戸畑駅前

古代、戸畑は鳥旗と記され、古代から中世にかけて飛幡・戸幡とも書いて「とばた」と呼びました。それは、洞海(くきのうみ、洞海湾)の狭い入口である岫門(くきと)の端のことといわれています。その南の海岸は汐(塩)井崎で、現在の戸畑駅付近になります。

鎌倉時代、東国の御家人宇都宮氏は山鹿荘に入り、山鹿氏を名乗りました。その一族は山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の地頭代職に就き、麻生荘に因み麻生氏を名乗りました。南北朝時代以降は、麻生氏は花尾城(八幡東区・八幡西区)を本拠に、現在の北九州市の半分に当る戸畑区・八幡東区・八幡西区・若松区を含む遠賀郡を支配するようになりました。浅生の地名は、戸畑にあった麻生荘によるものです。

安土桃山時代の天正年間(1573-92)、現在の枝光八幡宮から八幡大神を戸畑村・中原村の産土神として汐井崎に分祀しました。麻生氏が筑後に移されると八幡神社は衰退し、江戸時代の寛文年間(1661-73)鳥旗に社殿は移されました。また、中原村の八幡神社は、現在の中原八幡宮となりました。1920(大正9)年、八幡神社は浅生に遷座されました。戸畑駅の北側に東から西に元宮町、明治町、北・南鳥旗(とりはた)町、銀座という町名が並んでいます。元宮町は八幡神社が浅生に遷座されるまで社殿があった所といわれています。

江戸時代より、米とともに石炭が遠賀川から堀川や江川を利用して洞海湾に入り、その出口に近い若松に運ばれました。底の浅い舟の川艜(かわひらた、五平太船)で運ばれました。明治になっても川艜で石炭は運ばれました。1891(明治24)年若松・直方間の筑豊興業鉄道(のち筑豊鉄道と改称されます)が開通しました。

日清戦争後、我国は重工業の発達に力を入れ始め、1997(明治30)年洞海湾岸の遠賀郡八幡村に製鐵所が設立されました。同年筑豊鉄道は九州鉄道(現在の鹿児島本線を開通)と合併し、九州鉄道になりました。1901(明治34)年製鐵所は操業を開始しました。当時の黒崎・小倉間は、現在の鹿児島本線の海岸ルートと違い、内陸ルートでした。しかし、1902(明治35)年、海岸ルートが開通し、戸畑駅が開業しました。

現在の南鳥旗町には1890(明治23)年戸畑村役場が設置され、その後村から町役場になり、1933(昭和8)年に移転するまで市役所がありました。戸畑駅の北側が戸畑の中心でした。

1905(明治38)年日露戦争は終わりますが、その間に石炭の需要は急速に高まりました。1907(明治40)年、九州鉄道は国有化されました。当時の駅舎は線路の北側にありました。戸畑が発展するとともにその中心は南に移っていきました。1964(昭和39)年、戸畑駅の駅舎も南側に建替えられました。

現在の戸畑駅の北の銀座はかっては築地町と呼ばれていました。1900(明治33)年築地町一帯と一文字島の埋立が竣工し(明治33年の地図の中央付近の白地の大きい方が築地町一帯、小さい島が一文字島)、牧山埠頭付近の埋立が1912(大正元)年竣工しました。埠頭には大型汽船が3隻接岸し、牧山の北にあった都島はなくなりました。

東洋製鉄が渋沢栄一らによって設立された東洋製鉄があったのは、現在の川代の東側から北の飛幡町、更に北の日本製鉄九州製鉄所八幡地区(戸畑)構内に当たります。1919(大正8)年に操業しますが、第一次世界大戦後の不況に遭遇します。1921(大正10)年、八幡製鐵所(日本製鉄九州製鉄所八幡地区の前身)は戸畑にあった東洋製鉄を吸収し、戸畑作業所にしました。これが八幡製鐵所の戸畑進出の足掛かりになりました。

1922(大正11)年、中ノ島と戸畑町の間から沖に到る新航路を浚渫し、その土砂を現在の川代の東の埋立に利用しました。川代の東の埋立の北への延長で、名護屋岬の西まで、八幡製鐵所の戸畑の埋立は1921(大正10)年着工され、戦後昭和50年代に竣工しました。

一文字島沿岸の埋立は1922(大正11)年着工し、1926(大正15年)に竣工し陸続きになり、現在の銀座の地形になりました。1929(昭和4)年、共同漁業は下関から戸畑の埋立地に移転して来ました。一文字岸壁にトロール船が接岸し、一文字埋立地に製氷冷蔵工場、荷揚場、魚市場、加工工場、缶詰工場、事務所が建設され、関係関連会社も建設されました。共同漁業をはじめ多くの水産関連会社が統合され、1937(昭和12)年日本水産が発足しました。

洞海湾の出入船の利便性を向上させるために、中ノ島の切取が1940(昭和15)年に行われました。切り取った土や浚渫土は、並行して行われていた戸畑商港埠頭築造の埋立に使われました。埠頭は川代から北西方向に洞海湾に突き出すように築造されました。

埠頭の東側の商港は1942(昭和17)年に、西側の漁港は1946(昭和21)年に竣工しました。埠頭の漁港側に日本水産の工場が建設されました。ここで魚肉ソーセージの開発を始め、1952(昭和27)年に本格生産を始めました。現在埠頭は戸畑埠頭と呼ばれます。

若松と戸畑の間には、戦前より海底トンネルの計画がありました。戦後は国防的見地のトンネル案に変わって、橋梁案が推進されました。1958(昭和33)年日本道路公団により着工され、1962(昭和37)年若戸大橋は開通しました。当時東洋一の吊橋で、純国産の技術と材料で建設されました。

若戸大橋は当初片側1車線の歩道付きでしたが、モータリゼーションのスピードは予想外に早く、1984(昭和59)年~90(平成2)年の工事により、歩道はなくなり片側2車線に拡幅されました。若戸大橋の開通で若戸渡船は廃止されることはありませんでした。

若戸大橋の渋滞解消と、若松響地区と戸畑・小倉との交通アクセスをスムーズにとの要望から、洞海湾を海底トンネルで横断する新若戸道路が計画されました。海底部分は沈埋(ちんまい)トンネル工法が採られ、従来のシールド工法に比べ海底を深く掘る必要がなく、陸上部のトンネルが短くて済むため、経済的で、短期に工事で完成することができました。

戸畑区新池3丁目から若松区安瀬まで4.5kmの新若戸道路のうち、第1期工事2.3kmが2001(平成13)年着工し、2012(平成24)年開通しました。このうち2.1kmを若戸トンネルと呼び、若戸大橋と同額の有料でした。2018(平成30)年、 若戸大橋と若戸トンネルは無料化されました。

1999(平成11)年、現在の戸畑駅は先代より120m西に新築されました。駅舎の中央に、地下道の南北公共連絡通路があります。北口から北に行った先に、北九州市営若戸渡船戸畑渡し場があります。人と自転車を運ぶ大人100円の3分間の船旅です。1889(明治22)年以来、伝馬船での渡船がありました。1910(明治43)年に汽船になり、1919(大正8)年若松市・戸畑町の共同事業になりました。

若戸大橋の下、戸畑側の橋台の横を通って右、東に行くと、洞海湾側に戸畑祇園のお汐井汲みの場があります。ここで、神職が榊の枝でお汐井を山笠や山笠関係者にかけてお祓いをして、祭りの安全を祈願する神事が行われます。

海沿いの道を東に向かいますと、左手に戸畑埠頭が伸びています。戸畑埠頭の手前の西側から先端を見ています。先方の左手に日本水産戸畑工場があります。右手は戸畑埠頭の中央を通る新若戸道路です。戸畑埠頭の先端に来ました。この先若戸トンネルは、洞海湾の海底を左に弧を描いて進み、左側の白い建物の左側が若松の出入口になります。若戸トンネルのトンネル部分は776m、海底部分は557mです。

若戸渡船戸畑渡し場の反対側に行きますと銀座に入ります。そのまま西に進みますと旧共同漁業ビルがあります。日本水産戸畑本館ビルと呼ばれます。そこを南に進みますと、右手にかっては日本水産の工場がありました。

戸畑駅の南口を出ます。東側移転跡地には、総合福祉プラザ、ウエルとばたが建設され、福祉活動の拠点になっています。南に4階と北に12階の建物があり、低層の建物には戸畑市民会館のホールがあります。低層南側2階の外側にペデストリアンデッキ(歩行者回廊)が設けられています。駅前は県道50号八幡戸畑線が通っています。

県道50号の北側に架かっているペデストリアンデッキを東端まで行きます。県道50号と県道271号下到津戸畑線との交差点に架かってい歩道橋にペデストリアンデッキがつながります。歩道橋を下りて行きます。県道271号は中央通りと呼ばれます。古くからこの付近が浅生と呼ばれていましたので、浅生通りと呼ばれていました。

中央通りの南側に中本町商店街はあります。そのアーケードの通りをあやめ通りといいます。戸畑あやめに因む命名です。その中程から左右に分かれます。そこを左に行き、アーケードを抜けた道路は旧電車通りです。左のアーケードを抜けた先の旧電車通りを直進すると、飛幡八幡宮の参道です。

中央通りを西に進み、旧電車通りが交差するのが浅生交差点です。そこから更に中央通りを西に進みます。孫次凧の店があります。孫次凧は明治末期から地元で作られている手作り民芸品で、セミ、鶴、達磨、フクロウ、鬼、ウサギなど種類が豊富で、鮮やかの色遣いとユニークな形が特徴です。

孫次凧の先で通りは二つに分かれます。右側が中央通りで、そこに飛幡(とびはた)八幡宮の鳥居が立っています。先程は西側の鳥居ですが、こちらは北側の鳥居になります。江戸時代に鳥旗に移され、1920(大正9)年ここ浅生に遷座され浅生八幡神社といわれましたが、現在は飛幡八幡宮です。

飛幡八幡宮の北側で中央通りともう一つの道路が分かれましたが、二つの道路に挟まれて浅生第1公園があります。公園の形は三角形で、公園とそれを取り巻く道路が戸畑祇園大山笠競演会会場になります。公園の東側の道路に沿って戸畑区役所の新庁舎が完成し、2007(平成19)年1月から業務を開始しています。

3階の建物が戸畑区役所で、外部が階段状になっていて、戸畑祇園大山笠競演会の観覧席になっています。戸畑祇園大山笠は、昼は幟山笠で、夜は提灯山笠に変わります。祭りは7月の第4土曜の前後3日間行われます。戸畑祇園は飛幡八幡宮・菅原神社・中原八幡宮の神事です。

浅生第1公園の花壇に戸畑あやめが植えられています。普通のあやめより小さく、5月上旬から中旬にかけて花が咲きます。明治末頃まで自生していましたが、その後は姿を消し、幻の花といわれていましたが、1957(昭和32)年大谷地区で株が発見されました。

戸畑区役所新庁舎の北側交差点の対角に旧庁舎があります。この建物は1933(昭和8)年旧戸畑市役所として建設されました。現在は戸畑図書館になっています。東側の玄関側からは2階建てに見えますが、敷地の傾斜を利用していますので、鉄筋コンクリート造り3階建てです。

旧戸畑区役所庁舎の玄関前に国境石が置かれています。豊前と筑前の国境をしめしたもので、1702(元禄15)年頃小倉藩が境川の川中に建てましたが、洪水で流され、1842(天保13)年再建されました。しかし、区画整理事業に伴い、1957(昭和32)年ここに移されました。

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