまででなりますご苦労様 でしたでいくつかあの質問もいただいて ます で はいはいあの1つえ最後から1つま2つ前 ぐらいのことにまずはちょっと答えさせて いただいてあの今日あげていただいた質問 も次回またあの最後に次回が一応このこ本 シーズンの最後ってことになるんですけど また振り返ってあのお答えをしたいと思い ますけれどもあのこれしばしばあの以前の シーズンでええお話をした時もご指摘 いただいたことですけれどもまこういった あの出来なさを基軸にした社会というもの はですねやっぱりあの出来なさを抱えて いる人間っというのを基本的に見ていき ますので出来なさっていうのはま本来ある べきなんかできる人間の欠場体それが足ら ないということではなくってむしろ人間が 抱えているあのできなさというはそのすい ませんいろんなことができない人ですよね え私もいろんなことができませんし皆さん もいろんなことできないことを抱えて売ら れる場合によっては人よりできないことっ ていうのも私もいっぱい抱えておりますし 皆さんもそれぞれ抱えておられるかもしれ ませんそういったま個人が抱えている割と 目立ったその出来なさっていうのは何か こう劣ったことではなくって人間が根源的 にま普遍的に誰もが持っているこの出来な さというのはある意味顕在化させている 前傾化させているそういった事象ではない かという風に私は考えています出来なさっ ていうのはこれは決して欠場体ではなくて 何がかけたものではなくって我々の本来の あり方をこういう顕在化させる顕在体では ないかとまそういう風に考えるとまでき ない人に対するま目線例えばできない人を もう社会からなくしていこうとかそんな人 はなんかもう周辺化していこうといった ようなあ危険な考えに対するまブレーキに もなれるのではないかという風に考えてい ますあの私社会から我々社会へまそういう 風なお話を最後にいしました私社会っと いうのはやっぱり個人のできなさま個人は いろんなできないことも抱えてるけど やっぱり個人の尊厳とか1番のコアは できることにあるんだというまそういう できなさを記述にした方社会でもあると いう風に私は考えていますそうに対して この我々社会っていうのはできることでは なくってできなさを記述とする社会それは できないことに対してより完用できない 人々に対してまよりま完用な社会まそう いったことに結びつくのではないかという 風に考えてい ますはいということでまたあのいろんな 質問に関しては次回えまとめてえ答えさせ ていただきたいという風に思いますのでま 今日はこれで終わりとさせていただきます え次回は27日でしたねのえ12時からあ 13時まフィールの時間対にえまライブ 配信をさせていただきますのでまた よろしくお願いいたしますでは本日もご 苦労様でし た DET
令和5年度「立ち止まって、考える」、哲学/出口先生による講義です。
🔻シリーズの再生リストはこちら
京都大学オンライン公開講義「立ち止まって、考える」についての詳細は、人と社会の未来研究院HP https://ifohs.kyoto-u.ac.jp/project/p05/1571/ をご覧ください。
※ 質問はチャットに書き込みをお願いします。講義の後半で質疑応答の時間を予定しています。
※ 講義の感想はぜひ#立ち止まって考える をつけていただけると幸いです。
ーーーーーーーーーーーー
本研究院の取り組みをご支援いただく窓口として「人と社会の未来研究院基金」を設けています。よろしければ、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。
🔻寄附についてはこちら
https://www.kikin.kyoto-u.ac.jp/contribution/ifohs/