昭和42年ミリオン北海道地図より夕張炭鉱

はいえ皆様おはようございます札幌京短急 チャンネルです今回はですねえまたまた 昭和42年のミリオン道路地図町よりです ねえ一応ページとしては千歳札幌とその 周辺ということになってるんですけれども ま主にはですね夕張方面ですねえこの辺り を見ていきたいと思いますまここが夕張 ですねでま大夕張地区とこれがマンジです ねえになってますんでまその辺をメインに 見ていきたいかなと思いますまあとね面白 そうなのはま広島村とかですかねまこの辺 も時間があれば見ていきたいかなと思い ます はいずーんとまず夕張方面から行っちゃい ましょう か はいこの辺です ねはいえーまずですねこの辺川端になって ますねえっとなんかねウキペディアか なんか見るとなんか川端の方とかで重点用 の切開火山バかを取ってその専用鉄道 みたいな専用線みたいのもあったみたいな 文献なのかなウィキペディアだったかな 読んだことはあるんですけれどね未だに それについての資料に出会ったことがない んですよでなんかこの川端駅からね分岐し てたっていうことなんですけなんかねその 情報知ってる方いたらね是非教えて いただきたいですねま一体どういう感じ だったのかっていうところですよね はいでえ滝の下と滝の上ですねはいこの血 の滝ってここに書いてあるんですけれど この血の滝はですねまあの見見ることが できるっていうかなんかちょっと公園 みたいになってますよねであの北端の発電 所もあって公園が整備されててまあの公園 ってすっごいねカナチョロとかたくさん いるんですけれどはいえここですね血の滝 ですうんとここがですね まバン一太郎とあのベンジャミンスミス ライマンの探検隊はですね夕張を目指して この夕張川っていうのを登っていくわけ ですよねでまこの川の上流にはきっといい 石炭があるぞということでこうズンズン ズンズンとこう夕張側を登っていくんです けれども残念ながらですねライマンは夕張 のロトタを見てないんですよていうのは この夕張川を登ってきた時にこの血の滝で ですね船が上できなくなっちゃったんです よ滝なんでいやとちょっとなのにないや もうちょっとで石炭あるのになまもう わずかねもう数kmですからね夕張まで 入っていくのにでですねなるんですけれど もま残念ながらですねもう涙ながらに ライマンバン一太郎1向はですねえこの血

の滝で引き返すということになり ますちなみになんですけれどもじゃあどう やって石炭のえ大路トタを発見したのかま この辺にありますよね高松とかあの辺かな と思うんですけれどま夕張の石炭の歴史村 の敷地内に今でもありますけれどもま こっちのまじ峠を超えてきたんですよねで 当時ホない炭鉱は創業してたわけですよま この辺ですかねホない炭鉱なのでま地図的 に言えば幌内のあの所の方から山奥入っ てってずっと南に行けば夕張だよねていう 感じだったんですよなので後に幌内から ずっと山の中を歩いてきたんですでまじ 炭鉱っていうのも開口が早い炭鉱なんです けれどこれですねあの要は幌内からこう 歩いてくるん で途中まじも通ってるんですよで なんかここもありそうだね石炭っていう 感じだったんですなのでまじ炭鉱も開口の 早い北端系の炭鉱ということになりますね はいじゃもうちょっともうちょっとこう 拡大して夕張えいきましょうかはいこんな 感じですね えもみ山から伸びているのが登川炭鉱です ねこちらは比較的平山が早かったんですよ でカレのとこにもこれ1個鉱山のマーク ついてますけれどもまこちらは真と地下で 繋がってました ねでマ炭鉱こちらは昭和62年に閉山した ま夕張市内では最後まで稼働した北端系の 炭鉱ですねま最終的な運営会社は子会社化 されて北端真炭鉱株式会社とかっていう 感じですで専用鉄道がこれ北端専用って 書いてますけれどもえ専用鉄道ですねえ 北端のマ炭鉱専用鉄道が走っててま一時期 はね価過客混合みたいな感じでお客さんと いうか従業員ですよねを運ぶっていうこと もしてましたで昔はねそのなんか看護症 って言ってなんかそういう感合貿易じゃ ないですけどそういうねチケットを持っ てる人しか乗れないてことでま多分従業員 専用みたいな感じだと思いますでこの沼沢 のですねえところま今まだ書いてないん ですけれどもまこの辺ですか ねまあ沼沢が清水沢駅に繋がってるんです けれども うんと清水沢か南清水沢どっちだうんと 清水沢かうんとま今はねまだ開口すらして ないんですけれどまこの川ですかねこっち かこっちだとまこの辺だと思うんですけど まかの有名なね夕張新炭鉱というのは後々 改されます1970年代に入ってからです ねま石炭政策っていう中で あの石炭会社っていうのは非常にねえ経営 合理化など迫られていくんですけれどもま

本当に安全を度しせざるを得ないような 経営状況だったというわけになってきます そんな中でねえ夕張っていうのは比較的 その地相が深いんですよ石炭がすっごい質 はいいんですけれどもなのでまそういった ね新部最短をまするために最新英の設備を 投じたのが夕張新炭鉱っていうことになり ますま1981年にガス都出事故を起こし て93人の方がまなくなるなくなる もしくは ま生きたままですかねまあ校内に遺体が 残ったままま夕張川の水を抽水して進化 するというまあねお命長大いたしますって いうあの有名なセリフありますけれどもま そういう事故があった炭鉱ですまこの事故 をきっかけにもう石炭産業はオワコン化し てしまったともまとどめとも言われてます ねまこれ事故があった後も南大夕張炭鉱で もえ事故が起きてしまっておりますまそこ ここでも 60何人かな60人ちょっとなくなる事故 ですね起きてますね はい本当に痛ましい事故が頻発するま最新 への設備を投入した炭鉱ほどとは言わない ですけれどもま痛ましい事故が連発して しまうまそれぐらい安全を度しした経営を しなければならないほど追い詰められてい たということですねはいまそういうような 場所がえ沼の沢とか清水沢っていうことに なりますで清水沢農地っていうのもなんか あります ねはいえ清水さにえ農地っていうのもあり ますそれからこういう地目もあるんですね 新清水沢ですま精霊長のことかなと思い ます今でいう あとその夕張新炭鉱のえっと炭鉱住宅があ たのがこの清水沢の量長ま通称川向って 呼ばれるとこですねまこの夕張川を挟んで その古くからある清水沢地とま新清水沢 って書いてありますけれどもまそういう風 になってますで清水サーの方は1950年 代かな開口したの40年あ違うかいつだっ た戦時中かうんと清水沢炭鉱っていうのも あります ね でま清水沢炭鉱の跡地っていうのは今は あの大夕張からあの退避してきた人たちの ねえ居住先の市営住宅なんか立っちゃって も後方もないっていう感じですよね私が 子供の頃はその清水沢の跡地はですね なんか広大な空地だった記憶があります ねはいま書いてありますねここに清水沢 炭鉱って書いてありますでエホにもね こっち書いてありますねこれまエフロ炭鉱 後には繋がるんですけれどもこのなんか

エホコからシミこかなこの繰り込み症の 建物っていうのがね残って るっていうことで ま見に行ったことがある方もいらっしゃる のかなと思いますえっと性骨調とかって いうのはねこれあの清水ダムを超えて入る 地区です ねでこの頃はまだ南大夕張炭鉱どう でしょうこれ改作してないんですかねで北 の方には大夕張炭山とそこから伸びるえ 大夕張森林軌道というのがありますね えっとこっちの方にこの辺にですかね3元 鏡があるんですけどこっちらはうんと うんとなんだっけな下夕張だけ森林鉄道と か主夕張だけ森林鉄道とかてこっちの方に もですねえ森林鉄道が流れうんと伸びてい たパンケもゆパロア方面まで確か伸びてた のかなえそういう感じになってますで当時 は多分まだそんな道路っていう道路もない のでえおそらくほとんどまこの交通期間 この大夕張地区に行く交通機関っていうの はもうこの大夕張鉄道しかないというよう な感じです ねこれが何を意味するのかって言うとえ そう簡単に待は出れないよっていうこと ですよね はい 次に見ていきたいのがま若平和地区です ねはい え夕張鉄道がですね夕張市内に入ってきて ま最初の駅は西沢なんですけれどもま こう最初に出てくるのが平和炭鉱ですね 平和炭鉱もね今でも高口残ってますよねま 私も見に行ったことあるんですけどあと 夕張鉄道時代のその橋梁とかも残ってます ねあのサイクリングロードに転用してるん でまそういう関係とかなんですかねで私が 平和炭鉱の高口を見に行った時はなんか 手前にねガーダー橋みたいのがねバンバン バンってなんか放置されてましたね放置さ れてるのか仮置きされてるのかわかんない ですけど何かから撤去して多分となんか 置いてたんでしょう ねはい で若これに結構住宅書いてありますね こちらはですね若は非常にちょっと複雑な 経緯をたどってまして最初確か新夕張炭鉱 として開口したのが若ですかねま後にね新 夕張炭鉱って今のマウントレースのところ になるんですけれど本当の最初の親夕張 炭鉱ま早くに閉山してたのかな戦前とかの 話なんですけれどえ若地区にですねこう 炭鉱ができるんです よでですね あのまおそらくその関係でそれなりに住宅

で後に平和炭鉱のですねタコも確か若に できできなかったのかな 結局あったんだったかなかったまとにかく ですねま平和炭鉱の航空が若の方にも伸び ていたということになりますちょっとね この辺はね奥が深すぎてその時代による 会社の変遷とか航空の変更とかがありすぎ て私もねモーラしてませんちょっと正直 言うと はいそれからちょっと行くと鹿の谷ですね ここは夕張鉄道の機関区があったっていう ことでえ非常に賑わった地域です ねこっからはさらに拡大していきましょう かま夕張本庁ですねはいでここの親夕張 って書いてあるところのこの炭鉱これが 夕張参考ま工業工業所性を敷いていた時代 は夕張参考ですねで後に工業所生が廃止さ れてま子会社化していく中 で新夕張炭鉱っっていう会社になるんです よでその後なんか松島炭鉱とか島校もあっ たかなの2つの会社にさらに分離して断 整理して平山するっていうような炭鉱です ね今でも高口から水出てますね山の斜面に あり ますで夕張本町ですねであと高松これは あのズス線とかが見える場所ですねはい あの高松ずりしてユシロとかつってあり ますね墨染めっていうのちょっと初めて 聞いた名前ですね福積にね神社とかがある のは知ってるんですけど今はねもうの高松 にしてもこのま福積とかの方にしてもです けれど完全にですね立ち入りすらできない ような感じになってます ねはいもうね単重の後もないしっていう ような感じです昔はねなんかこの福積地区 になんか戦車のなんかモジュールみたいな とか置いてたみたいですねなんか映画の なんちゃらっていうの でで夕張炭山ですねで定美これ定美は一向 の方ですねでま後々この新部化した夕張 炭鉱のえ合理化のために夕張新第2炭鉱 っていうのができるんですよでこれがです ねあのいわゆる石炭の歴史村とかの方に あった炭鉱でまここに書いてないんです けども大神行っていうこの川ですねこれ この大神の沢って言うんですけれどもこの 川の上流部のまこの辺ですかねにあの大 進行っていうのが今でも後として残って ます ねはいまそういう感じになってますまあと 夕張市内としてねこう西沢っていうのも ありますねでえ大体日の出の手前で夕張と いうことになりますこ西沢にね遊園地あっ たっていうことで知ってる方も多いと思い ます実はま私のご先祖さはですねこの夕張

のじゃないや栗山の日の出に開拓で入植し てましてあのねうちでは本家本家って言っ てるんです けれどまそのこのカクタの手前に住んでた んですねだから私の祖母は今はなき日の出 小学校の出身なんですけれどもま要はま うちの親から見ればじいちゃんばあちゃん の家っていうことになります けれど [音楽] あの西沢遊園地に遊びに行った記憶とか あるみたいですねま麓ですからねま昔はま うちは札幌なんですけれどま祖父祖父祖母 はうんと最初の頃はコニーに住んでた みたいで昭和40年にですねえ私の故郷で あるシカに引っ越してきたっていうことで 昔はですねあの夕張のま祖父母から見れば 実家に規制する時は夕張鉄道に乗ってえ 入った実家に規制したっていうお話も聞い たことがありますでですね もうこのま農家なんですけれどここの夕張 鉄道がこう通ってるんですけど道路に並走 してるんですよ こので道路と並走してるもんですからその 道路の向いに畑があるんですよだこの家出 て道路があって線路があって畑なんですよ ねだから昔聞いた話で畑で遊んでて石炭 列車にぶつかって列車止めちゃったこと あるとか石炭列車なのかわかんないです けどディーゼルカーも走ってたんであれ ですけどなんかね列車に引かれそうになっ て止めたことあるとかいう話とかも聞いた ことありますあなからねこれ線路の後 みたいな本当そんな感じですねま地底の跡 とかね栗山町内も結構残ってるんで まねそういうのは見ながら昔子供の頃は もうちょっと残ってたって感じですけども ね はいま継立もねとかあの角太古先教とか ありますよね今でも残ってますよねそれ から継立の駅の駅舎はねなんか事務所に 転用されてますよねこの継立駅 ですま本当そういうような場所ですよね 懐かしいですねしばらく言ってないですね 私も栗山とかってねもうもう就職して しまうとなかなか行く時間ないですねはい まそういう感じですまあの本当例のね栗山 といえば有名な心霊スポットのパーキング エリアパーキングエリアてあのモーテル みたいなやつあるじゃないですかあそこな んですよあそこね本当遊び場でした子供の 頃その本家のね家のお兄ちゃんがあったと ねあそこの駐車場っというか要は前が駐車 場ですっごい広いんでねあそこでサッカー とか昔よくやってましたまだ建物残ってた

んでね当時は建物の中入るっていうことは しなかったですけどもま私他にあの北海道 怨念地図っていう動画出してますけれど ああいうのでもねよく取り沙汰されてまし たよねなのでま心霊スポットであ るっていうことは知ってたんですけれども あまりにも身近な存在すぎて恐怖はなかっ たですねでよくお兄ちゃん方とサッカーと かしてねやってました懐かしいですねはい ま なんかがどうとかって最初言ってたんです けども本当なんか夕張とか本当ね私夕張も ねシャコタン半島と同じぐらいま栗山です けどねこうやって思い出の深い地域なんで あの本当にねなんか話し出すとあっという 間に20分過ぎちゃいました ねま私はね母方がそういう言ないとかま スッツにお墓があるんです けれどそれから父方が栗山ま夕張方面って いうことでね山も海もっていう以上に 恵まれたえ環境でえいろんな経験させて いただいたっていうような本当に ありがたいお話ですねはいまそういう ところでですね え今回は昭和42年の夕張方面ということ でまちょっとえお話をさせていただきまし た本日もご視聴ありがとうございました

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