イオン環境財団presents 山極寿一と語る屋久島のこれから② ~兵頭昌明さん(屋久島を守る会 初代代表)~

兵藤正治さんは八島一層のお生まれで東京 航空地方気象代に10年務めた後八島に 帰ってこられまし た八杉原生林の全面伐採禁止を訴え結成し た八島を守る会は国や県や町を動かしその 後も自然保護活動に従事されてきましたお 2人には原林を守る活動がここ島でどの ように広がっていったの か世界遺産登録から30年の節目に思う ことなど含めてお聞かせいただけたらと 思いますでは山木様兵藤様お願いいたし ます兵藤さんお久しぶりですいや私兵藤 さんと初めてお会いしたのは確か1976 年か77年だと思うんですけれどヒドさん が一層で月曜の夜の会やってたんですねね で私は長の柴徹生さんにあの紹介して いただいてバイクで一層まで同僚の丸橋君 と一緒に行ったんですでそこでお会いした の が今宮野にいるえ長井三郎さん八島を守る 会の人たちですよねそから白山 からひ正夫さんそして えまあの詩人のねあの山尾三世さん こういった方々が来て八島の将来どうする かっていうね勉強会をやってまし た島守る会は八島にひどさん帰って来られ てから結成されたでしょうそうですねあ はいあの当時はどういう問題が1番あの薬 を守る会の課題だったんでしょうか あの当時はもうあの国有林の経営10年 ごとにに行われる専業計画案に乗って全面 伐採がこう進んでいく大面積がねどんどん どんどん減っていくという状況でしたから ねうんそれをこう間のあたりに見てまして これは本当にどうなのかなといううん思い からです ねあのま私たちがあのヒドさんたちと 関わった話はセ川羽がの話が大き大きかっ たなと思うんですけどはいあの私も先ほど ちょっと紹介しましたあの当時の レンジャーの高丸さんと柴徹生さんたちと セレのウガ上の方を歩いて伐採跡とその これから伐採される予定のセギ川右眼の 美しさに心を打たれましたでこれはもう 本当に残さなければいけないなと思って ただまやはり相当地元の反対とかは いろんな意見に遭遇してひどさんも随分 苦労されたんじゃないですかねうんそう ですねあの私たち私が帰ってくる前にね 東京であの八島高校のあの卒業生の若い人 たち若年村人たちとですね役の会というの を東京でやってましてねでその当時ですね 昭和ま1960年代ですけれどもあの島の ことがあのいろんなメディアであげられる からあの縄文式が発見されるから日本学術

会議で保全の決議がなされるなんという 時代でしたです ねそういう中でまあのそれまで役しまって どこの出身ですかなんていうのも小さな声 で役ししか言えないというそういう時代 だったわけですよねでその中でまあ日本 全国あの至るところでそういう公害問題な 中が出てきてそしていろんな住民運動が こう起きてくるというそういう中であの 我々もそういうことにこう関心を持つよう になってそれでその中で1番やっぱ感じた のはその八島のことを外であの非常に いろんな論じられる論じられるんですけど も中からの議論が何にも聞こえてこないと いうのがね苛立たさを感じてこれはなんと かしなきゃいけないなというのがま思いで 島ま帰ってきたわけですけれどもねそれで ま あのやったのがとにかく え八杉原青林の即自全面伐採禁止という スローガンを掲げてですねえ10人ほどで 役所守会というのをスタートさせていった わけです よでそれはもうあのとにかくあの外 いろんなあの方々からいろんなアドバイス はありましたそのスローガがあまりにも あの過激すぎるとそういうことでは なかなか運動として成り立たないんじゃ ないかとかですねそれで例えば焼島を守る 会とは何なのか八島の自然を守る会とか島 を薬を守るかとかっていう形の方がより その実行が上がるんじゃないかとかねそう いう風なアドバイスも色々あったんです けれども僕らのそのそういう時その時の その思いというのはとにかく島のことは俺 たち島の人間が決めるん だこの1点でもとにかく凝り固まった組織 だったんですけどねうんいやあの私も長田 でま長いことあのま村の方々とお話をし たり暮らしてみてやっぱり印象に残ってる のはやっぱ 国に対する信頼の 欠如国は偉いことやってくれたわなという ま明治にねそのあの訴訟をして負けたん ですよねその八島というその奥山前山と 言いますが奥山も含めてあれはあの八島の 富のものだという風に訴訟起こしたんだ けどま国が勝訴してでほとんどが国有に なってしまったというところから国に 対するやっぱり信頼がっていうか警戒心が 強くなって国がやることはやっぱりまた俺 たち利用されるんじゃないかっていうな 思いが結構あったんだとそうですねあの 八島ってのはそういう意味でですねあの何 度もま大きく分けて3回は住民から八島の

その山というものが切り離されてきた歴史 を持ってるわけですよねうんまずはあのさ 班が要するに薬を売してそれをこうあの税 の代わりに取り上げるというなやり方で うんやり方ですよね2度目は明治政府が できて起訴改正うんその時に要するにま もう島の中の人間がとその官民のその教会 を巡ってですね例えば長田での牧晋三 あたりのその話がま今でも残ってます けれどもそういう戦いをやった時代でね もう1つはねやっぱりその3度目のという のは先生さっきの中での話がありました けども世界自然遺産というかそれもですが その前に環境保全地域の指定うんこれは1 つあの考え方を変えると我々の世界から 見るともう切り離されてるというか落ち葉 1つすら取ることが規制できるうん網だっ たんですよねそういうものに対するその僕 らのそのこうなんて言うのかな島ちんとし てのそのつまり保全地域という名のもに 立ち入り検修するようなはいそういうまあ 島民を阻害するようなあの話になって しまってはまずいとそういう警戒心ですよ ねはいあそれはよく分かります私も アフリカで国立公園で仕事をしてました からあの実は日本の国立公園って緩いん ですよあのもちろんあの規制はねランクに よって違いますけど第1種第2種とかて あってであの今あの島の各地域は特別地域 世界遺産地域ですからあのね要するに草 伐採とかそう一切できないんですがあの 国立公園自体はあの建造物を作ってもいい とかあるいはあの魚を取ってもいいとかま いろんな あの規制を受けないような場所があります ところはアフリカの国公園っていうのは 一切ダメなんですねで何かあったら謝さ れるぐらいあの厳しいですだから日本の 国立公園は実際は国立公園のレベルに足し てないという国際的に避難を受けている あのところも多いですまただ焼島の歴史を 考えるとま呼吸輪であのねま有用剤を どんどん伐採して薬すぎなんてどんどん 切れれちゃったわけですからまずは島に 取られそれから国に取られで今度また島民 の立ちを禁止するような世界自然遺産と いう法律ができるのかってそう思ったら よく分かりますだから先ほど小野さんが おっしゃったように あの公民会議委員会は多分荒れたんじゃ ないかと思うんですけれどでもその中で 保全をずっと提唱されてきた要するに薬を 含む一切切るなっていうことを厳格に宣言 したその立場からする と八島をそのま世界遺産というのは唐突に

振って湧いたような話だったかもしれない けれども兵藤さんの構想とそれほど違って いるわけではなかったんじゃないですか いやあの基本的なところでですねちょっと というのがあるわけですよねそれはねあの 先ほど小野さんの方からい話があります その中であの委員会が世界指遺産れるため に地元委員会なんていうのもありましたし 環境文化村構想のであの第この間引っ張り 近最近その資料いっぱい引っ張り出してみ ましたらですねその中でですね第1回の ですねあのこれは第1回八島環境文化懇談 会というのが開かれてるんですけどねその 時のこの報告書がここにコピがあるんです けどねこの中でですねいろんなその先生方 がいろんなことをこう理想的なことを立派 なことこう述べておられてそれがあになっ てるんですがそこでですね1つ私が気に なったのはですね地元委員の意見を省略に なってるんですはい省略ですか省略です ですからそれはもう完全にこの報告書の中 から漏れてるんですねうんうん うんだからねま正直言ってですねこの環境 文化村構想というのとしてはそういう意味 ではこうもう当初からねうんちょっとうん という感じで身がまえましたねうんうん あのま私はずっとその間ま猿を研究するま 研究者としてあの関わっていたわけです けども研究者ってやっぱりすごく微妙な 立場にありましてねあの国もそれから地元 も科学的なデータを根拠にして言い合いを するわけですよねで先ほど猿のビデオが出 てましたが大変じじたる思いがありまして お前たち猿の研究をしてるのにねポンカン バカが猿を追い払う方法すら考えつかない のかっていう風に随分避難されましてあの で1919年にですねその立体猿はこの ポカ畑を荒らしに来る猿って何とぐらい いるんやっていうその問いにお答えしよう と思って騒動院をかけましてその海岸線を ずっと白みつぶしにあの調査をして猿の 頭数を数えたことがありましたあの時ね 確か2000等ぐらい数えたんですけどね やっぱりあの奥山でどんどん伐採が始あの 行われているんで猿が住処を失って山を 降りてきてでそれ はひょっとしたら低地で海岸部で猿を取れ ば取るほど山からどんどん空白部に猿が 降りてきてそのうち猿はいなくなっちゃう んじゃないかっていう懸念もあったんです ねそれであの半屋君たちの関連の上の方の 調査が始まったわけです上の方にいる猿が 簡単にあの海岸部に降りてくるのかどうか というですねでそのか降りてこないという ことが分かっただから上の方の猿の食べ物

と下の方の猿の食べ物違うんですねでこの 世界遺産の問題に関しても私たちは地元に 住みついてあの調査をさせていただいて ましたから地元の方々の思いもよく分かっ ていただけどおそらく あのここで踏み切らなければ多分あの世界 遺産というのはやってこなかっただろうと と思いますであのさっきも言ったように 1992年に日本が批准してその次の年に もあっという間に役し世界遺産になりまし たからねものすごいスピールだったんです よで小野さんが宿も言ってたように30年 かけてやっとその理念がお分かって くくれるようになり始めたかなと感じてる というぐらい本当は時間をかけて 議論しなければいけないものだったんです しかし政府の方針というのは待ってくれ ませんから多分役人だった小野さんはそ 踏み切ったんだと思うんですよねそれで おそらく 多くの方は戸惑った世界さんって一体何や とだって私だって知らなかったんですから ねそしてその対処の仕方もまはっきりし なかっただから思考錯誤の時代がおそらく 1990年ではずっとそうだったと思い ますよね その 反応というのはどどういうものだったのか いや実はね私あの1970年代80年代神 役長長田にいましたからあの当時神役長と 役長があったんですよでその神役所と役所 ってのまた全然ね違いますよねでそういう 中で私は神役所の方々とばっかり付き合っ てきたわけですけれども兵さんはまあの島 絶対のことはよくご存知だと思いますので その辺りも含めて遺産後の島の反応はどう だったのか あの世界自然遺産登録というののはですね 我あの私個人の例えば理解としてはですね そもそも論から行きますとね あのなぜその世界自然遺産という風な形に そういう風に話が進んででいくのかなと いうその世界自然遺産とは何ぞやというの があってそれはね私の中では4千層第4次 あの日本冷凍の改造計画があって第4次の その流れの中でこの環境鹿島県が環境文化 村構想というのをそれを受ける形でそれで サンオーシャンリゾート構想ということで 西武系の あのリゾート法ができて西武系の資本が南 殺と種役に入ってここをその開発するんだ という3オシャリゾートという その構想が出てきたわけですよねそうする とねそれで出てきたのがまず1番最初に出 てきたのがゴルフ場の

建設その次に出てきたのがねえっと ロープウェ 構想鉄の頃でしてねうんそれで鉄関係の ところが要するにそのロープ縄文すに ロープウをかけようと縄文すまでねそして あの当時のあの長長さんたちがね兵力なん で反対するんだとロープウを使えばね途中 もね人も踏みあらさないし東圧もかから ないからいいじゃないかというようなこと でしたねそれでそれがその今度はせあのせ 国家せ備蓄基地石油備蓄基地構想というの 出てきましたねでそれにも八島も手を上げ てあの仲間海岸の今でサーファーの人たち のめっかになってますけれどもあそこのに 備蓄基地ができようという話があったわけ ですそれでその中でねその帰りの船が殻で タンカーが行くんだからそのタンカーに水 を積んでいったらというそうかその話です よねそういう話なんですその水を運んで いってそれでそれどうするんだいえば 向こうに持って行って今度は向こうでその それを浄化してやるんだという風なもう その鉄に対する対処の構想という風にしか あれができなかったでその次にねもうもう 1つね出てきたのがねヨッ幅酵素なんです ありましたねヨット幅ねうんこれを潰すの にも随分苦労しまましたけどねうんま結局 こういうま波がねどんどんあの来てあ荒海 になるとこでまヨットハーバーは馴染まな いってことでまついえましたけどもま いろんな計画が出てきましたね確かにね そう本当にあのこうそれは八島に限らず 日本全国離島壁地と言われるようなところ ではもうそういう開発計画がもう渦巻いて いた時代ですよねうんまよくまあなんて 言いますかねリゾート地にならなかったな と思いますねあれあの皆さんご存じゃうと 思うんですけど宮崎県にシーガイアって いうね大規模リゾートが海岸線にだーと あった時代があるんです今廃屋になっ ちゃってますけどねあのやっぱりリゾー トっていうのはま今世界各種でね大型の リゾート地が開発されていてあの特に南 太平洋の島国はみんなリゾートになりつつ ありますでそこはねもうなんて言うんです かね島民主体ではないんですね大資本が 入ってきて大小本が全部そこを賄ってあの 客の接待をしますから島民はほとんどその 客と接しない場所であの暮らしているだ からそこと完全に切り離されてしまってい ますよねそういう風にはしたくなかった やっぱり今兵さんおっしゃったようにその いや実はね私が焼島守る会と一緒に活動し て赤本塾なんかを作ったりしてみんなで やってた頃に焼島方式っていうね合言葉が

あったんです焼島方式っってあ言葉は あの島民だけで考えるのではなくて島の外 の人たちも迎え入れながらしっかりと議論 をしてでそれをモデルにして世界に発信し ようってそういうやり方ですよねでも主体 は透明なんですで今兵藤さんがおっしゃっ たことて非常に重要でやっぱり世界遺産も そうだしいろんなことが外から押し付け られたものという風に見えてしまうって ことなんですねだからそこを公民が主体的 に考え島民の発想ででもいろんな人々の 知恵も借りながらやっていくというそう いうところにどうやってたどり着くかと いうことをおそらく兵さんはこれまで ずっと苦労されてきたんだと思うんですが その辺りは今進展してますかいややはり なんか30年前となんか1つも先行って ないようなそういう限りではね行ってない ような気をしてますねうんいや あのうんあの頃ま寺田さんとか博新さんと かねもっといろんな人いたんだけどま青年 団が中心になってあの焼島の未来を考え ようっていうことでま細細でありますが そういうこと始まってで世界遺産があの できてからガイドがすごい増えましたよね で八島出身のガイドの方も何も いらっしゃると思うんですがそういう方々 が中心になって焼島をのどう持続的に焼島 の自然や文化をどう持続的に利用して いこうかっていうアイデアは生まれてない んですかですからねあのそういうあの 新しいニュービジネスですよねもうガイド なんていうのはねうんうんうんだからそう いうものがこう出てくる時にやはり その地元の地と言いますかねうん伝統的な 文化であったりうんそういうものがねどう 評価されどう吸収されていくかということ がものすごく大事だと思うんですよね うんうん例えばですねあの焼島では飛びを ってのは飛びっていう魚がねあの1つの 磁場産業として今でも農業あの漁業の中で は飛び量ってのはあるわけですけも飛び合 量ってのは今のような量のあり方じゃない んですよ元々の飛というのうん元々の飛び 量というのは時とびと言いましてねあの ちょうどねそれこそ54月5月頃にあの 飛びそれこそあの八島の方言で言えばね とっぴ花あの飛び大花とかねおあるいはね とぴょ鳥鳥鳥あかこなんあのあれなんです よコトギスなんですよおほほそそれのね 鳴き声をね真似てトピ取ったかとトピ取っ たかって泣くちゃわけですおおれでその あれなんかにしてもね花にしてもねそのと あれが悲鳴なんとあのあれというそのま あれですけど水線ですけどもね野生のね

これがその時期になると咲くんですよね そそうすとさあそそろそろ飛びおりだなで その時の飛び魚っていうのは時飛びで散乱 に押し寄せてくる飛び魚を取るわけです うんうんうんうんそうすると散乱に 押し寄せる飛びをですからね散乱をさせ なきゃダメなわけですようんうんだから 完全にあの階層にその飛びが散乱がし 終わってけ夜明けですけどもねそれでそれ が終わるとすっ浮いてくるうんその浮いて きて外へ出ていく帰っていく飛びを 待ち受けて取るというやり方でやってた わけですよねだからその時にはその裏に あのこう港でやってるわけです船がいまし てね式敷する船があるわけです一見あの組 漁況でねやったそこのその式線敷する船 からね火が上がらないと合図の火が上がっ てからでないと絶対に網を入れてはいけ ない おおそれはその海底からその飛びがサダが 終わってすっと上がってくるまでは取っ ちゃいけない網を入れてはいけないという うんそれ以前に網を入れたその船はその 量器もう絶対に量ができなくなるんです そうですかそれぐらい厳しいそのことで やっていたわけですよね今はもうあのあれ ですねトロール方式ですよね引いて外に 来る飛をとあの救い上げるというやり方 ですよねうんうんだけどそれはやっぱり あのそ焼島の地だとその地元の地だと思う んですようんそうですねやっぱりあのま 役所に限らないけれどもそこで得られる 資源というのは限りがあるからそれを持続 的にあの伝統的な漁法で絶やさないように 取ってきたそれが今の科学的なあの手法で もってごそにしてしまうとそういうものが 本当に在しされてしまうてことなんですよ ね私もそれは随分聞きましたでそういう ものをね その何でもたくさん大量生産大量捕獲すれ ばいいという話ではなくて そういう伝統的なやり方を残しながら持続 的に利用していくってのはまさにさっき 言った環境文化だと思うんですよねでそれ をね実はやっぱり未来の世代に伝えてか なくちゃいけないでヒドさんずっと川の 学校山の学校やってましたよねはいでね僕 ねそれすごく印象残ってんだけど実は僕は 島で学んだことをあのアフリカで 役立てようとしてアフリカのの今後や ガボンで八島と同じことを始めたんですで ねアフリカで活躍してるエコツーリズムの ガイドを何人か八島に来てもらって八島で あの話し合いをしたことあるんですその時 にねアフリカのガイドが口口に行ってたの

は八島のガイドは八島の子供たちを教えて ないっていうんですね外から来た人のガド はするけれど本当に重要なのは焼島の子供 たちを教える教育的な役割だだって焼島の 自然1番よく知ってんのはガドたちなんだ からそれを焼島の子供たちに伝えなくて どうするんですかてそういうことを言って ました彼らはもちろんあのねインバウンド の客たちからお金を得てガイドやってます よしかしあのアフリカの地元の子供たちに 対しては無料で自分たちがあのお金を払っ てでも教えようっていうあのま義務感を 持ってましたそれがね八島では見えなかっ たっていうのがね彼らの不満だったんです がまそれを兵さんたちはあの自らやって おられてでそのシステムを私は実は昔利用 させていただいて大阪の子供たちを連れて きた時に川野学校で体験学習をして いただいたことがあるんですがそれは未だ にねその川で泳いだあの実はみ顔をね上流 からねダーっと子供流したんですけど ねちょっとねとんでもない冒険でしただ けど子供たちはその冒険を未だにねもう みんな大人になってますけどあのいい 思い出だなと思ってそれが今役に立ってる と言いますねだからやっぱりまずは次世代 の子供たちに焼島のことをよく知って もらい子供たちから子供たちに外から来る 子供たちに教えてあげるような形を残して いかないといけないんじゃないかなと思う んですけどその辺はどう思うんですそう ですねまあのまさにもうおっしゃる通りな んですがねでま我々はま今でもま山学校 っていうのはやってるんですがこれはあの ちょっと説明しますとねまず入行したあ 小学生小学校4年生以上で中学生まで対象 にするんですが入行した時にあのまず日5 の神皆さんひの神ってご存じですかこう ナイフですけどねひ5の神を1本ずつ 与えるんです子供たちにそして刃物を研ぐ ことを教えますひの神を研ぐことを教え ますそれその問だ日の神で持って1年間 それから1年間使う自分の前端橋を竹で 妄想だけ終わったやつで作るわけですね そして次にはその火を炊くことを教え ますどうやったら最近の子供たちはあの マッチを吸って火をつあの火を起こすなと いうことを体験したことないと思うんです よ ねでかの作り方からどういう風に作ったら いいのかだからま刃物を与えてそで火を 炊くことをしてそしてですねこの最後の あのあれの中でね1番最後の仕上げはです ね海に行くわけです海岸でキャンプをする わけですそして寄ってきてる寄りを全部

集めてきて塩たきをするん です塩を作るんですねではいでもう卒業の 時には学校終わって帰る時にはみんな それぞれが家庭に自分のうちに作った塩を 持って帰るわけですだからね刃物を使って 火を炊いて塩があればですね 大体人間生きていけるんじゃないかと思う んですよね焼島だったら特に生きていき ますよそうですねいや僕もねあの安島から アフリカへ行ってま色々ジャングルで 暮らしながら本当に思ったこと は今世界中で人口の半分以上が都会に住ん でますけど都会の人達て自活できません なんせ魚釣ることも知らないしねおそらく 今の若者は火をつつけることも知らない ですよねみんな電気仕掛けですからねま ガスはあるかもしれんけどいや本当に無力 ですよで無力になればなるほどシステムに 操られやすく なるでも焼島に来てね今ひさんおっしゃっ たように自分で火をつけてで何らかの食事 を作ってで例えばあの私は学生の頃長川で ね あのエビ取ったもんですけどで美味しいん ですよ大きいエビでねでそういうことを こう自分の力で食べるところまで行くって いうね経験をした自信というのは結局 サバイバルにな状況に陥った時に生きるん ですね自分で自活でできているからこそ 助け合いていうのは成り立つ自分で何も できないとつけてもらばっかりですから あのアフリカで暮らしている資料最終の 方々っていうのは自分で何度もできます今 ひさんおっしゃったようにあの自分の ナイフで何でも作ります家具だって作るし 家だって作っちゃうわけですよねで も自分の能力をあえて あの自慢層にひけらかさないでみんなで 協力してやるそれが彼らの意ざです僕は そっから学ぶところがすごく多かったです でおそらく八島の古い世代な人たって みんな自活できたたと思うんですよねでも それを今の子供たちに教える機会がない むしろ あの焼島の子供たちは都会の子供たち以上 に自然を知らないかもしれないですよねで もあのさっきちらっと野さん言ってたけど 今 島の子供たちは僕は私は島出身なんだてほ 資源語るそれはね島が自然遺産になっ たってこと以上に焼島の自然を自分が知っ てるからっていこう裏打ちされた経験が あってあのもっと誇りを持てるんだろうと 思うんですね焼島って一体どういうところ ですかって聞かれた時にまそれ

は自遺産の本に書いてありまっちゃダメな んですよねあのそれは ね海外に行くとみんな思うことですあの あなたどこの出身日本人ですって言っとね 日本ってどんなところっていう時に きちんと語らないといけないんですよねで それがその語りの中でその世界の人たちが 体験できないようなことを自分が体験し てるとそれが大きな話題になってあの信頼 関係を結ぶことができるそういうことを 子供のうちに体験してないとあのね 薄っぺらなその一般論だけで渡り合うこと になってしまうそれはねもったいない話だ と思せっかくこのあの焼島に生まれたんで 育ったんだったとしたらね焼島の出身者で ある誇りを持つんだとしたら焼島のことを 少しでも分かってまあのいい課題もあるし 悪い課題もあると思うんですけれどそれを 是非外で生かして欲しいなと思うんです けど [音楽] あの今後の未来としてねその兵さんはまあ なんていうかな役者は守るかその守るかと いうのはねその目的をつけなかったのが すごいと思うんですよ焼島を守るんだから ね文化だろうが自然だろうがもう全部 守ろうとしてるわけでしょでその守るべき ものは一体何ですかあのねこれちょっと あの差し障りがあるので実明は酒 はい あの面白い話がまちょっとしてみたいと 思うんですけどねあの都会へ出ていた人が ね家族連れでま里してきたとるとその実家 の人たちがねこれを招待すあの接待するの にね え海へね船を貸し切って海へ出てその日は ね海で魚を取ってそれを釣ってそこで両て 食べるというまことをやろうとやったわけ ですよねでその時にその魚をつするのも ですけどもつくあの潜ってねつく人をお 願いしてでその人を乗せて案内してで船で 起き出たそれであの背を走りながらその その人が行って潜っていって伊勢エビを 取ってきたそとね次船を動かせてまた次 動かすそうするとまた潜っていくまた1匹 取ってこれはおかしいなちゅうことでね そのもあの主催した人がねその潜る人の後 ついてもったちゅうんですよそしたらね何 のことないいっぱいいるんですってその エビの穴がちゅうかそれがちゃんと分かっ てるはいはいはいはいええそこにね群れて いるのそ1匹しか取らないおおで次に動か せてや うそうですかあのねあの実にこの象徴的な 話だと思うんですけどもね

うんそうですねはい猫すぎは絶対しぎで それからねもう1つはねもう1人の人はね これ山の山で暮らしてた人ですうんでこの 人もね面白いんですよあの山でそのあれ すれて畑はまあるんですが自分のところで ま作ってはあの受給時速でやってるんです けど現金収入がないもんですから山でま得 たものをそこに地体持ってきてあの集落で 現金化してやる山のものっていうのは 例えば山芋ですよ自念じうんうんうんあの 今頃ちょうどね自念子ノ頭 葉っぱが全部押してしまうわけですねうん うんうんそうだから印つけとかないといか うんそれをねだからその人はねお正月の前 になると非常に根が上がりますからうん山 記念でのその時期にだけ取ってくるんで すってうんなるほどおい高く売るんですよ なるほどでなんでこの人だけね他の人たち はだからどういう収をつけてるんだろって 見たって分からないと ああところがね実はね麦をね ああ麦をねその袋に入れて持ってて巻くの かそこに巻いておくですうんなるほど パラパラと取った後ねそうするとお正月前 に行くとそれがちょうど芽吹いてうんその 山の中ですからすぐ分かるんだうんそれで 掘った後は必ずその鶴はねちゃんと 埋め戻す穴の中にね うんだこれがねまさにね焼島の地だと思う んですよなるほどあのねそれはねどこにで もある地だと思うんですねあの色々なこと は変わってもですねその地域にはそれに 即した地がやっぱりあるはずなんですよね 僕ねひさんの話聞て破ったのはねうん焼島 を裸にしてはいけないってことだねうん あの全部見せたいかんのですよいやそり そうですよねね焼島は見せないものがあっ ていいうんあのねだから焼島だと思うん ですけどね一方ではねそうそうそう思い ます あのいや僕らもね例えばセブ林道を歩くと ま林道した昔人が住んでたところだから 人家ともあるでもねセブドあの半山段階と かねあのまあ河原段階をほとんど登った人 はいないです私だけが知ってる秘密がいく つもあるんですよねでそれね見せたいと 思わないねでなんて言うのかなあの実は ね京都大学のまあの原たさんの前の西田 哲学西田鬼太郎が1927年のあの出した 論文の中でね日本人の情緒について語っ てるんです形なきものの形を見声なきもの の声を聞くこれが日本人の感性だでそれが 文化なんです焼島の人 は薬probの森を歩いあるいは醤油事が 歩くと

何か見たり声を聞いたりするんですよそれ は神様かもしれんしねでもそれは焼島の人 の文化であってだから竹まりに行くわけ でしょおそらくねであの亀女踊りを踊る そういういろんな中に外から来た人には 見えないものを見てるあるいは声を聞い てるんだと思いですねそれは焼島をどんな にこう外にオープンにしたとしても分から ない焼島の人にしか分からないことかも しれない焼島に住んでみて初めて少し感じ られるものが見えてくるかもしれないでも そういうものをたくさん持っていないと 焼島を裸にしてしまうとやっぱり焼島の 神聖さ焼島のなんて言うかなこう あの何とも言え ない未の [音楽] あの驚おしさみたいなもの が残っていないといけないような気がし ますよねそれがま多分長らく 八島に暮らしてこられた人々の思いでそう いうものが世界遺産になってそのこう オープンに裸にされてしまうことにに 対するなんか こう苛立ちというものがあるような気がし たんですがはいねいっぱい溜まってます そうですよねあのうん30年遺産に指定さ れてからですねであの友人にあの山下弘明 という写真家がいるんですけれどもうん うんうん彼はあの え金従属性の工合生をしない植物うんとと いうのをですねえあ兄弟のでしたですか今 とりだからの先生と2人で一緒になってね あ大発見しましたよねえはいもうえっと6 新種はですねもう6種ぐらい発表してあの 発見してるんですよこれ意外とねところが そのうちそのほとんどが今絶滅に瀕死て いるんですねうんうんうんうんだそれを 例えばそのそういうのは秘密にしてるん じゃなくて彼らがそのそれを見つけてそれ をま発表してところがそこの部分がですね あの火線域なんですね両方両眼のああで ここが1番そのえ今犯されやすいと言い ますかねそのうん人人との関係の中でです ねで絶滅に瀕しているでそれが例えばか あの世界遺産の地域であるそれをそのあれ する世界自然 このこの組織であったにしてもです ね十分にそれ把握しきれてないだろうそう ですね環境症にしてもそうそれはね やっぱりね役しがねその一元化されてない うんうんうんもうとにかくあの林野省で ありね林野長であり環境省でありいろんな うん例えば役所でも入り乱れてるしうん そういうものの中でこのやっぱりこの一元

化というかそういうものが今望まれる1番 大事な時じゃないのかな全てをさらけ出し て価値を1つにしてしまうというねはい そう分かりますあの環境省でもねその新種 を発見したりあるいは気象集を発見した時 にはその場所を明かさないっていうそそう しないとハタたがね取っちゃうんですよで あという間に出しになっちゃってせっかく 発見したものがあの絶滅してしまうと形に なりかねないでそれもねま小足な話だと 思うんだけれどもせっかく発見したんで それをねみんなに分かってもらいたいと 思うのは心情なんだけどそうしないと守れ ないというねだから焼島にはそっとして おいて欲しいところもあってまそこをどう やっ て島民の財産であり世界の財産でもあるん だけれども未来へ語り継いで残していく かってところなんでしょうねだからそこは うんやっぱりもうちょっと秘密を大事にし ないといけないだてますけどそれと同時に やはりそのシステムと言いますか例えば 八島の世界自然遺産と言ってもですね 生ぜ10%大でしょ面積としてはねえ範囲 がもうまだ2割まで行ってませんよねうん うん2まで行ってないますねええはいだ からねそれでこう弱い部分っていうのが まだ未だに存在してるわけなんでねそう ですねええこれにもやっぱり目を向けて いただきたいなとはいひどさんあのこの第 2部のコーナーはここで一旦あの示させて いただきますので兵様改めて会場にお越し になった皆様に一言最後にお願いできます でしょう か皆様へのメッセージをお願いできます かもうだいぶ言ったん ちゃうそうですよ言ったことあればえ えそうですなんて言ってるいいのかな とにかく あの人間っていうのは私なんかでもそう ですけどもこの島で生きてますと時間が 経つとですねそもそもそもそも論がどっか に置かれてしまうだからそもそも役しは 世界自然に指定されたんですけど世界自然 遺産というのはそもそもどういうもので あるのかというのをねもう1度やっぱり こう振り返ってみるそのあれにしたいなと いう風に思うわけですそれはあの何も そんな大変大したことじゃなくってこう 身近にある自然の中でねあのよく外から 来る子供たちなんかに話することがあっ たりするんですけども何しに来たのって言 あの明日どこ行くのったら縄文主行きます つってねなんて縄文式となきだと思うつっ たらもう世界一長寿の木で云々かてこ我々

よりもすごい知識を持っているんですよね こうていや私はねそう思わないよっていや あの縄文すぎっていうのはね実はねなぜ今 まで切られずに残っているのかっていうの を風に考えるのよねってあの日はね1番ね 役に立たない木だったんだ よだからね約束ってあの大きい木を着る時 に手で昔の人は着るからその試し切りをし て中が腐ってるかどうかってのを確認して いい気はもうみんな切られたんだ どうしようもない中があの空洞になってる ような金はみんな手をつけなかったんだよ だからねそういう意味ではねあなた方は今 今ここにいてね自分はどうだっていうのが あるかもしれないけどもそれはね時代と共 にねあの評価変わるんだからねまさにそれ が文化ですよね ええという話をしたりするんですけどね あのそういう意味で島はあの本当に教育の 場に場だと思いますまさにもう学ぶべき場 だと思っておりますうんそうですねあの さっきアコン塾の話ちょっとしましたけど アコンキは八島ではバカ鬼と言われて 要するに全く役に立たないけれど岩を抱い て焼島の大地をしっかりあの守ってくれ てるそういう木なんだそういう見方を価値 観ですよねそういう意味でま八島は学ぶ ところがまだまだたくさんあるところある と思いますどうもありがとうございました はいありがとうございましたこれ第2部が 終了でございます

屋久島が世界自然に登録されて今年で30年、KKBではゴリラの研究で知られる霊長類学・人類学者の山極寿一さんをナビゲーターとしたシンポジウムを10月に屋久島で開催しました。
山極さんは京都大学の大学院生だった1975年からヤクザルの調査のため屋久島に住み込んでいて、研究活動に留まらず西部林道の自然保護活動や若者たちが自然との付き合い方や観光の在り方を考える「あこんき塾」の立ち上げなどに取り組んでこられました。
屋久島で過ごした日々は山極さんにとって、その後のアフリカでの調査や保護活動の原点になっているといいます。

ふたり目の対談相手は「屋久島を守る会」の初代代表、兵頭昌明さん。
一湊のお生まれで東京航空地方気象台に10年勤めたのち、屋久島に帰ってこられました。
屋久杉原生林の全面伐採禁止を訴え結成した「屋久島を守る会」は国や県や町を動かし、その後も自然保護活動に従事されてきました。
原生林を守る活動がここ屋久島でどのように広がっていったのか、世界遺産登録から30年の節目に思うことなどお話いただきました。

【ナビゲーター】山極寿一(総合地球環境学研究所 所長)
【収録】2023年10月12日 屋久島環境文化村センター
【主催】株式会社鹿児島放送
【共催】株式会社朝日新聞社
【特別協賛】公益財団法人イオン環境財団
【後援】鹿児島県 屋久島町 鹿児島大学 環境省 イオン九州株式会社 公益財団法人屋久島環境文化財団 公益財団法人世界自然保護基金ジャパン 公益財団法人日本自然保護協会 公益財団法人森林文化協会

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