「創価公明党との決別」OB議員の赤裸々な体験集を朗読。複音ハーモニカ二台重ね持ち
は です 寒いや寒今日 は 福島 の事故公党もあの山口を 池 学会 がする団公党そん の は宗教団体は政治から身を引くべきだと 思いますよはっきり言うとねの教団こはだ 憲法れてっちゃいけいっていうあん相案は もう憲法違反ですあれはっきり言うと ねああいうことやってる団体をね許しとく 時点で ねなめられ日本人国民なめてるよ 政にわる団体なんてのおかしいと思結局 それは国民のためじゃないてはっきり言っ てましたからあ本あ フロア支援しているということ です日本農業新聞1月27日付けの新聞 11ページから岡公明党の 決別総括公明党との決別大美議員の関らな 体験集これ行き ます17主上所有楽の人生を足立美子さん 湯由川沿いの三観盆地若さと京都を結ぶ 交通の幼少綾部市京都府北部の綾部市は 舞鶴舞鶴若里福知山京都を結ぶ交通の幼少 の地として発展し軍勢軍勢発症の場所とし ても知られています私もお母さんに軍勢の 肌着買ってあげてこないだ12月頃あげ ましたあの持ってきましたね母の施設軍の あのピンク色の肌着ね上着の軍勢の発症 軍勢発症の場所としても知られています 地域は足高寺の出世地とも言われ江戸時代 は水軍で有名な 旧なんて読むんですかね旧士旧 西市旧市久市の綾部班2万5000国の 巨匠がありましたあが存在しました日本の 繊維メーカーである軍勢は創業者の秦の 鶴吉市が明治年に創業した会社で国家事業 として3三子雇の意3子防石業に力を注い たこともあって急速な発展を遂げていき ました今ねここ工事なんか道路工事やって ちょっとうるさいかもしれないですけどね 道路工事やってんですね今ね下水道工事と かなんか ね丹波のんあ私たちの急速の発をめて行き ました私たちの故郷あや多くの面積がで 山地に閉められ山国だけ近くから流れる側 が丹波の山々を削りながら三観本地を形成 しています私の居宅は高台に位置し隣接 する南ヶ丘公園には旗のつき王の銅像が 混流され春の桜や秋のもみ紅葉などが綾駅
に通じる道などを彩ってくれます私の梅原 は綾地区に多い苗字です五先祖はこの地方 に根を張った豪族だったようで戦国時代の 白白髪城主梅原男女男女中は男女たしは 歴史上知られた部将でした我が家の詳しい ルーツは知りませんが物心ついた少女時代 少女から青春自体は優しい両親のも何不十 ない恵まれた環境の中でで育てられました 戦後いち早く廃線のショックから立ち 立ち直った父は市内で自転車やモーター などの授業を展開しモータリゼーションの 波に乗って祖祖風化としての基盤を一層 固めていきいました固めていましたそんな 矢先の昭和25年2月突然総括学園に入会 したのでした周囲からは綾さ綾部の名詞な のになぜ進行宗教の総学会にてんてんてん と驚きの声が上がったそうです私が中学 中学卒業直前の出来事でしたともちょ盲信 型の父は土情勢会長の指導通り文字通り 綾部の一1粒種としての大借物線を展開し ましたふ不省不随不省不随の母もそれに 従いいつしか私も女子部幹部として早々期 の学科活動に心身共に眠り込んでいったの です父は定期で京都大阪に出て上昇関西 構築に全力投球の日々それからの我が家は 学科の拠点として朝から晩まで賑いました 当時この地域に食堂がほとんどなかった こともあり食事時ともなると料理好きで瀬 の母の手作りの梅原食堂のオープンとなり ますそれがだんだんと信頼者を迎えての のみね食いねにエスカレートしていきまし た同30年前後になると仕事を投げ打ち会 活動オンリーの日々となり日々の生活や 活動費飲食のもてなしなどの費用を演出 するのに資材を投げ打っていたのを覚えて いますそのおかげで釈は借物はダトの成果 を上げていました驚愕力がなくても驚愕力 がなくても歯科の格言だけで面白いように 次々と入会するのですその数は数年で数百 世帯に登りましたまた京都や大阪行きの 定期券を購入して上昇関西構築ののために 全力投球の日々でした私も両生活の一時を 除くと毎日のように最終夜行電車で帰宅し たのを記憶しています同31年大阪地方区 で総科学会計無 所属として参議議員参議議員候補となった 白木一郎さん吉一郎さん義一郎さんの選挙 の時はそれは言語に絶する戦いでした私が 池野棒専門学校で稼働新主と中学校共有 高校稼働教員免許を取得したのはちょうど その頃のことです同33年も激同の年でし た大積時に学科院の悲願だった大行動が 春行し3月には楽matter記念相当山 が挙行され4月に入ると都会長政教の秘法 が伝わりましたそんな年の9月父綾市議会
議員に立補し花楽のトップ当選を果たした のです私は母も軽トラックの2台に乗せ られイス城を務めさせられたのは今は 懐かしい思い出の一こまですそれは公明 政治連盟結成の3年前のことでしたその父 は高成連の時代を含め公明党主義として トップ当選で4期務め同49年に夫の勝に バトンタッチをして意を引きました 振り返ると綾綾発展と活のために主義とし ての役割りの他に放送局を解説し趣味の ダス教室を開くなど講師共に移植の人物 でした実は3期目の途中から幽体を望んで いましたが当本部から強く移流され結局4 期を全することになったのです大衆の中に 生きる地方議員として水を得た魚土の高 主義となった夫さて父の継主義となった克 と私は同年5月に結婚しましたその当時の 勝は大阪で化粧品会社の社長していました が結婚の翌年に授業上のトラブルに 巻き込まれ会社をりえて丸はかの状態で私 の故郷あに身を寄せ父の秘書として活動し ていました元来が政治家向きのタイプでし たからこの光景の話には2つ返事で了承し 公明党公認で出馬しました私は当時連合 婦人会の役員を始め市総合計画における 女性関連政策施策の推進高齢者のダス普及 活動入間検診の実施など行政や加法民間 サークル活動に積極的に関わっていました 一方学会では夫が支部長私が夫人部長とし て多忙な活動を展開していましたしたのし ていたのです主義の座が父から夫へと前場 さ れ当選は疑いのない状況でしたが無名の 候補者足立克の浸透には想定していた以上 の苦労をしたものですその頃は昼夜を分け ずに選挙戦や地域貢献などに必死の思いで 駆けずり回っていました今振り返ると当時 中学生だった息子にはどれほど寂しい思い をさせていたかと反省しきりですこうして 夫は上位当選を果たし平成2年まで通算4 期に渡って主義を務めました夫は水を得て 魚のよう に水をえた魚のように文字通り大衆の中に 生きる地方議員として多くの市民の悩みに 耳を傾け様々な政策提案を行いました当然 のように行政執行部や同僚議員の評価は 高い高まり次第に議会の養殖につくように なっていきました2期目の時副木長へ推さ れたことがありましたがなぜか東本部や 学会幹部は歓しませんその頃から夫は学科 や党の方針に対する不満を私に漏らすよう になり少しずつ距離を受け始めていきまし た3期目の後半になると学会幹部から議員 にしてあげたのに私は増上マだとの批判が 私の耳にも届きました当時52歳あ当時
52年路線当時52年路線を巡って注文と 学会の間がギシしていた背景もあり私の 教授にも学会と党に対する 漠然とした疑問が芽ばえていたのかもしれ ません新行面での夫婦感の水学会拒否の夫 と池田氏の理想実現を夢みる私市議4期の 終わり頃になると党から公認しない胸の 通達がありました夫の方もこの辺でが毒と 考えていたのでスムーズに時期後報者へ その座を譲っています当時進行面では夫婦 間には溝がありました夫は学会組織その ものに拒絶拒絶反応を示し始め私は依然と して学会を信じ池田先生の理想実現のため の法戦ルフを夢見ていました従って平成2 年の本部総会における注文批判の池田 スピーチや翌年の池田大作史の走行党否め 続いての学会波紋については真剣に考える ことはありませんでしたその頃の私は婦人 会会長や公民館副会長として地域活性官の 役割を担いさらに 商業商業外商業街づくりの街づくり委員会 委員委員社会水教育推進指導委員など総合 住民総合の触れ合いと障害学習の場づくり に全力投球をしていました一方学会からは 夫が受けた批判同様先生の指導と組織が 根本お願いだから地域で目立つ行動は慎ん で欲しいとの幹部指導が寄せられていまし た私にとって地域貢献こそが府府ル交戦ル への布石と信じて実践してきた地道な活動 を否定された格好となりなぜシが伝わら ないのかと不本意な思いを募らせていまし たそんな同6年はる市議戦に保守刑無所属 で立法しないかとの誘いを受けたのです それがそれは学会から事実上離脱するが 半島行為を意味するため決断するのに悩み ましたしかし推薦してくださった私の恩師 で公民館長井上俊也氏の一言が私の心を 揺りましたそれは宗教は個人的問題政治的 には公明党から離れ地域住民の福祉と男女 共同三角社会推進のために立ち上がって ほしいというものでしたそれに行して多く の女性組織組織や福祉団体市民グループ などから決断を迫る声が寄せられ男妙に ならぬ女明りに尽きる思いでしたそして無 所属主義として出馬宣言をし見事初当選を 飾ることができたのでした翌年夫が 亡くなるという悲しみに見舞われましたが 議会人議会人としては自民統計会派に所属 したこともあって1期目から同話対策特別 委員会と決算審査特別委員会の委員長とし て采配を振ることができましたそして2期 目には夫がついに果たせなかったと副議長 に就任したのです無所属主義と北家校の 一員として再出発選挙前に学会に大会届け 3期にわたる人気中最も嬉しかったのは
市内西町に建設されたITビル5会に連合 家婦人会の運営する女性センターが委託さ れたことですこの施設は私が長年取り組ん できた女性の社会参加を促進させる拠点と なるものですいわば私のライフワークとも 言うべきものです大きな夢が実現できた 喜びや何者にも買いがたいもの ですそして同18年思い残すことはなく 納得のいく幽体をさせていただいたのでし た学会及び等組織とは初出場を決断した 時点で圧力が生じていました立法を思い とまるようにとの強い圧力もひしひしと 感じていました一時は人生をとして活動し てきた学会と党の思いから悩み苦しみまし たが家族や友人詩人の後押しもあり真正面 から堂々と戦う決断をしたのですその後 学会側からは断続的な嫌がらせが続きまし た先生に対する裏切り行為不音恩知らず不 音足立は増販者だなどの楽員を押され露骨 な批判や口コミでの引見なバリ同金などが 行われたのです私は人生を総括する最終的 決断に迫られていました15歳で総括学会 に入会して約45年生まれた時に戻ると 言われる還暦を前にして第2の人生の節目 となる決意を固め市議戦前に学会大会の旨 を責任者の京都長に申し出ましたさらに 関西の学会本部にも手紙でど大会届を送付 し高校のうれいなく選挙戦に挑んだのです 当然のように学会側は組織を上げての定向 を試み足立落選を記念する小代会や体験 発表を盛に行っていました私が日連招集 北家校に正式に所属したのは平成7年の ことです夫がその年の7月に亡くなり実家 がある島根県のお墓に納骨しましたが私は 綾部に住む住み続けることを選びました そのため足立県の墓地福山市にある商州 寺院優先寺や戦友寺に求め夫の遺骨をそこ に分骨してもらったのですこうして私は なんら束縛のない無所属知義と正しい信仰 実践する北家行員の一員として晴れて再 出発をすることができたのですこれを景気 にあ兄弟や親戚全員が段階的に不会に 踏み切っていきました伴侶のいない人が 対象趣旨の身の身の会設立支え合う ボランティア私は綾木を3期で引退する ことは早い時期に決めていました私自身の 年齢のこともありますが下の同僚議員が 次々としていく姿を見せられ次の世代への バトンタッチをしかに決意していたわけ ですそこでリタイヤ号の居場所作りの準備 を始めることにしましたそ創して結成した のがヤの実の会ですこれは島崎当村作詞の ヤのみのヤの実の歌からネーミングした もので知らぬ陶島より流れよるヤの実1つ 天然から取って伴侶のいない人が対象の
ユニークなサークルですこうした秋冬な 準備をしたおかげで議員体後も仲間に恵ま れ超多忙な日々を送っていますやみの会は 人生を楽しみながらお互いを支え合っ ていこうという趣旨のボランティア組織 です皆さんからのアンケートを元に旅行 食事カラオケグラウングラウンドゴルフお しりお花見を楽しむ6つのグループを結成 し今では100人規模の会員が危機として 集っていますこれからも順次意や将棋俳な のサークルを無理なく増やしていく方針 ですまた私が会長していた綾地区婦人会が いわゆるドナ化現象によって組織の改変を 余儀なくされた時女性の会と名前を変え今 も約110人の個人会員が自主的に ボランティアを中心とした地域貢献活動を 行っています今は33回程度の戦友への 産経を始め北家校の主要行事には喜んで 参加しています弟の嫁が渋谷員を務めて いる関係もあり注文の打ち出す方針や指導 の概要は知らされていますまた新人の基本 である本業正大は探したことはありません ただ役職についてはあまりにも忙しかった 学会時代のトラウマもあり今のところ話は あっても遠慮をさせてもらっていますが私 には昭和25年に日連証取に入信したと いう強い自覚があります銃の菩薩としての 指名も示しています命ある限り真の好戦ル を目指して随時苦痛の戦いをすることをお 誓いいたします元綾市議会議員有戦友寺新 と綾市神宮寺町在住18ご至難を廃止て釈 麻心さ総一郎さんしぶこそ我が人生若い 世代との設定に乏しいのが悩み我が国の 政治経済は今根明の極みにあります一方で 東日本大震災や各地での余震原発事故集中 豪雨などの天才人災が頻発していますそれ らの本質的な解決には正しい宗教が求め られ日連大商人の示された立証暗黒こそが 唯一の解決できる道田にあるとの確信を 日々深めていますそのためにも日の外科様 のご品に照らして1年間に1人が1人の尺 の実践こそが将棋を兼用する上で最も大事 なことと信じています私は昨年平成22年 地長らの協力を得て3世帯5人の借物を いたしましたその中には同年4月に奪回し てから18年の歳月をかけて関係を受け させた親子もいましたその結果全商事支部 の星願である88人目を私の百福した人で 目標達成できたのです私たち3人家族での 百武成果はこれまで30世帯を越しその人 たちの中から百武実践の輪が広がっている のは何よりも嬉しい限りですご注文の 大きな目標である平成27年の日光証人5 成端750年さらに同33年の日連大承認 5端800年の北家行員80万人体制を
気付く大法交付に美力ながら貢献してこと が私の人生の申し上げと考えています日光 商人は有海置き物の中で未だ交戦ル世の間 は神妙を捨てずり具をいすべきこととせで ありますゆない決意と勇気を持って命が 果てるその日まで百武業を実践する覚悟 です毎年56回は総本山に参拝してします がその新富士駅からタシに乗ると必ず運転 手さんを着服しますこの前いつも通りに 日連招集の話を切り出したところああ以前 話をしてくれた方ですねおかげ様でその後 に入しました今立ちのお寺で頑張ってい ますと感謝されました私が直接関わらなく てもそのように入信してくれたら心心より 嬉しいことです日常生活の中でもあらゆる 機会にゲシをしています人がいて時間を さえあれば借物をしますが知り合いは ほとんど高齢化していて若い世代との接点 に乏しいのが今の悩みです学会青年部の 隊長は矢野純也氏入会当時昭和29年の川 長野野私は昭和44年3月29日に生まれ 大阪府不立東田林高校を卒業し後に政治 大学大学校政治部学部を出ました先中は 海軍飛行予科練習生として鹿島 の鹿屋航空隊に所属し配線1ヶ月前に神風 特攻隊の任命を受けています当時燃料の 決定的不足と飛行機そのものがなかった ことからなんとか旧州に一生を得ることが できたのですそれでも軍部は人間魚雷の 回転作戦と竹槍の先端に爆弾をつけ敵前 上陸してきた米軍戦者の進行を妨げる タコ壺作戦の2体に分けて徹底構成を潜ん でいました私はタコつぼ隊に侵入されまし たがその直後の廃終戦によって命を救われ たのでしたそして戦後厚生技官となり大阪 国立大阪南病院などで臨床検査の仕事に 従事することになりました総括学会への 入会は同29年3月8日です当時は川長野 には男子部員が全く終わらず私は少年部組 長として青年部組織の構築を目指しました 東本清掃の結果17人の青年部を揃える ことに成功しそのうちの11人を連れて 上京師青年部総会に参加しましたその後 さらに部員増加を行って半の結成に至った のですその時の14部隊長は 矢野八井秀彦で隊長は後に公明党委員長と なった矢野純也氏でしたど31年の白木 義一郎氏の参院戦の時には南川の青年部 責任者を務めました深夜まで選挙活動に 没頭していたため仕事中の昼間目前から 天井が揺れたり顕微鏡を除きながら居眠り するという体験をしましたお父ちゃん お母ちゃん早く帰ってきててんてんてん 夫婦は夜10時過ぎ来宅その頃の思い出を 紹介すると私が入会して3ヶ月後には30
世帯をこす社成果を挙げていましたそれが 実現したのは国立病院に務めていたから です病院内にの掲示板に日連招集の座談会 を開きますどんな願いでも叶いますと書く と会場には面白いように信頼者が集まり ました毎週のように開催し多い時には4 45人がが入会したのです当時の学会発展 のスピードは凄まじくその頃の半100世 以上は地区となり同33年にはなんと 3000世帯の世帯組織へ膨れ上がってい たのです私の担当した班も200世帯を 越していましたそして同33年地区幹事に 任命されて大阪市内の5つの半の半担当と なり深夜の最終電車で帰宅する日々が続き それ以降は睡眠時間が45時間という生活 が20年あまりに渡って続くのでしたもう 1つ忘れられないのは家内が3歳と4歳の 兄弟の手を両手に握って雪や関風の中を 着物や家庭訪問に駆けずり回っている情景 です子供が母ちゃん寒いよ家で留守番をし ているというので幼い2人は自宅に置いて 学会活動を行いましたやがて初春を迎える と今度は一緒に行きたいとせがまれ彼は 自転車の全部に弟後部に兄を乗せて隣の堺 島まで片道10数kmの道のりを連日通っ ていましたその姿をトラックの運転手をし ていた高野口地区の男子部隊長が見て夫人 部長があれだけ頑張っているのだから俺ら も負けていられないと噴気し大いに着物 成果が上がったそうです子供が学校に行く ようになってからは遅くまで留守していて 寂しくなった兄弟は最寄りの小野宮駅まで 片道に20分近い田舎道を歩き改札口前で 待つようになりましたしかし私たち夫婦 ともより夜10時頃までの帰宅はできず 再び家に戻った兄弟はお父ちゃん お母ちゃん早く帰ってきててんてんてんと 弟の面倒を見る立場の兄は毎晩泣いていた そうです早々期の学科は学科員は学科員は こうした厳しい生活家庭環境の中で交戦 ルフを夢みて懸命な不興活動を実践してい たのですその兄は中学生になると空手を 習え始め2年生の時は手のつけられない 番長になっていました警察官の息子を殴っ て前歯をおるという障害事件まで起こし ましたその時は子供の喧嘩だから気にし なくてもててで堪忍してくれましたが今の 時代だったら社会問題になってたかもしれ ません振り返って考えて考えると学会幹部 の指定に不良が多いのは学会幹部の指定に 不良が多いのは親が学会活動にかまけて 子供への目配りにかけ長年にあ放置してき た反動だと思います本当共産党もそうで 共産党のあの党員も子供ほったらかして 共産党活動やるからあなんか女子高生
コンクリート詰め殺人事件で昔昭和昭和が 平成が平成の初めだったかなあったんです よね女子高生を足立地区だったか東京の 足立地区かなんかでそれが共産党の家だっ たのでそこのふり広げられた女子高生を いじめたりして最終的にはどうかあの工場 の片隅どっかのっの片隅にドラム感にその 女子高生入れてコンクリートに沈めて固め ちゃってそのまま捨てたってそういう事件 こ女子高生乱暴してねそれで拷問して殺し ちゃうんだねそれその一家は日本共産党の 活動家の一家だったんですよそそれだから みんなそういうね共産党とか公明党総 みんなそこのうの子供が不良になんのも わかんないではないな私もわかそれわピン ときたら私もそうかなんかやって活動家だ とかそこのうちの子供見れば大体も不良と か今昔からも定番だも日本共産党も ね親が学会活動にかけて子供への目配りに かけ7年にわたって放置してきた反動だと 思います長男は後にご極神空手の東京極神 本部から芦原道会館道場へ通い後に道官の 川長野支部長として活躍することになり ますさらに連動官に連動会館を創立し 空手道の普及に邁進することになります 大衆のために共に語り共に戦いしの崇高な 理念によう同41年4月公明党川永の市議 会議員となりましたが最初に出馬要請の話 が来た時は不安よりもう感激がで胸が いっぱいになったのを覚えていますそれは 公明党が決闘されたよよとしよよ年で大衆 のために共に語り共に死んでいくという 理念に心から賛同ししかも崇高な興風達成 の戦人を切らせてもらえるという誇りと 名誉を意識していたからです当時は学会の 文海部員や政治部員として活活躍していた 頃ですカとは給料半分になるがご本尊様の 命令であるから受けなくてはしょうがない と話し合ったものですそして迷いながらも 引ける決断を下しました当時の学会役職は 総子部長で当選後に本部ブリジとなりまし たその頃は議員であっても学会活動に励む ことが求められ四国の地方指導や恐れ多く も総本山での合所講義を担当させられた こともありました少ない議員祭祀の中から 毎月東京で開かれる理事会や本部幹部会へ の参加費用を年始するのは覚悟していた 以上に苦労をしたものです結局看護師資格 を持っていた家内にサポートしてもらって それらの試練を乗り越えたのですこうして 公明党議としては7期連続当選し7期の2 年目に公明党を離党して無所属議員となり ましたその間公明党支部長総支部長を歴任 し市議会幹事長も務めました当時クリーン な政党であるはずの公明党に衝撃的な汚職
事件が続出していました大阪出身の参議 議員が砂利汚職で有罪となり東京出身の第 2主がリクルート事件に連鎖しましたそれ でも私たちはクリ党というイメージを にがり一方で池田先生を守れ指定相対の道 を忘れるなのスローガンを心から信じてい たのです同45年以降は毎月公明党大阪府 本部で議員総会を開いていましたがそこに は必ず学会副会長クラスが出席し科学会 あっての公明党であり池田先生のお陰で 議員になれたのを忘れるなと繰り返す必要 なマインドコントロールが行われていまし た一方党の幹部は池田が書かれた人間革命 は現代の後書だと言わされ宗教上の教育や 指導が行われていたのです実態は政教一致 そのものでした戦闘に立って日件妥当を 叫べズバリマーク徴集あての総括学会 でしょうズバリ マーク私の決定的な天気はシモが下した 平成3年の池大作の総高等表面それに続く 総科学会波紋池田大作師の永久除名処分 でした私は地方政治として全力投球をして いたため大半の学活会合には欠席をしてい た関係上昭和から平成初め頃の宗門と学会 の対立構想にはほとんど関心を持たず同2 年の本部幹部会における池田スピーチまで 対岸の日のような受け止め方でしたその頃 公明党南川所属の議員団の30人ほどの 総子部長という立場であったことも影響し ていたのかもしれませんさらに7つの地元 町会から顧問や相談薬を応接なり超多忙な 日々の連続でした振り返ると進行的には 長石朝夕の本業正大1時間の実践を しっかりと行う以外は一時的な思考停止 状態に陥っていたようですしかし学科反問 や池田市の除名処分となるとそうは言って いられません当時の学会会合で妥当日件と 叫んでええいおと叫ぶ時には違和感と嫌悪 感を覚え私1人だけ立ち上がりませんでし たそうした態度がスドに及んだ時南大阪 文化会館に呼ばれて担当副会長から最高参 議員のあなたが戦闘に立って日件だと叫ば なくてどうするんだどうするんやとの指摘 を受けましたもうこれ以上はついていけ ないと腹をくっていた私は日連招集あって の総会でしょうおかしくありませんかと 強い口調で反論しました約1時間に及ぶ 話し合と称する事実上の監禁の後私はいつ まで話しても平行せんだこれでらせて もらいますと振り切るようにして木につき ましたそして地元の寺院を訪れ注文の機関 士機関趣旨や様々な文献資料を見せて いただきさらに福島源次郎市の表された 学会批判書などを購入しましたそれら全て を読んだ結果驚くべき学会の方法と逸脱
行為特に田大作師の参謀論に対する根本的 な謝りに気づいたのでした離島する時は人 として記者会見を行うそれだけは然 そこで同時4年7月に実施された山陰戦 大阪選挙区の結果を待って奪への本格的な 準備に入りました法的な考えですが長年に 長年には長年にわって話になった党に 対する浮を義理を果たした新教でした同年 10月16日13 行止32 枚13 行30神2枚にわたる質問上を学会本部 池田大作史宛てに郵送しましたその当時 疑問を感じていた産業廃棄物の中に混じっ ていた中西金庫事件や富士美術館を舞台に としたルノアール海外事件などもその項目 に加えましたその2日後聞きつけた公明党 議員2人が議会控室に現れ覚悟はできて いるのだろうなと動かに来たのです私は 当然だ池田市の指導は昔と比べると正反対 今は質問上の回答を待っていると冷静に 対応しましたその上で離島する時は公人と して記者会見を行う胸を伝えたところ2人 の議員を慌ててそれだけはやめてほしい 学科や党もさおさんへの攻撃を控えるから てんてんとこ懇願してきたのでつい物心を 出して了承してしまいましたところが同月 31日正式に脱党脱会に踏み切るや数日後 には地元会館に地域の幹部を集結させ約束 を保護にして裏切り者恩知ず悪徳議員の レッテル張にちの異なったのですさらに左 追放の張り紙まで登場しまし たその後無所属審議としては7期の7期目 の後半2年とさらに一般市民で構成する 講演会の指示激励を受けて2期8年を務め 悔を残さずに優退しました合わせて36年 にわたる議員生活でしたが大衆と共に戦う 基本姿勢は貫き通したと自しています家庭 的にはかにさかに支えられ次男は自活し ながら日本の大学を卒業して単身渡米し 通訳の仕事をしながら大学院まで出てその 後は立派に大学の先生をしています波乱に 飛んだ日々の戦いの中で正しい信行の持つ 妙薬妙薬を実感しています学会支部長と 刑事が銀行口座を違法調査嫌がらせの一環 さて脱会後学会からは様々な迫害や 嫌がらせりが浴びせられました1番多かっ たのは無言電話で次には夜中に天道や天道 どんどんと夜中に天道をどんどん何度か 叩かれましたまた私への印出な尾行は日常 差半事でしたがご住職に対する尾行行為が 始まったためとんだ林飛田林警察署に訴え たこともあります さらに脱党後長年に渡って祭祀の中から広 は払ってきた五上的性格の積みたて金が私
の銀行口座に振り込まれましたところが 後日その銀行福祉店長から内密にして ほしいが佐尾さんの講座を調べるため総科 学会支部長と警察の刑事が訪ねてきたと 聞かされましたしかも佐総一郎名義の他の 口座にも関心を持ち調査をしていったと 教えてくれたのです結局依頼する人の アドバイスもあってこの件は表沙汰にはし ませんでした同6年無所属として初の市議 戦に出馬しましたその時の選挙戦における 学会公明党の妨害は想定を上回るすごさ でした驚いた私の公演会長はわざわざ東京 にまで赴いて新党先駆けの推薦を要請して 成功を収めましたすると今度はなぜ佐を 推薦したのかという嫌がらせの電話が新党 先がけ本部に殺としたようです地域住民の 皆さんは東日公明の恐ろしさを知る景気と なり私たちは各部の上の出来事でしたが 新党先駆けの関係者にはご迷惑をおかけし たことの思いでいっぱいです竿を落とせ ローラー作戦遠隔地から車ではせさんじた 妨害要因つりまく引き続いて同10年の 市議戦でも激しい妨害活動が繰り広げられ ました何が何でも竿を落とせという大号令 のもと全国から川長野に親戚や地人がいる 学科員が集結してお得意のローラー作戦を 展開したのです関西権はもより首都圏中国 四国九州の各車両ナンバーがずらりと並び 相関な景色でた大型団地やその周辺に数百 台規模の規模のマカが放置され迷惑してい た地域住民からの通報を受けて警察官が やってきて大騒ぎとなりました各社各社の フロントガスに100万近い違反駐車違反 のステッカーが貼られその連絡が入った他 の車両は雲の巣を散らすように移動したと いうその警察官は連日通報者の元を訪ね おかげ様でノルマを達成できましたと例を 述べたそうですそうした中私の記憶に 新しいのは主義を引退した同16年11月 18日に発生した自宅の火災事故でした今 私は今でも火災事件と思っています同年7 月夏休みに孫が遊びに来るというので3台 の新しいクーラーを購入して部屋に設置し ましたその4ヶ月後クーラー周辺から 真っ黒な煙が出て家が全消したのですその 時長男と共に自宅にいた私は風呂場の水を かけようとこうを起こしましたがその 不思議なことに日はクーラーの設置場所 から横に広がりあっという間に木造の家は 日に包まれてしまいました不審美前哨の 報告で万歳参照公明党の会議石場不審に 思った私は後日消防所と地元警察に原因 救命を依頼しましたがなぜか明白なし調査 結果を得られませんでしたそれというのも 火災の際にかなりの煙を吸い込んだため
機関士の炎症をした私は地元病院で安静 状態となっていましたしかも担当医から1 週間が山と宣告されてしまいました一方 家内は検査入院のため火災前日から別の 病院に入院中でしたしばらくして家内が から聞かされたのは驚くべき話でした警察 官はあなたの主人は仏壇のロソの日が原因 と認めていると言われたというのです私と 息子は直接火災現場を目撃していますその 私を調べないでしかも家内を偽ってまで ロソ原因説を押し付けようとする態度に 言い知れの怒りを覚えました彼は即座に 主人はロソの扱いについては神経質な ぐらい厳しい注意をしていた従ってロソが 火災原因ということは絶対にあり合えませ んと主張したそうですその現場に1番早く 来ていたのが公明党主義でしたそしてそん 直後の会合でさの家が前哨したと報告し 万歳を連呼したとの話を聞きました当然家 を失ったショックは大きいものがありまし たが人の不幸を万歳までして喜ぶ宗教団体 に人生の大半を落してきた無念差を通説に 覚えたものですその後家内と全少時北家校 役員の2人が警察官と共に現地調査を行っ ている時もカメラで現場を撮影している 人物に遭遇し何しているんだと質問した ところ近所の学科員であることが判明し ましたもはや言葉がありませんでした総学 公明党の関係者の間で犯罪行為や反社会的 行為がを多発していることは多くの ジャーナリストたちが指摘しているところ ですかつて学会幹部であり公明党議員で あった私は身を持ってその事実を知ってい ますそしてそれら犯罪行為などの多発現象 が総括学科や座大作師の誤った協議と指導 によるものであることは明らかですこれ からも命の続く限り邪教総括学会への撲滅 と公明党批判のの声をあげてまいります元 川長の司会議員全商事元幹治川のき 在住 いや2つだけで結構今日はすごかった なあいやいやいやいやいやいやいや いやいやいやいやいやいや まていうなんかないか な ちょっと ねやっぱこた [音楽] で [音楽] は [音楽] あ [音楽] 雪は難しいな雪にも難しいねやっぱ難しい
感じするわ 本当じゃあ何にすか今度はエかエかねエ か皮の流れのようにか皮の流れのよう に [音楽] 無理だかれない難しいね なんかC長とAマナさ今度Cシャープも 必要かもしんないね半音上がるやつね半音 上がん [音楽] のjpだだなエカ難しいややっぱり jpopで何がいいかなJPOP の何がいいんだろ ねああどうしたもんかJPOPは なんかそっ [音楽] か ああ私の恋はてあれやって [音楽] み難しいチェッカーズチェッカーズも 難しいなチェッカーズチェッカーズ [音楽] [音楽] あ [音楽] [音楽] よ ちっちゃな頃から悪悪がきで15で不良と 呼ばれたよナフみたいにとがてはさある ものみ傷つけ たあ笑分かってくれとは言わないがそんな に俺が悪いのかララバイララバイお休みよ ギザギザの 小歌やっぱ難しいね チェッカーズチェッカーズ かあ仲間がバイクで死んだのさあんなに いいやつだったのに なん卒業式だというけれど何を卒業するん だろうああわかってくれとないがこんなに 俺が悪いのかララバイララバイよお休みよ ギザギザハートのこもり歌それは歌った方 が早くてこれまああれだねはっきり言うと あのピアノっていうか鍵盤ハーモニカのが ケバハーモニカあの電子ピアノとかね鍵盤 楽器の方が得意だよこういうやっぱり限界 あるねこの あのハーモニカね2台3台も持ってやん なきゃちょっと難しいわ私にとっては ちょっと皆さありがとうございました失礼 しましたどうもです はい よいしょ
「創価公明党との決別」OB議員の赤裸々な体験集を朗読。長編二編を読みました。録画は長めですが、致し方ないと思います。自分の言いたい主張が出来ず、短ければ良いというものでもない。複音ハーモニカは、失敗気味でした。今回も、二台重ね持ちで、吹き吸いしました。今回を機に、レパートリーを増やしたいです。以上。よしなに。wainai