【JU特選動画】日本人が大切にしてきた稲作〜田んぼの研究からわかったこと/水野秀之

大雨の止んだ後に田んぼを見に行く と田んぼは大雨の時の雨水をしっかりと 受け止め徐々その後徐々に時間をかけて 放出してい ますこれが田んぼの洪水制御機能です こんばんはう今日は本当にありがとう ございますえっと本当ね田んぼっていう ものすごい地味なあのトピックで本当皆 さん忙しい時間をですねこのようにあの来 ていただいてありがとうございますえ本当 ねあの日頃あのFacebook等でだけ ですかなかなかもう毎日よにやり取りさせ ていただいてるんですがなかなかう1回が 会えない方とかですね今日来ていただいて 大変嬉しく思っておりますで私自身もです ねま昨日とに行きましてですね張り切って おりますんでどうかよろしくお願いいたし ますえっとですねそい で うん あれちょっと待っ てええ私自身がですねえ愛知県三市の 生まれで水野と申しますでえと大々続く 稲作農家の家に生まれましたえしかしです ねえぐらい前にですねえ私の家もとうと 稲作を断念することになりましたそれは ですね異常気象による大さらに30年以上 え使い続けたですね田がとうと力つきまし て買い換えることができずえ家族の大反対 のものえ稲作を断念することにしました しかしですねやはり稲農民の子孫であり ますもんで 自らえの価値を高めようか会長なり活動し ておりますで今本当現在日本の現実を見る と毎年毎年外国から大量の食食べ物が入っ てきてで維持されている宝飾これが本当に このまま続くのかそれとえっと合理化 合い言葉に田んぼがどんどんどんどん古作 保になっていく現実果たして本当にいいの かなっていうことを訴え続けておりますえ そんな感じでではスタートさせていただき ますでまず最初にサブタイトルとしてなぜ 我々の先祖は田房を選んだのかそれには 大きな理由がありまし た日本ってですねもう高速道力なんか ちょっともどこまで行っても田んぼと森林 が広がっておりますなぜなの かで私ですね20代の時にワーキング ホリデービザで1年間ニュージーランドに 滞在したことありますそん時に中古バイク あの入さんのようにいいわけじゃないん ですがえ中古バイクでファームステイをし ながらニュージーランドを回りまし たその時にもうどこまでいっても羊羊羊え 羊のための草原が広がっておりましたで

当時ですねあ聞いた話は人口350万円に 対して羊は300万 とでどかですね日本の地あもうすいません 日本の地図とえニュージーランドの地図 比べてみてくださいどちらが緑が濃い かで美しいニュージーランドドって言われ てますけどしかし本来の姿がですね実は 森林の80%が切り倒されております残っ ているのは国立公園として保護されてると ことでイギリスの職員民地になる前1 1770年ねイギリスの探検家キャプテン ジェームズクックが初めて ニュージーランド見た時広大広大な森高北 最高の素材と語ったとされてます当時は緑 に覆われた大一でありまし たそして1840年代ですねイギリスの 植民となったニュージーランドそして次々 に木が切り倒されされてきますそして イギリスと言えば羊が減少すると同時に羊 のためのえ草原が広がったというのが現在 の姿ですでは日本はどうであったのかえ 富山かず子著書日本の米より麻山周平の ある村の森づくりについて紹介し ますえ江戸時代熊本県三船町での話アザの 外林の山に人々が入植しようとします しかしえそこはもう火山性のバドでありえ 覆われたあ灰色の痩せた土地水もなく農業 はできませんでしたそこで人々は袖sil で山へ行き水を作るために反省期もかけて 何百万問もの杉の木を植え続けました大変 な重ですそしてついに枯れた川に水が 溢れるようになりました1の様子2の様子 と水を引きえ入植し始めましたその水がの 一級河川である緑川の水源の1つであり まし たで次にえ次のことが書いてありました 西洋では例えばイギリスですね山を払って そこに麦畑を作るっていのが土地の利用 パタンしかし日本はそれに対して森林を しっかり維持し高速え国東事態にしたのは 大火線のハハつまり今の多くの人が住むえ 平屋ですね その大事なえ国地帯を洪水から守るために 人々は山へ行っては気を植ええその山て気 を入るということは水を作るということに なりますでそのため日本では森林をが必要 不可欠の存在でし たで日本ですねええ田んぼっていうのは ですね単面積体の収量が多いですという ことは比較的少ない面積で多くの人を養う ことができますしかし大量に水がいります そのために えこのような平屋では田房そして国土の 70%を含む山々では森林でその森林って いうのは水を作るという役目をしており

ますでえ降った雨が森林に染み込んで分水 となりその分水がいくつもの重なって川と なりえ大国総隊である平野の田んぼを潤し てきたというのが事実 ですでまさに森林と田んぼは一体です うんそして現在日本で田んぼがうん広がる 田んぼ地という面で田房について調査し まし た愛知県の側 だあいいですか愛知県の中央なる2級河川 境川でちょうどの大りとえ三河の大体 真ん中の辺りですねそこの境にあるのが 境川です あっちゃった かで上流からべてみるといくつもの主流が 合流します南北に流れる境川だけでなく 支流は東西に広がりえかなり広い範囲が 境川流域ということになり ますでその主流はいくつものえ水路に つがっています工場事態からの 水路住宅地からの水路商業施設からの水路 え刈谷市高山市え豊明市え豊田市大武市 都町三町三市などえこの地域え広い範囲で え水路と支流で繋がっていますこれが境川 流域ということになります ねでそしてこのえ街域に全体に降った雨が で1番低い定置を流れる境画へ集めれると いう地形上の構造になっていますそれで どこの土地でもその地区の1番大きな川と いうのは1番定期でそれで周りからどさっ と雨雨の時に水が集まってくるという構図 になります構図になります ねそしてこの地域でもえ広がる広大な 田んぼで大雨の止んだ後に田んぼを見に 行くと田んぼは大大雨の時の雨水を しっかりと受け止め徐々その後徐々に時間 をかけて放出してい ますこれが田んぼの洪水制御機能です水田 の洪水調整容量というのは 76億T手水ダムの香水調整容量というの は24億T田んぼはなんと手水ダムの3枚 ですさらにえ水田の地水観容量というのは 9800T田んぼは膨大な量の地下水を 作ってい ますもし田んぼがなかっ たらもしアスファルトで覆われた大地 なら地下に巨大な排水システムが必要 でしょうねえ最近近年ですね都会な大雨の 後にですね大雨の時にえま重たいマン ホールの蓋が持ち上がるような排水が 吹き出すようなニュース見たことはない でしょう かそのそんな限界を超えるような雨水が 度々起こるようになりまし た田んぼはダム

です静かに我々を守ってくれており ます日本の年会噴水量というのは1718 mm世界平均の約2倍さらに大きな問題が あり ます17の雨が梅雨と台風の時期に集中し ます大体合災外っていうのはもう台風か 梅雨の時期ですですねさらに高低差のあ 高低差のある大地本来なら降った雨が一気 に海まで流れてしまうという方な地形です そのため本来ですね振ればあ降れば洪水 照ればひりそんなとこが結構多かったよ ですさらに崩れやすい火山性のドジ何度も 何度も送るえ洪水と土着類でそして 出来上がったのは大雨の時に洪水を 繰り返すハラハラその昔の反乱ハが今の ほとんどの平屋であり現在多くの人が人工 大多数が住んでいるのが現実 ですで先人によりですね3000年にも 登る田房を中心とした国土作りで今は愛知 県三地になりましたがえ三アム町であり ますがあ我が旧アザム村の田保市を見 ながら紹介したいと思い ますえこれがですね旧ア私のえ住んでとこ ですねえの小地図です明治20年の小地図 ですこの時代でありますももう江戸時代と ほとんど変わりませんでアブの大きな特徴 というのはこの西野地区西野地区はかなり 定治でこの東の地区というのは大体給料近 自体高いです西に低くえ東に高いでこの西 の低いというのはもう紛れもなく大昔 ハラハラでしたでこちらの黒地からえ他日 系であるこのクから大雨の時には雨がどす という性でこちらのえ同じくえ他日系で あるえ浮ヶ谷方面からドっと雨水がえ 押し寄せるでここでもう合流してこっから 開けてどさとこのずっと反乱はでしたで そこをま江戸時代の初期だと思いますが あの堤防をしっかり築いて境川の川筋を 決めてでこの周辺のあの湿地体をですねえ ぼに変えてきたで今現在はえ現在はこの この辺の水冷体がアブ最大の水電祭となり ますで東の給料地帯になりますとま高い位 ですねで大きな特徴としてとどにため池が 存在しますこのため池っていうのはですね 谷を咳止めた谷池ですで谷というのはです ね基本的にくぼみです給の谷というのは 基本的にくぼみでくぼみである以上そこに 水が集まってくるというのが自然の設だと 思いますでこの谷1つ1つが実は水源地な んですよねでその水源地を咳止めて他人を 作るっていうことは水上とても重要なこと ですでえその水源力え大雨の時には本来は こちらの方の1番低い位置のえハハである この低い位置に全部水が長ましたえですの で

え日本の田んぼっていうのはまず上の谷 から作ってやがってまタド時代の統一政権 ができて強力な統一政権ができて川上川元 調整ができるようになってこのえこの広大 な田んぼというものが広いぼあハラハの 田んぼができたと思いますうんでえ補足 ですかえっと実はですねこのアブ村って いうのはですねえ鎌マキぐらいまでですね 焼き物のあさぎよという焼き物のサチでし たこの一体がもう大体20km仕さぎよと いう焼き物のスチでしたそしてえ鎌倉の 末期に政治的な理由なのかそれともこの 辺りのあ巻なんかで使った森林の活か 分かりませんが焼き物さしが終わりました でその後そこで働いていた東校の人たちが 瀬戸とか多見方面に移りましたそして南北 町の頃だと思いますけどね えノスアブがスタートし最初にのえ入植し たのが塚本しという方だそうですでその 塚本市がどこに最初に入植したかま言って みどこに1番田んぼが作りやすいかって 言うとですねこの小さな谷あ今の不動領域 の辺りだそうですそして少ない人数で 小さな谷を咳止めてため息を作りその下に だんだんとえだんだん田房を作ってきて 田房でできれば重に人数が増えますのでで はもうちょっと中規模な田房でさらにその 横横としてだんだん広がっていきますで その後えっとド初期にある程度人数がつえ あの集まった時にあの定住できるように なった時にですねやはりここの大きな大光 であるあのハラハラの開拓新年開発に映っ たようですそんな歴史があります でえ話をまとめますとえ国土の70%の 山々には甘水を染み込ませる森人作りと森 の管理これも大変な労力ですで溢れ返る水 を制御するため系そして田んぼ自体がもう 本当洪水制御機能さらにその溢れかえる水 をうまく制御しながら住え日本の水まで水 き渡らせる毛細血管のような水路もその 水路モの総援長は地球10周分にります もうぼ本当私たちがね考えられないような 膨大な労力を先人の方っていうのはこの 大地にえ吸い込んできてで本当あの水の 染み込む大地を作ってきたっていう歴史が あります えーでそのあのこの第1にをベースに今の 国土がありでその国土別今の豊かさがある というのが現実ですで稲作とは単位面積 あたりの集客量も格段に多く何年何千年も 連作ができるこれがどれほど優秀な農一で あることか田んぼがなければ今の部屋に 住むことができたのだろうか治水という 観点でも必要不可欠平野で田房を行うため には森を維持管理し森を作ってきた我々の

先人日本人のキスとして気を使うとかえ 空気に依存するえこういうことってあまり いい表現に使えないことが多いんですが しかしではどの民族がそんなことをする かっていうことですねうんそれ私とても いいことだと思いますそれはメイン産業で ある田保と深い関係があったと思いますで 田んぼっていうのはやっぱり国土作りだけ ではなく伝統文化社会歴史そして本来 助け合う心のあり方にも深く影響してきた はずでもしかしたら我々はそんな大切な 遺産を捨て去るとしているのではない でしょうかで農民の人口がですね以前は 大体8割え大体昭和40このでも40年 ぐらい8割ですで現在は約1%ほの10年 前まで国民の8割が農民であり田房の重要 性について当たり前のように共通認識され ていたしかし今ではその農民がほんの1% 我々日本人はぼの要請を忘れさろうとして います私自身そのことを語り続けますもし できましたら奥の方にもご協力いただくと ありがたい ですで最後にですねやっぱり感謝ができ なければ良い社会も健全な精神もできる はずがないですそして日本には親族を感謝 できる先人の方々が存在しますその存在と は我々にとってとてつもない財産ではない でしょうかそのことを強く主張して結びと させていただきます今日はどうもご成長 ありがとうございました終わりですはい 水野さんいちごのご講和をありがとう ございましたすいません皆様講師のみの さんにお礼を言いましょう背筋を伸ばして くださいありがとうございますありがとう ございますありがとうございました 素晴らしいお話ありがとうございます ありがとうございました

【日本学ユニバーシティ JUMとは】
“日本”の基礎がまるごと学べる日本学ユニバーシティ(JU)の教養課程です。どなたでも無料で参加できます。
興味のある講座を選んで参加したり、さまざまな分野の日本文化を広く学んだり、講師になって専門分野を話すことができます。
https://japanology.site/JUM.html

2023/04/22 JUM 食文化・里山チャネル
講師:水野秀之(田んぼ研究家)
1967年生まれ。愛知県みよし市出身。
学生時代は、ヤンチャな田舎の元ヤンキー。赤点だらで無期停学三回経験。
高校を卒業後、地元の会社に就職。会社の洋上研修で、全国から集まった400人もの企業戦士と共に、船上で七日間研修をしながら香港までの旅を経験。自分が”井の中の蛙”であることを痛感。そこから、学び続ける、視野を広げ続けることの大切さを知る。
その後、外資系ホテル経て28歳の時、ワーキングホリデービザを取得し一年間ニュージーランドで過ごす。それが視野を広げることとなり「日本人としての目覚め」を体験。
帰国後、現職、丸石窯業原料に就職。そこから5年間、働きながら、放送大学で自然科学を中心に猛勉強。兼業農家として、代々の家業である稲作を継続。23歳、28歳の目覚めを経て、違う角度で、田んぼのを見れるようになり、田んぼ研究家となる。日本にとって、どれほど稲作が重要かを発信し続けている。

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