『東海道五十三次を電動自転車で巡る!① 日本橋〜品川宿』東海道五十三次の各宿場町を電動自転車と徒歩で回ります。
日本橋から京都まで東海道53次を自転車 で走破しますと言いたいところですが私は 自転車と徒歩でのんびりと宿場町を巡り ながら東海道を進んでいきたいと思います まずは東海道の起点である東京日本橋へ やってまいりまし た本橋の歴史は徳川家康が城下町整備の 一環として江戸城と海とを結ぶ水路の改作 を命じたことに始まりますその水路の上に 幕府開幕の年境がめられ日本橋が誕生した と伝えられています翌1604年には五 海道の起点と定められ全国交通のかとなり ました江戸ド物流に水路は不可欠で日本橋 は人ともがインパに行きかう水陸両面に わる重要拠点となりまし た何度も掛け直しが行われた日本橋ですが 現在の日本橋は明治44年に完成したもの です橋の真中の上に鎮士が手に抱えている のは当時の東京市の紋章で獅子像は東京の 春号を意味しているそう です真中にかかるプレートの文字は徳が 最後の将軍徳川吉野部によるもの です時の東京市長の小崎幸夫が吉野校への 敬愛の年から依頼されたそう です江戸時代から明治大将へと移り変わり ゆく中で日本橋の文字は幕府最後の将軍に よって書かれ現在でも日本橋の四隅に存在 してい [音楽] ます橋の中央には映画でも有名となりまし たキリ像が堂々たる風格で佇んでいます キリ像のモチーフは中国に伝わる創造上の 動物キリですキリには通常翼はないよう ですが日本橋が全国の道路の視点である ことにちんで日本橋から飛び立つそのよう なイメージを加えるために翼のついたキリ 像が設置されることになったそう です海道の原点であった日本橋は明治以降 も国道の起点として継承され昭は47年橋 の道路中央部に新中盤の道路原票が埋設さ れました日本橋の北側の多元に原票の広場 がありますここにあるのはレプリカで本物 は交通量が多く近くで見ることができませ んが 日本橋の中央に埋め込まれています文字は 当時の首相佐藤栄作によるものだそう です広場中央にあるのは東京市道路原票の レプリカです本物は日本橋を覆う首都に 設置されています日本橋の中央に当たる 位置にあり首都を走っていてここを通っ たら真下には日本橋があるということ [音楽] です日本橋付近には江戸時代から続く様々 な死点があるのですが今回は日本橋の多元 にあるA太郎本舗さんへ伺ってみました
今回購入した梅干アは梅干味でではなく ハサミで切った紅色のアを指でつまんで 三角形にしたその姿形が梅星に似ている ことからシャレ好きな江どっこがそう呼ぶ ようになったそうです日本星の観光案内所 では着姿のコシジが出迎えてくれました ここでも日本橋のお土産を購入することが できます私が観光案内所に来たのは 東海道53次のご宿場員長とご宿場員を 買うのが目的ですこれから東海道の宿場 巡りをするにあたって楽しめるアイテムに なると思い [音楽] ます買い物もえ準備も整いましたので早速 日本橋中央のキリゾ前から東海道53次第 1の宿場品川向け出発し ます現在では東京京都間は新幹線なら2 時間ちょっとでつきますが江戸時代は 何しろ基本は徒歩ですから江戸から今日 まで13日から15日前後かかっていた そうです1日平均33kmぐらい歩くこと になります現代人にはかなりきつい道のり ではないでしょか江戸時代の人々はかなり の客だったよう です東海道中日では日本橋をスタートせず こっそり品川へ出て1日目は戸下宿まで 進んでいます戸塚まで42kmぐらいです 2人組は途中馬に乗ったりもするわけです が江戸時代の人々は江戸から旅に出て1日 は宿まで進むのが一般的だったよう です今日はシェアバイク電動自転車を借り たいと思います高島湯の裏にポートがある と思いますのでそこまで歩いていきたいと 思い ます途中日本橋玉井本店さん穴子の箱が 有名なお店なんですがちょうどお昼時と いうのもありまし 大行列ができておりまし たシェア自転車のポートへ到着しました すごい数の自転車が止まっていますがこの 中から1台選び自宅から持参した ヘルメットをかぶって出発したいと思い [音楽] ます東京はかなりの数のがあるのですが 平日だからでしょうか今日1日で自分以外 に使っている人は見かけませんでし た旧東海道現在の国道15号に戻って まいりましてさあもう一度今度は自転車で 出発 ですただカメラの位置が悪くて私のルック サばかり映っており ます5分ほど自転車で走りまして京橋へ 到着です京橋という地名は東海道の起点で ある日本橋から京へ上がる最初の橋であっ たことでその名がついたとされてい
ます昔は京橋と銀座の間を流れていた 京橋川にかけられており新中には義星が 飾られていましたこの義星があったのは 京橋と日本橋新橋の3つの橋のみであり 幕府が京橋を重視していたことが分かり ます昭和34年京橋川の埋立てによって橋 はなくなり真中が残されるだけとなりまし た後ろにいるピーポ君気になりますよね こちらは警察博物館で無料で楽しめる 小さなお子様にはたまらない素晴らしい スポットになっており ます道路の対岸には江戸歌舞伎発生の地の 日があります1624年初代中村神座郎が 現在の日本橋と京橋の中間に猿若中村座の ヤグをあげたのが江戸歌舞伎の始まり ですまた旧東海道現在の国道15号に戻っ てまいりましてさあ新橋へ向け出発です 京橋を抜け銀座へと入ってくるわけですが 銀座の地名は江戸時代の銀座役所に由来し ます江戸幕府を開いた徳川家康はスツに あった銀貨中三症を現在の銀座2丁目に 移しましたその場所の正式な長名は新両替 町でしたが通称として銀座と呼ばれるよう になったのです銀座は明治2年に公式に 長明となりました銀座役者は現在の ティファニー銀座本店のありでその前には 銀座発生の地の日が建てられてい [音楽] ます 新橋駅が見えてくるのですが色々と見たい ものはあったのですが交通量が多く通り すぎてしまいました新橋といえばよく該当 インタビューなどが行われていた新橋駅 西口広場が有名です鉄道の登場により旧 街道はその役割を終えてしまましたがSL が飾ってあるこの新橋駅は鉄道の創設の 起点ですSLから地下鉄そして新交通ゆか と今も鉄道の起点として人々に親しまれて い ます左手に日神社が見えます日ではないの にどうしてヒという名前なのかというと 元々日公園の塚山というところにあった そうです長年間に江城日比谷五問ご増の おり芝口に移動しJR線建設の際再び移動 し現在のところにご鎮座しました別名 サバイなりとも呼ばれ虫歯虫封じに霊新た かんだそう です再び品川区へ向け出発します新橋を 抜けますと交通量も少し減り幾分か走り やすくなったように思い ます右手に芝公園東京タワーがあるあたり までやってまいりました大門の交差点を 曲がると造祥寺です江戸時代造祥寺は 徳川家の大事として繁栄を極めました江戸 の大臣院として広く知られ修行層は
3000人を数え経大敷地は25万つ周辺 は門前町として整えられました造寺には2 代将軍秀た6台将軍家信7代将軍家9代 将軍家12代将軍家吉14代将軍家持ちの 6人の将軍の所がけられていますまた各校 の性質と即の墓も設けられていますがその 中には家茂校性質で悲劇の工女として知ら れる青海員のみや工女和宮も含まれてい [拍手] ます再び国道15号第1景品に戻りまして 品川区を目指し ますJR田町駅近く第1景品沿いに最後 高森の孫吉之助の筆による丸い日が立って います官軍の江戸城総攻撃を目前にした 慶王4年1868年3月13日14日の 両日さ班倉屋敷においてでか回と最後高森 の会見が行われ歴史的な無血会場がなされ ましたこの重要な会見の地については諸説 があるようですが13日の予備的階段は高 のさ屋敷14日の最終会談はこの日の立つ 田町の倉屋敷で行われたようですこれから 品川へ向かって走っていきます途中少し道 を間違え札のつばを渡ってしまいましたが 富士国道15号に戻ってまいりましたこの 先高大戸跡に向かい ます高大戸は江戸の治安維持のため放映7 年1710年に東海道の両側に石がきを 築き設置されました各町にある街木戸に 対し江戸全体を守り江戸の入り口である ことから大戸と呼ばれ旅人が予想を整え たり送り迎えされるのもここまででした 茶屋が立ち並び旅人で賑わっていたそう です井たたが日本地図作成のために行った 測量の起点がこの大戸でしたたたかは正確 な日本地図を作る 高大道点として測量を始め17年間かけ 自分で考案した測量車を押して全国を歩き ましたこの高大きのすぐそばに2020年 に開業した高ゲートウェイ駅があります 当時駅のネーミングについて色々と物議が ありましたがこうして江戸大戸跡を訪ねて みると江戸の大戸に思いをはせることの できる良い名前のようにも思えてきます 品川駅駅前を通り八山へ向かいます箱根 駅伝の中継でよく耳にする八山橋立教は 東海道とJR東海道線を立体交差させる ために明治5年にかけられた橋ですもも ここは武蔵大地の突端の給料でに突き出た みが8つあったことに由来しているそう ですここを超えればすぐ品川宿なのですが 今回はすぐ右手に見える御殿山へ行ってみ たいと思い ます御殿山トラストシティへやってまいり ました御天山が賑いを見せたのは海栄13 年1636年に品川宿を見下ろす給料地に
品川御殿と呼ばれる将軍の館が建てられた ことによります御殿山という名前は将軍の 品川5殿のある山に由来するのではないか と言われているそうです品川御店の所在地 は現在のマリオットホテル付近と推定され ていますここから御殿山庭園へと入って いきましょう日本庭園になっている部分は 階段を下って降りていくようにくぼ地に なっているのですがこれは爆発に江戸防衛 のため気づかれた品川台場の1つ御点山下 た台場を作るためにその土が使われたから だそうです会場に設置された他の台場とは 異なり御天山した台場は品川の海岸沿いに 陸続きで五良系の砲台が築造され154問 の大砲が備えられまし た御点山に特に足し通っていたのは3大 将軍徳川家光でした茶会や高繁栄10年の 馬など幕府の重要行事で度々使用しその おりは18年間で200回近くを数えまし た繁栄16年1639年には御殿山の麓に 秀たの時に幕府を批判して出はの国に罪と なっていたタクア王将を迎え入れ東海寺を 改ざんしまし た約15万平米以上の広さを誇る大人院 でしたが六7年 1694年の火災で消失してしまい継承員 によって再建されました品川後殿もまた原 6年の火災で消失してしまいましたが こちらは再建されることはなかったそう です8代将軍徳が吉宗の時代になると北に ある日山と共に桜の職が進め られは花の名所となり春には海岸での塩 ひりも楽しめるとあって戸庶民の後楽の地 として親しまれるエリアとなりまし た再び八山へ戻ってきましたあのゴジラが 上陸した場所としても有名で現在の橋は 昭和60年にけえられた4代目だそう [音楽] ですいよいよ品川宿が見えてまいりました 歩道の脇にある小さな石中は1つずつに 東海道の宿場町の長刻まれ気分も 盛り上がります宿場へ入る時に道路が わざと鍵型に曲げられているのが分かり ますでしょう か両下町にある場合は防衛目的と言われ ますが宿場にあるものは 道を曲げることで大名行列を早く視界から 消えるようにし土下座の時間を短くする ためなどとも言われてい ますこの公園になっている場所は江戸と 呼ばれる宿場の入り口の跡ですみつには 神事みつと江戸みつと2つあり宿町の東西 の出入り口になっていましたこれから品川 へ入っていきます昔の道幅が残り街灯など も旧東海道を意識して立てられていて宿場
町の雰囲気を残した趣きのある商店街と なってい ますしばらく行くと門道菓子の日が見えて きます問答菓子はかつて北川の海岸にあっ た葉の名前 です将軍徳家がに訪れた 尚がこの辺りまで出迎えて全問をしたと いう話が徳川実機に記載されています家光 の海近くして東海とはこれいかにという 問いに尚は軍を率いても将軍と言がごと 答えたと伝わり ますこのコンビがマンションが土蔵相屋と です飯売二子や相屋は外装が生兵の土蔵 作りだったことで通称土蔵相と呼ばれてい ました土蔵相は品川でも偶数の規模を誇っ た議で高杉新作伊藤ミラ長州の師たちが 拠点としていたことで知られてい ますここはゲストハウス品川宿です江戸 時代風に言うとキチン宿のようなもの でしょうかキチン宿とは自炊専用のつまり 宿です各自が食料を持ち寄って自炊をし 寝る時は雑魚です調理に必要な薪の代金を 支払う必要があったため木の大金キチンと なりキチン宿という名称の由来となった そうです宿場が整備され悪な旅が流行る ようになってからははごに押され衰退気味 でしたが純礼者や行商人などはこちらの方 を利用することが多かったよう ですこの横町は台場横町と呼ばれています 御殿山下台場へ下っていく横長を台場横長 と呼んでましたここを下って御殿山下台場 へ行ってみたいと思い ます御殿山下台場が気づかれた当時この 辺りは目黒川がエドアに流れ込むことで 形作られたサがありましたそのサスの先端 部分に台山し台場が作られたのですが現在 は埋立てが進み周辺も陸地化されています ただ当時の台場の輪郭だけが現在にとびの ような形で残っています台場小学校の校門 前にあるこの記念費の台座は当時の台場の 石垣を使ったもの です大場横町を降りてすぐ近くにある香 神社へやってきました香神社は江戸前期に タワ尚が弁財店を待ことが始まりと伝わっ てい ます元は旧目黒川の加工の海に突き出たさ に祀られていた弁天車で江戸名所使や歌川 ひの浮にも描かれています明治に変わり香 神社となりまし た完成10年 1798年一等のクジが品川沖に迷い込ん だそうです漁師たちは本物のクジを見るの は初めてでしたが命がけでクジラを捕まえ たのだそうです捕まえたクジラは長さ9元 約
16m高さが7尺約2mもあり漁師たちは その大きさに驚いたそうですこの品川でき クジラを捕まえたという知らせが江戸中に 広がり代表判となりましたこの噂はすぐに 江戸城に伝わり漁師たちはクジに縄をつけ て船で浜子店の沖まで運びましたクジを見 た第1代将軍の徳川家なりは時が立つのを 忘れてクジを眺めとても喜んだそうです 将軍様ごのクジとして人気がますます 高まりクジラの絵の手ぬいやクジラにちん だ食べ物が売り出され滝沢バキのクジ座し 品川バや遍車1区の体型ほれの貢などの本 も作られましたその後クジラは油を取り 頭部の骨を埋めた場所が現在のクジラ塚と なっています 日型神社のすぐ横は運河のように船が 止まっています現在では埋立てが進み 船だまりとなっていますが江戸時代の海岸 線がこの辺りであったということがわかり ますかつて品川は大魚八という取れた魚を 江戸城へ収める予算の1つに決められてい ました大船な水揚げを誇りのの主要な産地 でした品川沖には日垣回線や部材線などの 大型貨物線が病し罪には小型の端に移され て港まで運ばれてきたそう です今では釣り船や船が先を並べ北品川橋 からは水辺と背景の品川の古い家並その 向こうの品川駅周辺の再開発のビル軍が 見え ます再び品川宿旧東海道へ戻ってまいり まし た町の風景に馴染むそば一さんが見えてき ました看板メニューはかつての品川の海で 取れていたありとのりをふだに乗せた 品川宿そばです冷たいおそばに温かい梅を つけていただくのですがつゆがピリカラで 美味しかったのですが思っていたそばとは 違うなかなかせめたお味でし た その迎いには明治28年に創業した洗米所 秋岡さんがあり ますかつて品川はのといえば品川と言わ れるほどおいしく良質な海の生産地として 知られていましたののことを品川と呼んで いたこともありのり巻きあれを誰言うと なく品川巻と呼ぶようになったそうです またあれにれたは娘の着物の帯に見立て られているという品川しらしつっぽい話と しても伝わってい [音楽] ますその先は本陣跡になっています現在で は建物は残っていませんが明治元年の明治 天皇投稿の際に安在所となったため成績 公園という名がつけられた公園となってい ます入り口には土山宿から送られた海道松
と本人跡の石中があり ます 江戸時代前期には北品川区南品川区に それぞれの本陣がありその他にも脇本陣も 2件ありました江戸中期以降は本人は 北品川宿の1軒のみとなったようです現在 の本陣跡は 1771年に定着し品川宿のほぼ中央に 位置しています 明治5年に宿駅制度が廃止された後は警視 庁品川病院となりました昭和13年に公演 として整備され今に至ります園内には歴史 を感じさせる副原戸石道路や当時の東京 市長の選文による成績公演由来の日ご成績 の日石井哲太郎像などがありまし [音楽] た公園を出まして少し歩くと品川しく交流 感があります1階には地元の子供たちに 向けた駄菓子屋と本宿お休みど無料休憩所 となってい [音楽] ますここでご宿を買うことができ [音楽] ます南品川宿と北品川宿の間には目黒川が 流れ品川橋がかかっています北品川宿が 商人を中心とした町であるのに対して南 品川は職人中心の町であったそう です品川橋を渡りまして品川区区の三作は ひとまずここで1度終了したいと思います 次回南品川宿を中心に探索していこうと 思い [音楽] ます
東海道五十三次を歩いてみたいと思ったのですが、体力に自信がなく自転車で走ることにしました。シェアサイクルを利用し、のんびりと宿場町を巡り、気になる史跡や宿場町にちなんだグルメなどを楽しんでいきたいと思います。